月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー

月刊「e船団」 言葉を探る 2003年10月号

続・鳥のことば

 アントニー・デ・メロというカトリックの神父さんの「小鳥の歌」という短い文(1)を読みました。

 「なぜ小鳥は歌うのかね?」と<師>は言いました。

 小鳥は述べたいことがあるから歌うのではありません。歌があるから歌うのです。
 <学者>の言葉なら理解できます。<師>の言葉は、理解するものではありません。それらは、木立を吹く風、せせらぎの音、小鳥の歌に耳を傾ける人のように聴くものです。<師>の言葉は、すべての知識を越えた、心の内側にある何かを目覚めさせるものなのです。


 そして、この本の少し前には「あなた自身の果物を食べなさい」という題でこんなことが書かれています。

 あるときひとりの弟子が<師>に尋ねました。
 「あなたは数々の話を聞かせてくださいます。でも、けっしてその意味を明かそうとはなさいません」

 <師>は言いました。
 「もしも、だれかがまえもってかみ砕いておいた果物をあなたにくれたとしたら、あなたはそれが好きになれますか?」


 私はいたく感心した。「そうだったのか! ほんとにそのとおりだ!」と。小鳥の歌のこともだが、「俳句は答えを言ってはいけない」とよく言われるのも、あれはそういうことだったのだ、と。

 夏目漱石は『草枕』(2)にこう書いている。

 春は眠くなる。猫は鼠を捕(と)る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所(いどころ)さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒(さ)める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然(はんぜん)する。雲省の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれ程元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。
 忽ちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えた所だけ暗誦(あんしょう)して見たが、覚えている所は二、三句しかなかつた。その二、三句のなかにこんなのがある。

   We look before and after,
     And pine for what is not:
   Our sincerest laughter
     With some pain is fraught;
   Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.

 「前を見ては、後(しり)えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑(わらい)といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極(きわ)みの歌に、悲しさの、極みの想(おもい)、籠(こも)るとぞ知れ」

 なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい。


 これももちろん、説得力抜群だ。

 最近『小鳥の歌からヒトの言葉へ』(3)という本を読んだ。びっくりするようなことが書かれていた。
 私は、この「コトバを探る」2001年4月号
http://sendan.kaisya.co.jp/kotobbak4.html#april)で、「19世紀には、ヒトは鳥がさえずるのをまねて言葉をつくった、と信じている人が大勢いた」と書いたが、この本では「『小鳥の歌が、ヒトの言語を理解するための行動学的・神経科学的なモデルになる』とされる」と書かれているのだ。いちばんびっくりしたのは次の記述である。

 私たちの研究のユニークな点は、鳥の歌とヒトの言葉の形式的な共通点・相違点をより深く考察することによって、ヒトの言語の起源について新しい仮説を提示することができたことにある。いわば、ヒトの言葉と鳥の歌の本質的な違いを指摘することによって、言語の起源の謎を解く鍵をみつけることができたのである。

 ところで、先月偶然『鳥の歌の科学』(4)という本に出会った。1971年刊のこの本は、実は1947年に出た同名の本の復刻だった。序文によればその内容は、ほとんど日本初と言ってもよい「鳥の鳴き声の科学的研究」の成果だったのである。
 そこには当時の鳥の鳴き声の記録方法が6種類書かれている。
 1.仮名字綴り法:キビタキの「ピヨ ピイーヨ ピヨ ピイーヨ コッコイチ コッコイチ コッコイチ」など仮名文字で綴る方法。
 2.ローマ字綴り法:ウグイスの鳴き声を「Chatchu」、「Hohkekyo」などとローマ字で綴る方法。
 3.音韻法:鳥の鳴き声を楽譜に移そうとする方法。この著の時点ではまだ試みの段階だった。
 4.擬音法:モノをこすり合わせたり、叩いたり、口笛でまねたりして鳥の鳴き声に似た音を出す方法。
 5.章句仮充法:ホトトギスの「天辺かけたか」など意味のある章句をあてる方法。
 6.蓄音法:実際の鳴き声を録音する方法。

 蓄音法と言ってもテープレコーダーなどはない頃のことで、録音した鳴き声を「分析して要領を得た結論に達しうる望み」などは「前途遼遠というべき」だと述べられている。そんなころの本である。

 しかし科学技術は、その「遼遠なる前途」としてさえ予想されていなかったであろう地点に、たった50余年で到達した。『小鳥の歌からヒトの言葉へ』では本物のウグイスの歌と、ウグイスの歌の聞きなしに従って発音したヒトの音声とを、コンピューターで比較、分析しているばかりか、上述のようにそこから言語の起源を云々するところまで来ているのだ。

 もっとも、『小鳥の歌からヒトの言葉へ』には、「鳥の歌はうたうことそれ自体には意味があるが、うたい方を変えることによって意味を変えることはできない」と書かれ、そしてその意味とは、求愛と縄張り防衛だけである、とある。『鳥の歌の科学』でも鳥の歌の目的は、地区宣言歌、恋愛歌、うかれ歌の3つとしている。つまりヒトにとっての鳥の歌は変っても鳥にとっての鳥の歌は、当然だが、変ったりしないことになる。

 そして突然、私は、アントニー・デ・メロも漱石もなんだかすごく正しいなあ、と思った。科学がどんどん進もうと関係ないところで。

 『小鳥の歌からヒトの言葉へ』の著者・岡ノ谷一夫もホームページ「日立ハイテク『科学者の発想はいつ、どこから』」(http://www.hitachi-hitec.com/profile/science/ad18.html)で、インタビューに答えてこう言っている(もちろん、いい研究のためには、ということだが)。

 勉強しすぎると、その知識が自由な発想の制約条件になることがある。自由な発想がないと、矛盾したデータをもとに、人が驚くような仮説なんて生み出せない。「科学なんて自然現象の一解釈方法に過ぎない。だったら、面白くて単純な方がいい。理由はわからないけど、面白いことの方が圧倒的に正しいような気がするんだよね」。

 「何が言いたいの? 科学の進歩がいやなの?」と言われそうですね。無論、そんなことはなく、コトバにまつわるさまざまの謎は一日も早くとけてほしいです。
 ただ、このページのタイトルは「ことばを探る」ですが、私はその「ことば」の探ってみたい2つの顔を見た気がしたのです。そしてまた、「正しい」にもいろいろあるなあ、とか、コトバってすごいなあ、もっといろんな顔があるのだろうなあ、とか。
 では、また来月。
                             中原幸子

参考文献
(1)アントニー・デ・メロ著、谷口正子訳「小鳥の歌」(サンマーク文庫、2000年、原著は1982年刊)
(2)夏目漱石著「草枕」(岩波文庫、2003年、第98刷)
(3)岡ノ谷一夫著「小鳥の歌からヒトの言葉へ」(岩波書店、2003年)
(4)川村多実二「鳥の歌の科学」(中央公論社、1974年)


月刊「e船団」 言葉を探る 2003年11月号

ことばの力(1)
「ちから、知加良、力」

 「力って何だ?」と最初に思ったのはいつだったろう。大学で「力学」の単位を落としたとき・・・じゃないなあ。あれは取れないと落第だからそんな余裕はなかった。もうかなりオバサンで、どうも、誰か有名な人の書を見て、線から力が伝わってくるのを意識したときだった気がする。
   そうだ、 「拓本を、しかも印刷物で見てるだけやのに、なんで力が伝わってくるンやろ」 とふと疑問に思ったのだった。「線って、タダの墨の跡の筈なのに、なんで・・・?」と。いつ、何を見たときだったか、もう思い出せないけれど。

 力とは何か、を知ることが切羽詰った課題になったのは、「船団」誌(1)で「片言の力」という特集を組んだとき。私も2ページもらって何か書くことになった。でも、書き始めてみると、私の中で「力」の定義ができていなかった。そこで泡くって調べて書いたのが次のくだりだった。

   コトバには確かに力がある。コトバはヒトを動かす。立ってるものは親でも使え、と言うが、「ちょっとソレ取って」と頼めば大概の人はソレを取って渡してくれる。人は勿論、国でさえもコトバで動く。だが、コトバはそこにあるだけで力を持っているわけではない。力を得るにはコトバは使われなければならないのだ。話す、書く、読む、思う。これらはコトバの使われ方の一例である。コトバは容器でもある。モノやコトを入れ、その姿形を入れ、その性質を入れる。コトバは輸送手段でもある。意味というものの。
   コトバはどう使われたときに一番力が強いのだろう。それに、力、力、と気軽に言うが、力とは何なのか。広辞苑
(2)には【力】の(8)に〔理〕として、「静止している物体に運動を起し、また、動いている物体の速度を変えようとする作用。ベクトル量で、単位は国際単位系ではニュートン(N)。電力・馬力など、エネルギーまたは仕事率(動力・工率)の意に用いることもある。」と載っている。まあ、何かを動かすことができれば、それが力だとしよう。広辞苑も困っているのだ。「活力」は「活動のもとになる力。生命力」とし、「生命力」は「生き続ける力」で、見出し語にある言葉を使って説明せざるを得ないということになっていて、切りがない。要は何かを動かすのが力なのだから、空海の引く線には人の心を動かす力があり、私のにはない、そういうようなものが力なのだ。

  このときやっと気付いた。それまで、蟻たちが自分の体よりデカいものを運んだり、機関車が長い列車を引っ張ったりするのが力だと思い込んでいたのが間違いのモトだったと。力というモノがあって何かが動くんじゃなくて、何かが動けばそこに働いている作用を力というのだったのですね。遅れ馳せもいいとこで、恥ずかしいですが。

 あれからずっと「ことばの力」をもっと知りたい、と思いながらも逃げていたが、近ごろまた本気で知りたくなった。改めて、「力って何?」

 上に引用した広辞苑の「力」は、紙数の都合で8番目の記述だけしか書いていないが、その前に7項にわたる記述がある。この際全部おさらいをしてみよう。というのも、私は「力について知りたい」などと言いながら、辞書すらちゃんと読んでいなかったので。皆さんはいかがですか?
   うん、ついでだから、インターネットでタダで使わせてもらえる『大辞林』(3)と比べてみたらどうだろう。

 「力」の説明は、広辞苑は8項目に大別。一方、大辞林は5項目に大別した後、必要に応じて(ア)(イ)(ウ)・・・と小分けしている。分類法も微妙に違うので、ぴったり対応させるのはとても無理だが、およそ次のようになった(自分で言うのもなんですが、あまり面白くないです)。
   というわけで、茶色字が『広辞苑』青字が『大辞林』です。

(1) 自らの体や他の物を動かし得る、筋肉の働き。雄略紀「汝 ― 人に過ぎたり」
(1)人や動物の体内に備わっていて、自ら動いたりほかの物を動かしたりする作用のもととなるもの。具体的には、筋肉の収縮によって現れる。「拳(こぶし)に―を込める」「―を出す」「子熊でも―は強い」

(2) 気力。精神力。根気。精根。万葉集(17)「出立たむ―を無みとこもり居て」。「話に―がこもる」
(3) ほかに働きかけて影響を与えるもの。 (ウ)人の心を動かす力強い勢い。迫力。 「―のある文体」
(4)何かをしようとする時に役に立つもの。 (ア)行動のもとになる心身の勢い。気力・体力。精気。「目的達成に向けて―をふるいおこす」「さぞお―を落とされたことでしょう」


(3) 能力。力量。実力。平家物語(1)「今は世末になつて国の―も衰へたれば」。「金の ―」「―及ばず敗れる」「数学の―がつく」
(2)そのものに本来備わっていて、発揮されることが期待できる働き。また、その程度。効力。 「風の―を利用する」「運命の不思議な―」「この車のエンジンは―がある」「薬の―で助かる」
(4)(イ)修得・取得した、物事をなしとげるのに役立つ働きをするもの。能力。「国語の―が弱い」「対戦相手の―を分析する」


(4) ほねおり。労力。努力。竹取物語「― をつくしたる事少なからず」。「― を惜しまない」
(3)(イ)ほかの人が目的を達成しようとするのを助ける働き。骨折り。尽力。 「彼の―で八方まるく納まった」「会の発展のために皆様のお―を拝借したい」

(5) たよりとするもの。よりどころ。源氏物語(夕霧)「こなたに ― ある心地して慰めしだに」。「 ― と頼む」「 ― にする」「― を得る」
(4)(ウ)支え。よりどころ。「子供の成長を―にして生きる」「不幸な子供たちの―になる」

(6) しるし。ききめ。おかげ。効能。源氏物語(須磨)「神少しなり止みて風ぞ夜も吹く。多く立てつる願いの ― なるべし」。「科学の ―」
(2)そのものに本来備わっていて、発揮されることが期待できる働き。また、その程度。効力。 「風の―を利用する」「運命の不思議な―」「この車のエンジンは―がある」「薬の―で助かる」

(7) 権力。腕力。暴力。「― で立ち向かう」
(3)(ア)ほかの人を支配し、自分の思うとおりに動かすことのできる勢い。権力。勢力。 「君主の強大な―を物語る遺跡」「大国間の―の均衡」

(8)〔理〕静止している物体に運動を起し、また、動いている物体の速度を変えようとする作用。ベクトル量で、単位は国際単位系ではニュートン(N)。電力・馬力など、エネルギーまたは仕事率(動力・工率)の意に用いることもある。
(5)〔物〕 物体を変形させたり、動いている物体の速度を変化させる原因となる作用。巨視的な力としては、物体表面に働く圧力や物体内部に生ずる応力などのほか、力の場を形成する重力と電磁気力がある。微視的には、原子核の核子間に働く核力と、原子核・電子間および電子相互間の電磁気力が基本的な力である。さらに、一般的には素粒子の相互作用のことを力とよぶこともある。

   互いに助け合ってよく分かるようになる感じ。まあ、読んでいる間に「もう、イヤ」と切れそうにもなるけれど。

   上記広辞苑の(2)の用例に、「万葉集(17)『出立たむ―を無みとこもり居て』」とあるように、「ちから」という語はすでに万葉集で使われている。この歌は『時代別国語大辞典』上代編(4))では、

   出で立たむ知加良(ちから)を無みと隠り居て君に恋ふるに心どもなし(万3972)

と出ている。原文は「」ではなく「知加良」なのだ。もちろん万葉集の原文は全部漢字で書かれていて、上記のようなのは「訓(よ)み下し文(漢字仮名交じり文)」なわけだが、今回当たってみた他の「訓み下し文」では全部「力」が使われていた。『時代別国語大辞典』が「知加良」を残してくれていなかったら、私などは何も考えずに万葉の頃から「ちから」は「力」だったと思ったかもしれない。

   でも、本当は「知加良(ちから)」と「」の関係はかなりややこしい。だから、高島俊男著『漢字と日本人』(5)にものすごく解りやすい説明が見つかったときは嬉しかった。第二章が「日本人は漢字をこう加工した」というタイトルで、その中に「訓よみとかな」がある。

   漢字が日本にはいってきてから数百年のあいだに、それを日本語を書きあらわす文字としてつかうために、日本人はいくつもの加工をほどこした。    まず、漢語をそのままとりこみ、日本語のなかにまぜてつかった。これは、いまの日本人が日本語のなかに西洋語をまぜてつかうのとおなじことだ。つまり「天(てん)」とか「仁(じん)」とか「礼(れい)」とかの単語、あるいは「学校」とか「教育」とかの複合語を、そのままの形でもちいたわけである(「学校」や「教育」はあちらでは二千何百年も前からあることばです)。
(中略)
   つぎに、漢字を、その意味によって直接日本語でよむことにした。たとえば「山」という字、これを音(おん)でサン(あるいはセン)とよんでいたのであるが、この字のさすものは日本語の「やま」に相当することはあきらかであるから、この「山」という漢字を直接「やま」とよむことにしたのである。
   これは相当奇抜な所業であり、また一大飛躍であった。

   そして、どう奇抜かという説明が続くのだが、「山」を「やま」とよむのは「dog」を「いぬ」とよむのと同じ発想であり、「山」を「さん」とよむ読み方も残したのはdogをドッグとしても受け入れたということだ、と。

   とにかくこれはもうホントに面白い本。私は「週刊文春」の「お言葉ですが・・・」という連載エッセイのファンで、今週も「ブランデンブルグ協奏曲」というほの暖かいのを読んだばかりだが、これも是非おすすめしたいです。

   では万葉集に「ちから」を「力」と書いた例がないかというと、あるのですね。

   君が為手力労れ織りたる衣服ぞ春さらばいかにいかにか摺りてばよけむ(万1281)    (きみがためたぢからつかれおりたるきぬぞはるさらばいかにいかにかすりてばよけむ)

   ここでは原文が「公為 手力労 ・・・」だが、ほかにおなじく「たぢから」でも「多治可良」が使われている例(万3966)もあり、ホント、目からウロコでした。

   なんか、引用ばっかりですっかり長くなってしまった。ごめんなさい。これからしばらく、「ちから」の語源とか「力持ちの言葉」たちを考えてみようと思います。

では、また来月。

中原幸子

参考文献
(1) 「船団」51号(2001年12月)
(2) 『広辞苑』(第5版、シャープ電子辞書PW−8100)
(3) 『goo 辞書』(http://dictionary.goo.ne.jp/)
(4) 『時代別国語大辞典』上代編(三省堂、1968年)
(5) 高島俊男著『漢字と日本人』(文春新書、2001年)
(6) 中西進著『校訂万葉集』(角川書店、1995年)
(7) 『万葉集(一)〜(五)』(新潮日本古典集成、1976年)
(8) 『万葉集(二)』(和歌文学大系、明治書院、2002年)
(9) 『万葉集(二)』(新日本古典文学大系、岩波書店、2000年)
月刊「e船団」 言葉を探る 2003年12月号

ことばの力(2)
「チ」と「カラ」

 びっくりしました。11月号を読んでくださった方から、「ちからは知加良。知を加えると良いのか・・・。私のような馬鹿力しか利用しない者にとっては興味深い・・・」というお便りを頂いたのです。なるほどねえ、力に知を加えれば、なんでもうまくいくよねえ・・・、とすっかりうれしくなりました。このお便り、力に知だけじゃなく、ユーモアなんかも加わってますよね?「力」にいろんな「ち」を加える運動でもしてみたいような。ありがとうございました、まさこさま。

 ところで、その「ちから」なんですが、『語源辞典』(1)にはその語源について、
 『名義抄』に「力、税、征 チカラ」とあり、『新撰字鏡』に「?<以力相争也> 知加良久良夫(ちからくらぶ)、知加良久良辺(ちからくらべ)」と記している。『チカラ(霊因)の義で、もとは霊力をいったところから』とする『日本古語大辞典』説がよい」とある。

 『名義抄』は平安時代の末期にできた漢和辞書、『新撰字鏡』は昌泰(898〜901)年間に成った漢和字書だそうで、「チカラ」が「知加良」と「力」になっていて興味深い。字書なんて言葉、今はあまり見かけないが、『新撰字鏡』には21300もの漢字が載っていたとか。さぞものすごい厚さと値段だったのだろうな。
 それはともかく、『日本古語大辞典』(2)にはチカラについて、「原義は霊の因で、霊力を意味したのであるが、一般に力をいうようになった。腕力の意に用いるのは更にその転義である。腕力はタヂカラというたのであろう。神の名にもタヂカラオと称するものがある(原文は旧仮名、旧字を使用。以下同じ)」と出ている。これもびっくりだった。なにしろ腕力の方が先だと思い込んでいたので。

 そういえば、先月ご紹介した万葉集の「知加良」と「手力」も、もしかしたら霊的な力と腕力の使い分けだったのだろうか。いや、でも、「多治可良」の例もあるし・・・。

 出で立たむ知加良(ちから)を無みと隠り居て君に恋ふるに心どもなし(万3972)
 君が為手力労れ織りたる衣服ぞ春さらばいかにいかにか摺りてばよけむ(万1281)
 春の花今は盛りににほふらむ折りてかざさむ多治可良もがも(万3965)

 霊的な力と言えば、コトダマを思い出すが、そのコトダマはというと、広辞苑にこうあった。
 こと・だま【言霊】言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。万葉集(13)「 ― のたすくる国ぞ」。
 言霊の「霊」はチカラの「チ」だったのか。なんだかすごく納得がいった気がする。

 それにしても、「霊」が「チ」というのは不思議だ。いや、「チ」が「霊」なのが不思議なのか?ここにも複雑な「音読みと訓読みの歴史」がからまっているのであろうか。などと思って、いつもお世話になっている『字訓』(3)を見ると、「ち〔霊〕」というのが載っている。

 〔霊〕
 自然物がもつ、ある霊的な力。原始的な呪術はその力を用いる方法であった。「をろち」「かぐつち」のように、その力をもつものの名の下につけて用いる。神名に用いることが多いのは、その霊格に対する敬称的な用法とみてよい。「たま」とも、また「ひ」ともいう。「たま」は霊として遊離し、また他に憑依(ひょうい)することのできるもの、「ひ」は機能を主としていう語である。「ち」を機能化していうときには霊ぢはふ」という。

 そして、なぜ「雨冠」なのか、という疑問に対しては、「農耕族にとって雨は死活に関するものであるから、雨ふらす機能をもつものを霊としたのであろう。国語の『ち』はいわば汎神論的な世界観を背景にする語である」としている。「霊ぢはふ」とはまた聞きなれない言葉だが、広辞苑に「霊幸ふ(たまじはう):霊力を働かす。霊力で加護する」とある。

 更にまた、「血」「乳」「父」などの「チ」もここから転じたものらしいと『日本古語大辞典』(2)は言っている。例えば「血」は体の中をチ(霊)が流れているという概念からでたものらしい、と。

 「チ」はすごいですねえ。うっかり「カラ」の方を忘れるところでした。
 残念ながら『日本古語大辞典』(2)には「『チ(霊)カラ(因)』。『原義は霊の因』」としか出ていない。これを勝手に、先月ご紹介した『漢字と日本人』(4)流に解釈すれば、日本語の「チ」の意味には漢字の「霊」がピッタリで、日本語の「カラ」の意味には漢字の「因」がピッタリだったので、ちょうど「ヤマ」に「山」をあてたようにして「チカラ」に「霊因」をあてた、ということになるが、果してそんなことでいいのかどうか。

 ともかく「から」とは何かをみてみよう。
 『時代別国語大辞典』(上代編)(5)の「から」には、同じ[柄]という字をあてた項(どちらも名詞)が2つある。
 から[柄](1)植物の茎や幹。(2)道具の柄。
 から[柄](1)血縁。血のつながり。ウガラ・ハラガラ・ヤカラなどの語の中に残る。(2)生まれつき。素性。その物にそなわっている本来の性格。山カラ・国カラなど、複合語の形で残る。助詞カラはこの意味から転じていったものであろう。複合語と認められる例には助詞とみても理解できる場合が多く、その限界は曖昧である。


 まあ、「その物にそなわっている本来の性格」が「因」に近いですか。
 他に『国語語源辞典』(6)では「大言海 ― 筋幹(スヂカラ)ノ略カトイフ」としているし、『字訓』(3)には「松岡静雄説に『霊茎(ちから)』の意で稲のことであるというが、『から』は『うから』の『から』と同義で幹(から)の意であろう」と出ている。

 また、『日本国語大辞典』をみてみると、「から【柄】」の語源説が下記のように出ている。
(1) ツングース諸族における外婚的父系同族組織のハラ(xala)に系統をひくもの(日本民族の起源=岡正雄)。また、一族を意味する満州語のハラ(hala)、ツングースのビラル、クマル、興安嶺方言のカラ(kala)、オロチ、ゴルジ、ソロンの方言のハラ(xala)と同じ起源(日本語の起源=大野晋)。
(2) カラ(体)、また、コラ(子等)の転義(大言海)。
(3) 「系」の字音カに、ラ行音を添えたもの(日本語源考=与謝野寛)。


 「チ」に負けず劣らず「カラ」もすごいです。そう言えば「柄」がつく言葉って結構多いですよね。広辞苑でざっと見ただけでもこんなに。
間柄、家柄、木柄、句柄(!)、国柄、声柄、心柄、骨柄、言柄、事柄、作柄、仕事柄、品柄、商売柄、職業柄、僧柄、続柄、育ち柄、手柄、土地柄、主柄、音柄、場所柄、日柄、人柄、不人柄、身柄、役柄、世柄、訳柄。
 そしてね、「男柄」には「男向きの模様」のほかに「男らしい人柄」という意味があるのに、「女柄」には「女向きの模様」しか載ってないのですよ。こんなことが気になるなんて、わたしも・・・。

 「チ」や「カラ」があまりにもすごかったので、ふと思い出したのが「や」です。「船団」は俳句のグループですが、俳人にとって一番力持ちの言葉は「や」ですよね?「や」がなかったら俳句はどうなっていたやら。「や」はいったいどうやって「や」になったのでしょうか。来月はそれを考えてみたいと思います。「いやいや、それは違うよ」という方はお便りをくださいませ。考え直します。

 また、飽きもせず、マリア・ピリスの「トルコ行進曲」を聞いています。年末の(年中?)おすすめ。
ではまた来年。
                            中原幸子

参考文献
(1) 草川昇著『語源辞典(名詞編)』(東京堂出版、2003年)
(2) 松岡静雄著『日本古語大辞典・語誌』(刀江書院、1970年)
(3) 白川静著『字訓』(平凡社、1987)
(4) 高島俊男著『漢字と日本人』(文春新書、2001年)
(5) 上代語辞典編集委員会著『時代別国語大辞典』上代編(三省堂、1968)
(6) 山中 襄太著『国語語源辞典』(校倉書房、1976)


戻る