月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー
月刊「e船団」 言葉を探る 2002年10月号

ことばの美(1)
俳句はことばの詩化装置

 日本語について考えるのがブームだ。インターネットの片隅でことばを探っている私はどれもこれも見たくなって、本に埋もれそうだ。「文藝春秋」からも「美しい日本語・言葉の力を身につける」(2002年9月臨時増刊号(特別版))が出た。116人の日本語の名手が「『言葉をみがく』ヒント」を書き下ろしている。どんな職業の人たちが書いているかというと、作家、詩人、歌人、俳人、エッセイストなどモノを書く仕事が圧倒的に多い。編集者、俳優、アナウンサーなど、モノを書く人に美しい日本語を書いてもらわないとどうしようもない側は少数派。小学生や中学生がどんな日本語を美しいと思っているかも知りたかったな、と思うが、無い物ねだりかな。読んで感じたのは、116人全員が独自の「美しい日本語」の定義、というかイメージをもっていることだ。「文」の定義と同じく「ことばの美」の定義もまたそこに関わる人の数だけあるのかもしれない。

 私が感動したのは、ノンフィクション作家柳田邦男の「たましいの対話・芭蕉」であった。感動という語はいまやあまり美しく使ってもらっていないが、私が覚えたのは本物の感動だった。柳田邦男がドナルド・キーンの『百代の過客 日記に見る日本人』を読んで言葉の教習所での再訓練に放りこまれたという、そのくだりはこうである。

 <芭蕉は、山河の永遠性を否定している。「国破レテ山河在リ」の言を、彼は疑ったのである。そこに描写された景色はすべて、見る影もなく変貌したというのに、世に日本語の読める人間が存在するかぎり、「奥の細道」は残るであろう。> 芭蕉が詠んだそこここの地は、いまや都市化、開発、地震による地形の変化などによって、見る影もなく変貌してしまった。象潟(きさかた)にしても、映す水などはない陸地になっている。それでもなお、<今日象潟に旅をする人々は、眼前に展開する実際の景色ではなく、芭蕉が描いた景色をこそ、そこに見るであろう。鳥海の山の影は「うつりて江(え)にある」のである。>――「言葉の美」とは、それほど強い力を持つのだというキーン氏の言説が大鐘楼の鐘の音のようにいつまでも尾を引く形で響いたのだ。<>はキーンの著書からの引用を示す)。

 ここに書かれていることこそは、人間の言語能力の中枢ではなかろうか。言葉がヒトにあるイメージと、それを感じる「私」とを立ち上げる。そこに結ばれたイメージがその世界に「私」を浸す。それは同時にその言葉を書いた人との時空を越えた共感である。それを可能にすることこそがヒトの言語能力だろう((5)、(7)、「ことばを探る2002年3月号『文と文法(3)』」)。言うまでもないが、単語1つでその単語を知る「私」の数のイメージが生まれる。とすると、2つの単語から生まれるイメージの数はいくつ? 3つの単語だとどうなる? ああ、そうだ、だから俳句の「取り合わせ」が成立するのでは? 俳句だけではなく、世の中のあらゆる取り合わせの、これが原点かも。反抗期というのももしかしたら、ヒトが言葉で「私」を立ち上げ始めることと関係があるのかも。

 俳句の世界で取り合わせの効果を初めて意識し、確認し、パブリッシュしたのは松尾芭蕉である。芭蕉が「古池や蛙飛び込む水の音」と詠んだ瞬間、ただの池とただの蛙が水に飛び込んだ音とが、芭蕉の「私」の中にひとつの詩の世界を立ち上げた。私は思う。俳句における「取り合わせ」こそは地球上で一番やさしく、同時に一番困難な言葉の詩化装置、美化装置である、と。俗語も片言も、五七五というこの小さな箱に何かと一緒に入れることで、あっという間に詩になる。まあ、「正しく」入れれば、ということだけれど。英語で「取り合わせ」のことを「just positioning」と呼んでいるが、まさに名訳であろう。

 芭蕉が私たちに「取り合わせ」を遺して逝ってから約300年、子規が「配合」という語を遺して逝ってから100年。私は今年の3月、取り合わせの俳句に何が出来るかを思い知らせてくれる句に出会った。こういう時こそ「出遭った」とか「出逢った」とか書きたいけれど、これらの文字は日ごろコロッケやラーメンにでも使う人がいるので、こんなとき困る。ついでに言えば、気軽に「観た」なんて書くのがはやっているが、あれもやめてほしい。ほんとに「観た」とき、どう書くつもり?

 それはともかく、その句とは次の2句。

 風花はたとえばカインのこぼす息
 風花に弟アベルきらめくよ

作者は坪内稔典(「俳壇」2002年3月号)。「創世記」が書かれて以来、「カインとアベル」の物語についてどれほどたくさんの言葉が費やされてきたことか。書かれただけでなく、映画にもテレビドラマにもなった。でも、カインとアベルがこれほど美しくかなしく心に迫ってくるシーンが書かれたことがあっただろうか。「美しい日本語・言葉の力を身につける」に述べられている坪内稔典の言に従えば、カインの句は「風花とかけてカインのこぼす息と解く。その心は?」というなぞなぞであり、その心は「きらめく弟アベル」なのであろう。でも私には、その心は「業(ごう)から解き放たれる歓び」かな。だって、この句のカインとアベルは実に兄弟そのもので、温かい血が通いあっているではないですか。ちなみに私の名前の「幸」は罪人に嵌める手枷の形であり、それを外して貰うのが「しあわせ」なんだとか。

 それに、素晴らしいことがまだある。普通、俳句では、理屈で繋がらないもの同士が取り合わされる。だがこの2句は理屈で繋がっている。何故なら、アベルとは「気息」、平たく言えば「息」という意味だから(6)。坪内稔典がそれを知らない筈はない。百も承知で取り合わせの相手探しに七転八倒し、「風花」にたどり着いたのだと思う。そして、「アベルって息という意味でしょ」などとは微塵も感じさせない詩の世界が生まれた。1句ずつでも俳句として独立しているが、2句合わせればそこにも一つのイメージが現れる。このようなことができるのが俳句の「取り合わせ」で、ここにこそヒトの言語能力が最大級に生かされているのではなかろうか。「船団」54号の松永典子との往復書簡で、坪内稔典は「あなたは『取り合わせの先が知りたい』と言われる。でも先はないのでは?(後略)」と書いているが、生意気を承知で言わせて頂けば、私も取り合わせの先はないし、必要もないと思う。

いま、私は、カインが大地の面(おもて)から追放されて、さまよいさすらう者となって去って行くとき、ヤハウェがカインにつけた印とは「詩に感じる心」だったのではないかと思うようになっている。それはカインだけでなく、すべてのヒトにつけられたのだ。その印はあるいは、言葉で「イメージ」や「私」が立ち上がる能力とか言語能力、だったと言ってもいいかも知れない。ただの荒唐無稽な妄言であっても、私はそう信じたい。そうすれば私は、私の中のカインとアベルを受け入れ、抱きしめることができる気がするから。私はキリスト教徒ではないのですが。

 それにしても、「美」という字は「大きな羊」を意味する(9)。どうやら「美」は生まれたとき「おいしい」ことだったのじゃなかろうか。次はそこらを探ってみたいです。

(中原幸子)


参考文献
(1)「美しい日本語・言葉の力を身につける」(「文藝春秋」2002年9月臨時増刊号(特別版)2002年)
(2)セミール・ゼキ著、河内十郎訳「脳は美をいかに感じるか」(日本経済新聞社、2002年)
(3)ビクター・S・ジョンストン著、長谷川眞理子訳「人はなぜ感じるのか」(日経BP社、2001年)
(4)福井直樹著「自然科学としての言語学」(大修館書店、2001年)
(5)浜田寿美男著「『私』とは何か」(講談社選書メチエ、1999年)
(6)月本昭男訳「旧約聖書T・創世記」(岩波書店、1997年)
(7)西村浩太郎著「カインの印―殺しの哲学―」(ビワコ・エディション、2001年)
(8)スティーブン・ピンカー著、椋田直子訳「言語を生み出す本能」(NHKブックス、1995年)

主な参照ホームページ
(9)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)

月刊「e船団」 言葉を探る 2002年11月号

「美」と「うつくしい」

 突然ですが、「うつくしい」と読める漢字、いくつご存知ですか? 私は一昨日の午後2時まで「美」1つしか知りませんでした。びっくりです。大漢和辞典(1)の字訓索引にはずらずらと並んでいたのです。ちょっとその数をあててみませんか? 答えは文末にあります。

 びっくりはそればかりではありません。「うつくしいいし」「うつくしいおんな」「うつくしいさま」「うつくしいたま」「うつくしいめ」「うつくしいもの」にもそれぞれ専用の漢字があるのですね。女偏にはあまりいい意味の漢字がないと思い込んで、漢字の好きな私はちょっと淋しかったのですが、「うつくしいおんな」の項を眺めていると女偏に年という字があったのです、なんと。年とると女は美しくなるのです。ちなみに「うつくしいおとこ」という項はありません。まあ、でも、今は(平安時代も・・・)男が無駄毛などのお手入れをして化粧をする時代。「うつくしいおとこ」という字もそのうち生まれるかも知れません。

 さて、「美」です。
 「ネットで百科」(8)によれば「美(び)」は、

 真や善とならび人間のあこがれてやまぬ価値の一つである。字義を漢和辞典にたずねると,美とは羊と大との合字で原義は〈肥えて大きな羊〉をさし,これが〈うまい〉ことから,ひいては〈うるわしい〉〈よい〉〈めでたい〉の意に用いられるとある。英語 beautiful (美しい) など西欧語の形容詞をみれば,これも〈よい〉〈りっぱな〉等々の意味と重なりあい,きわめて多義的である。この多義的価値概念に体系的把握の道をひらいたのは近代に成立した美学であった。(後略)

 とある。きわめて明快。だが「美は『大きな羊』である」というのはどうも鵜呑みにはできないようだ。というのは、「字統」(2)や「字通」(3)によれば「美」は象形文字で、羊の全形を示す、とある。下の「大」の部分は羊の後足を含む下体の形である、と。そして、「羊」は羊を前から見た形である、と。つまり「美」という漢字はヒツジそのものであって、ウツクシイことを表わすまでには何段か階段を上がる必要があるように思われる。

 こうなれば、まず羊という動物について知りたい。広辞苑によれば、
 【羊】(ヒは「ひげ」、ツは「の」、ジは「うし」の意という)ウシ科の哺乳類。8千年以上前からの家畜。毛は灰白色、柔らかくて巻き縮む。角はないものもある。性質は臆病で常に群棲。毛は毛織物の原料。肉は食用、脂・皮も用途が多い(後略)。

 これではさっぱりウツクシクないですね。いつもお世話になっている「字統」(2)はどうでしょうか。

 羊 6 (中原注:6画のこと)
 ヨウ(ヤウ)
 ひつじ
 象形 羊を前から見た形で、羊角の後ろに羊身をかく。牛と同じかきかたである。〔説文〕四上に「祥なり」と畳韻をもって訓する。(中略)〔説文〕は羊に祥の意があるとするもので、〔周礼(しゅうらい)、車人、注〕に「善なり」というのと同じ。羊は神事に用いることが多く、羊神判によって祥・不祥を決めることがあった(後略)。


 少しウツクシクなってきたようだ。あ、善という字にも羊が含まれていますね。
 しかし、羊が「ビ」とか「うつくしい」とか読まれている辞書は少なくとも私の手許には見当たらない。

 「字統」(2)で漢字の「美」が羊の後足を含む全形とされることは上述したが、その後に次のように記される。

 〔説文〕四上に「甘し」と訓し、「羊に従ひ、大に従ふ。羊は六蓄に在りて、主として膳に給するものなり。美と善と同意なり」とする。羊大に従うというも、大はその下体である。美は羊の肥美の状を示し、神に薦むべきものである。善・義・美はみな羊に従い、善は羊神判によって勝利を得たもの、義は犠牲に用いて完美なるもの、美も神に供薦すべきものをいう。それで、形の美、肉味の美をいう。さらに移して人の徳行や自然風物の美しいことをいう(後略)。

 「字通」(3)も漢字の解説は「字統」とほぼ同じだが、最後に「これらはすべて神事に関していうものであり、美も日常食膳のことをいうものではない」としている。さらに「古訓」として次のように列記する。
 〔名義抄〕美、ウルハシ・ヨシ・ホム・アマシ・コトモナシ・アザヤカナリ・カホヨシ・ムマシ
 〔篇立〕美、アサヤクアマシ・ヨシ・ホム・ウマシ
 〔字鏡集〕美、コトモナシ・カホヨシ・アマシ・ウルハシ・ヨシ・ホム・ウマシ


 「妙義抄」は平安末期に成ったといわれるから、そのころには「美」は「ウルハシ」と読まれていたのである。「ウルハシ」は「ウツクシ」の類義語。やっと「美」はウツクシクなりました。

 一方「ウツクシイ」という言葉の方はどうだろう。
 それについては古語大辞典(6)が分かりやすい。
「うつく・し【愛し・美し】」の「語誌」として、次のように記される。
 「いつく」「いつくし」「いつくしむ」などと同源とという説があるが、確かではない。奈良時代には、親子や夫婦・恋人などの間の、長上から目下の者に対する愛情を表す。平安時代には、幼少の者、小さいものなどの愛すべき美(可憐美)に対する愛情、また、その可憐美を表す。平安中期には、美麗の意も表し、大鏡では、木のような自然物に対しても用いている。室町時代はこの意が主であった。現代でもこの意に用いられるが、「きれいだ」に取って代わられつつある。また、室町時代には、余分な物、汚れた物などのない状態をも表すようになったが、これも現代語では「きれいに」を用いるようになった。

 なるほど。そう言えば、私も、ふだん「美しい」という言葉をほとんど口にしない。「美しい」はなんとなく気どった感じがする。まあ、どうしても「きれい」ではぴったり来ない、「美しい」を使いたいケース、というのもあるけれども。

 「美しい日本語・言葉の力を身につける」(8)でも、そこらに違和感を覚える人がいたようだ。例えば、
 西義之「『美しい日本語』とは」は、こう始まる。
 私はとくに天邪鬼(あまのじゃく)ではないつもりだが、「美しい日本語」という言葉を前にすると、なんとなく異和感のようなもの、坐(すわ)りの悪い思いにとりつかれる。「美しい日本語」は本当に存在するのだろうか、と。
 「正しい日本語」というのはありそうである。また「美しい日本語」と似ているが、「綺麗(きれい)な日本語」という言い方もありそうである。とくに第三者の外国語を評する場合など、「彼のドイツ語は綺麗だな」と言いそうであるが、「美しいな」と形容するかどうか?


 この筆者は台湾生まれで台湾育ち、日本語にまったく自信がない、と書いているのだが、自信がない、という一歩退いた姿勢だからこそ、このような微妙な日本語の変遷を感じ取れたのではなかろうか。

 もう一人私が共感したのは米原万里で、タイトルが「言葉に美醜なく貴賎なし」。それはこう締めくくられている。
 評判の悪い「ウザイ」「キモイ」「ムカツク」だって、今の若者たちのそういう心の状態を実にみごとに的確に表現しているではないか。そして、言葉にとっては、それこそが命なのだと思う。

 それはそうと、来年は未年ですね。未と書くがこれは無論羊のことだ、と言いたいところですが、そうではないのです。未は植物、「木の枝葉の茂りゆく形」で、羊は動物(2)。なんと十二支に今のように動物が当てはめられたのは干支ができたのよりもずっとずっと後の漢のころだとか。そう言えばヒツジグサという植物(スイレンの仲間)があって、漢字では未草。これはしかし未の刻に花が開くからというのでついた名前。そうすると花より先に時刻があって、勿論それより先に干支があった。ああ、ややこしい。
 では、また来月。

(中原幸子)


 「うつくしい」と読まれる漢字の数:112個


参考文献
(1)諸橋轍次編「大漢和辞典」(大修館書店、1986)
(2)白川静著「字統」(平凡社、1984)
(3)白川静著「字通」(平凡社、1996)
(4)白川静著「字訓」(平凡社、1987)
(5)十諸橋轍次著「十二支物語」(大修館書店、1968)
(6)中田祝夫他編監修「古語大辞典」(小学館、1983)
(7)日本国語大辞典(小学館、2001)
(8)「美しい日本語・言葉の力を身につける」(「文藝春秋」2002年9月臨時増刊号(特別版)、2002)

主な参照ホームページ
(11)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)

月刊「e船団」 言葉を探る 2002年12月号

ことばの美(3)「うつくしい」と「きれい」

 先月(2002年11月)号でご紹介したように、「美しい日本語・言葉の力を身につける」(1)で、西義之氏は次のように述べている。

 私はとくに天邪鬼(あまのじゃく)ではないつもりだが、「美しい日本語」という言葉を前にすると、なんとなく異和感のようなもの、坐(すわ)りの悪い思いにとりつかれる。「美しい日本語」は本当に存在するのだろうか、と。
 「正しい日本語」というのはありそうである。また「美しい日本語」と似ているが、「綺麗(きれい)な日本語」という言い方もありそうである。とくに第三者の外国語を評する場合など、「彼のドイツ語は綺麗だな」と言いそうであるが、「美しいな」と形容するかどうか?


 また、同書の中で言語学者の鈴木孝夫氏は「美しい日本語を作るために」と題して美しくない日本語を論じている。

 今回私は美しい日本語を考えるに当たって、逆説的にきこえるかも知れないが″美しくない日本語″について書くことにした。と言うのもいま国民の言語生活に強い影響力を持つ、ラジオやテレビには、それこそ美しくない、汚いことば、ぞっとする言葉遣い、いやな感じを与える偽善的で妙に優しい表現などが溢(あふ)れているからである。
 言うまでもなく、美しい日本語とはこれだぞと具体例を示すことは大切だが、同時に日本語を本当に美しくするためには、こんな言葉や表現は汚らしいから使うな、使う人の低劣な品性、いやらしい性格がまるだしですよと、遠慮せずに指摘し非難することを、ためらってはならないと私はかんがえているからである。


 そして、テレビで年配の女性に「お嬢さん」と呼びかけるような司会者の言葉遣いと、それに対して侮辱されたと怒るどころか面白がっている聴衆、というような例があげられている。
 ここでは、「美しい」の逆を一語で示すために一旦「美しくない」という言葉が使われ、「美しくない」ことの考察に「汚い」「ぞっとする」「いやな」「低劣な」「いやらしい」などが使われている。そのことで「美しい」という言葉がいくつもの面をもっていることがわかり、あらためて「美しい」ってなんだろうな、と考えさせてくれるのだ。

 私たちは「美しい」をどういうふうに使っているだろう。また「美しい」は現在「きれい」にとって変られつつあるといわれるが、どう使い分けられているのだろう。

 私は最近、宮本輝の『草原の椅子』(2)を読み直した。新聞に連載されていたときとても印象深かったのが、文庫本になっているのを見つけたので。この小説の主人公は遠間憲太郎、50代の男性である。離婚して目下独身であり、篠原貴志子という、これも離婚してひとりで女の子を育てている39歳の女性に一目惚れする。一目惚れするのだから、喜志子は憲太郎にとってもうこの上なく美しいのである。だが、初めて出会うシーンは、

 ガラスに、本を読んでいる女が鮮明に映っていた。憲太郎は、いつしか陶器ではなく、女を見つめていた。暖簾の右側の壁に窓があり、そこから秋の午後の光が差し込んで、女の顔を照らしていた。
 光が当たっていない顔の左側は柔和で、輝いている右側の目は、おそらく光線の具合なのであろうが、濃い青色の、意思的な深さを感じさせた。


 こんなふうに私の中に美しい女性を立ち上げるけれども、どこにも美しいともきれいとも書かれていない。
 憲太郎にとっては遠くから見ているだけでいい、という存在のままながら、ある日喜志子は風疹で寝込んだ憲太郎のために見舞いがてら夕食を作りにくる。夕食ができ上がるまでの間に、近所の医院に血液検査の結果を聞きに行った憲太郎は、自分が糖尿病にかかっていることを知らされ、がっくり落ち込んで帰ってくる。聞いた喜志子はあわててエプロンを外し、駅前へ糖尿病食のことがわかる本を買いに走るのである。その後ろ姿を眺めて、憲太郎は、

 夙川沿いの松林や桜の木のあいだから夕日が差し、それが貴志子のうしろ姿を染めるのを見つめ、憲太郎は、ああ、きれいだなァと、また思った。

 また、と言っているのは、その前に台所で糖尿病だと告げたときも、貴志子をみつめてきれいだなァと思ったからである。著者は、私に貴志子の美しさを想像させてくれたいときは「美しい」という言葉を使わないで美しさを伝え、憲太郎に美しさを味わわせてやりたいときは「きれいだなァ」と心の中で言わせる。そして私の中にも憲太郎の感動が立ち上がる。ただ、不思議なことに私は「きれいな貴志子」ではなく「美しい貴志子」を立ち上げている気がするのだが。

 『草原の椅子』にはまた、「美しい」が連発されるシーンがある。憲太郎は友人の富樫と、訳あって面倒をみている圭輔という5歳の子とともに丹後半島の海を見にきたところである。

 曲がりくねった道を曲がり、ひとところだけまっすぐな道に出た途端、つらなる断崖が見渡せて、そのうえ、ひときわ海が美しく見えて、車が二、三台停められる場所があった。
 そこに車を停めると富樫はトランクから弁当を出した。
「こんなに
きれいなところだとはおもわなかったなァ」
 車から降りて煙草を吸いながら、憲太郎は言った。
 仕事柄、海外出張が多くて、ヨーロッパにも、南米にも、東南アジアにも行った。アフリカ大陸も、エジプトだけだが足を踏み入れたことがある。
 それらは観光旅行ではなく、仕事に追われての忙しい旅だったが、合間に、その風土ならではの
美しい風景に触れた。だが、日本の都会以外の、汚れていない山や川や海の周辺の美しさは格別だ。
 この
美しさは、やはり日本だけのものだ。日本の独自な美しさを、どう表現したらいいのだろう。
 イギリスのいなかでもない。ドイツの農村でもない。中国の山紫水明でもない。東南アジアの朴訥(ぼくとつ)さでもない。南米のおおらかさでもない。
 色濃くて、しかもどことなく淡くて、山と川と海が絶妙に合体していて、なんといっても清潔なのだ。
 穏やかで清冽(せいれつ)で、つつしみ深くて、烈(はげ)しさを奥深くに隠している・・・。そしてそれらはすべて、我々日本人の心身と融合している。
 風土と人間・・・。風土が人間を作ったのか、あるいは人間が風土をもたらしたのか・・・。どちらが凸と凹なのかわからないが、その凸と凹が合わなければ、歪んだ四角形ができあがる・・・。
「日本は
きれいだなァ」
 憲太郎は、あらためて、自分に言い聞かせるかのように言った。


 美しい、美しいと連発して、どう美しいのだろう、と、疑問を募るだけ募らせておいて、それからどう美しいかを書く。そうすれば読者に浮かび上がる風景はより美しい。どうも「美しい」というのはそういうふうな形容詞らしい。そういうふうな、ってどういうふうなの、と聞かれると私には説明できないのですが。ただ、これらの美しいきれいとを互いにきれい美しいに入れ替えてみれば、美しいときれいの関係がぼうっと浮き上がってくるように思う。

 ここで、ふと思ったことがあります。
 日本人にとって、外国の風景よりも日本の風景の方が身にしみて美しい、ということには、私たちが日本人であり、日本語で生きている、ということが大きく関わっているのではなかろうか。美しい風景を見たとき、私たちは体内にそれにまつわる多くの言葉を立ち上げているのであろう。そしてそれらの言葉の出会いによって発生することばの響き合いがあるから、心のより深いところで感動がおこる、ということではないだろうか。

 冒頭で紹介した鈴木孝夫氏は終わりに「美しい日本語は、話をする人、文章を書く人の心が美しくなければ生まれてこない」と書いているが、聞いたり読んだりする側の受け入れ体勢もまた美しい言葉が存在するための必須条件であると思われる。

(中原幸子)


参考文献
(1)「美しい日本語・言葉の力を身につける」(「文藝春秋」2002年9月臨時増刊号(特別版)2002年)
(2)宮本輝「草原の椅子」(幻冬舎文庫、2001年)


戻る