月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー

月刊「e船団」 言葉を探る 2003年4月号

ことばの美(7)
「はてな」と「こまる」

   しづかさや湖水の底の雲のみね一茶
   鶏頭の十四五本もありぬべし正岡子規
   朝露によごれて涼し瓜の泥(土)芭蕉
   万緑の中や吾子の歯生えそむる中村草田男
   一月の山一月の谷の中飯田龍太

 これらの句は西郷竹彦著『名句の美学』(1)で論じられている名句のほんの一部である。
 著者の西郷竹彦は1920年、鹿児島県の生まれ。『名句の美学』に記された略歴によれば東京大学応用物理学科卒で、文芸学・文芸教育専攻、膨大な著書。

 本との出会いというのは不思議ですね。先日、自分の本棚でひょっこり坪内稔典著『子規随考』(2)の、とあるページに出会ったのです。購入日を見れば10年以上も前なのに、これまで「出会って」はいなかったのです。ぱらっとめくったところにこんなことが書かれていました。

 詩が言葉の芸術であり、言葉の選択と組織化によって、そこに言葉の美を創り出すものであることは言うまでもない。俳句もまたその例外ではない。初期俳諧において、連歌との違いを強調し、俳諧の独自性の指標となった「俳言」は、それの積極的な選択と組織化によって、五、七、五音の組み合わせである発句形式に、新しい言葉の美を齎すものであった。謡曲や漢詩の詞章の取り入れ、あるいはまた、付け合いにおける物付け、心付け、匂い付けと言われるものなど、これらはみな、言葉の美を獲得する為の言葉の選択とその組織化が要求する努力であり方法であった。

 わかったような気になっては、また一層わからなくなる「ことばの美」。そのことばの美を獲得する為の言葉の選択と組織化。いったい何をどうすればいいの、ともがいていてインターネットで出会ったのが『名句の美学』だった。

 この本、『子規随考』の4年後の出版で、下巻の最後に著者と坪内稔典の対談「俳句の美をめぐって」もついている。
 それはともかく、著者・西郷竹彦はこの本をまとめるに当たって、500冊を越える俳句関係の文献を参照したという。そしてそれらの文献に感銘を覚え、さすが、と思いつつも、次のように述べるのである。
 ・・・、諸家の解釈、批評、鑑賞のほとんどが、極言すれば、一句成立の事情をつまびらかにし、また、その背景ともいうべき実景の絵解きに類するものに終始していて、その句の美の本質、美の構造について理論的、具体的な究明がなされていないことに、失望させられた。
 そして、『西郷竹彦文芸教育著作集・全23巻』を持つこの著者が、「(俳句の)一語一句にかかわる問題に、文芸学の立場からの照射を試みた」のである。冒頭の俳句ほか多くの名句について、文献に出ている豊富な解釈、評、鑑賞を引きつつ著者のユニークな視点であらたな美を発見している。たとえば、

 しづかさや湖水の底の雲のみね 一茶

 この句、一茶より前に<しづかさや湖水にうつる雲の峰(霞東)>(『続明烏』)があり、丸山一彦や栗山理一らによって一茶の句は「僅か一語の言い換えに過ぎず」、いわゆる類句、類想もしくは模倣であると指摘されているという。

 しかし、西郷はいう。
 <僅か一語の言い換えに過ぎず>というが、<湖水にうつる雲の峰>と<湖水の底の雲のみね>のちがいは、まさに天地、雲泥の差である。これを<模倣>というか否かは評者の芸術観にもよるが、私としては、これは、霞東の句をモチーフとしての一茶による芸術創造であると評価したい。
 (中略)
 <しづか>な湖水の水面は、いわば鏡のように、そして水底まで透きとおって見えるほどに清澄なのであろう。だからこそ、水面に映る<雲のみね>を見て、それがあたかも深い水底に聳えたっているかのように錯覚させられるにちがいない。なるほど、そうかと思う。
 しかし現実に水底に雲の峰があるわけではない。つまりは非現実である。にもかかわらず、現に水底にわれわれは雲のみねの聳えるのを見ているのだ。
 この句がなるほどとうなずけるのは、このような<真>をこの句が表現しているからである。しかも、水底に雲の峰があるはずもないからこそ、この句はおもしろいのである。
 図式化すると、
     なるほど――――真
     おもしろい―――美
 名句といわれるものは、<なるほど>(真)、<おもしろい>(美)ものとしてある。いずれが欠けても、名句たりえない。
 真をいいとめていても、美のない句はいくらでもある。霞東の<しづかさや湖水にうつる雲の峰>は、たしかに、<真>を表現しているといえよう。また、真夏の大空に湧きあがる姿を詠んできたこれまでの俳句の伝統にあって、<湖水にうつる雲の峰>は、一つの発見であり、おもしろい趣向である。しかし、やがり<あるがままを、あるがままに>という次元にとどまるものであり、意地悪くいえば「それがどうした」と反問したくなる。
 <あるがままを、あるがままに>というだけの句なら掃いて捨てるほどある。他方、<美>らしきものを感じさせても、<真>に迫るもののない、いたずらに奇をてらっただけの句もすくなくない。一応、おもしろいとは思いつつも、心の琴線にふれるものがない。 <真>が同時に<美>であるところの、つまりは<花>も<実>もある句こそが名句といわれるものである。

 そして西郷は、「わたしは主張する。<名句を名句たらしめているのは読者である。>」と書く。

 わたしはふと、最近アカデミー賞を受賞して改めて脚光を浴びている「千と千尋の神隠し」を思い出した。このアニメでは「名前」が重要なキーになっている。宮崎駿がアーシュラ・ル・グウィンの『ゲド戦記』にほとんど心酔といえる思いをもっている人であるのを知っていれば、「名前」が『ゲド戦記』において最重要なキーであることをすぐに思いうかべるであろう。そして、この場合がちょうど、西郷のいう他の人(あるいは時代)のモチーフからの芸術創造と言えるのではなかろうか。もちろん「千と千尋・・・」ができたからと言って『ゲド戦記』のもつオリジナリティはびくともしないし。あ、そうか、真のオリジナリティというのは、他の人の芸術創造に何度そのモチーフを提供しても、光を増すことはあっても磨り減ったりはしないのかも。

 『名句の美学』では、どの句も著者の読みによってより一層の<名句たらしめられて>いる。

 ここで、著者自らが「大方の読者にはちんぷんかんぷんであろう」、と太鼓判を押している著者の<文芸の美>の定義(仮説)をご紹介しましょう。
 文芸(俳句)における美とは、異質な(あるいは異次元の)拮抗し矛盾するものを概念・形象において止揚・統合する弁証法的構造を認識(表現)、体験することである。

 これを私にも分かるようにやさしく言うと、文芸における美は、たとえばぜんざいを作るとき、砂糖のほかに塩も入れること、砂糖に塩という異質なものを合わせることで生じる、その風味のようなものだ、というふうになるそうだ。

 ところで、今月のタイトルはヘンじゃないか、と思っておられるでしょうね。実は『名句の美学』を読んでいて、こんなに説得力のある本ってどうすればできるんだろう、と考えたのです。そうすると「西郷竹彦と500冊の文献」が「困」という漢字に見えてきたのです。ね、そっくりでしょう? ものすごい文献に囲まれた大木。西郷竹彦の抱いた「はてな」と「こまる」(西郷先生は「困ってなんぞいないよ」と憤慨なさるかも。ごめんなさい)こそこの本を生んだエネルギー。

 私はいま、<柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 (子規)>はどうして「柿」と「鐘」と「法隆寺」なのか、という宿題を抱えているのですが、ほんのちょっとでいいから西郷先生の真似をしてみたいな、と思ったのが今月のタイトルです。いつかご報告できる日がきますように。

 ではまた来月。
                           中原幸子

参考文献
(1)西郷竹彦著『名句の美学』(上、下)(黎明書房、1991)
(2)坪内稔典著『子規随考』(沖積舎、1991)
(3)アーシュラ・K・ル・グウィン作、清水真砂子訳『ゲド戦記』(1〜5)(岩波書店1976〜2003)

主な参照ホームページ
(3)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)


月刊「e船団」 言葉を探る 2003年5月号

イメージ(1)
イメージとは?

 先月は『名句の美学』(1)において下記の2句がどのように論じられているかをお伝えしました。

  しづかさや湖水の底の雲のみね     一茶
  しづかさや湖水にうつる雲の峰     霞東

 もう一度引用すれば、著者は「しづかさや湖水の底の雲のみね」が「しづかさや湖水にうつる雲の峰」よりも格段によい、と次のように述べている。

 <しづか>な湖水の水面は、いわば鏡のように、そして水底まで透きとおって見えるほどに清澄なのであろう。だからこそ、水面に映る<雲のみね>を見て、それがあたかも深い水底に聳えたっているかのように錯覚させられるにちがいない。なるほど、そうかと思う。
 しかし現実に水底に雲の峰があるわけではない。つまりは非現実である。にもかかわらず、現に水底にわれわれは雲のみねの聳えるのを見ているのだ。
 この句がなるほどとうなずけるのは、このような<真>をこの句が表現しているからである。しかも、水底に雲の峰があるはずもないからこそ、この句はおもしろいのである。
 図式化すると、
なるほど――――真
おもしろい―――美
 名句といわれるものは、<なるほど>(真)、<おもしろい>(美)ものとしてある。いずれが欠けても、名句たりえない。


 私たちが、ここで言われるように、実際にはないものを目の前にあるかのようにまざまざと見ることができること、つまり言葉によってイメージを描くことができることは、毎日のように経験している事実である。「お昼、お好み焼き食べに行こか?」「うん、行こ、行こ」と言うとき、すでに香ばしい焼き立てのお好み焼きが目の前に浮かぶのだから。

 そう言えば、この『ことばを探る』の2003年1月号でご紹介した「星の王子さま」のヒツジもそうだし、2002年10月号の柳田邦男による奥の細道の象潟の風景もそうだった。私たちは、非現実の、自分で作ったイメージで感動できるのだ。大好きな小説が映画やテレビドラマになったのを見ると、たいていはがっかりするが、それは逆にそれまで描いていたイメージが現実によって崩されるからではなかろうか。

 でも、ほんとうに不思議だ。目の前にないものをイメージして美醜を感じたり、感動したりできるのは。いったいどうして、私たちは言葉からイメージを描けるのだろう。それ以前にイメージとは何だろうか。これは、いつものように広辞苑やコンサイスに跳びつく前に、ちょっと自分で考えてみよう、と思ったのだが・・・。
 イメージって日本語では何というのだろう。像? 残念ながら像しか浮かばないなあ。でも像とイメージはどこか違う。それは違うんじゃないの、ともう一人の私が言っている。想像? いや、想像はもっと違う気がする。想像、というと像そのものよりも頭や心に像を思い浮かべる作業の感じが強い。やはり像の方が近いか。どうもイメージと像とは一部重なり、一部重ならない二つの円のようだ。というようなところで早々と行き詰まってしまい、私は「イメージ」について何も分かっていないことが判りました。たいへんだ。

 やはり辞書のお世話になるしかない。広辞苑は「(1)心の中に思い浮かべる像。全体的な印象。心象(しんしょう)。(2)姿。形象。映像。」とあって少々そっけない。「え? それじゃ分かりませんけど」と言いたくなった。それで、「日本国語大辞典」(2)をひくと、

 イメージ 〔名〕(英 image)(1)人が心に描き出す像や情景など。芸術、哲学、心理学の用語として、肖像、画像、映像、心象、形象などと訳される。イマージュ。(2)物事について、あることから、これこれであろうと心にいだく、全体的な感じ。心像。

 ここには、1914年の『外来語辞典』(勝屋英造)に始まる記述例がいろいろと示される。1915年には夏目漱石も『道草』で、「自分の新しく移った住居については何の影像(イメジ)も浮かべ得なかった」のように使っている、とある。しかし、これも「イメージとはこんなものだ」というイメージがいまいち固まりにくい。ずらりと並んだ「像」や「象(しょう)」がはっきりしないからかなあ。頼みの「字統」もこんどばかりは・・・。なにしろ「像」のツクリは「象」だけれど、その「象」は動物のエレファントからの象形文字で、なぜ「象徴」の意味に用いるのかははっきりしないらしいのである。でも、では「象形文字」という言葉はどうなるの? 困った。

 漢字がダメなら英語が助けてくれるだろうか。『英語の語源辞典』(3)によれば、

 image は L (to copy)(中原注:LはClassical Latin(古典ラテン語)の略。以下同じ)から派生した L が語源であり、imitate(真似る)や emulate(張り合う)と同系の言葉である。ローマ時代には L は指輪(seal-ring)に刻まれた似姿(portrait)とか、玄関の広間(atrium)に飾った先祖の肖像という意味に使われていた。emulateは L から母音交替(gradation)によって派生した L (to strive to equal)が語源である。16世紀にラテン語から直接借入された。

 ちょっと分かってきたような気がする。「image」は何かを真似ることや、真似て作ったものだということらしい。それなら、このimageという言葉は、「象形」ということそのものではないか。「象」の源はともかく、象形は「物の形をかたどること」(広辞苑)だから。

 では、百科事典の『ネットで百科』(5)ではどうか。「イメージ(image)」の語義として次のように述べられている。

 ギリシア語のエイコン やファンタスマ phantasma に対応するラテン語のイマゴ imago に由来し,もともとは視覚的にとらえられたものの〈かたち〉を意味し,転じて諸感覚によってとらえられたものの心的表象を意味するようになった。また,写真や版画のように心的表象の物質化されたもの,想像の産物,夢想,白昼夢のように新しくつくり出された心的表象をもさす。イメージは視覚イメージだけにとどまらず,聴覚イメージ,嗅覚イメージ,味覚イメージ,触覚イメージというものもあるが,中心をなすのは統合力のつよい二つの感覚に関した,視覚イメージと聴覚イメージである。こうしてイメージは次のように定義づけられる。〈イメージとは以前に知覚された,いくつかの感覚的性質を伴う対象についての心的表象である〉,と。ここで,〈いくつかの感覚的性質を伴う〉というのは,たとえば三角形の表象は感覚的性質からまったく切り離されると,もはやなんらのイメージをももちえなくなるからであり,また,もし対象の感覚的性質がすべて保たれていたら, イメージではなくて感覚印象のコピーになるからである。

 またわからなくなってしまった。そしてこのあたりで、『視覚の文法』(4)という本に出合った。この本のサブタイトルは「脳が物を見る法則」で、カバーの折り返しのところにこうある。(生意気&蛇足ですが、私は原題の『Visual Intelligence』とサブタイトル「How we create what we see」のほうがわかりやすいような気がします)。

 人はいかに物をみているのか。
 実は、物それ自体を見ているのではなく、あなたの脳が創造を働かせながら、視覚の世界を意味あるものとして構築しているのだ。
 物の形も、奥行きや動きや色彩も、あなたの脳がつくったもの――その際の法則を、最新のツールを駆使した心理実験を通して探り、豊かな視覚世界の謎に迫っていく。


 この本では、「見る」とは、目にうつるものを脳で意味あるものとして構築することだというのです。なんだか「イメージ」の定義を変えてしまいそうな本です、私見ですが。「遠近法というすごい方法の発明と、遠近法で平面上に描かれた画像を立体として感じ取れる私たちの脳とどっちがエライの?」 とか、「遠近法で描かれた『最後の晩餐』とべったり塗っただけなのに立体的な役者の顔が見える浮世絵とどっちがエライの?」とか考え込まされる本です。

 西郷竹彦がいうような「俳句の美」、非現実をあるがごとくに見て面白いと感じることができること、取り合わせの俳句で言えば、表面に出ている言葉とは別のイメージを心に構築できること・・・。いろいろなことがもやもやと私の中で渦巻いています。

 ではまた来月。
                            中原幸子

参考文献
(1)西郷竹彦著『名句の美学』(上、下)(黎明書房、1991)
(2)『日本国語大辞典』(小学館)
(3)梅田 修著『英語の語源辞典』(大修館書店、1990)
(4)ドナルド・D・ホフマン著、原淳子・望月弘子訳『視覚の文法』(紀伊国屋書店、2003)
主な参照ホームページ
(5)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)


月刊「e船団」 言葉を探る 2003年6月号

イメージ(2)
みてみる?

 先月、「見る」ってそういうことだったのか、と思ったあと、まだ、やっぱり、「どういうことなんだろう」、と思いながら広い本屋さんの狭い通路を歩いていると『私の脳科学講義』(2)という本に呼びとめられました。そして、なんと、『視覚の文法』(1)で分からなくて動けないでいるところを助けてくれたのです。著者は利根川進。ノーベル生理学医学賞を受賞されたあの利根川さんです。私たち人間の脳とコンピューターの違いなどについても書かれているのですが、「見る」については、こうあります。

「見る」ことの不思議なメカニズム
(前略)
 みなさんは「物を見る」という行為は、目を開けばできると思っているでしょう。どんな経緯を経て、わたしたちが物を見ているかということは、あまり深く考えたことはないと思います。実際には、目を開けて物を見るということは、ひじょうに複雑な脳のはたらきによるものなのです。
 ほんとだ。私も目の奥の網膜とかいうところに目の前のものの像が映る、それが「見える」ということだと思っていた。え? ちょっと待って。「見える」と「見る」はもしかしたら決定的に違うの? なんだかえらいところに踏み込んでしまったような気がするが、まああせらずに、あせらずに。

 「『見る』ことの不思議なメカニズム」はこう続く。
 まず、見る対象の物体から光が入ってきます。その光が目の底にある細胞に当たります。そこで、光のエネルギーが電気的なエネルギーに置き換わります。ある対象が見えるということは、いろいろな波長の光が、それぞれのパターンで目の底に当たることです。そうすると、それぞれの光のエネルギーが電気的な刺激に置き換えられて、脳の前方から後方へ伝達されます。そして、視覚野とよばれる脳の視覚を司っている領域(図のV1、V2など―中原注:すみません、図はここには出ません―)で、さまざまな計算や合成がおこなわれることによって、物が見えるということになるわけです。

 このあと、サルを使った実験で、外からの刺激はまったく同じでも認識するものは違う、という不思議な現象が認められたこと、その現象は、
(前略)「脳の中に外から入ってくる光のパターンにではなく、その動物(人間も含めて)が、刻々と視覚的におこなっている認識に対応して活性化する特定の細胞群が存在するということになるわけです」。
と述べられている。ああ、いよいよ「イメージ」や「意識」が科学的に、私にも分かるように説明してもらえる日が近づいているなあ、という気がする。「見える」と「見る」についても分からせてもらえるでしょう、きっと。もっとちゃんと知りたい方は是非利根川先生の本をお読みください。

 ところで、このごろ「見る」ではなく「観る」と書くのがはやっているとお感じになりませんか? 映画を観た、絵を観た・・・。私の家は真言宗なので、「観る」という字を見ると「般若心経」を思い出し、自分で「観る」というのはちょっと恥ずかしいのではないか、という気になるのですけど、どうでしょうか。
 ご存知のように、「般若心経」は「観自在菩薩。行深般若波羅密多時。照見五薀皆空。度一切苦厄。・・・」と始まります。手もとの『般若心経講義』(3)によれば、

 さてまず、「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)」と申しますのは、観世音(かんぜおん)即ち観音さまのことです。観音さまは、自由自在に、世音すなわち世間の声、大衆の心の叫び、人間の心持を観察せられて、我々の身の悶え、心の悩みを、救い給う仏でありますから、梵語のアバローキティシュバラという原語を訳して、玄奘三蔵は「観自在」といっているのであります。即ち梵語の「アバローキタ」という字は「観る」という意味、「イーシュバラ」は、自由または自在という意味です。いったい私どもがものをみるという場合には、「見、観、視、察」という四つの見方があるときいています。ところで、その中で見という字は、肉眼でものをみること、観という字は、観音さまの観の字で、心眼でものをみることです。従って観察するということは「心の眼」でもってものをよくみる」ということでありまして、実はこの観察ということによって、私どもはものの本当の相を、ハッキリ知ることができるのです。その昔、宮本武蔵は『五輪書(ごりんのしょ)』という本のなかで「見の眼と観の眼」といっておりますが、武蔵によれば、この観の眼によってのみ、剣道の極意(ごくい)に達することができるのでありまして、彼は剣道に於て、観の眼、即ち心の眼の修養が、一番大切だということを力説しております。然し、それは単に剣道のみではありません。どの商売でも、どんな学問でも、何につけても、一番大切なのは、この「観の目」です。心の眼です。(この本は旧かな、旧字体ですが、引用に際して新かな、新字体にさせて頂きました。)

 ところで、私がこの本を買ったのは30年近く前のこと。俳句を作る日があるなどとは夢にも思わないころで、まったく覚えていなかったが、著者・高神覚昇は俳句をたしなまれたのか、俳聖芭蕉の言として「見るところ花にあらずといふことなし、おもふところ句にあらざるなし」(吉野紀行)を引用し、これこそまさしく心の目を開いた世界、心の耳をすまして聞いた世界だと述べている。私たちがふだん何気なしに使っている「見てみる」「聞いてみる」の「みる」の部分こそは心眼のことだと述べている。

 いま、思い出した。王貞治が、たしかジャイアンツの選手だったころ、インタビューで「バッティングで一番大切なものはなんですか」と訊かれ、ちょっと考えて、「それは目ですね」と答えた、という記事を読んだことがある。うーん、なるほど。芭蕉と武蔵と王はこんなところで話の合うひとたちだったのだ。

 お気づきのように、先の引用文では「目」と「眼」の両方が使われている。目と眼はどう違うのだろうか。「目」は象形文字で目の形である。まあ、目の形といっても私などの目とはちょっと違って、「重瞳子(ちょうどうし)」つまり瞳がふたつある目(貴人の相。舜とか項羽がそうだったといわれる)だというが。「眼」は形声文字で「目」と「艮(こん)」からなる。でも、『説文解字』は「目」は「人の眼なり。象形」とし、「眼」は「目なり」としている由。紀元100年ごろに編まれた『説文解字』でも、もうどっちが先とも言えない状態だったのだろうか。『字統』(4)には「『霊枢経』(中原注: 1 世紀ころに出た《霊枢》 (《黄帝内経》) のことか。人体表面や内部の構造が解かれているという)に「精の (くわ=か)を眼となす」とあるから、眼精を主とする字であろう」と書かれているのだが。

 いま、この21世紀に、科学技術の粋を尽くして明らかにしようとしている「みる」ということの中味を、紀元前十数世紀という昔に、漢字を生んだ人たちはちゃんと漢字に込めている、ということになるようですね。つまりヒトの脳というものはそのような、計り知れない力をもったものだということでしょうか。

 そう言えば「みる」と同様「きく」にもいろいろありますね。「聞、聴、訊・・・」。きっと目を開けるだけで見えるのではないのと同様、耳も音波が入ってくるだけで聞こえるのではない、というか、音波が鼓膜にぶつかってからが本当の「聞く」作業なのでしょう。

 ではまた来月。
                            中原幸子
参考文献
(1)ドナルド・D・ホフマン著、原淳子・望月弘子訳『視覚の文法』(紀伊国屋書店、2003)
(2)利根川進著『私の脳科学講義』(岩波新書755、2001)
(3)高神覚昇著『般若心経講義』(角川文庫、1967)
(4)白川静著「字統」(平凡社、1984)

主な参照ホームページ
(5)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)


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