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月刊「e船団」 言葉を探る 2002年7月号

文と文法(7)

 3歳児は文法の天才だという(「言語を生みだす本能」(3))。前号の野地澄晴君は3歳、言語発達のダム決壊期の真っ最中だ。「ダム決壊期」という語は、同書では、「2歳半から3歳半までのあいだに、一気に開花し、文法的な文をなめらかに発して会話するようになる」状況を表すのに使われており、そこまでの道のりは、音節発音期、喃語期、一語文発語期、二語文発語期と区切られている。

 そこで、ダム決壊中の澄晴君はどんな様子だろうか。「言語を生みだす本能」にはアダム君という坊やのダム決壊期、つまり、2歳3か月から3歳2か月までの話し方の発達が記されている。ちょうど単語をつなぎ始めた頃からの奇跡的な1年間にあたる。そのアダム君の記録に澄晴君のを並べてみよう。ちなみにアダム君は英語を、澄晴君は広島弁を話す(「幼児期の言語生活の実態」(1))。

 以下、橙色の文字はアダム君緑色の文字は澄晴君である。言い回しの似たものをピックアップしてみたが、それはあまり意味がないかも知れない。名詞の単数・複数や動詞・助動詞の不規則変化など、アダム君には澄晴君にないハードルが待っているし、逆もある訳だから。なお、澄晴君の発話は見出しの日に出たものばかりではなく、その日以前に出たものも含む。

・2歳3ヶ月
 Play checkers(チェッカーする)。 Big drum(大きな太鼓)。 A bunny-rabbit walk (ウサちゃんが歩く)。
 ボク トル ヨ。 マックロイ テテ。 トーチャン アカチャンガ オキトル ヨ。

・2歳6ヶ月
 Write a piece a paper(紙一枚、書いて)。 What that egg doing(あの卵、何してるの?)。I lost a shoe(靴をかたっぽ、なくした)。 No, I don't want to sit seat(ううん、お椅子、座りたくない)。
 オモチ ツクッテ。 カジ ドーシテ モエルノ? ボク モ チャンリンチャ ニ アブラ サシタン ヨ。 オトーチャン ガ ノカナイ ト ウゴカナイ ヨ。イラッチャイマチェ。 チョット  チンチン ガ イキマチュ カラ チョット トーチテ クダタチャイマチェン カ?

・2歳9ヶ月
 Where Mommy keep her pocket book?(マミーはどこにお財布置いてる?) Show you something funny.(面白いもの、見せてあげる。) Just like turtle make mud pie.(泥のパイ作って、カメみたい。)

 シューポッポ ワ ドンナニ ナッテル? オーキクナッタラ ガッコー デ テルキチャン ノ スル モノ コーテ アゲル。 (友だちと三輪車に乗って遊びながら)フタリ ガ シュッポッポ ジャ ネ。

・3歳0ヶ月歳
 I going come in fourteen minutes. (ぼく、14分でいってくる。) I going wear that to wedding.(ぼく、それ、結婚式に着ていくんだ。) I see what happens. (なにがあったかわかる。) I have to save them now.(それはあとにとっとかなくちゃ。) Those are not strong mens. (あいつら、強い男じゃないよ。) They are going sleep in wintertime. (冬の間は眠るんだ。) You dress me up like a baby elephant.(ぼくに、ゾウの赤ちゃんみたいにおしゃれさせるんだね。)

 ボク オーキク ナッタラ オトーチャン ミタイニ ガッコー エ イク ヨ。 ボク オーキク ナッタラ ガッコー エ イク ヨ バス ニ ノッテ。(バスがどっちから来るかを)ボク シットル ヨ。 コレ モ ナイナイ シナキャー。(鶏が卵を)キョーワ ミッツ ウンデル。モー アメ タベンヨーニ シヨー カ? イー フク ワ ヨソ イキ(注:「行く」の意) トキ キルン ジャ ネ? オマド アケヨーカ? アンマリ アケタラ サムイデスカ?

・3歳2ヶ月
 So it can't be cleaned? (それじゃきれいにできないの?) I broke I broke my racing car. (ぼく、ぼくのレーシングカー壊しちゃった。) Do you know the light went off?(電気が消えたの知ってる?) What happened to the bridge? (その橋はどうなったの?) I dream sometimes.(ぼく、ときどき夢を見る。) I'm going to mail this so the letter can't come off.(手紙が出てこないように、これ、ポストに入れるんだ。) I want to have some espresso.(エスプレッソが飲みたいな。) The sun is not too bright.(お日様、そんなに明るくないね。) Can I have some sugar?(砂糖を回してください。) Can I put my head in the mailbox so the mailman can know where I are and put me the mailbox? (郵便屋さんがぼくがどこにいるかわかって、ぼくをポストに入れてくれるように、ポストに頭をつっこんでいられるかな。) Can I keep the screwdriver just like a carpenter keep the screwdriver?(大工さんがネジ回しを持っているみたいに、ぼくもねじ回しを持っていられる?)

 オカーチャン ノ ジャ ナイ? オカーチャン オカーチャン コレ イルン デショー。 アーッ イマ ウーウー ユーテ ショーボージドーシャ ガ イク ヨ。 ボク オーキク ナッタラ オサケ ノム ヨ。 オカーチャン コレ カラッポ ニ ナッタン ジャケン チョーダイ ネ。 オカーチャン イマ テルキチャン ガ オニーチャン ミタイニ アンヨ シタヨ。

 尚、澄晴君の発話の多くはまわりの人との会話として記録されている。たとえば、

・2歳9か月:朝の光が障子の破れから箪笥の上のおもちゃ箱にあたっているのを見て。
 澄晴「アンナニ アカルイ ネ ネ」
 父(うなずく)「・・・」


・3歳と1週間:夜、にわとりが箱に入れられるのを見て。
 澄晴「オカーサン コッコサン ドー ユーテルン?」
 母「ナニガ?」
 澄晴「アノ ネ コッコサン ガ ネ ドーシタン ジャロカ ユーテル」
 母「ソー。」


・3歳と2週間:銭湯がお休みであることをお父さんに説明。
 父「オフロワ ナイ ノ?」
 母「キョーワ オヤスミ デス」
 澄晴「ハタ ガ アガッテ ナイン ジャケン。 ボク ガ イマ サンリンシャ デ アソコ イッタラ ケムリ ガ デテ ナカッタ ン ヨ」
 父「ソー」


 まさにダム決壊期。すでにして、「あ、雪!」と言われればことばの創る雪の世界に身を置くことができているようにみえる。
 「言語を生みだす本能」によれば、こどもの言語の発達速度は個人差が激しく、1年かそれ以上も差があるという。アダム君はややゆっくりしている方だそうだ。イヴという女の子は2歳になる前に「Fraser, the doll's not in your briefcase.(フレーザー、お人形はあなたのブリーフケースの中じゃないでしょ)」と完璧な英語をしゃべったという。

 ともあれ、3歳児になると、文が長くなったり、構造が複雑になったりするだけでなく、文法的にもほとんどのルールがよく守られているのだそうだ。「mens」とか「wents」などの間違いは目に付きやすいが、ルールごとに間違いの発生率を調べると、意外にも発生の確率は10%以下だという。また、こどもの間違いは文法論理に則っているともいう。すると、アダム君とそっくりの私の間違いも文法論理には則っているわけだろうか。でも、その間違いの主な原因である名詞の単数・複数、動詞・助動詞の不規則変化、前置詞の使い方などはなぜ、英語を母語とする人にもこんなに身につきにくいのだろう? 不思議だ。本能で動くような機能は、抵抗のない方へない方へと発達していくものだとばかり思っていたが。

 3歳児のどこが、なぜ、文法の天才なのかまで進めなかった。また次回・・・。

(中原幸子)


参考文献
(1)野地潤家「幼児期の言語生活の実態」(1〜4)(文化評論出版、1973〜1977年)
(2)ディヴィド・クリスタル「言語学百科事典」(大修館書店、1992年)
(3)S.ピンカー著、椋田直子訳「言語を生みだす本能」(NHKブックス、1995年)

主な参照ホームページ
(5)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)
月刊「e船団」 言葉を探る 2002年8月号

夏休み・文法の踏みはずし

 先月(2002年7月)号で、アダム君が母語としての英語を身につけていく様子をほんの少しだがた。そして思った。3歳のアダム君と20代半ばで英会話を始めた私とは、なんとそっくりな間違いをしているのだろう、と。正しい文法を身につけていくことは母語を獲得する場合にもかなりの苦労を伴うようだ。まあ、アダム君には言語発達の「ダム決壊期」があって、あっという間に文法に則った英語を話せるようになり、私は今も、頭の中で文法のおさらいをしながら書いたり話したりするレベルを脱することができないでいるのだが。

 でも、では、間違いとか正しいとかは誰がどのようにして決めるのか?
 ほんとうに、文法を踏み外しているのはアダム君や私なのだろうか? Manの複数はmen、goの過去形はwent。主語がIならbe動詞はamだけどheだったらis。appleの複数はapplesだけどfishは複数もfish、あ、魚の種類の場合はfishesも有りだよ、・・・エトセトラ、エトセトラ。どれもこれも規則を踏み外しているのは文法のほうで、習っているヒトではないではないか。

 「言語を生みだす本能」(1)にはこんなことが書かれている。

 心理学者のカリン・ストロムスウォルドは、学齢前の子ども一三人の発語を記録して、助動詞を含む文を分析した。英語の助動詞体系(can、should、must、be、have、do)は複雑すぎると文法学者から不評を買っている。助動詞の組み合わせは理論上、240億×10億通りある(たとえば、He have might eat とか He did be eating など)が、文法的に正しいと認められる組み合わせはわずか100通り(「彼は食べ終わったかもしれない(He might have eaten)」や「彼は食べ続けてきた(He has been eating)」など)しかない。ストロムスウォルドは、助動詞の組み合わせの、誘惑されそうな間違い(つまり、親の言葉から一般化して出てきやすい間違い)について、子どもが実際に間違う回数を調べてみた。(上表:省略)。
 この表には、たとえば大人が「He is happy」から「Is he happy?」という疑問文を作っているのにならって、子どもが「He ate something」から「Ate he something?」という疑問文を作るケースのような例が示されている。ストロムスウォルドは子供たちがそのような間違いをするかどうかを調べたのである。そして、
 調査の結果、間違いの生じうる6万6000文のうち、実際に間違った例は、一つも発見されなかった。
 三歳児の文法は正しい確率が高いという意味で量的に正しいだけではなく、質的にも正しい。


 だが、子供たちは間違う。例えば、

 先生が赤ちゃんウサギを抱いて、皆でなでたの
 (My teacher
holded the baby rabbits and we patted them)
 とか、
 ねえ、ホートンがザ・フー(ロックバンドの名称)の曲を聞いたんだってさ
 (Hey, Horton
heared a Who)
 というように。


 それはなぜか。「言語を生みだす本能」(3)によれば、それは、「子どもたちはなぜ間違いを犯すか」というよりは、「なぜ大人には間違いに聞こえるのか」という問題らしいのである。なぜなら、「holded」や「heared」や「finded」のほうが「held」「heard」「found」よりもずっと文法のルールに従った過去形だから。大人にそれが間違いに聞こえるのは、大人の心的辞書に「hold」の過去形として「held」が登録されており、「holded」という規則活用にブロックをかけるからなのだ。

 ルールに則っていない方が正しい、ということになれば、それを身につける方法は丸暗記しかない。英語が母語とは言え、アダム君も丸暗記しなくてはならないのだ。当然だが、丸暗記で覚えたものは、忘れても自分で作ることができない。覚える前や、覚えたけれど忘れてしまったときに過去形が必要になって、苦し紛れに「holded」とやれば「間違ってるゾ!」と言われるのである。
 ところが、こういう風に、大人が口にしない過去形が出てくるというのがまた、子どもの文法の能力が並々でないことを示している、という。なぜなら、彼らが大人の真似や丸暗記だけで文法を身につけるとしたら、「holded」「heared」「finded」などという語を口にできる筈はないのだから。

 ともかく、ヒトが生まれつき持っている言語能力は実に素晴らしい。なのに、どうして動詞や助動詞の不規則変化などという厄介なものを生んでしまったのだろうか。「held」「heard」「found」などはまだいい。まだしもどことなく原形の面影をとどめている。だが、「go-went-gone」はどうだ。どこをどうつつけばこんな変な過去形ができるのか。その答えを知ったときにはもう、心底驚いた。「go」はその過去形「went」を他の動詞から借りた、というか、分捕った、というのである。このことを知ったのは「英語の語源のはなし」(3)という本だった。こうある。

 goにはそれなりの過去形、例えば英国北部で使われていたgaed(中原注:goedの間違いではありません)なんかがありましたが、15世紀に、別の動詞wendの過去形wentが南部方言として使われ始め、これがやがて、標準形として落ち着きました。どうやら、goに-ed語尾をつけたような音ではハッキリ過去であることが伝わらなかったのが原因ではないかと思います。
 ところで、驚いたことに、goにwentを奪われたwendという動詞は今も健在です。辞書を見て下さい。ちゃんと文語の「行く」として載っています。現在では規則活用動詞として扱われています。当たり前です。かつての活用、wend-went-wentのど真ん中を引っこ抜かれたのですから、規則活用に転進するしかなかったでしょう。辞書の注釈に「wentは今はgoの過去形として用いられている」というくだりが泣かせます。


 goの過去形をwentで補うような現象は「補充法」と呼ばれ、形容詞でもgoodとwellの比較級と最上級がともに「better」と「best」であるような例がある。これも何かいわく因縁がありそうだ。しつこいようだが、どうしてこう、頻繁に使われる語ほど複雑な活用をするようになっているのだろうか。よく使うのほど規則的だと助かるのに。いつか調べてみよう。そう言えば日本語にもカ行変格活用、サ行変格活用などというのがある。日常ほとんど意識することはないが。これも何かわけがあるのだろうな。日本語の動詞の活用というのは世界中の言語の中でも際立って変わったもののようだし。

 サピアによれば、動詞のない言語はないが、動詞が1つしかない言語はあるのだそうだ(4)。それはエスキモーのある言語で、そのたった一つの動詞というのは「――が行われる」という意味をもつ。名詞にその動詞をつければどんなセンテンスでも作れてしまうそうだ。「降雨」につければ「雨が降る」、「立春」につければ「春になる」という具合に。うーん、便利なようだけど、それもどうかなあ。たとえば俳句はどうなるんでしょうね、その言語では。「古池や蛙の跳躍が行われる水の音」では、ちょっとね。

(中原幸子)


参考文献
(1)S.ピンカー著、椋田直子訳「言語を生みだす本能」(NHKブックス、1995年)
(2)友清理士著「英語のニーモニック〜覚え歌大集合」(研究社、2001年)
(3)佐久間治著「英語の語源のはなし」(研究社、2001年)
(4)金田一春彦著「日本語」(岩波新書、1988年)
(5)寺澤芳雄、川崎潔編「英語史総合年表」(研究社、1993年)
主な参照ホームページ
(6)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)

月刊「e船団」 言葉を探る 2002年9月号

外国語・・・ふと思ったこと

 先月号ではとうとう文法に不満をぶつけてしまったが、考えてみれば、不規則変化のような例外ができるにはできるワケもありそうな気する。例えば、規則通りだと発音しにくい、など。だが、踏み外しついでに、もう少し踏み外したいことができてしまった。

 以下の緑色(この色)の文字の部分は、不規則動詞について考えながら私がふと思ったことで、何も根拠はなく、また一方、だれでも知っているのに私だけが知らなかったことであるかもしれない、ということをお断りしておきたい。

 母語にくらべて、外国語の習得はなぜこんなに難しいか。それはヒトの遺伝子はもともと1種類の言語しか必要としないものとして設定されているからではないだろうか? つまり、私(たち)は外国語を母語の続きもしくは一部として身につけていくのではないか。だから、外国語の文法はすべて母語の文法の例外として覚えなくてはならないのでは? そう、外国語を習得しようとするヒトにとって、その文法は例外なく例外だ!ということなのでは?

 不思議に思うのは空海や南方熊楠など、外国語を苦もなく身につけてしまうヒトがいることである。空海も南方熊楠もわが故郷・紀州の自慢なので真っ先に思い出すが、外国語の達人は地球上には結構うじゃうじゃといる筈だ。もちろん、超人的な頭脳の持ち主たちだ。かといって、話せば演説の名人であり、書けばノーベル文学賞を受賞したほどの言葉の達人、サー・ウインストン・チャーチルが、パブリックスクールではラテン語で泣いた、という話も有名だから、単にアタマの問題でもないだろう。

 私の知人にドイツ人女性と結婚している男性がいる。本人はドイツ語がカタコト、奥さんは日本語がカタコト、二人の日常生活は英語である。男の子二人は日英独3か国語の飛び交う家庭生活を送って育った。ちなみに、お母さんは、叱るときはドイツ語だそうだ。2人の子供さんのことは赤ん坊のときから知っていて、言葉の交通整理がうまくできて行くかどうかに興味深々だったが、別に混乱も起こらず、ちゃんと日本語で入学試験を受けて通った。どうなっているのだろう。

 昔、ブラジルから来た日系3世の人としばらく仕事をしたことがある。不思議だったのは、日本語もポルトガル語も不自由なく話せるのに、その2言語間の翻訳は出来ない、と言っていたこと。そうすると、翻訳や通訳が出来るということは、やはり別の体系で習得しているということだろうか。

 とみ、こうみしていると、まるで迷路に踏み込んだような気がする。

 ところで、「外国語」とは何だろう。ついでに、「母語」「第1言語」「第2言語」などについても調べてみると、「文部省学術用語集」では、
 ・母語:mother tongue
 ・外国語:なし
 ・第1言語:first language
 ・第2言語:second language
 「広辞苑」では、
 ・母語:幼時に母親などから自然な状態で習得する言語。第1言語。母国語というと国家意識が加わる。
 ・外国語:外国の言葉。
 ・第1言語:なし
 ・第2言語:なし

 「言語学百科事典」(2)では、母語と第1言語は同義に使われており、外国語と第2言語とは次のように区別されている。
 (「外国語学習と教育」の)この分野では、用語上の区別がいくつかなされる。ある人の「母語」あるいは「第1言語」は、後になって習得されたあらゆる言語(第2言語、第3言語など)と区別される。「外国語」は、一般には、ある国の土着の言語ではないあらゆる言語を指すのに用いられ、「第2言語」と同じ意味で一般的に使用されるが、言語学者の多くは、両者の間に、学習の目的、教授法、到達のレベルの点で大きな相違があると考えており、したがって、「外国語」と「第2言語」の使用を区別している。
 「外国語」は、このようなより限定された意味では、ある国において日常的な意思伝達の手段としての地位をもたない、学校で教えられる土着のものではない言語のことを言う。
 「第2言語」は土着のものではないが、通常は教育・行政・ビジネスの手段として、意思伝達の目的で広く使用されている言語のことをいう。例えば、英語は、日本では外国語としての地位にあるが、ナイジェリアでは第2言語としての地位にある。


 生まれた環境で自然に身につく言語が母語で、それ以外はみんな外国語。一体地球上に言語は何種類あるのだろうか。「月刊・言語」2002年5月号では「ことばを科学する154冊」という特集が組まれている。そのなかの「世界の言語」(著者:下宮忠雄)では、世界の言語の数と言語人口は下記のように述べられている。

●言語の数 世界の言語の数は3000から6000の間とされる。1960年代までの言語学の概説書は3000としていた。言語か方言かの区別がむずかしい場合も多い。デンマーク語とノルウェー語はよく似ているのに二言語と数えられる。中国語は一言語か、五言語か六言語か、アメリカ英語とイギリス英語は一言語(の二方言)か二言語か、意見は分かれる。ここ30〜40年の間に新しく発見された言語もある。しかし、6000とした場合、そのうちの3000は21世紀の間に消滅すると言われる。
●言語人口 トップテンは中国語10億、英語5億、ヒンディー・ウルドゥール語3.5億、スペイン語3億、ベンガル語1.7億、ロシア語1.6億、アラビア語1.5億、インドネシア語1.5億、ポルトガル語1.4億、フランス語1.2億だが、英語の場合、第二言語話者を入れれば、もっと多くなるし、国際性の点では中国語よりずっと上だ。


 この著者の「第2言語」の定義が「言語学百科事典」(2)の定義と一致するかどうかは確認できていないが、現在、英語が世界公用語ともいうべき地位にあるのは確かであろう。そうなった理由は、英語の経てきた歴史の中にある、と「ことばの科学・雑学事典」(3)に指摘されている。つまり、英語は、5世紀から1066年までの古英語の時代に異民族との混淆にさらされた。1066年から16世紀までの中英語の時代には、英語は「自我に目覚め」て、文法が単純化された。さらに16世紀以降の近代英語の時代には、大英帝国の勢力伸張とともに英語の国際化に磨きがかかった。その反面、異なる言語との混淆によってピジン化が進み、伝統的な英語の文法は、ますます崩れていかざるを得なかった。と、いう。

 一方、同著は、英語は言語構造上からは、日本人にとってきわめてむずかしい外国語であるが、幼少時からなじみがあるためにそれほど難しいと感じられなくなっている、とも述べている。言語は別の言語と混じりあうことで、その両者を母語とするどちらの話者にも親しいものとなってゆくらしい。

 そうこうしていたら「文藝春秋」から、2002年9月臨時増刊号(特別版)として「美しい日本語・言葉の力を身につける」がでた。表紙に刷られたキャッチコピーは「全編書下ろし・116人の言葉をみがくヒント」。「ええっと、 言葉の美しい、美しくないって、何だっけ?」と、わかったつもりでいたことが、急に気になり始めた。英語は、世界の公用語になっていく過程で、語彙にも文法にも乱れが生じた、というが、ではそれによって「美しさ」は削がれただろうか。今も美しい英語は美しく、汚い英語は汚いだろう、と私は思うが。
 日本語もまた、たとえ世界中の言葉と交流しても、その混沌の中で美しい日本語であり続け得る、と思いたい。言語の交流は避けられないのだから。「文藝春秋」特別号は、実はまだあまり読んでいないが、どんなヒントがつまっているのだろう。

 澄晴君も言語発達の「ダム決壊期」を経て文法的に正しく話せるようになってきている。「文とは何かについては、文法学者の数だけ定義があると言われるほど」(4)ことも納得し過ぎたほどだ。そろそろ「美」という日本語について考えたり、日本語の「美」について考えたりしてみるのも楽しいでしょうね。「美」という字を読めば、あっという間に心に美しいものが溢れる、そのことこそが言語能力ですから。

(中原幸子)


参考文献
(1)S.ピンカー著、椋田直子訳「言語を生みだす本能」(NHKブックス、1995年)
(2)ディヴィド・クリスタル著「言語学百科事典」(大修館書店、1992年)
(3)城生佰太郎著「ことばの科学・雑学事典」(日本実業出版社、1994年)

主な参照ホームページ
(4)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)


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