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月刊「e船団」 言葉を探る 2002年6月号

文と文法(6)

 昭和26(1951)年3月9日(金曜日)、野地澄晴くんは3歳の誕生日を迎えた。
 この日、午前10時半ごろの一家の会話。
 母 → 父「アシタ ミヤジマ ヘ イコー ヤ イッテルン デス」
 澄晴 → 父「
ミジアマ エ イクン ヨ」
 父 → 
ミヤジマ デショー」
 澄晴 → 母「ミヤジマ エ イコー ネ」
 母 → 澄晴「イコー ネ」

 夜中に寝言も言っている。「イケン ヨ」と。昼間お母さんが美容院に行って、長い間お留守番をさせられたのが、よほどこたえたのかもしれない。

 澄晴くんはこうしてお父さんやお母さんに間違いを直してもらいながら、たくましく言葉を身につけて行く。

 そしてある日、
 女「私、出ていくわ」
 男「誰だ、そいつは」

という会話を読んで、パッとあるシーン、というか状況をイメージできるようになるのだ。ヒトは、ほとんど誰でも。

 この会話は「言語を生みだす本能」(3)に出てくる。帯に「文法の天才・3歳児 その心の秘密」と書かれているのに惹かれて跳びついて買った。パラパラとページをめくっていて、この会話を見つけ、この会話から自分が受け取ったイメージを意識したとき、わたしは大きなショックを受けた。「わー、私ってすごいことができるんや」と。そして、私にそんなことができるのは、この本によれば、ヒトがもっている言語本能のおかげなのである。もし、コンピューターに私と同じことをさせようとすれば、人間行動についての常識をどれほど沢山教え込まなければならないか。人間の基本的常識をコンピューターに教えようとするグループの試算によると、それは約1000万項目の事実からなるそうだ。

 あまりにもびっくりしたので、話が前後したが、著者のスティーブン・ピンカー(Steven Pinker)は、同書の解説によれば「現在、アメリカが世界に誇るマサチューセッツ工科大学(MIT)の認知神経科学センターの所長であり、世界的に有名な若手の(現在40歳)心理言語学者」であり、ごく若いころから才覚を現し、数々の賞を授与された。またピンカーは「MITの言語学者ノーム・チョムスキーの言語理論に沿った形で言語獲得の問題の解決に真っ向から取り組んでいる影響力の大きな学者」であるとも述べられている。 この本は「私に言葉を与えてくれた両親、ハリー・ピンカーとロズリン・ピンカー」に捧げられているのだが、中味を読んだあとでこの献辞を読むとき、その意味の重さが改めてずしりと感じられる。つまり、言葉は「本能」であり、両親は言葉を教えてくれたのではなく、命と一緒に与えてくれた、と言っているわけだから。

 で、ちょっとこの「ことばを探る」の2002年2月号の、「私とは何か」(4)からの引用を含む次の1節を思い出してほしい。

 例えば、
 あっ、雪!
 という短いことばが、真夏にも私たちの身体を雪の世界に立たせ、
 四十代 この先生きて何がある風に群れ咲くコスモスの花 (道浦母都子)
 という短歌が、作者の「全共闘歌人」と呼ばれてきた背景などは抜きに、人を<ここのいま>にない一つの世界に誘う、つまりことばの宇宙を立ち上げる、と。

 あるいは、4月号の「ことばの科学『雑学事典』」(5)からの次の一節も。

 また、金田一春彦氏も絶妙な例によって、鳥の「ことば」が人間のことばとは異なることを説いている。たとえばオウムに「オタケサンコンニチワ」と「オウメサンコンバンワ」を教えるとする。彼らは、この二つをものの見事に習得はするが、その後いくら待っても、自発的に「オウメサンコンニチワ」などとは決して言わない。

 「言語を生みだす本能」では、この能力をヒトという種が持つ言語能力であると述べ、次のように、それこそ目に見えるように説明されている。こんなふうに。

 人間は、口で音を出すだけで、相手の頭のなかに、新しいイメージ配列をくっきり浮かび上がらすことができる。そんなことは当たり前に思えるので、どれほど奇跡的なことなのかをつい忘れがちだ。そこで、ちょっとした実験をしてみたい。いまから少しのあいだ、私の言葉に想像力をゆだねてほしい。きっと、はっきりしたイメージが描けると思う。

 雄のタコが雌を見つけると、いつもは灰色がかっている体色が突然、縞模様になる。雄は雌の上を泳ぎ回り、八本の足のうち七本で雌を愛撫する。雌が嫌がらないと、雄は急いで近づき、八本目の足を雌の呼吸管に差し込む。雄の足の溝を伝って精子パケットが、つぎつぎに雌の外套膜内に送り込まれる。
 白いスーツにチェリーパイを落とした? 祭壇の掛け布にぶどう酒がこぼれた?すぐにソーダ水をかけましょう。シミがきれいにとれます。(中略)

 さて、首尾やいかに。タコのイメージが浮かんだだけではないと思う。この先(ありそうなことではないが)、タコに縞模様ができるのを目撃したら、つぎにどうなるかが予測できるはずだ。今度スーパーに買い物にいったら何万点も並んでいる品物のなかから、ソーダ水を探して買う気になるかも知れない。そして数ヵ月後、なにかの布になにかがこぼれてはじめてあわてて取り出すことになるだろう。


 ここまで読んで下さった方は、きっと私と同じように、ご自分の言語能力が生み出すイメージの鮮やかさに感動されたと思う。

 さて、言語能力が生まれつきのものであることの証明は、例えばお釈迦さまが生まれたとき、いきなり「天上天下唯我独尊」と言った、という話とか、生まれるなり「天国は素晴らしいところよ。とても暖かくて静かなの」としゃべった、ナオミちゃんという赤ちゃん(1985年5月21日付の大衆紙『サン』)のような例が実際に起こることが証明できれば簡単なのだそうだが、それはやはり有り得ないとか。そのかわり、というのもおかしいが、ヒトの「言語発達の『ダム決壊期』」ともいうべき時期が2歳半から3歳半までのあいだにあり、この間に幼児の言語はいっきに開花し、文法的な文をなめらかに発して会話するようになる。というようなことが科学的にあきらかにされてきているのである。

 では、どうして言語はこんなに沢山あるのだろうか。なぜ、どの民族もみんな同じ言語をしゃべる、ということにならないのだろうか。そして母語とはどうしたもので、ヒトはどのようにしてそれを身につけていくのだろうか。母語に比べて母語以外の言語を身につけるのはなぜあんなに難しいのだろうか。

 「言語を生みだす本能」は、読者にこうした疑問を起こさせつつ同時に答えてくれる本なのだが、余りにも内容が豊か過ぎて、まだ私はついて行けていない。もっと読み込んで、またご報告したい。

 とにかく、
 女「私、出ていくわ」
 男「誰だ、そいつは」
 という会話は、すごい、ですよね?

(中原幸子)


参考文献
(1)野地潤家「幼児期の言語生活の実態」(1〜4)(文化評論出版、1973〜1977年)
(2)ディヴィド・クリスタル「言語学百科事典」(大修館書店、1992年)
(3)S.ピンカー著、椋田直子訳「言語を生みだす本能」(NHKブックス、1995年)
(4)浜田寿美男著『「私」とは何か』(講談社選書メチエ、2001年)
(5)城生佰太郎著「『ことばの科学』雑学事典」(日本実業出版社、1994年)

主な参照ホームページ
(5)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)  
月刊「e船団」 言葉を探る 2002年5月号

文と文法(5)

 子どもはどのように文法を身につけていくのだろうか。前回ご紹介した「言語」2002年4月号の特集「文法の誕生、文法の探求」では、「幼児言語における文法の形成」のタイトルのもとに、それが論じられている。そのなかに、子どもの文法の発達を比較するには、「平均発話長(MLU:Mean length of utterances)」なる指標を使うとある。発話の長さを測定する方法である。昨年11月、12月号の「ことばを探る」でご紹介した野地澄晴くんのMLUの増え方を、早速計算してみたいところだが、いきなり行き詰まった。

 平均発話長というのは、各文の平均の長さ、つまり一文当りの平均の文構成素数である。「文構成素数」は文字通り「文を構成する成分の数」だが、数え方が難しい。「文節」を数えるのか、「形態素」数えるのかなどで数が違ってくるのである。少し勉強しなくてはいけない。

 文節とは「文を読む際、自然な発音によって区切られる最小の単位」であって、例えば、「けさあさがおがにわにさきました」という文は、「けさ、あさがおが、にわに、さきました」の、4文節からなる、と広辞苑に説明されている。一方「形態素」は、「意味(文法的意味を含む)を持つ最小の言語単位」であるから、先の例文だと、「けさ、あさがお、が、にわ、に、さき、まし、た」と9形態素からなることになる。つまり、文節で勘定すればこの文の発話長は4であり、形態素で勘定すれば9である。言うまでもなく、複数の文章の発話長を平均したものが平均発話長である。

 日本における平均発話長の実用化はまだ緒についたばかりと言ってもいいらしいが、綿巻徹らは、言語獲得の発達過程では、助詞がどのように使えるかが重要であることから、文節単位の発話長「平均発話長(W)」と形態素単位の発話長「平均発話長(M)」の両方に加えて、1単語当りの助詞助動詞付加数の使用を提案している(6)。

 では、澄晴君の場合をちょっと計算してみよう。計算に使ったのは、側から話しかけられて答えたのではなく、自発的な発話(1)である。文の後の( )内は発話長を示す。Wは文節数に、Mは形態素数による計算で得た数値である。尚、この計算はほんの試みであり、本格的に計算するにはサンプル数についても、文節数、形態素数の数え方についても考慮すべき点が残っていることをお断りしておきたい。これらの点については小椋たみ子氏の研究を参照して頂きたいと思う(8)。

 2歳の誕生日のころ。
 ・カーチャン オンブ チュルヨ。(W:3、M:5)
 ・アーチャン アマイアマイ モット。(W:3、M:4)
 ・アーチャン ココヨ。(W:2、M:4)
 ・ベックリ チタ。(W:2、M:3)
 ・カーチャン ワンワン ネンネ チテルヨ。(W:4、M:7)
 ・トーチャン ワンワン ネンネ。(W:3、M:4)
 ・イチ ニーノ チャン。(W:3、M:4)
 ・シッコ バッカリ。(W:2、M:2)
 ・カオ エーエー チョウダイ。(W:3、M:3)
 ・ブンブ ネンネ。(W:2、M:2)

 平均発話長は、W:2.5、M:3.8である。助詞はほとんど使えていないので、Mの値が大きいのはカーチャンのチャン(接尾語)の影響が大きい。

 2歳6ヶ月のころ
 ・カジ ドーシテ モエルノ?(W:3、M:6)
 ・ドッチカラ キトルン?(W:2、M:5)
 ・バチュ ドッチカラ キトルン?(W:3、M:6)
 ・オトーチャン アンマリ ナクカラ イッテ ミンチャイ。(W:5、M:9)
 ・アンマリ ナクカラ。(W:2、M:3)
 ・オイモー テンプラー。(W2:、M:2)
 ・ミチン クルクル ウゴク デショ。(W:4、M:5)
 ・マタ クルヨー。(W:2、M:3)
 ・ミチン ウゴカッテ ゴラン。(W:3、M:4)
 ・オウチニ カエッテ チナ イカン。(W:4、M:8)

平均発話長は、W:3.0、M:5.1である。なるほどこれなら、長い文を正しく言えるようになったことを数字で示すことができる。

 3歳の誕生日のころ。
 ・オトーチャン コマ マワシテヤ。(W:3、M:6)
 ・オカーチャン ドコ イクン?(W:3、M:5)
 ・オカーチャン ドッチカラ シュッポッポ クルン?(W:4、M:7)
 ・オカーチャンノ トコヘ ツレテッテヤ。(W:3、M:8)
 ・オカーチャン モー イカンノ?(W:3、M:6)
 ・ボク オーキク ナッタラ オトーチャン ミタイニ ガッコーニ イクヨ。(W:7、M:13)
 ・オバーチャン ボク ガッコーニ イクヨ オトーチャント イッショニ。(W:6、M:12)
 ・ボク オーキク ナッタラ ガッコーエ イクヨ バスニ ノッテ。(W:7、M:13)
 ・コレ ヨコガワデ コータン?(W:3、M:6)
 ・オカーチャン クレオン コーテー。(W:3、M:5)

 平均発話長は、W:4.2、M:8.1である。半年で画期的な伸びを示している。

 澄晴くんの言語獲得については、野地潤家の「幼児の話しことば」と題する報文がある(4)。そこには、1歳から6歳までの誕生日の記録をもとに、各誕生日の前1年間にどのような発達があったかが書かれている。
 3歳までのところで、特記事項として記されていることを抜き出してみると、

・満1歳
 自分から相手に呼びかける。
 ききわけ、呼びかけ、音声習得という面で、対話生活の基礎のかためられていくありさまがみられる。

・満2歳
 語彙の増加や対話の自在性の芽がみられる、自分の考えを述べるなど、総じて対話生活の著しい進展がみられる。

・満3歳
 話しかけが積極化し、一文の表現が、長さも内容も伸びている。自己の考えもはっきりとして来、音声面でも進歩が著しい。

 多数の子どもの平均発話長を丹念に記録して、標準的な発達速度を出したという例を、私はまだ見つけていないが、澄晴くんの言語獲得の速度は、普通より速いような感じを受ける。例えば、初めて自分のことを「ボク」と言うのは2歳ごろという記述がある(3)が、澄晴くんは1歳の誕生日前に自分のことを「ボク」と言っているなど。
 これからしばらく、澄晴くんの言語獲得の過程をみつめてみたい。

 それにしても、平均発話長でふと思い出したことがあります。日本の夫族のこと。家では「風呂」「めし」「寝る」しか言わない、と話題になったことがありましたね。今は、少しは改善されたのでしょうか。何とかしないと、あなたは文法的に1歳児ですよ、お父さん。居酒屋での平均発話長との比を取れば、何かの指標が見つかるかもしれません。大人の平均発話長も調べてみたい気がしてきました。

(中原幸子)


参考文献
(1)野地潤家「幼児期の言語生活の実態」(1〜4)(文化評論出版、1973〜1977年)
(2)ディヴィド・クリスタル「言語学百科事典」(大修館書店、1992年)
(3)D.マクニール著、佐藤方哉ほか訳「ことばの獲得」(大修館書店、1972年)
(4)「言語生活」(昭和30年3月号、筑摩書房)

主な参照ホームページ
(5)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)
(6)綿巻徹「発話長の伸びと文法形態素の発達」
  (http://jchat.sccs.chukyo-u.ac.jp/JCHAT/tutorial/meeting97/watamaki.html)
(7)日本語獲得児の平均発話長算出の形態素区切りとサンプルサイズの問題(http://jchat.sccs.chukyo-u.ac.jp/JCHAT/tutorial/meeting97/ogura.html)
月刊「e船団」 言葉を探る 2002年4月号

文と文法(4)

 「言語」4月号(1)をご覧になりましたか。特集が「文法の誕生、文法の研究」。サブタイトルは「ことばが伝わる基盤を探る」。よかった、と思ったのも束の間、ますます知らないこと、解らないことが増えてしまいました。まあ、当たり前ですが。

 ご覧になっていない方のために目次をご紹介しますと、

・ 動物に文法はあるのか(渡辺 茂)
・ 幼児言語における文法の形成(岩立志津夫)
・ 未知の言語の文法を探り出す手がかり(梶 茂樹)
・ ピジンからクレオールへ(田中幸子)
・ 外国人のための実用日本語文法(白川博之)
・ 自然言語処理を支える文法(黒橋禎夫)
・ 規範としてのラテン語文法(逸身喜一郎)
・ 実用性こそ文法の命(渡部昇一)
・ 格と認識の基盤(辻 幸夫)
・ ドイツ語の未来時制はチェコ語から(橋本 聡)
・ 書き言葉の整備と文法の誕生(横山安由美)

 わたしが一番驚いたタイトルは「動物に文法はあるのか」。動物にも文法があるのかなあ、という疑問の持ち方にもびっくりした。前にも、疑問というのはこんなふうに持たないといけない、と実感したことがある。梅原猛著『法然の哀しみ』を読んだときだった。梅原先生は「法然はなんで女も悪人も救われないといけないと思ったのだろう」との疑問を持たれたという。私なんか、昔々、吉川英治の『親鸞』で悪人往生のことを読んでも、そんなことはちっとも思わなかった。「それは、悪人も救われなくちゃね」と前から自分もそう思っていたかのような錯覚を起こして、それっきりだった。

 それはともかく、「動物に文法はあるのか」という問いへの答は複雑だ。というのも、人間の言語に匹敵するような文法に限れば答えは「否」だが、動物は動物で、その動作産出規則としての文法やコミュニケーションにおける文法は「存」だというのだから。

 動作産出規則としての文法としてはネズミのお化粧(グルーミング)(中原注:グルーミングは普通哺乳動物の場合は毛繕い、鳥の場合は羽繕いと訳されている)が例に上げられている。ネズミのグルーミング行動は2988例もの記録から、ほとんどが一定の推移規則に従っていることが分かったそうだ。そういえば、近頃電車の中などで若い女性がおおっぴらにお化粧しているのをよく見かけるが、まさか・・・。

 また、コミュニケーションにおける文法の例としてはコガラの歌があげられている。これも採取された3479例もの中で、文法に抵触するのは11例しかなかったという。しかも、これはミヤマシトドでの実験だが、文法(産出規則)を全く学習させなくても、彼らはほぼ文法通りに歌えるようになるという。ここでなぜ鳥かというと、現在ヒト言語にもっとも多くの類似性を持つ動物のコミュニケーションは鳥の歌だと考えられているからである。19世紀には「ヒトは鳥がさえずるのをまねて言葉をつくった」と信じている人が大勢いたことはこの「ことばを探る」でも2001年4月号でちょっと触れた。

 このように鳥は歌によるコミュニケーションができるわけだが、では鳥はヒト言語を習得できるのだろうか。鳥がヒト言語を習得するとはどういうことだろうか。
 「言語」の特集でもオウムが例に挙げられているのだが、ここに、オウムはヒト言語をそっくりの音で再現できるが、それはヒト言語の習得ではないということの分かりやすい説明がある(「ことばの科学『雑学事典』」(2)。

 また、金田一春彦氏も絶妙な例によって、鳥の「ことば」が人間のことばとは異なることを説いている。たとえばオウムに「オタケサンコンニチワ」と「オウメサンコンバンワ」を教えるとする。彼らは、この二つをものの見事に習得はするが、その後いくら待っても、自発的に「オウメサンコンニチワ」などとは決して言わない。
 なぜなら、彼らの発する「ことば」が分析的ではないために、より小さな単位に解析したうえで、これらの要素を組み合わせることができないからだという。
(これについては、よりヒトに近い習得のできる例が報告されている。後述する)。

 「動物に文法はあるのか」でも、最後に「要素の組み合わせによる伝達」という章が置かれている。例えばコガネムシのコミュニケーションは、内容と記号が1対1対応だから、「ツルツルしていればメスの背中」と信じてガラス瓶と交尾しようとする。しかしヒトは文法による要素の組み合わせ規則によって、「ツルツルしている」ものをいくらでも組み合わせて伝達できるのである。ただ、著者の渡辺茂氏はこう書いている。

 小鳥の歌は華麗だ。ヒトは洋の東西を問わず、これを愛でてきた。しかし、小鳥の歌の意味内容はまことに貧弱である。つまりは「僕の領地だ、出ていけ」と「僕は君が好きだ」につきる。もっとも、ヒトの言語活動もさまざまな情報を伝えているように見えても結局は小鳥の歌と同じということかもしれない。所詮この世は「色と欲」というわけだ。

 もちろん、そのあとに、ヒト、動物ともにコミュニケーションの素晴らしさ、奥深さがあることが述べられるのだが。

 ところで、動物のコミュニケーションといえば「ことばの歴史」(3)をご紹介しなければ。サブタイトルに「アリのことばからインターネットのことばまで」とある。少し抄録させて頂いてみると、

・アリのことば:身体言語とフェロモン。ごく最近摩擦音も使われているらしいことがわかってきたが、アリの出す音や超音波については殆どわかっていない。
・ミツバチのことば:ダンス。ミツバチの採餌蜂は巣から離れたところで見つけた餌についてえさの種類や、特色、距離と方角、などを尻振りダンスで知らせる。種類によっては羽音による音声コミュニケーションとの組み合わせも。
・鳥:音声。ここではもっとも驚嘆すべき例として、アレックスという名前のヨウム(洋鵡)が紹介されている。アレックスは生後13ヶ月から英語によるヒトとのコミュニケーションの訓練を受けた。その結果12年後にはアレックスは40の異なる物(バナナ、コルク、椅子、水など)の名前が言え、「いいえ」や「Xがほしい」などが目的に応じて使いこなせ、数も6つまで数えることができるようになった。ただ、アレックスも人間どうしでするような会話はついにできなかったのである。昨日したことや明日したいことを語り合うというようなことは。しかし、鳥のコミュニケーションはまだまだヒトにはわかっていない可能性を秘めているという。
・ウマ:鳴き声と身体言語。特定の鳴き声と身体言語(しぐさ、定位、アイコンタクト、回避行動)によるウマどうしのコミュニケーションは古くから知られているが、近年馬のトレーナーたちは「ウマ語」の観察に基づいて新たな調教技術を開発した。
・ゾウ:ゾウにゾウどうしのコミュニケーションがあるのは知られているがまだ研究途上である。
・クジラ:クジラは声で交信する。シロナガスクジラの歌う188デシベルの歌は何100キロも離れたところでも聞こえる。ザトウクジラは作曲(!)もできる。ソロ、デュエット、トリオ、合唱もできる。クジラたちの歌はいま、ものすごいスピードで研究が進んでいるのだ。

 これらに続いて、イルカ、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボと進み、訓練によって人間の二歳児程度に「話をする」ことができるようななったボノボの例が述べられている。

 こうして動物たちのコミュニケーションについて読んでくれば、当然「それは言語なのか」という疑問がわくが、著者は「動物のコミュニケーションと『言語』」の章の終りに次のように述べている。

 最後に、言語の最も厳密な定義を述べておこう。言語とは、主体が任意の信号――文法的に正しい話し方、もしくは図示表現――を使い、意味の通る構文で複雑な思考を伝える手段だと定義してよいだろう。人類はこれまで、この定義を満たせるのはホモ・サピエンスだけだと考えてきたが、最新の人間と動物との実験で明らかになったことからすれば、この昔ながらの仮定を、少なくとも見直さざるを得ないだろう(後略)。

 「文法」の定義も当然見直されるのだろうな。

 ともかく、「言語」の特集の2番目のタイトルは「幼児言語における文法の形成(岩立志津夫)です。わたしのかわいい澄晴くんの言語獲得に、ぼつぼつ戻ろうかと思います。

(中原幸子)


参考文献
(1)「言語」(大修館書店、2002年4月号)
(2)城生佰太郎著「『ことばの科学』雑学事典」(日本実業出版社、1994年)
(3)「ことばの歴史」(スティーヴン・ロジャー・フィッシャー著、鈴木晶訳、研究社、2001年)

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