日刊:この一句 バックナンバー

2008年7月20日

大暑かな写真の真ん中に犬    (季語/大暑)

鈴木みのり

 季語の効き方というのは実に難しい。句会でよく言われるコメントに「季語が動く」がある。もちろん唯一絶対の季語があればそれでいいわけだが、そういう場合はむしろ稀であろう。あるにしても決まり過ぎて面白くなくなる場合も多い。この句は「大暑」でなければならない理由は見つからないが、「大暑」であるが故の犬と家族の夏の健康的なひと時が微笑ましく読者に伝わってくる。この家族は子供も成長し、中心が犬に移った今時の家族かもしれない。
 作者はときどき句会でいっしょになる鈴木みのり。主婦であり俳人である。今年春に出版された第1句集『ブラックホール』から引いた。犬の句を引いたが彼女はたぶん猫好きで、猫の秀句がある。「春宵や猫の水飲む音がする」「春一番両手で猫を抱き上げる」など。(小倉喜郎)


2008年7月19日

夏の星今泣いた子の物を干す    (季語/夏の星)

佐藤郁良

 今泣いた子の洗濯物をベランダにでも干しているのだろうか。一読してありきたりな子育て俳句のように思えるが、どうやらそうでもなさそう。さっきまで泣いていた子がもう泣きやんでいる様が見えてくる。このほんの少しの時間のずれが面白い。夏の夜のどこの家庭にでもあることなのだが、それを詩にするのはやはり季語の力であり、俳句の力なのだろうか。夜濯ぎという季語も思い出させる。
 作者は1968年生れの高校教師で「銀化」所属。俳句甲子園の常連の高校でそのチームの引率をしているらしい。この句は『海図』からのもの。そのタイトルは「部屋いつぱい広げし海図小鳥来る」から来ているが、この句は力強い。(小倉喜郎)


2008年7月18日

午前中の涼しいうちに別れよう    (季語/涼しい)

加藤静夫

 このなんでもなさが心地よい。しかしよく考えると午前中の涼しい時に人に会うのならばわかるのだが、別れるのだからちょっと不思議。いったい2人はどのような関係なのか。こんな平明な、何も言わない俳句が意外に興味をそそる。俳句には少し不思議さがほしい。「午前中の涼しいうちに」は実は懐かしいフレーズで、子供のころよく「午前中の涼しいうちに勉強しなさい」と言われたものである。そんな懐かしさも少し匂うところがいい。
 この句は『中肉中背』から引いた。タイトル「中肉にして中背の暑さかな」から来ているが、こちらはややわかり易い句となっている。作者は1953年生まれで「鷹」所属。(小倉喜郎)


2008年7月17日

さるすべり楽器の多き姉の家    (季語/さるすべり)

明隅礼子

 姉の家に久しぶりに訪れた。姉がお茶を入れてくれている間にあたりを見回すと、ピアノにギターだけでなく、管弦楽器が壁に立てかけてあったりする。姉本人のものか夫のものか、あるいは子供達のものか。とにかくいっしょに育った姉の生活は、今では自分の生活とは異なっているのである。そんなところで改めて時間の経過を感じる。姉の住む家にはもちろん、ふたりが育った家の庭にもきっと百日紅があり、夏には赤い花をつけ揺れていたのであろう。季語がよく効いている。
 句集『星槎』から引いた。この人の句はなにげない日常を切り取った句が多いが、それぞれの句に作者のしっかりとした目線を感じる。「葱坊主帰りは雨に降られけり」「ひとつづつ鈴はづさるる御輿かな」など『星槎』(2006年)より。(小倉喜郎)


2008年7月16日

こんちきちん祗園囃子に寝かされて    (季語/祗園囃子)

火箱游歩

 京都山科に住む友人の町子さんは毎年祇園祭に出かけてタペストリーを買うという。何年か前にそれについて行ったことがある。四条通りを西へ、烏丸通りを少し越え、北へ少し入ったところに店はあった。祭の間は特設会場も設けてたくさんの暖簾やタペストリーを売っていた。店を一回りして町子さんがその年のタペストリーを決める頃に、約束のように雷が鳴り始め、間もなく激しい雷雨となった。特設会場の屋根から雨が滝のように落ちる。そして20分もすると嘘みたいに晴れ上がった。
 祗園祭もいよいよ今日が宵山、明日が山鉾巡行である。火箱さんは京都の雲林院町に住む俳人。京都の人ならではの身近な祗園祭の句が他にもある。「ちちははの恋のお話宵祭」「宵山は雨にらふそく献じましよ」句集『雲林院町』より。(小倉喜郎)


2008年7月15日

水打ちて爆竹の音の空にあり    (季語/水打つ)

山田露結

 最近では都市部で一斉に打ち水をし、気温を下げようという試みが行われているようである。この句の打ち水は子供の頃を思い出す。作者は1967年生まれで私とほぼ同世代。テレビゲームやカードゲームがなかったころである。遊びといえばメンコ(関西ではベッタン)や野球版、人生ゲームなどであった。また縁日で買った爆竹をよく鳴らしたものである。そんな爆竹音が響く町では、各家で打ち水がされているのである。爆竹の音が空にあることで、少し抽象化され懐かしさが増した。
 角川『俳句』7月号の「17音の冒険者」からの句。このコーナーは私と同世代かそれより若い世代の人の俳句を読むことができるので、毎月楽しみにしている。(小倉喜郎)


2008年7月14日

曲がってる胡瓜が好きと茄子が言う    (季語/胡瓜・茄子)

小枝恵美子

 我が家の風呂場の棚にはもう10年近くネンテンさんの『風呂で読む 俳句入門』が置いてある。この句はその中に例句としてある句である。俳句を始めたばかりの頃に買ったもので、タイトルどおり風呂で読んだ。俳句をすることがとても楽しそうに感じたものである。ネンテンさんとその仲間が楽しそうに俳句を作っていることが羨ましかった。今でも湯に浸かりながらこの本をのページをめくり、時々湯舟に落としたりもする。これを読むたびに俳句を始めた頃を思い出し、初心に戻る。ただ、風呂を上がる頃にはすっかり忘れてしまっている。
 この句は句集『ポケット』にもあるが、俳句を始めて間もない頃に頂いた句集で、私の俳句のスタートに大きく影響した忘れられない句である。この人の次の句集が待ち遠しい。(小倉喜郎)


2008年7月13日

白髪のYMOや星涼し    (季語/星涼し)

内田美紗

 細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏の3人である。衝撃のテクノポップが一世を風靡したのは私が中学生のときだった。巨大なコンピュータとシンセサイザーを駆使し、鋭くもみ上げを切り落とした短髪、人民服姿で演奏する。テレビに出ても多くを語らず、シャイなのか反抗的なのかわからなかった。中学生の私にとってはあまりにもにクールでカッコイイ3人であった。そんな彼らを当時この作者はどのように見ていたのだろうか興味深いところである。時は流れて30年。演奏する彼らが白髪でTVに登場した。昔の気負いのようなものはなく自然体であり、余裕を感じさせる3人を夏の星の下で見るのが心地よい。
 この句は「船団」75号からのもの。内田さんといえば「ミック・ジャガーの小さなおしり竜の玉」「秋深むこともレノンの丸眼鏡」など、ミュージシャンの個性がよく感じられる句である。(小倉喜郎)


2008年7月12日

金魚まで作り物なり金魚玉    (季語/金魚玉)

瀬島洒望

 5月31日のこのコーナーで取り上げられた金魚の作り物である。内田美紗さんは金魚がそれほど美しいとは思えないと書いている。全く同感で、金魚が優雅で美しいとは思えない。ただ金魚に成り代わり弁護するならば、そもそも金魚とは上から見るもので、専門店に行くと盥のようなものに入れて展示してあることが多い。蘭鋳などは特にそうで、水槽で横から見られるとつらい。ゆさゆさと泳いでいるのを上から見るほうが涼しく感じられるわけである。したがって蘭鋳用の水槽は普通のものより平たくできている。
 さてこの句であるが、もともと人間が作り上げてきた金魚のダミー。作り物の作り物ということになる。ここ数日はとても暑い。やはり作り物であっても本物の金魚が本物の水草の中を泳いでいてほしいものである。『印度の神』(2008年)より。(小倉喜郎)


2008年7月11日

空耳が金閣寺にもありにけり    (無季)

小野裕三

 「それは空耳だ」「空耳を使う」などと言うことはあっても、「空耳が〜にある」というような表現は聞いたことがない。季語もないし、季節感もない。この得体の知れぬ俳句がなぜか気になった。それは空耳と金閣寺との取り合わせにあるのだろう。金閣寺とはもはやただの建物ではなく人間に近い。読者はそれぞれにある金閣寺の人間臭さを思い出すことになる。それにしても金閣寺がリアルだ。
 第一句集『メキシコ料理店』から引いた。作者は1968年生れ。かなり大胆な取り合わせと表現をする俳人で、その多くは私にはわからない。わからないというのはつまり感じることができないということ。しかし時々掲出句のように私(読者)にピタリとくるものがあり驚く。「飛行機を燃やせば住める花野かな」「背泳の手が伸びてくる喫茶店」などがある。(小倉喜郎)