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月刊「e船団」 言葉を探る 2003年1月号

ことばの美(4)
『星の王子さま』の「美しい」

 新年おめでとうございます。ことしもどうぞよろしくお願い申し上げます。

未年。ヒツジと言えば、忘れられないヒツジがありますね。サン=テグジュペリの『星の王子さま』のあのヒツジ。きっと、みなさんにとってもそうだと思うのですが。
昨年末のことです。俳画教室でならったヒツジの絵がちっともうまく描けなくて、年賀状はやっぱりパソコンに書いてもらうことにし、私は『星の王子さま』(1)を読んでいました。そうすると、「美しい」がいくつも目に入ってくるのです。数えてみると全部で18ありました。で、お正月は『星の王子さま』の「美しい」を。

どうせなら、英語の『星の王子さま』とくらべてみたいな、と思ったのは、少し前に、江戸時代の「beautiful」は今の「beautiful」とはちょっとニュアンスが違っていたらしい、と知ったからだった。

『江戸時代・翻訳日本語辞典』(2)というのがあって、そこには文久2年(1862)に江戸で開板されたという『英和対訳袖珍辞書』初版本の影印が載っている。それによると、下記のように、「beau」系はおしゃれに飾り立てる意に集中しているのだ。

 Beau, s.:伊達者
 Beauish, adj.:伊達好きの
 Beauteous, beautiful, adj.:修飾シタル、美シキ
 Beauteously, Beautifully, adv. :飾リテ、綺麗ニ
 Beautifulness, s. :綺麗修飾
 Beautify, -ied, -ying, r. a. :飾ル
 Beauty, s. :光沢綺麗
 Beauty-spot, s. :伊達ニ付ル黒膏薬


 サン=テグジュペリ(Antoine de Saint・Exupery)は1900年6月29日リヨン市ペラ通り八番地で出生。年譜(5)によれば、1944年7月31日月曜日8時45分、南仏グルノーブル・アヌシー方面の偵察飛行のためボルゴ基地からロッキードP38ライトニング機で出撃したまま、消息を絶つ。
 フルネームはアントワーヌ・ジャン=バティスト・マリー・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ。フランス人だから、『星の王子さま』も当然ながらフランス語で書かれた。英語版は翻訳で、だから、こういう目的で使うのに最適の資料とは言えないかも知れない。しかし同じ原著から英語と日本語に翻訳されて、「美しい」と「beautiful」がどうなっているかをみてみるのもまた面白い気がする。それに、もうひとつ面白い比較モできることがわかったし。

 『星の王子さま』の初版は、1943年4月にニューヨークのレイナル & ヒッチコック社から英語とフランス語でほとんど同時に出版された。それは、サン=テグジュペリが1941年から1943年までアメリカに亡命しており、パリの版元との関係が維持できていなかったためで、フランスで出版されたのは1945年、サン=テグジュペリが戦死した後だったという。そのためフランス版はニューヨークで出版された初版とは(おもに挿絵だが)あちこち違っていた上に、1950年代の再版では更に新たな違いまで生じてしまっていた。

 と、いうようなことが、日本語の『オリジナル版・星の王子さま』(1)の前書きに書かれている。それで手許の英語版をみてみると、1965年にPenguin Booksからでたもの(Puffin Book)だった(3)。裏表紙に「NOT FOR SALE IN THE U.S.A」と刷られている。あわてて本屋に行き、アメリカで出たのも買って来た。こちらは2000年にHarcourtからでたもの(Harvest Book)(4)。フランス語版から新たに翻訳され、挿絵も初版時のものであると記されている。訳者はPuffinがKatherine Woods、HarvestはRichard Howardである。つごう3冊の『星の王子さま』の「美しい」くらべになった。

 最初に述べたように、日本語版は「美しい」が18個、「きれい」が6個である。それに対応する言葉を拾ってみる。

 まず「美しい」から。
 Puffin版:「beautiful」8、「beauty」1、「handsome」1、「pretty」0、「lovely」1。
 Harvest版:「beautiful」5、「beauty」1、「handsome」1、「pretty」1、「lovely」3。

 「きれい」はというと、
 Puffin版:「beautiful」5、「pretty」1、「lovely」0。
 Harvest版:「beautiful」1、「pretty」2、「lovely」1、「fine」1。

 勘定がきちんと合わないのは日本語で「美しい」とか「きれい」とか書かれていても英語の方にはそれに類する言葉が使われていないケースがあるためである。その逆もある。

 それにしても、Harvest版では「beautiful」が少ない。とくに日本語で「きれい」が使われているケースでは「beautiful」は1度しか使われていない。これはどういうことだろうか。日本語で「美しい」よりも「きれい」が多く使われるようになってきたのと同じように、英語でも「beautiful」より「pretty」や「lovely」が多用されるようになっているのだろうか。それとも英語と米語の違いなのだろうか。

 具体的にみてみよう。「きれい」に対してHarvest版が「beautiful」を使っている唯一のケースは

 日本語版:「あなたの星、とてもきれいですね。海がありますか、ここには?」
 Puffin版:'Your planet is very beautiful,'he said. 'Has it any oceans?'
 Harvest版:"Your planet is very beautiful,"he said."Does it have any oceans?"

 「美しい」は、Harvest版でもかなり「beautiful」が使われている。ここでは、Puffin版が「beautiful」なのにHarvest版は違う、というケースを見よう。

 日本語版:「なぜ?(花は)とっても美しいんですよ。」
 Puffin版:'Why is that? The flower is the most beautiful thing on my planet!'
 Harvest版:"Why not? It's the prettiest thing!"

 日本語版:「美しい星だなあ。なにしにここへきたの?」
 Puffin版:'It is beautiful,'the snake said. 'What has brought you here?'
 Harvest版:"It's lovely,"the snake said. "What have you come to Earth for?"

 改めて思ったこと。これらの例で、日本語ならここは「きれい」より「美しい」だ、とよくわかるのだが、「beautiful」と「pretty」や「lovely」では実感が湧かないのである。とくに星が「lovely」だというのがわからない。つまり「lovely」では私の心に星が「美しく」またたかず、小さくかわいくまたたいてしまう、ということ。あたり前、と言われればもちろんあたり前だろう。私は英語を母語としてもいないし、英語の習得も中途半端だ。「beautiful」と読んだり聞いたりしても「美しい」の何分の1のイメージも浮かんでこない。「pretty」でも「lovely」でもそれは同じだ。

 日本語が「美しい」の1語で対応しているところを、英語がこういろいろに言われているのをみると、なんだか日本語が語彙に乏しいように見えるが、「美しい」の守備範囲は広いなあ、とも思えて来る。多分「beautiful」も「beautiful」の側から見れば同じだろう。

 例えば、下記の部分は、王子さまがある星で1日に1,440回も街灯をつけたり消したりする点燈夫と出合ったときのこと。

 日本語版:「・・・。とてもきれいな仕事だ。きれいだから、ほんとうに役にたつ仕事だ。」
 Puffin版:'…. That is a beautiful occupation. And since it is beautiful, it is truly useful.」
 Harvest版:…. Which is a fine occupation. And therefore truly useful.

 この「beautiful」などは「きれい」だけではちょっとカバーしきれていない内容を伝えているように思う。できればフランス語版を参照するのが一番いいのでしょうが、まあ、来月はもう少し勉強してみましょう。

 ことしもときどき「ことばを探る」にお立ちよりくださいますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。

(中原幸子)


参考文献
(1)サン=テグジュペリ作、内藤濯訳「星の王子さま」(岩波書店、2000)
(2)杉本つとむ編「江戸時代・翻訳日本語辞典」(早稲田大学出版部)
(3)Antoine de Saint・Exupery「THE LITTLE PRINCE」(Translated by Katherine Woods、Penguin Books、1965)
(4)Antoine de Saint・Exupery「The little prince」(Translated by Richard Howard、Harcourt、2000)

主な参照ホームページ
(5)「アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ」:
http://homepage1.nifty.com/~midori-room/saintex.html
(6)「The Little Prince」:
(http://www.angelfire.com/hi/littleprince/introduction.html)


月刊「e船団」 言葉を探る 2003年2月号

ことばの美(5)
「美しい」って結局・・・?

 前号の終わりに「・・・『星の王子さま』の「美しい」について、もう少し勉強してみましょう」と書きました。勉強はしたのですけれども、「美しい」って結局、その後につける言葉の数と、それを読んだり聞いたりする人の数を掛けあわせた数の「美しい」を生んでしまうのですね。星の王子さまがいったい何人の人に読まれたかは勘定のしようもないでしょうが、例えば星の王子さまが、
 「あなたの星、とてもきれいですね。海がありますか、ここには?」
と訊ねる場面を読むとき、読者一人一人のなかに、大きさも色も光り方も異なる星と海とが生まれるのですから。

 私の父は日曜画家だった。あるとき私が父のパレットの絵の具を、「これはええ色」、「これはいやな色」などと言って品定めしているのを聞いて、言った。
 「色にええ色とか悪い色とかいうのはないんやで。色が美しいか美しくないかは、みな配色によって決まるんや」と。これには、我が親ながらいいことを教えてくれたものだと今でも感謝している。そして「美しい言葉」を考えていて、ふとそのことを思い出した。どうも、言葉も色と同じらしいな、と。「美しい」と言っていても人の心に美しいものを立ち上げない場合もあるし、「美しい」と言わなくても美しいものが身内に溢れてくる場合もある。「美しい」という言葉でおぞましいものが浮かんでくることもある。そういえば、「きれいごとをいうな」とか「きれいにしなさい」というのはどうだろう。口先き人間の顔やぐっちゃぐっちゃになった机の上なんかが目に浮かぶ。きれいにする工程のしんどさなども。

 そうか、なにもかも相手次第、使い方次第、ということか。このことが、取り合わせの俳句を成り立たせているのかも。なにもかも相手次第だ、ということを裏返せば、どんな相手と組み合わされていても、私たちはそこから何かを感じ取ることができる、ということだから。ちょっと強引かなあ。

 多分、ヒトは初めてその言葉に出合ったとき、その意味もろともしっかりと体内に仕舞いこむのだ。そして次に出合ったときは、前のを取り出して照合し、しっくり来ないと「ん?」となるのだ。そして自分なりに折り合いをつけて、前のに何か角(つの)のようなものを付け足した形にして仕舞いこむ。長い間に私たちの体内の言葉はコンペイトウのように角をいっぱいくっつけてしまうのだろう。多分この角が触角になっていて、既に知っているのと違う組み合わせ方をされると、ぴくッと反応して感情を動かすことができるのだ、きっと。(もう、まったくの私のひとり言です。念のため)。

 で、たとえば、「真っ青な太陽」というような、見た筈のないモノを言葉として目の前に置かれても、一瞬「?」となるものの、そのあと「うん、きれいやな」と思ったりする。それは感情を揺さぶられることであり、つまり感動するということではないか。それって、もしかしたら詩を感じるってことかな。そう言えば詩って何だろう、という疑問も放り出したままだった。
 「ネットで百科」(3)を見てみると、「詩」の解説は大岡信が担当している。長い長い解説だが、私がここかな、と思ったのは下記の部分だった。

 西欧の文芸思潮の中で現代の詩の理念に大きな影響を及ぼした象徴主義の言語観によれば,日常の言葉はつねに伝達という目的に添って用いられる道具であり,いわば貨幣のように流通するものだが,詩における言葉はより本質的な何かを創造的に喚起するためにそこに置かれる。つまり詩は,この喚起という機能を言葉に最大限に発揮させるために,韻律ばかりでなく,音韻や意味における言葉の響き合いや,さまざまな修辞を駆使することになる。言葉はその直接指示する意味においてだけでなく,あらゆる含意において用いられ,作品それ自体が一つの隠喩=メタファー として成立する。この考え方は,単に詩を散文から区別するという小さな射程しか持たないものではなく,表象体系としての言語の根本にかかわるものでもあった。

 「詩における言葉はより本質的な何かを創造的に喚起するためにそこに置かれる」か。それは当然、「・・・そこに何かとともに置かれる」ということ。何とともにそこに置かれるか、つまり「何と取り合わされるか」こそがその言葉が詩を生むかどうかの瀬戸際だろうから。なんだか分かりきったことをいまごろ分かった気になっているようですが、でも、私は今やっと気がついたのだから仕方がないですね。

 そういえば、芝不器男の、たとえば、

 朧月明きたる障子しまりけり

というような取り合わせは、実にうまく言葉が置かれているな、と思う。読むとなんだか胸がきゅんとなるから。春の夜。空にお月さんが出ている。障子が開いたな、と思ったら閉まった。事実としてはなんてことはない。晴れてさえいればお月さんは昇るし、障子なんか開いたり閉まったりするのが仕事だ。それがどうした、というようなものだ。だが、こう並べられると、読者の胸はときめいてしまう。目の前にありありと、真っ白な障子の向こうの美人ときれいな朧月が浮かぶ。作者のこころの揺れも自分のもののように感じられる。作者と障子のうちの人とはどんなかんけいだろう? 片思いか? 一緒に見たいんだろうな、いや、いっしょに見ている気持なんだろうな・・・。などと考えているうちに、作者なんかどこかへ行ってしまって、読者は自分好みの美人と美しい朧月を自分のものにしてしまう。こうしてくだくだと書けば、読者のみなさんは、「もうええよ、わかった、わかった、黙ってくれ。折角の朧月が台無しだよ」と、思うでしょう? 「美しい」を伝えるのに「美しい」を連呼するのは極めて効率が悪いのですね。

 それで、ふと俳句に「美しい」はどう使われているかな、と思った。出たばかりの2003年版『俳句研究年鑑』をめくってみると、いくつか出ている。

まず、2002年の「俳句展望」欄に引用されている句。
・一寸は美しき丈白魚寿司      伊藤敬子
・うつくしき焔近づく毛虫かな    遠藤若狭男
・日に浮かぶ塵美しき寒の入り    西宮 舞

 次に「諸家自選」欄の句から。
・一寸は美しき丈白魚寿司      伊藤敬子
・白鳥は真っ白と嘘うつくしき    宇多喜代子
・亡き妻のうつくしかりし若葉旅   尾村馬人
・美しう所たづねる青すだれ     加藤郁乎
・花藤や生きる限りは美しく     柴田白陽
・日に浮かぶ塵美しき寒の入り    西宮 舞
・花うぐい美しき斑焼けば消ゆ    福永鳴風
・花種子播きこぼるゝときの美しく  丸山しげる
・新米を食しぬうつくしきこと言はん 矢野景一
・美しき鳥の名覚ゆ春立つ日     和田順子
・みちのくの皺美しき氷柱かな    渡辺誠一郎

 うーん、これをどう思えばいいのでしょうか。
 思いがけず星の王子さまを詠んだ俳句もみつけました。

 六道の辻見て星の王子さま     秦 夕美

 なんだか悲しいような。では、また来月・・・。

(中原幸子)


参考文献
(1)サン=テグジュペリ作、内藤濯訳「星の王子さま」(岩波書店、2000)
(2)2003年版「俳句研究年鑑」(富士見書房、2003)

主な参照ホームページ
(3)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)


月刊「e船団」 言葉を探る 2003年3月号

ことばの美(6)
「わたし」があるから「うつくしい」

 「美しい」は一旦休憩にしようと思っていました。でも、ここで休めない本に出会ってしまったのです。
 『桃尻語訳枕草子』や『窯変源氏物語』などで知られる橋本治の『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(1)です。
 帯には、
 最もシンプルな哲学書! 「美しい」は「合理的」や「カッコいい」とはどう違うのか? 日本人の真・善・美を包括的に問いなおす!
とあります。
 また、カバーには小さな文字で、
 ・・・自分にとって意味のあるものを見つけ出した時、「ある」と思う感情は「美しい」と一つになります。「ある」ということに意味があるのは、すなわち「人間関係の芽」です。「美しい」は、「人間関係に由来する感情」で、「人間関係の必要」を感じない人にとっては、「美しい」もまた不要になるのです。
と印刷されている。

 「ふーん、なぜ『美しい』がわかるのか、が分かったの?」というのが、店先でこの本を見たときの私の反応だった。そして、(精読したとはとても言えないが)なんとか読み終えたけれど、私には「人はなぜ『美しい』がわかるのか」がほとんどわからない。もっと言えば、私にはまだここの「なぜ」の意味が理解できていない、といった方がいいかもしれない。しかしそれはこの本のせいではなく、私のせい。なぜかといえばこの本の最初にこういうくだりがある。

 『人はなぜ「美しい」がわかるのか』を考えるためのまえがき」という前書きがあって、

 この本のタイトルは『人はなぜ「美しい」がわかるのか』です。なぜ分かるのでしょう?
 知りません。人が美を理解するのは、きっと「脳の働きがどうとかなっているから」でしょう。「人はなぜ"美しい"が分かるのか?」は「人はなぜ"きれい"と感じるのか?」でもあって、こちらをタイトルに採用すれば、この本は「理科系の知性による脳の本」にも見えるかもしれません。しかし私は文科系の人間で、脳のことなんかよく分かりません。しかも「"美しい"と感じる構造があるから"美しい"が分かる」という考え方には、関心がありません。考えるのなら私は、「どうして人には"分かる"という、主体的でそれゆえに個別的なことが起こるのか?」と考えてしまいます。
 ある人には「美しい」が分かり、別のある人には「美しい」が分からない――現実にはそういうことがあります。それを「なぜなのか?」と考えて、『人はなぜ「美しい」がわかるのか』とタイトルをつけます。
 そして更に、「人はなぜ"美しい"が分かるのか?」と考える私は、「人はなぜ"美しさ"が分かるのか?」とは考えません。だから『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という、いささかややこしいタイトルになります。
なぜそんなことをするのか?それは私が、「人は個別に"美しい"と思われるものを発見する」と思っているからです(後略)。


 ところが、私は、本のタイトルが『人はなぜ「美しい」がわかるのか』であってもやっぱり、「それは脳がどうとかなってるからやろ。いったい脳はどうなってるんやろ」と考えてしまう理屈っぽいヒト。そして、この本は、前書きにあるように、そういう反応をするヒトに回答をくれるための本ではないから。さいわい私も、美しい夕焼けを見たときは「あの赤の波長は××ナノメートルで・・・」と考えるよりも先に「わあ、きれい!」と思えるので、それが救いだが。
結局よく分からなかったのに、なぜこの本のことをご紹介したくなったかと言えば、上に引用した、「それは私(橋本治)が『人は個別に"美しい"と思われるものを発見する』と思っているからです」という箇所に強く共感し、「そうだ、やっぱり『わたし』があるから『うつくしい』のだ」と思ったのと、本文中に出てくる「美しさのガイドライン」という言葉にハッとしたからである。

 橋本治はこう言っている。
 男の思う「いい女」は、普通「美しい女」です。しかし女の思う「いい男」は、あまりストレートに「美しい男」とはイコールになりません。なんでそうなるのかと言うと、男の社会が「女の美しさ」に対してある一定のガイドラインを設定しているのに反して、「男の美しさ」に対するガイドラインがない――あるいは曖昧なままだからです。

 そうか、そのモノやコトにどんな「美しさのガイドライン」が設定されているかは、男と女に限らず、「美しい」と表現されるあらゆるケースにおいて重要なことだ、と思ったのである。
 ハッとしてから思えば、それはごく当たり前なことだが、私はこれまでそこをはっきり意識していなかったと思う。すべてのコトバには、それを知るすべての人が独自のガイドラインが設定していて、そのガイドラインの重なりとズレとがさまざまのコトバ模様を織り出すのだ。コトバに設定されるガイドラインは相対的なものでしかあり得ないから、それを伝えるべき相手によってさまざまに受け取られてしまう。あるいは受け取ってもらえる、と言ってもいい。ウツクシイ、キタナイにしても、オモイ、カルイにしても、読んだり聞いたりしたときに自分のガイドラインと違うふうに使われていて、しかもそのズレが納得のゆくものである時に「あ、新鮮!」となるのではないだろうか。

 前号でも書いたことだが「美しい」という語をそのまま俳句の中に使って感動的な俳句を作るのは難しい。私などが「これを美しいと見たのは私だけだろう」などと思っても、読者の反応は「そんなの当たり前でしょう」だったり、「そんなのどこが美しいのよ」だったりする。
 しかしその難しさを乗り越えて読者に感動を与えることのできる句もたくさんある。例えば、次の句は私の大好きな句である。

 うつくしきあぎととあへり能登時雨 飴山實

 あぎとは顎のことだから、美しい顎に出合った。能登半島の時雨の中で、という俳句、ですよね。
 男か女かは書かれていないけれど、これは男の顎じゃないでしょう。仮に作者が男だと分かっていなくても、ここで剃り跡の青々とした男の顎を思い浮かべる人はいないと思う。時雨れてきて、傘を少し前に傾けて歩いてくる女性(できれば対の紬に臙脂の羽織の紐などで・・・)の、下半分だけ見えている顔。すれ違いざまにその顎の美しさにハッとしたのだ。「うつくしき」と仮名で書かれているのも、この女性をいやがうえにもたおやかにしているし。それにしても、私は美人じゃないのでよくわからないが、女性が「美しい顎ですねえ」とほめられるということはあまりないのではないか。面と向かってそう言われると「他にいいとこないの?」とむくれそうな気がする。「美しい」と「あご」とはお互いのガイドラインの中に入っていない言葉同士なのだ。でもこうして出会わされるといかにもぴったりくる。それが能登半島という舞台のよさと相まって、いちど読むと忘れられない句になった。ところでこの句の女性、「美しい女」、「きれいな女」、「いい女」のどれでしょうね。

 こうして私は『人はなぜ「美しい」がわかるのか』に遊んでもらっています。 大庭健著『私はどうして私なのか』(2)や前にもご紹介した、浜田寿美男著『「私」とは何か』(3)と並べて読んでいると、「わからない」が湧いてくるのです。その上、上田閑照著『私とは何か』(4)という手におえない本もあるし。そうそう、長尾真著『「わかる」とは何か』(5)もありました。

 ではまた来月。

参考文献
(1)橋本治著『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書、2002)
(2)大庭健著『私はどうして私なのか』(講談社現代新書、2003)
(3)浜田寿美男著『「私」とは何か』(講談社新書メチエ、1999)
(4)上田閑照著『私とは何か』(岩波新書、2000)
(5)長尾真著『「わかる」とは何か』(岩波新書、2001)

主な参照ホームページ
(3)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/


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