月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー

月刊「e船団」 言葉を探る 2004年7月号

ことばはみんな力持ち(3)
「用意」と「用心」

 「ちょっと用が・・・」というのは、かなり力持ちのことばです。こう言われればたいていの人は黙ります。しかも、上手な人は、「どんな用?」と聞き返せない雰囲気をかもし出します。で、昨日ふと気がついてびっくりしたのは、「用意」と「用心」です。見た目にはどちらも「ココロヲモチイル」という意味のように思えますが、でも、

 「火の用意」と「火の用心」

 この2つの言葉の違いは大きい。ものすごく大きい。前者は燃やすために「意」を用い、後者は燃やさないために「心」を用いる。どちらもとても大切なことであるのは共通しているが。そう言えば、水だの食べ物だの、お金も? さあ、困った(うれしい?!)。「用意」と「用心」の違いってなんだろう。

 まず、「用」から。「よう」というのは音読みですよね。いつもお世話になる茨木中央図書館所蔵の『時代別国語大辞典・上代編』(1)。もうコピーするのも気が引けるほどボロボロになっているのを、そおっと開いてみたが、そこには「よう」はなかった。ただ、広辞苑には「用」は古くは「ゆう」だった、意味は「よう【用】」の(4)を見よ、と載っている。で、『時代別国語大辞典・上代編』(1)で「ゆう」も引いてみたが、なかった。広辞苑の「よう(用)」(4)はこうなっている。

よう【用】
(4)(古くはユウと読む)芸術論などで、体(たい)が作用の本源を意味するのに対して、その作用。働きとして存在すること。また、働かせること。至花道「能に体・用(ゆう)の事を知るべし。体は花、用は匂のごとし」


 正直言って、わからない。「至花道」というのは世阿弥の能楽書論の1つだそうで、1420(応永27)年の成立とあるから、まあ、古くは、と言っても室町時代のことのようだ。ならば『時代別国語大辞典・室町時代編』(2)をみてみよう。

 よう[用]「節用而愛人(ヨウヲセツシテヒトヲアイス) 学而篇」(広本節用)「Yo(ヨウ)。必要、すなわち、用事。また、「人ニ用ヲ言ウ」。或る事を或る人に頼む。また、「用ヲ聞ク」。私に頼まれたことを聞き届ける」(日葡)
 (1) そのものが、事の遂行にあたって、役立てるべく求められていること、また、その必要とされているところ。
(用例略)
 (2) ほかならぬその人が遂行すべく、求められていること。なすべき用事。(用例略)
 (3) 事の遂行に役立てるべく、そのものに求められているところ。はたらき。(用例略)
 (4) 多く推量・意志を表す語に付いて、その遂行が当面求められているところであることをいう。(用例略)
 (5) →ゆう[用]

 これはよくわかる。なるほど、これが「用」なら「用がある」、と言われれば引っ込まざるを得ない。

「ゆう」もちょっと気になる。『時代別国語大辞典・室町時代編』(2)では、

 ゆう[用]「よう」とも。(1)物・事の本源にある内実をいう「体(たい)」に対して、外に具現した作用とか現象とかをいう。(2)特に、ことばで、活用するものをいう。(1部省略)

これがまた難しい。「ゆう」でいちばんよくわかったのは、『日本国語大辞典』(3)だった。

ゆう【用】」の項の(1)に「はたらき。作用。応用。よう。」とあり、その用例として『活人剣(1632)』に「物の体用の時、用(ユウ)と読むべし、物ごとに躰用と云事あり。躰があれば用がある物也。たとへば、弓は躰也、ひくぞ、いるぞ、あたるぞと云は弓の用也」。

 目からウロコ。つまり「ワタシ」が体だとすれば、「ワタシの働き」が用ってこと? まあ、ムダ働きはダメ、という気がするが。

 次は「用いる」。「用いる」は『時代別国語大辞典・上代編』(1)にこうある。

 もちゐる[用](動上一)用いる。もてあつかう。使う。「夫君於天地間、而宰万民者、不独制、要(カナラズ)須(もちゐる)臣翼(タスケ)」(孝徳紀大化2年)「神事(カムコト)に用(もちゐ)来れり」(続後紀嘉祥2年)「不須(もちゐ)斜眼」(遊仙屈)「所レ将(もちゐタル)」(東征伝乙本)「汝ガ牙ヲ須(もちゐ)ムト欲フトイフ」(東大寺本地蔵十論経元慶点)「文アルヲ車ノ中ニ坐ルニ以(もちゐる)所ノ者ゾ」(石山寺本法華経玄賛淳祐古点)「故ニ両ラ向ニ之ヲ論ズルコトヲ須(もちゐる)ナリ」(石山寺本法華義疏長保点)「須・用・以モチヰル」(名義抄)
 【考】この語はのちに上一段、上二段の両活用が現われ、行もハ行・ワ行の両形式が見られるので、もとの活用形式について論議があったが、いまはワ行上一段ということにおちついている。古訓には「何不用(モチヒ)要言、令吾ニ恥辱」(神代紀上)のようにハ行の語尾を記したものも見られる。


 大化2年というと西暦646年で、「もちゐる」は随分古い用例が残っていることになる。そして、というか、でも、というか、漢字はいろいろ使われていて平安末期に成ったという『名義抄』には「須・用・将」が記されている。また、興味深いのは【考】に書かれている活用の形式である。上一段・上二段の2つの活用のみならず、ハ行とワ行の2つの形式も見られるという。
 次に『時代別国語大辞典・室町時代編』(2)を見ると、「もちふ(用ふ)」と「もちゐる(用る)」が載っている。この『時代別国語大辞典』、当初は「平安」「鎌倉・江戸」「近代」も計画されていたのに、結局出なかったとかで、本当に残念です、余談ですが。

 もち・ふ[用ふ](動上二)元来ワ行上一段活用の動詞であるが、平安中期以後、ハ行上二段にも活用するに至り、さらに、中世に入って、ヤ行上二段にも活用するようになった。「須(モチフ)・用(ゝ)・庸(ゝ)」(易林節用)「用(モチユ)」(饅頭節用)「庸(モチフル、モチヰル)」(いろは字)「用(もちゆ)」(落葉色葉)「モチイ、モチユル、モチイタ」。尊重する」(大文典一)
 意味は(1)、(2)と2つあり、ともに下記「もちゐる」の(1)、(2)を参照するように指示されている。

 もち・ゐる[用る](動上一)「用(モチイル)・須(ゝ)」(広本節用)「Mochij,iru,ita.(モチイ、イル、イタ、)。重んずる。例、用イル時ンバ、鼠も虎となり、用イザル時ンバ虎も鼠となる」「四書」。或る者を重んじて評価すると、鼠が虎になり、軽んずると虎が鼠になる。人に適用されるが、その人は遇されるだけの性質をもつ。また、「用イル」。食べる、飲む、薬をのむ、など」(日葡)
 (1) 意図する基準にかなったもの、妥当なものとして、そのものを取上げる。
(用例略)
 (2) 意図する事を実現するのに必要、かつ、有効なものとして、その場にあてる。(用例略)
 (3) 特に打消の言い方に用いて、相手からの攻撃などをものともしない意を表す。「彼手ノ兵五千余人、思切テ討共射共用(モチイ)ズ、乗越々々城の逆木一重引破テ、切岸ノ下迄ゾ攻タリケル」(太平記七、千剣破城軍事)→もちふ

 何気なく使っているが、「用いる」という言葉も奥が深い。面白いことに「もちゐ」という名詞も載っている。私は「もちい」などという名詞を使ったことありませんが。みなさんはいかがですか?

 もちゐ[用]「もちひ」「もちい」とも。認められて登用にあずかること。転じて、その価値が認められ、もてはやされること。「Mochij(モチイ)。尊重」(日葡)「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ我衣手は露にぬれつゝ・・・大道すたれて仁義おこるより、世中に御身のもちいもなき事おぼしめすに、秋の田かりたる跡に、いほりのあれてのこれるごとくなり」(百人一首古注)「一なんにて侍るものは・・・三千ちやうのだいくわんを仰せつけらるゝ。人のもちゐ、かぎりなく侍るほどに、そのていもいみじくして、事をつとめ侍る」(短編=宝くらべ 上)(以下略)

 今月は「用」と「用いる」だけで終わってしまいました。
 来月は是非「用意」と「用心」をみてゆきたいと思います。

 では、また来月。
                            中原幸子

参考文献
(1) 『時代別国語大辞典・上代編』(三省堂、1968年)
(2) 『時代別国語大辞典・室町時代編』(三省堂、1985年)
(3) 『日本国語大辞典』(第2版、小学館、2000年)


月刊「e船団」 言葉を探る 2004年8月号

ことばはみんな力持ち(4)
続・「用意」と「用心」

 では、「用意」と「用心」にまいりましょう。
 この2語について、広辞苑はそっけない。

 よう・い【用意】
 (1)意を用いること。心づかい。注意。
用心。源氏物語(紅葉賀)「大殿の頭中将、かたち ― 人には異なるを」
 (2)準備。したく。大鏡(道隆)「筑紫にはかねて ― もなく」。「 ― が整う」「食事を ― する」
 (3)(感動詞的に)競技・競走などの開始の構えをととのえさせる合図の声。「 ― どん」

 よう・じん【用心】
 (1)心を用いること。注意。平家物語(3)「太政入道も・・・下には ― して、にが笑ひてのみぞありけり」
 (2)困ったことにならないように予め注意すること。万一に備えること。警戒。平家物語(11)「火数おほく見えば、かたき恐れて ― してんず」。「火の ― 」「 ― を怠らない」


 これだけでは、「火の用意」と「火の用心」に対する私たちの反応の違いがどうして起こるかを理解し難い。目につくのは「用意」の説明には「用心」が入っているのに「用心」の説明には「用意」が入っていないことだろうか。
 ところが、これが「日本国語大辞典」(1)では逆になっている。

 よう−い【用意】〔名〕
 (1) よく気をつけること。深い心づかいのあること。意を用いること。
(用例略)
 (2) ある事を行なうにあたり、前もって備えておくこと。準備しておくこと。したく(用例略)
 (3) 競技などをはじめる前に、準備をうながすためにかける掛け声。(用例略)

 よう−じん【用心・要(エフ)心・要(エフ)慎】〔名〕
 (1) 心を用いること。心づかいをすること。
用意(用例略)
 (2) 特に、仏道を修行する者がする心がけ。心くばり。(用例略)
 (3) 万一に備えて注意を払うこと。あらかじめ警戒して怠らないこと。警戒。(用例略)

 どうも、「用意」の意味に「用心」が入っているとか、「用心」の意味に「用意」が入っているとかにさほど意味があるとは思えない。それでは用の下に付いている「心」と「意」はどうだろうか。
 広辞苑から関係のありそうなところを抜粋してみると、

 しん【心】
 (1)しんぞう。「心筋・狭心症」
 (2)(ア)こころ。精神。「心身・心情・感心」 (イ)心のおくそこ。「しんから好き」

 こころ【心】
 (1) 人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。
 (1) 知識・感情・意志の総体。「からだ」に対する。
 (2) 思慮。おもわく。
 (3) 気持。心持。
 (4) 思いやり。なさけ。
 (5) 情趣を解する感性。望み。こころざし。
 (6) 特別な考え。裏切り、あるいは晴れない心持。

 い【意】
 (1) 心。心の動き。考え。気持。
 (2) 物事の内容。わけ。
 (3) 〔仏〕(梵語manas)広義では思考活動一般。狭義では感覚的でない、または抽象的な知覚能力。

 なるほど、「警戒」は「こころ」を用いることからしか発生しないような気もする。

 しかし、もう少しよく分かる理由はないものだろうか。と、思って眺めていると、上記『日本国語大辞典』(1)の「用意」と「用心」には大きな違いがある。それは当てられている漢字。「ようい」は「用意」だけだが、「ようじん」には「用心」「要心」「要慎」の3種類の漢字が当てられていて「要」にはわざわざ(エフ)と読み仮名が添えられている。
 更に、「用心」の[語誌]によれば、「元来『用心』と書くが、中世後期以降「要心」「要慎」等の表記が見える。これは平安末以降「用」の字音「ヨウ」と「要」の字音「エフ」との区別がなくなったことによる混同から生じたあて字と考えられる」という。また発音も興味深い。標準語は「用意」は「ヨーイ」、「用心」は「ヨージン」。ところが、〈なまり〉の項では、「用意」はヨイ・ヨエ、ヨーヨとヨで始まるのばかりだが、「用心」の方にはユージ、ユージン、ユジンなどユで始まる例があるのだ。微妙に「ヨウ」と「エウ」とがミックスされている、と感じるのは私の気のせいだろうか?

 「要」については手許の『古語大辞典』(2)にもこうある。

 えう【要】ヨウ〔名〕必要とすること。「書どもも、 ― あるは取り出でて見給ふ」〈宇津保・蔵開・上〉。「迷ひの心を持ちて名利の ― を求むるに、かくのごとし」〈徒然草・38〉。
 [語誌]「要(えう)と「用(よう)」とは本来別語で、発音も別であったが、「ようよう(=要用)あるによて」〈平安遺文・1516〉のように、平安末期から発音が混同され、意味の近似も手伝って、区別が曖昧になった。第一例は「よう」とするテキストもあるが、「えう」であったとみてよいであろう。[山口佳紀]


 「用心」は、「要心」、「要慎」などとも書かれているうちに、もともとの「用心」よりも、警戒の意味を強めていった、というのは納得がいく気がする。このことの証明には長期間にわたる膨大な使用例を必要とすると思われるけれども、とにもかくにも、『日葡辞書』では、ズバリ、「用意は準備」で「用心は注意」となっているのだ。『時代別国語大辞典・室町時代編』(3)にそう書かれている。『日葡辞書』は1603年の刊で、広辞苑によれば「日本語に通じた数名のバテレンとイルマンの協力によってなった」そうだから、この頃の外国人には、日本人は用意と用心をこのようにはっきり使い分けている、と感じられたのであろう。

 「用意」についてもう1つ付け加えると、『時代別国語大辞典・室町時代編』(3)の「用意」の項には「ヨウイ―用ユル意(ココロ)。――すなわち、「覚悟する」。準備する」(サントス 和げ)」とある。「用意」の意味を考えるとき、私はごく自然に「用意」と返り点を入れて考えていたが、このように頭から素直に読み下す方がすっきりと「用意」がわかり、用意の行動が起こしやすくなる気がする。「サントス」は出典一覧にも出ていなくて、どういうものかが分からないままなのですが。

 「用意」の方にはなぜ「要意」が現れなかったのかな、と考えれば、用意と用心の違いにはもっと深い訳があるのかも知れないなあ、と思いつつ。そしてまた、言葉のたどる運命というようなものを感じつつ。

 では、また来月。
                        中原幸子

〔参考文献〕
(1)『日本国語大辞典』(第2版、小学館、2000年)
(2)『古語大辞典』(小学館、1983年)
(3)時代別国語大辞典・室町時代編』(三省堂、1985年)


月刊「e船団」 言葉を探る 2004年9月号

正しい

 先月号の「用意と用心」を書いて、言葉のたどる運命を感じるなあ、などと思った直後、「檄を飛ばす」や「さわり」などは、本来の意味とは違う意味だと思っている人が多い、ということがテレビや新聞で報じられました。文化庁の03年度「国語に関する世論調査」の結果だそうで、例えば7月30日の毎日新聞(東京朝刊)(1)の記事からいわゆるさわりを抜粋してみると、次のように書かれている。

《慣用句等の理解度》(○は本来の意味、△は違う意味。数字は%)
 <檄を飛ばす>
○自分の主張を広く知らせる  15
△元気のない人に刺激を与える 74

 <姑息>
○一時しのぎ         13
△ひきょうな         70

 <さわり>
○話などの要点        31
△話などの最初の部分     59


 私自身も、もう30年にもなるだろうか、「気がおけない」というのを「油断がならない」という意味に受け取られて仰天したことがあった。これなど変に伝わると親友を失う恐れすらある。しかも、こういうことは多勢に無勢というか、日常生活では多数決に負けてしまうことが多い。この間も「ギプス」か「ギブス」かで盛り上がった。10人ほどの輪の中で、ギプス派は病院関係の仕事をしている2人だけ。あとはみんなギブス派だった。こういうとき、両者勇んで見るのが広辞苑。しかし、広辞苑にはギブスも載っていて「ギプスの訛」だと書いてある。訛なら堂々たるものだ。訛を禁じられたら生きていけない。両方とも胸のつかえが降りないまま、幕切れになった。どちらも「お前が正しい」と広辞苑に証明して貰えなくて不満だったのだ。

 そう言えば、上記の新聞記事、「○は本来の意味、△は違う意味」となっていて、「○は正しい意味、△は間違った意味」になっていないことには、とても意味がある気がする。

 と言うのも、「正しい」で思い出したのですが、この「e船団」でもこんなことがあったのです。

 「新季語拾遺」に「蛇」のことが載ったときだったと思う。そこには、日本にいる毒蛇はハブとマムシの2種類だ、と書かれていたのだ。ところが、読者の方から「日本の毒蛇はヤマカガシもいれて3種では」とのメール。あわてました。手許の広辞苑をみると、ヤマカガシはたしかに有毒らしかったので。でも、著者も調べた筈だし、毎日新聞社の校閲も通っているのに、なんで? 待てよ、毎日新聞に載ったのはずいぶん前だし、念のため、と思ってほかの辞典にも当たってみた。何と、ヤマカガシが有毒か無毒かは10年かそこら前まではっきりしていなかったのですね。噛まれた人の言い分も、「オレは噛まれたけど何ともなかった」、「いや、誰それは噛まれて死ぬとこだった」、などとマチマチで、研究の最中だったらしい。

 「ふーん、面白い」と思って『広辞苑』を初版から見てみた。ちなみに、私の手許の広辞苑は第4版だった。

初 版(1955年):蛇目ゆうだ科の爬虫類。無毒。
第2版・補訂版(1976年):トカゲ目の小形のヘビ。無毒。
第3版(1983年):小形の蛇。上顎の奥に毒腺がある。奥歯は長いが毒牙ではない。咬まれると、害のないことも多いが、腫れたり血が止まらないこともある。また、頸部にも毒腺がある。
第4版(1991年):ヘビの一種。上顎の奥に毒腺がある。奥歯は長く毒牙の機能をもち、深く咬まれると、腫れたり血が止まらないこともあり、時に致命的。また、頸部にも毒腺がある。
第5版(1998年):ヘビの一種。上顎の奥と頸部に毒腺がある。奥歯は長く毒牙の機能をもち、深く咬まれると、腫れることや血が止まらないこともあり、時に致命的。

 では、『広辞苑』だけですませずに『日本国語大辞典』(2)も調べた人がいたら、どうなっていたろうか。

初 版(1976年):ヤマカガシ科の無毒ヘビ。
第2版(2002年):ナミヘビ科の有毒ヘビ。

 上記のように『広辞苑』では、第3版以降、「無毒」「有毒」という言い方をしていない。第3版以降は「毒腺がある」、という点で一致しているが、しかし「毒牙」については「毒牙ではない」 → 「毒牙の機能がある」と変る。なぜ「毒牙である」とキッパリ言わずに、「毒牙の機能がある」などともってまわるのだろうか。なぜ毒蛇だとはっきり言わないのだろうか。ハブは「毒ヘビ」、マムシは「有毒」とハッキリ書いているではないか。
 それに、読者の方もお気づきのように、ヤマカガシがどんなヘビかも、「もう、何と書いたらいいのかわからない」という様子がありありと見える。初版の「蛇目ゆうだ科の爬虫類」が第5版ではとうとう「ヘビの一種」になっているのだ。「正しいことを目指すと、辞書はこうなる」という見本みたいだ。

これって落とし穴じゃないかなあ、と思う。つまるところ、「ヤマカガシは小形のヘビで、噛まれたら死ぬと言う人もいれば噛まれてもなんともないと言う人もいる」という、ずぼらな素人が書くであろう記述が一番正しいわけだから。
 それに、こうなると、「毒蛇ってナンだ!」ということも気になる。
 脱線しますが、皆さん、毒蛇を普段なんと読んでおられますか? 私はずっと、ドクヘビと読んできました。ところが、広辞苑は初版から第5版まで一貫して「どくへび」の項に「→ どくじゃ」と書いてあって、「どくじゃ」の方に説明がある。逆に『日本国語大辞典』は「どくじゃ」の方が「どくへび(毒蛇)に同じ」で、そこに説明がある。私は「ジャ」は「ヘビ」より大きくて怖いという印象をもっていたのだが、それは私の思い込みで本来ジャとヘビは単に漢語と和語の違いだったらしい。

 さて、毒蛇。
 広辞苑の初版と第2版には「牙に付属して毒液分泌腺を持つヘビの総称。咬みつく時毒牙から毒液を出す」とある。第5版は「毒腺をもつヘビの総称。毒牙により、咬んだ動物に毒液を注入する」。 毒牙の定義も「毒液を分泌する牙」から「毒液を注入する牙」へ変った。というよりも毒牙が詳しく研究されて、その結果が毒蛇の定義にまで反映されたということであろう。
 ところが『日本国語大辞典』では第2版でも毒牙は初版と同じ「毒液を分泌するきば」のまま。毒蛇は初版、第2版とも「頭部に毒腺と毒牙を備えたヘビの総称」。

 改めて、辞書、辞典などというものは、よく読んだらどんどんモノゴトが解らなくなっていく本だと思う。

 それでは「e船団」の「新季語拾遺」を書き換えるべきだったろうか。そんなことはない、と私は思う。転載させて頂いているのだから、ということは別としても、「書かれた時点でそれが正しいとされていた」のだし、「書かれた時点で何が正しかったがわかる」記述は貴重だ、と思うから。私と同じ疑問をもった人が同じように調べて、「ああ、この頃そういう研究がされたのか」という結論にたどり着けばそれでいいのではなかろうか。書き替えてしまえば、その文が書かれたときどうだったかは分からなくなってしまう。つまり「正しい」ことに書き替えることが「正しい」とは限らない、と思うのです。

「正」という字は「一」と「止」とでできた会意文字で、もと征服を意味した、というふうに『字統』には書かれている。何が正しいか、というのはとてもムズカシイ問題ですね。

 では、また来月。
                                     中原幸子

〔参考文献〕
(1) @nifty(http://www.nifty.com/RXCN/)(有料)
(2)『日本国語大辞典』(小学館、初版1975年、第2版、2000年)
(3)白川静著『字統』(平凡社、1984年)


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