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月刊「e船団」 「香りと言葉」2009年1月号【付録】

 『太平記』 巻第三十九より

 大夫入道道朝(どうちょう)讒言に依て没落の事
原文はこちらです)
【現代語訳】

 そもそも、この管領(道朝)が人々の気持ちと齟齬をきたした理由は何かと尋ねると、最近は諸国の地頭・御家人の所領に、五十分の一の武家役を毎年課していたのを、将軍には万事実施先送りの用件が多いといって、この管領の時になって、課税を二十分の一になされたので、全国の大名・小名が、これは先例にもとると、激しく立腹したうちの第一の事柄であった。次に將軍が、三条万里小路に御所を建てられる時に、一閣一殿を大名一人ずつに振り当てて造らせた際に、赤松律師則祐(あかまつりつしそくゆう)もその大名の一人であったが、建築工事が遅れて月日が過ぎたので、法を犯した罰があるとして、新たに恩賞として与えた大荘園一か所を沒收させられた。これもまた赤松が恨みを抱いた原因の一つである。次に佐々木佐渡判官入道道誉は、五条橋を架け渡す奉行を仰せつかって、京都中の家々の棟別銭(むなべつせん)を徴収しようとして遅延していたところ、この工事を督励しようとして、道朝が他人の力を借りずに、また庶民に負担をかけることもなく、数日の間に橋を架け渡して、往来する数多くの人々を喜ばせた。このため、道誉が少々不愉快の様子だったところに、昨年の春の末に、将軍邸の庭前の桜花が紅色・白色が混じっていてすばらしい趣だとして、道朝は山海の珍味、種々の酒肴を用意し、三月四日をその日と決めて、将軍の御邸で花の下の遊宴を催そうと計画し、道誉には特別に連絡なさった。道誉は、承諾しておいて、態と取り違え、あらかじめ自分の家臣や都中の遁世者たちを大勢引き連れて、大原野の桜花の下に宴を張り席を美しく調え、世にまれな遊宴を催したのであった。

 いよいよ当日になると、軽やかな毛皮をまとい、肥えた馬に乗る高貴な家の人々を伴って大原の小塩山(おしおやま)へ赴いた。麓に牛車をとめ、緑の蔦につかまって山を登ると、曲りくねる道が静寂な地へと通じ、寺院には美しい花の咲く木が多い。寺の門をくぐり湾曲して流れる谷川を渡ると、細く曲りくねった道は険しく、道の端は傾斜している。寺の高欄を金襴で包み、擬宝珠には銀箔をかぶせ、橋板には中国渡来の毛氈や蜀江の錦をさまざまに敷いてあるので、散る花々はその上に積り、朝日が届かない暗い谷間は、まるで橋板に雪が消えずに残っている風情である。落花を踏む足はひんやりとして、歩むにつれて沓(くつ)はかぐわしくなり、はるかな石段を風に吹かれて登ると、竹の懸樋が泉の水を流し、陶製の器には茶の湯がたぎっていた。松風が音をたてと茶の湯は甘やかに春の気配をみなぎらせるので、一碗喫すればたちまちに仙人の気分が味わえるであろう。藤の曲った枝ごとに、平江帯(ひんこうたい)で青磁の香炉を吊り下げ、金糸の塗りをした卓を調えて鷄舌香を盛んに炷いたので、春風は暖かな香りに満ち、思わず栴檀の林に入ったかと思うほどである。目を千里の彼方に注ぎ、首を四方の山々に巡らすと、霞がどこまでも続いて自然は一つに溶け合い高くそびえているので、筆をとって絵の具を使うことなく、十日をかけて一流れを描くくらいの丹念さをもって、一歩も歩かずに国土全体の風景をたちどころに手に入れたのである。歩みを運ぶたびに感嘆して高みへと登ると、本堂前の広い庭に十抱えもある桜花の木が四本ある。その根元にそれぞれ一丈余りの真鍮製の花瓶を取り付けて、二本一組の立花に仕立て、花の間に二抱えの大きさの香炉二つを机の上に置いて、名香を一斤いっぺんに炷いたので、かぐわしい風が四方に散り、人はみな浮香の世界にいるようであった。その後ろに幕を張り、曲彔を立て並べて、多くの珍しい馳走を並べ、百服の本非の茶を飲んで、褒美の品々を山のように積み上げた。舞人が鸞が翼を翻すように舞い、楽人が春に鳴く鴬のように表情豊かに歌うと、座中の人々はそれぞれさまざまに小袖・直垂・大口袴を脱いで投げ与えた。興がたけなわとなり酔いも伴って、帰る時分には月が出ていないので、松明を天を焦がさんばかりにともし、螺鈿で飾った車軸が鳴り響き、小づくりの良馬が轡を鳴らして駆け抜けていき、それらの喧騒の様は、ただただ三巳(さんし)や百鬼が夜更けに町中を通り過ぎるのと変わらなかった。咲いて散るまでの二十日間というものは、都の人々はみな狂っているようなものだと、白居易が長安の牡丹の美しさを詠んだのも、まさにこのようであったかと思い知られるばかりで、この遊宴を見聞きした人はみな驚いたことであった。

 この大原野の遊覧は都内外での噂話となり、管領になったみたいな遊宴だなあと非難し合っていたのを聞いて、道朝は、「これは、私が開く将軍家の花の下の会をまるでばかにしたものだ」と、不愉快なことに思いなされた。そうはいっても、これは心中の憤りであって、公に出せる罪科ではない。「なんと道誉め、どんなことでもよいから公事に関して、法に背くことがあればよい。きつく処罰してやろうぞ」と、気を配って待たれていたところに、二十分の一の武家役を道誉が二年間滞納していたので、管領は、さあ絶好の罪が出てきたと喜んで、道誉が最近拝領した摂津国多田庄を沒收して、幕府の所領になされたのであった。

   この処置によつて、道誉の憤慨は並大抵ではなかった。何とでもしてこの管領を滅ぼしたいものだと思って、諸大名を誘うと、六角入道(氏頼)は一族であり、赤松(則祐)は聟なので、異存はない。そのほかの大名たちも大部分賛成したので、機会があるたびに、もし道朝がこのまま管領職にあるならば、天下の政務に差し障りがあるであろうと、将軍へ讒言なさった。孔子の言葉がある。曰く、「大勢の人々が悪口を言う場合にも必ず調べてみよ。また人々がよく言う場合にも必ず調べてみよ」と。あるいは人々がおもねり親しくなって、よくいう場合もあり、あるいはまた批判にさらされる人物が俗を離れ超然と都しているために、非難する場合もある。よく言われようと悪く言われようと、調べなければならない。そして、人々の讒言に対して、将軍はとうとう真偽を正すことがなかったので、道朝は罪がないのに、たちまち討たれることに決まったのであった。将軍はこの決定を内々に佐々木大夫判官崇永(そうえい・氏頼)に命じて、近江の国の軍勢を上京させなさった。(以下略)

【中原注】
 道朝はこのいきさつを伝え聞いて、将軍に涙ながらに潔白を訴え、事実の糾明を願うが、将軍はしばらく黙した後、(涙を浮かべて)今は何事も自分の思うままにはならない。しばらく越前の方に下っていて、人々のいうところを鎮めるように、とおっしゃった。道朝はもったいないことと思って退出していく。

〔ファイル作成〕中原幸子

〔参考文献〕
(1)『新編 日本古典文学全集太平記(4) 巻題三十〜四十』(小学館、1998年・初版)

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