月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー

月刊「e船団」 言葉を探る 2005年1月号

新しい(4)新

 新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 さて、2004年11月号でご紹介したGさんからのお便りです。私が、「あなたの『新しい』の定義をお送りください」とお願いしたのに応えてこう書いて下さいました。

 新しいってことは次の瞬間すぐ新しくなくなるのかもしれませんね。すると、新しいという言葉こそ永遠に新しいのでしょうね。どうでしょう?そして、その言葉がついてるものは古くなっても、ずっと新しいのでしょうね。

 どうでしょうって言われてもね、難しすぎて。でも、挑戦してみます。

 まず、「新」という字。ヘンな字だ。立と木と斤の組み合わせ?と、思ったら、「立」ではなくて「辛」だとのこと(1)。「木」は、まあ、分かる、と思い込むのはアブナイか。「斤」は、思わず思い出したのが「食パン1斤」だけど、まさか・・・。

   「新」って実にヘンな字だ。ともかくパーツから見ていこう。

   辛:広辞苑には、「しん【辛】」は「(1)からいこと、(2)つらいこと。苦しいこと、(3)十干の第8。かのと」とある。また『字統』(1)によれば、字音は「シン」、字訓は「はり・つらい・かのと」。象形文字であり、「把手のある大きな直針の形。これを文身・入墨に用いるもので、その関係の字は多く辛に従う」とし、「辛の初義は文身に用いる針。それで辛痛の義となる」とも記す。

 また藤堂明保は『漢字文化の世界』(2)で十干について解説しており、「辛」は、「小刀を示す象形文字で、刀で切りとることを示す」文字で、十干における「辛(かのと)」は「生育した植物を切りとる時期である」としている。ついでだが、「新」は辛と同系のことばで「植物を切りとる。右側に斤(おの)をそえて、切る意味を明示した。刈り立ての木、なまなましい」の義とも述べている。

 ホームページ「漢字家族」(3)の【辛】の説明は下記だが、これは藤堂説に近いようだ。
 小刀を示す象形文字で、刀で切りとることを示す。「新−斤」(木を切る) ─ 新(植物を切りとる。右側に斤おのをそえて、切りとる意味を示した。刈り立ての木、なまなましい) ─ 薪(切りとった植物、草かんむりをそえて、植物を明示した)と同系のことばである。
  辛とは、成長した植物を切りとる時期である。いわば薪(シン)の原字だと考えてよい。


 さてさて、辛は針なのか、それとも刀なのか。
 私は、どちらかというと針派。文身、すなわち入墨は魏志倭人伝にも出てくる古い風習だが、これを施すのは極めて痛いらしい。激痛であるらしい。小説か何かで読んだうろ覚えの受け売りに過ぎないが、大の男でも1日に何ほども捗らないほど痛いとか。その入墨に使う針なら、意味が「つらい、苦しい」、に流れてもごく自然な気がする。また辛い味の、あの刺すような感じも針を連想させる。それに、「新」には「斤」がついているが、これは手斧。1つの字に2種類も刃物はいらないのではないかと思うけど。でも「辛(かのと)」はやっぱり小刀の方がよくわかるし。困った。

 そう言えば、『大漢和辞典』(5)の「辛」の意味には「あたらしい」も出ている。後漢の頃の書『釈名』には「辛は新なり」とあるそうだ。でも、新だってちゃんと卜辞にある古い文字なのに、後漢ではちょっと時代が下り過ぎるような。辛と新とで意味が行ったり来たりしてしまったのかも、と思ったりするのは、安易すぎるだろうか。

 「斤」に行きましょう。

 斤:広辞苑には、「(1)おの。『斧斤』、(2)重量の単位」とある。『字統』(1)では、この字は象形文字で、斧の形、「ちょうな」と呼ばれる手斧の形であろうという。ちなみに、「斧」の方は斧鉞(ふえつ:鉞はまさかり)ともいう大きな斧だそうだ。
 斤が斧、つまり木を切る道具だ、というのはすんなりと納得した。しかし、なんでまた食パンを計る単位になったのか? 『歴史の中の単位』(4)によれば、日本で民間に使われた「斤」には実にいろいろあって、大は実の付いた綿花の1斤600匁、小は中国の調剤用の16匁と、実に37.5倍もの開きがある。
 さらにややこしいことに、明治以後は120匁を英斤と呼ぶ習慣ができた! これは1ポンド(約450g)が約120匁に相当したためで、パンやバターが1斤、半斤などと呼ばれたのはそこから来ているのだそうだ。更に、更に、食パン1斤はだんだん小さくなって呼称だけ残った!とは。もう、ついて行けない。
 で、なんで手斧が単位になるの、という件ですが、これまた『漢字文化の世界』によれば、斧が分銅として使われたことに原義があるのではないか、という。大分脱線しました。ごめんなさい。お疲れさまでした。

 最後は「木」ですね。

 木:木は広辞苑では「(1)木本の草木。(2)用材。材木。(3)拍子木のこと」と味も素っ気もない。でも、『字統』によれば、説文解字には「(木は)冒(おお)うものなり。地を冒いて生ず。東方の行なり」と書かれているという。ちょっと感動的。木の字はたちきを象った象形文字で、『字統』では「旁出するものはみな枝とみてよい」とし、『大漢和辞典』(5)では縦棒と横棒で幹と枝、下向きの2本のハネは根としている。この場合は地上部より地下部の広い形になり、示唆に富んでいる感じ。いろいろ説があって当たり前かも。何しろ昔々のことだし。

 と、いうわけで、いよいよ「新」です。

 『字統』に、「新」の字音は「シン」、字訓は「あたらしい・はじめ」。会意文字で、「辛と木と斤に従う」。とある。また、「辛は針。新木をとるとき、木をえらぶのに矢を放ち、辛をうつなどする選木の儀式があって、神に供すべきものを定めた。新とは、新死者のための神位を作る意で、その神位をもって祭られるものを親という。親の字形は、その神位を拝する形である」と。尚、説文解字には新は「木を取るなり」とあり、薪の義と解しているようだ、とも書かれている。

 『大漢和辞典』(5)の「新」の「解字」には「会意形声。斤と木との合字、辛は声。斤(おの)で木を切り取る義。引伸して、凡そ始基の称。もののはじめ。あたらしい意。・・・」とある。

 このように「新」は、「木を斧で切る」という形の文字。で、それが「切り立ての木」→「なまなましい」と意味が拡がって、「あたらしい」ものは何でも「新」となった。
 つまり、「新」とは、どんどん古くなるスタート地点。辞書で「新しい」の定義に「古くない」と書いたあなた、あなたは、「古くない」だけではなく、「古くなる」とも書かなければいけなかったのでは? 刻一刻と古くなること、つまり、Gさんのおっしゃる「新しいってことは次の瞬間すぐ新しくなくなる」こと、それが「あたらしい」の真の意味、ほんとうの値打ちなのでは?
 そしてたしかに、「新しいという言葉こそ永遠に新しい」のでしょう。ただ、「その言葉がついてるものは古くなっても、ずっと新しい」かどうかは難しいと思う。何しろ、『大漢和辞典』の「新」の項には、20ページに渡って「新」のつく言葉が並んでいるのだ。「新」のついた言葉は続々と生まれ、「新」の守備範囲をどんどん拡大してきたようだし。

 そう言えば、新聞って、配られたときには既に古い、つまり、過去になったことばっかり載っていますよね。でも、そこに書かれていることをまだ知らない人にとってはすべてが新しい。となると、何億年前のものでも、初めて見る人にとっては新しい、ことになる。何度も見ていても、前に気付かなかった発見があれば、また新しい。見るたびに何かドキンとする発見があるなら、それは永久に新しい。そういう意味では「新」がついていようがいまいが、見る人次第で、すべてのものは新しくあり得るのかも。そして古いものの価値は、歳月も言語の違いも越えて、多くの人に「新」の感動をもたらすことなのかも知れません。

 ところで、「あたらしい」と読まれる漢字を『大漢和辞典』(5)であたってみると、「鮮」とか「」とか魚偏の字が出ています。新鮮は私たちがよく使う熟語ですが、なまなましい木と魚のことだったのでしょうか。
 では、また来月。
                                     中原幸子

〔参考文献〕
(1)白川静著『字統』(平凡社、1984年)
(2)藤堂明保著『漢字文化の世界』(角川選書、1982年(初版))
(3)ホームページ「漢字家族」:(http://ww81.tiki.ne.jp/~nothing/kanji/index.html
(4)小泉袈裟勝著『歴史の中の単位』((株)総合科学出版、1974年)
(5)諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館書店、1988年(修訂版))
(6)ホームページ「陰陽師・安倍晴明」(http://homepage1.nifty.com/haruakira/onmyoudou/f_05.html
(7)ネットで百科:(http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)(有料)



月刊「e船団」 言葉を探る 2005年2月号

新しい(5)「鮮」と「洗」

 「こうげんれいしょくすくなしじん」は「巧言令色、鮮し仁(巧言令色鮮矣仁)」と書く、と知ったとき、目がテンになりました。私は信じやすいくせに疑い深い、というか、信じやすいが故に一度信じたことはなかなか削除できない、というタチです。あっちこっちひっくり返して調べました。そして、やっとこさで「スクナシ」は「鮮シ」と刷り込み直したのでした。思えば、このときもっとしっかり調べていれば・・・、あ、人生にもモシは無いのでしたね。

 とにかく、1月号にも書きましたように、「あたらしい」と読まれる漢字は、不思議な仲間たち、というカンジです(『大漢和辞典』(1))。こんなふうに。

 洗、嗣、新、、鮮、

   私が一番興味を引かれたのは、「鮮」。サカナとヒツジ。いや、サカナ偏にヒツジ? サカナ偏の字は多くは魚の名前だ。なのに、「鮮」は・・・。『大漢和辞典』(1)では「鮮」の意味は2つに大別され、その(一)には12、その(二)には7つ、合計19もの意味が並べられている。すごく面白いですよ。ご覧になりますか?

(一)(1)なまうお。なまざかな。(2)なまにく。(3)魚のなます。(4)野獣。(5)あたらしい。(6)あきらか。あざやか。(7)いさぎよい。(8)よい。(9)みめよい。うるはしい。(10)はなやか。(11)魚の名。(12)物のさま。
(二)(1)すくない。(2)とぼしい。(3)まれ。(4)つきる。(5)わかじに。(6)たてまつる。(7)はなれやま。

 「え? なんで?」というのが、特に(二)に多い。でも、睨んでいると、だんだんと「少なく」なっていくのがわかる。少ない → 乏しい → 稀だ → 尽きる・・・。(7)の「はなれやま」というのは「大山から別れた小山」という意味だといい、これが、できたての小さな山はまっさらだ、ということらしい。改めて漢字を育てた人たちの想像力、創造力に最敬礼(古い!)。

 さて、なんでサカナとヒツジがくっついたのか。
 『字統』(2)によれば、旁の「羊(ヨウ)」は「(セン)」の省略形で、「魚」も「」に作るときは「セン」の音を持つという。「羊」も「魚」も象形文字。それを3つ組み合わせた字が先にあった訳ではない。「」の項に「凡そ三形を合わせるものはすべて群衆の意をもつ」と書かれ、品や森などが例として挙げられている。で、魚の群れたものは「セン」と読んで「あたらしい」の意、羊の群れたものも「セン」と読むが「羊のにおい」の意とする。「鮮はあるいはその両字を略して組み合せたもので、ともに腥鮮(臭)の意がある」とある。ここの「あるいは」はイミシンかも。とはいうものの説得力は十分である。「鮮」は偏と旁が一致協力して「なまうを」と「なまにく」の両方を意味することができるようになった。更に、「なまうお」も「なまにく」も「たちまち古くなる」という「新」の要素を持つ点で共通しているではないか。

 ついでながら、「」のところに面白いことが書かれている。
 〔説文〕十一下に「新魚の精なり。三魚に従ふ。変わらざる魚なり」という。〔段註〕に精とは鯖、いわゆる五侯鯖(ごこうせい)であるという。五侯鯖は漢の時代に行なわれた寄せ鍋の類で、その奇膳・奇味を争うたことが〔西京(さいきょう)雑記〕にみえる。字はおそらく鮮魚の鮮の初文であろう。
 魚が3尾なら寄せ鍋、羊が3頭なら羊臭い、というあたり、実に合理的、理路整然。羊の料理と言えばジンギスカン鍋を思い出すが、3頭どころか1頭でもずいぶん大勢の人を養えるであろう。だが、3頭もの羊と一緒にいれば、きっと羊の臭いが鼻につくだろうから。

 と、いうようなわけで、「鮮」は「あたらしい」、「すくない」なのです。説文の「変わらざる」は「未だ変わらざる」と解釈するのでしょうね。

 もう一つついでながら、犬が3匹だとどういう意味だと思われますか? 馬が3頭では? 鹿は? 兔は? 全部「走る」の意だそうです。でも、きっと走り方が違うんでしょうね。
 では、心が3つでは?これが、驚いたことに「疑う」意。『字統』(2)は「三心を合せて疑惑の意とするのは、造字の法としても考えがたいことである」とするが、私は何だかわかる気がする。人を疑っているとき、特に信じたい人を疑っているとき、心がいくつもあるような、あるいは心が幾つにも裂かれるような気持ちになるから。なりません?
 では、最後にもうひとつ。貝が3つは、なんでしょう? はい、贔屓のヒですよね。音が「ヒ」、訓は「ひいき・いかる」。『漢字の字源』(3)にこんなことが載っています。

 贔屓は龍の子供
 さらに亀はまた、後の中国でたくさん作られた石碑で、特にその重要なものを載せる台座に使われた。この石碑の台座となっている亀の名を「贔屓」という。「贔屓」とはもちろん今の日本語でも「今後ともどうかごひいきに」という時の、あの「ひいき」の語源となったものである。(中略)
 明の中期に楊慎(ようしん、1487−1559)という学者がいた。楊慎は著述が多く、また大変な博識でも知られるが、彼が『升庵集(しょうあんしゅう)』という随筆で引用している民間の伝承によれば、「贔屓」とは龍の子供の名前であったという。想像上の動物である龍には子供が九人いて、それぞれが独自の能力をもっていたが、うちのひとりが「贔屓」であった。贔屓の形は亀に似て怪力をもっており、重いものを背負うのが得意であった。


 恵果の空海に対する、慈円の親鸞に対する、歴史には、歴史を変えた偉大なる贔屓がキラキラとかがやいていますが、こんなステキなお話が土台にあったのですね。だから、みなさん、贔屓してあげたり、贔屓してもらったりできる人になりましょう!

 次は、「洗」ですか。「洗」は、もう、「あらう」として私たちの全身にしみついている漢字。でも『大漢和辞典』(1)には結構たくさんの意味が並んでいる。

(一)(1)あらふ。(イ)足をあらふ。(ロ)あらひ清める。(ハ)入浴する。行水する。(2)きよい。いさぎよい。(3)あざやか。(4)新しい。(5)つくす。(6)大棗。(7)「先」に通ず。(8)姓。(9)[現](イ)冤を雪ぐ。(ロ)書きかへて偽造する。(ハ)洗礼。
(二)あらひきよめる。洒に同じ。(2)水こぼし。たらひの類。(3)淬に同じ。
(邦)(1)あらふ。疑わしいことを調べただす。(2)あらひ。魚の生肉を刻み、冷水で洗ひ縮ませた料理。


 こう見ると「新」や「鮮」がどんどん古くなる意味の「あたらしい」という感じが強かったのに対して、「洗」は古くなるのを防ぐ、というか、元に戻す感じが強い。それは水の力ではなかろうか。「洗」については『字統』(2)にこんなことが出ている。
  セン、あらう・きよらか
 声符は先(セン)。先に足の意があり、洗は足を洗う意。(中略)
 古代には旅するとき先行の儀礼があり、終るとその足を清めた。後世にも旅が終ると足を洗い、祓う俗があり、杜甫も「湯を煖(あたた)めて我が足を濯(あら)ひ 紙を剪(き)りて我が魂を招く」と魂振り儀礼を歌うている。


 それにしても「洗」の意味になんでいきなり「棗」がでてくるんだろう?!

 あと、「嗣」と「」ですね。「嗣」は「あとつぎ」のこと、「」は「あたらしい。きよい。水の色が新しい」と『大漢和辞典』(1)に出ています。「水の色が新しい」という漢字があるなんて、なんというゆたかな感性。小西来山に、

 元日やされば野川の水の音
 白魚やさながら動く水の魂

 などの句がありますが、この水にまさにピッタリの字ですね。

 ところで、竹西寛子「読みの行方」(4)という文を読まれましたか? そうか、「新しい」は、こんなふうにその人の本質と関わっているのだ、と思いつつ読ませて頂きました。年末に届いたステキなお年玉でした。

 では、また来月。
                                   中原幸子  〔参考文献〕
(1)諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館書店、1988年(修訂版))
(2)白川静著『字統』(平凡社、1984年)
(3)阿辻哲次著『漢字の字源』(講談社現代新書、1994年)
(4)「図書」(岩波書店、2005年1月号)


月刊「e船団」 言葉を探る 2005年3月号

みる(1)目

 「あたらしい」を考えていると、今度は「みる」を考えてみたくなりました。
 みる、というと、きっと思い出すことがあります。
 もう30年以上も前のこと、勤めていた会社で社員に研修を受けさせることになりました。私も参加しました。いや、させられました。ナマイキ盛りで、自分に研修など必要ない、と思っていたのですね。上司が苦労して説得してくれました。
 で、3泊4日でしたが、まあ3不泊4日というような感じでした。上司・同僚・部下が無記名で記入したアンケート形式の資料をもとに、いっしょに泊り込んだメンバー6名と、徹底的に、とことん、本音が出尽くすまで叩き合う、という合宿です。その日の課題が終らなかったら、終らないメンバーが1人でもいたら、寝させてもらえない。

 最終日に結果を見にきた上司は、「どうやった?」と訊きました。「ハイ、楽しかったです」と答えてびっくりされましたが、それは嘘偽りのない気持ちでした。道中は、何しろ男の中に女が1人で、きつかったですが、終ったときには体中の掃除が終ったような、爽やかでウキウキした気分だったのです。なんだか、声が違うところから出ている気もしました。

   翌日のこと、それまで突っ張り通していたヒトがニコニコと話しかけてきました。面食らって「どうしたの?」と聞くと、彼は「中原さんから伝わって来るものが変わった」と答えました。ウソみたいですがホントです。私も、「なんだ、そうか、私は、自分から『嫌って!』という信号を出していたのか」と、自己分析ができていました。

 私が変わった理由は、自分のことは自分には見えない、という単純なことを思い知ったことだった。
 研修の最終日、他のメンバーが反省させられているときは、そのヒトの問題点がくっきりと見えていたのに、いざ自分の番になると何も言うことが見つからなかった。立ち往生して、「なんでやろ? ヒトのはあんなにようわかったのに。ヒトのもホンマはわかってなかったんやろか」と言うと、トレーナーは「ヒトのはわかってたさ。自分のがわからねえんだよ(クチの悪いトレーナーでした!)」と言う。その途端に胸もとを「わかった!」がすうーと通って、つかえがとれた。そして、「うん、みんなが私につけたひどい点数やコメントは、実に正しい!」と思ったのだった。
 あ、言うまでもないことですが、研修は悪口の言い合いではありません。長所はほめられるし、面と向かって堂々と「あなたは私にはこう見えます」ということを論じたのであって、陰口や中傷の類とは次元の違う話です。

 全部終ったあとで知らされたところによると、この研修は、曽子の「十目所視、十手所指、其厳乎」という言葉にヒントを得て考え出されたという。今度これを書くために調べなおしたところ、岩波文庫の『大学・中庸』(1)に次のような解説があった。なんと、恥をさらしますが、そのすぐ前に「小人閑居して不善をなす」という諺(だと思っていた)があった。ひっくるめて紹介すると、

 『大学』〔第二章 凡そ四節〕
 一 所謂誠其意者、毋自欺也、如悪悪臭、如好好色、此之謂自謙、故君子必慎其独也、小人闍処ラ不善、無所不至、見君子而后厭然?其不善而著其善、人之視己、如見其肺肝然、則何益矣、故君子必慎其独也、
 曽子曰、十目所視、十手所指、其厳乎、富潤屋、徳潤身、心広体胖、〔此謂誠於中、形於外、〕故君子必誠其意、


 訳文がついている。

 (一)上文で述べた「自分の意念(おもい)を誠実にする」というのは、自分で自分をごまかさないことである。たとえば〔だれもが〕臭いにおいを嫌うように〔悪いことはすなおに悪いとして追放〕し、美しい色を愛するように〔善いことはすなおに善いとして追求〕するのだ。そのようにすることが、われとわが心を満ち足りたものとすることになる。そこで、君子は必ず内なる己れ自身(意念)を慎んで修めるのである。
 つまらない凡人は、一人で人目につかぬ所にいると、悪事をはたらいてどんなことでもやってのける。さて立派な君子を見ると、そこではじめて蔽いをかけるように自分の悪事を隠して善いところを見せようとする。しかし人びとがそれを見通すことは、まるでその肺臓や肝臓を見抜くほどにも鋭いから、そんなことをしても何の役にも立たない。そこで、君子は必ず内なる己れ自身(意念)を慎んで修めるのである。
 曽子はこう言った、「おおぜいの目に見つめられている、おおぜいの手に指さされている、〔だれもいないと思ってはならぬ。〕ああ、畏れつつしむべきことだ」。財産ができると家屋もその恩沢をうけるように、内に徳ができると人の身体もその潤いをうける。心が公明正大であると、肉体もおおらかになる。こういうのが、内面で誠実にしておれば外にもあらわれるということだ。そこで君子は必ず自分の意念(おもい)を誠実にするのである。


 〔だれもいないと思ってはならぬ〕と言われると、私などは下司だから、「それなら、誰にも見られていなかったら何をしてもいいわけ?」と言い返したくなるが、もちろん曽子の言いたいことはそうじゃないでしょう。きっと、いつ誰に見られてもいいヒトになりなさい、ということだろうと思う。私たちが受けた研修は、あれは、おおぜいの人の目に映り、おおぜいの人の手が指さす、その厳なるものを自分を映す鏡として使う方法だったのだ。

 なぜそんなにヒトの目が大事なのだろうか。そう言えば諺などにも、自分の目は当てにならないよ、という意味のがある。

・岡目八目
 私の父は囲碁が趣味で、この諺を「他人の勝負を見ているときは、打っているときより8目分ほど強くなる」という意味だと言っていた。まあ、弱いくせに他人の勝負にちょかちょか口を出して嫌がられるヒトをからかったのですね。でも『故事ことわざ辞典』(2)では「8目」は「他人の打っている碁をはたから見ている者は、対局者自身よりも勝負を冷静に見ることができるので、八目も先の手まで見通すことができる」の意だとしている。

・人の一寸我の一尺
 この言葉、『故事ことわざ辞典』(2)には「人の一寸、我が一尺」と出ていて、「他人の欠点はささいなことでも目につくが、自分の欠点は、どんなに大きくてもなかなか気づかないものだということ」と解説されている。でも、私が最初に知ったのは、朝日新聞の「素粒子」(1996年11月7日)で、

「人は一寸我は一尺」。違います。「人の一寸我の一尺」です。己の身の丈を知れ、です。

とあった。つまり、人間は、自分のことを10倍に拡大して見る、あるいは他人のことを10分の1に縮小して見るものだ、ということだと思う。自分と相手が同じ寸法だったら、相手が10分の1に見えてしまう。コワイ。でも、私にはこの解釈のほうがピンとくる。なぜって、私は実に自惚れやだから。誰でも知っていることを、自分だけが知っているかのように錯覚してひけらかし、それで何度恥ずかしい思いをしたことか。でも、またすぐやってしまう・・・。

 ただね、私はちょっとほっとしています。弘法大師・お大師さまの座右の銘(3)に、「無道人之短、無説己之長(人の短を言うなかれ、己の長を語るなかれ)」、が入っている、と聞いたです。これって、自分をエライと思っちゃいけないってことですよね? 違うのかな? 自惚れない、ってことがお大師さまにさえそんなに難しいのなら、私にできなくても、そうがっかりすることはないじゃないですか。
 そして、こうも思うのです。自惚れがそんなに克服しがたいものだとすると、それは人が生きていくのにどうしても必要だから与えられているのではなかろうか、と。作った俳句がみんな実物大で見えてしまったら、もう、句会なんか行けない・・・。

 というわけで、「みる」をみてみることにしました。『大漢和辞典』(4)の字訓索引には「みる」がちょうど1ページ分、220字。「あたらしい」は6つしかなかったのに。どうなりますやら。

 では、また来月。
                                     中原幸子

 〔参考文献〕
(1)金谷 治訳注『大学・中庸』(岩波文庫、2003年(第8刷))
(2)郡司利男監修『故事ことわざ辞典』(学習研究社、1997年(第14刷))
(3)野本白雲編『弘法大師集』(平凡社、1946年)
(4)諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館書店、1988年(修訂版))


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