月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー

月刊「e船団」 「ことばを探る」2005年4月号

みる(2)見て!

 ヒトは見られると美しくなります。だから愛する人に見られている女性はより美しく、注目されている俳人はどんどん俳句が上手になるのです。
 子どもはよく「みて、みて」と言いますね。大人も「みて、みて」と言いたいけれど、そこはちょっと我慢する。というか、「見て」と頼んで見てもらってもあんまりうれしくないのですね、大人になると。まあ、見てほしいものにもよりますが。なぜそんなに見てほしいのでしょうか。

 「みる」を前に置いて困り果てていたら、今朝(今日は3月26日)、これが私に注がれたありがたい視線でなくてなんであろう、という偶然があった。いつものようにトーストを作り、ミルクティーを淹れ、ひと口飲んで、テレビのスイッチを入れたら、パッと画面に映ったのがゴッホの「花咲くアーモンドの枝」。フィンセント・ファン・ゴッホ(1853−90)の弟テオの曾孫で、現在、ゴッホ財団の理事長をしているという4代目フィンセントが、「この絵は家族との関係から生まれました」と言っているところだった(1)。
 その途端、胸のあたりを「そうか!」という感じが走り、「見ることは関係を作ることなんだ」と思った。自分でもさっぱり訳の解らない話だと思う。でもそう直感してしまった。しようがないのです。

 テレビではこの絵が生まれたいきさつが語られていた。1890年1月、ゴッホの弟テオとその妻ヨハンナの間に男の子が生まれた。ヨハンナは妊娠を知らせるゴッホへの手紙に、生まれる子どもはきっと男の子で、フィンセントと名付けるのだ、と書いたが、その通りになり、フィンセントは生まれたのだ。「花咲くアーモンドの枝」は、初代フィンセントから2代目フィンセントへの誕生祝いである。それからずっと、この絵はゴッホ家の子ども部屋に飾られ続けたという。テオはゴッホの生涯にただ1人の理解者であった。経済的、精神的に支え続けた。温かい視線を注ぎ続けた。ゴッホはこの絵の半年後に自殺し、テオもその半年後、後を追うかのように亡くなった。でも、テオの視線はヨハンナに受け継がれ、2代目フィンセントに受け継がれた。ゴッホ没後約100年を経た1973年、遂に「ゴッホ美術館」が開館。生前にはたった1枚しか売れなかったゴッホの絵、たくさんの遺作がそこに並んだのだ。

 テレビが終ったとき、私は、視線が生む関係によってゴッホが歴史に残る画家となった、と思った。 一本の視線、それはきっと心の乗物なのだ、と思った。私たちはそこに乗って伝わってくるものを身に享けて、いきいきするのだ。いきいきしたいから、どきどきしたいから、見られたいのだ。
 そう思ったとき、やっと「みる」にハンドルが付いた気がしました。

 さて、「みる」を知らないと。でも、これが、難しい。常用漢字表で「みる」の音訓が認められているのは2つ、「見る」と「診る」しかないのだ。一方『大漢和辞典』(2)の字訓索引には「みる」が220ある。この差はいったい何? 広辞苑は5つで、「見る」「視る」「観る」「回る」「廻る」。広辞苑よ、キミはどうしたの? 常用漢字が抜けているなんて、と思ったら、「診察する」という意味のところに「診るとも書く」と書かれていた。いまいちだ。

 手もとの辞典がどれも気に入らず、書店に行った。ふと目にとまったのが学研の『現代新国語辞典』(3)。金田一春彦の名が目に飛び込んだからだ、と思う。好きなので。これが、「おお、これ、これ!」という感じだった。「みる」を見ると、

 みる【見る・観る・看る・視る・診る】(ここでは、常用漢字の「見る」と「診る」以外は右上に小さい▽がついている)。
(一)《他上一》(1)目の働きで物の存在をとらえる。また、物の形・様子・内容などを知る。「確かにこの目で見た」「新聞を見る」「映画を見る」「敵の動きを見る」 (2)目以外の感覚にたよって物事をとらえる。「味を見る」「夢を見る」 (3)〔結論を出すために〕調べる。特に、診察する。「手相を見る」「答案を見る」「患者を診る」 (4)判断する。評価する。「人を見る目がある」 (5)引き受けて世話をする。「会社の経理を見る」「年とった母を見る。「看る」とも書く。 (6)身に受ける。経験する。「ばかを見る」「痛い目を見る」 (7)存在を確認する。「船は島を右に見て進む」 (8)〈「・・・から見る」の形で〉・・・と比較する。「彼から見るとずいぶん背の高い男だった」《上一》。

(二)(補助)(1)「ある動作を試みにする」の意を表す。「どんな味か少し食べてみよう」 (2)〈「・・してみると」「・・・してみたら」「・・・してみれば」の形で〉次にくることが実現する、あるいは明らかになるための条件を表す。「行ってみると楽しい集まりだった」「歩いてみたら、結構時間がかかった」(二)は、ふつうかな書き。《上一》。


 という具合で、さらに、「類語と表現」という欄が設けられて、「見る」にかかわる表現が列記され、謙譲や尊敬の言い方や「見る」に関係のあるオノマトペまで載っている。また、漢字の使い分けも、解りやすく示される。少し抜き出してみると、

 常用漢字で「見る」が使われるケース:映画を見(観)る・新聞を見(覧)る・病人を見(看)る・被災地を見(視)る
 常用漢字で「診る」が使われるケース:患者を診る・脈を診る

 いかがですか? とても気持ちよく読めるでしょう? と、今ごろ知ったくせに自慢することはないんですけどね。ただ、やっぱり私はそれぞれの漢字が、もともとはどんな意味なのかを知りたい。いつもは『字統』のお世話になっているが、今回は『常用字解』(4)をみてみた。もともとの意味が、下記のようにとてもわかりやすく説明されているので(以下はそれぞれの字の「解説」)。

 象形。目を主とした人の形。人を横から見た形(儿(じん))の上に大きな目をかき、人の目を強調して、「みる」という行為をいう。見るという行為は相手と内面的な交渉をもつという意味で、たとえば森の茂み、川の流れを見ることは、その自然の持つ強い働きを身に移し取る働きであった。[万葉集]に「見れど飽(あ)かぬかも」「見ゆ」という表現が多いが、それは対象の魂をよびこむことによって新しい生命力を身につけるという観念を示すものであった。

 形成。もとの字は觀に作り、音符は(かん)。は鸛(こうのとり)で、神聖な鳥とされ、鳥占いなどに使われたものと思われる。を使って鳥占いをし、神意を察すること、「みる、みきわめる」ことを観といったのであろう。勧は農耕儀礼に関する字であるから、観ももと農耕について神意をみることが行なわれたのであろうが、のちひろく「みる、くわしくみる」の意味に使い、遠くまで見ることのできる高い建物を観という。

 会意。手と目を組み合わせた形。目の上に手をかざしてものを「みる」の意味である。「みる」とよむ字に、見・省・看・相・視・診・察・賭・監・覧・瞻・観(以上、旧字体は略)などの字があり、それぞれの見方がある。看は手をかざして遠くを見る、また、しげしげと見るの意味である。よく見て見ぬけよというときは看取せよ、見つくすことを看殺す、看破すという。

 :もとの字は「示(しめす)」偏で祭のときに使う机(祭卓)の形の由。見は上記の「見」に書かれる通りである。視は神前で、神の姿を見る、神意の示すところを「みる」の意味となり、神の姿を仰ぎ見ることによって神意が示されるので、「しめす」の意味となる。「みる」とよむ字は文献に使用する字が三十字をこえるが、それぞれの見方がある。

 :なんと、この字の旁は、人の体に発疹のできている形。これは体内に病気のある前ぶれであるから、その病む所を診(み)ることを診という。「病状をみる、みる、しらべる」の意味に用いる。[荘子、人間世]に「夢を診(つ)ぐ」のような用例があり、夢判断の意味もあったのであろう。

 うーん、やっぱり漢字はエライですねえ。たった1字のもつこのものすごい情報量。またまた漢字ファン度を上げてしまいました。しかも、こうしたものすごい漢字を生む力が、他ならぬ「目で見る」ことから来ているんですよね。しかも私たちは、上記の『現代新国語辞典』(3)にもあるように、目以外の感覚によっても「みる」ことができるし。もう感動。

 で、あなたはどんなふうに「みて」もらうと、いちばんうれしいですか?
 では、また来月。

〔参考文献〕
(1)NHK総合TV(2005年3月26日(再)、世界美術館紀行「家族への贈りもの〜ゴッホ美術館」)
(2)諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館書店、1988年(修訂版))
(3)金田一春彦編『現代新国語辞典』(学研、2005年、改訂第3版第4刷)
(4)白川静著『常用字解』(平凡社、2004年初版第2刷)


月刊「e船団」 「ことばを探る」2005年5月号

みる(3)見える

 目の前にいる人に、なんでわざわざ「見て、見て」と言うのだろう。あ、もしかして、「見る」と「見える」の違いかな、と思いました。ところが・・・。

 大分前になるが、NHKで「ニコニコ日記」というドラマをやっていた。原作・小沢真理、脚本・大森美香。主人公のニコちゃん(永井杏)は、女優・紫野美冬(大塚寧々)の隠し子で今年10歳。育ててくれた祖母が亡くなった後、もと美冬の付き人(?)だった小鳥遊(たかなし)ケイに預けられる。自閉症気味のニコをなんとかしようとケイが考えついたのが交換日記、つまり「ニコニコ日記」だ。ニコはその後一時、母のもとに引き取られるのだが、そこでも過酷な経験が待っていた。ニコはこう書く。
 「ケイちゃん、ここはとてもさびしいです。お母さんの目には、わたしは見えないみたいです。」

 「産みたくて産んだんじゃない」、という母と、「私だってケイちゃんの子どもになって産まれたかった」とケイにすがりつくニコ。父に会える日に一縷の望みを託していたニコだったが、父は自分が生まれる前に、生まれることも知らないまま事故で死んでしまっていた。それを話す母の、淡々たる語り口に一層深く傷つく。
 だがニコは、ケイとその恋人、ケイの母、担任の先生とクラスメート、母の所属するプロダクションの社長、といった自分を取り囲む人たちとの交流を通して、しなやかに立ち上がる。最後の最後に、「お父さんに会えんでも、お母さんが見てくれんでも、わたしはちっともさびしくないや、って思った。だって、わたしは独りじゃないから」というまでに。
 もちろん、そう言い聞かせているのだ、自分に。自分ではその言葉が本心だと思っているが、そう言い聞かせているのであることは疑いの余地がない。
 最後には母と子の間に心が通って終わるのだが、そのシーンも「見る」シーンだった。ホテルの部屋で母と会ったニコ。ニコは、今では豪華な車で送られて帰るのだ。車に乗り際に、ニコはふと視線を感じて母の部屋の窓を見上げる。そこには黙って見送っている母の視線があった。

 「見る」をキーワードにしてドラマを見る、というのは初めてだったが、面白いですね、こういうの。で、「見る」と「見える」の関係はどうなっているのかしらん?「見る」には意志が感じられるが、「見える」にはないのかな、などと思ったが、浅はかだった。「みえる」も一筋縄ではいかない。先月の「見る」で惚れこんだ『現代新国語辞典』(1)を見てみると・・・。

『現代新国語辞典』(1):
み・える【見える】
(自下一)(1)目に存在が感じられる。目にうつる。「山が見える」
(2)見る能力がある。「猫は夜でも目が見える」
(3)〔外見から判断して〕・・と見受けられる。「うれしそうに見える」「彼は金持ちに見える
(4)「来る」の尊敬語。「B社の社長が見えた」み・ゆ《下二》

 「見える」は割にそっけなく扱われている。では、広辞苑は。

『広辞苑』:(用例は一部略)
み・える【見える】
《自下一》み・ゆ(下二)(動詞ミ(見)に自発の助動詞ユが付いた語)
(1)自然に目にうつる。目に入る。「眼下に山が見える」
(2)見る能力がある。「猫は夜でも物が見える」
(3)(他から)見られる。徒然草「心おとりせらるる本性見えんこそ口惜しかるべけれ」
(4)(他の人に見られる意から)見せる。源氏物語(桐壺)「はかなき花・紅葉につけても心ざしを見え奉り」
(5)(見られる意から)妻となる。源氏物語(若菜上)「女は男に見ゆるにつけてこそ、くやしげなる事も目ざましき思ひもおのづから打ちまじるものなめれど」
(6)会う。源氏物語(葵)「世の中のいと憂く覚ゆる程すぐしてなむ人にも見え奉るべき」
(7)「来る」の尊敬語。「まだどなたも見えません」
(8)見受けられる。思われる。「金持ちに見える」
(9)見て、わかる。見てとれる。「先が見える」


(3)から(5)までは現代の用例が載っていない。今ではこれらの意味が廃れてしまったのだろうか。『現代新国語辞典』(1)では省かれてしまっているし。

 さて、こうして「見える」の解説をみてきたとき、「ニコニコ日記」のニコちゃんが「お母さんの目には、わたしは見えないみたいです」と言ったその「見える」はどれだろうか。広辞苑で見てみよう。
(1) の「眼下に山が見える」。これも大事だ。それ抜きではコトは始まらない。しかし、山が見えるように見えるだけでは、きっとニコちゃんはよけいにさびしいだろう。
(2)のように「夜でも物が見え」たらいいのか。むろんそうじゃない。視力の問題じゃない。
(3)は他人にそう見られる、つまりそう思われる、もしくはそう見抜かれることだろう。だとするとちょっと近いかも。内容はどうであれ、ニコちゃんは、自分のことを何とか思ってほしいわけだから。(4)〜(8)もこの際関係ないようだ。
(9)は「見て、わかる」。これが一番近いかもしれない。

 でも、どれもいまいちで、心の底から「これだ!」と叫ぶ気にはならない。どれを当てはめても、ニコちゃんが、「お母さんの目には私は見えない」と感じるシーンを説明できない。「見る」にしても「見える」にしても、私たちがそこから受け取るものを、他の人に分かるように説明することはなんと難しいことか。それなのに、この台詞を聞けばたちどころにニコちゃんのさびしさに共感できる私たち。これこそ私たちがもっているコトバ力(?)の偉大さではないでしょうか。

 ふと、前にご紹介したこんな会話を思い出した(「ことばを探る」(2002年6月号))。

 女「私、出ていくわ」
 男「誰だ、そいつは」

 こんな会話が成り立つこと、それが言語能力なんです、という話だったのだが、ニコちゃんの台詞のなかの「見える」の奥深さも、きっとこの言語能力から来るのだろう。

 辞書では「見える」がよく分からなかったのに、なんだか辞書がいとしい気がする。こんなに分からない思いをしたのに、前より辞書が好きになっている。辞書を作りたいヒトが次々に現れるわけが分かった気もする。きっと、どの辞書を調べてもさっぱり分からないじゃないか、と口惜しい思いをしたヒトがいっぱいいるのだろう。

 それにしても、「見えてるのに見てない」って最低。ちゃんと見てあげましょうね、みなさん!

 では、また来月。
                                 中原幸子

〔参考文献〕
(1)金田一春彦編『現代新国語辞典』(学研、2005年、改訂第3版第4刷)


月刊「e船団」 「ことばを探る」2005年6月号

みる(4)ことばの貸し借り

 『海辺のカフカ』(1)を読みました。はい、いまごろ読んで恥ずかしいです。
 読み始めてまもなくのところ、第4章ですが、森の中で、集団で意識を失った子どもたちを診察した中沢重一医師が、子どもたちの目についてこんなふうに言っています。

 いいえ。瞳がまるで探照灯のように左右に動く以外に、変わったところは何もありませんでした。すべては正常に機能しておりました。子どもたちは何かを見ていました。もっと正確に申し上げますと、子どもたちは、私たちに見えるものを見ないで、私たちには見えないものを見ているように見えました。いや、何かを見ているというよりは、むしろ目撃しているという方が、印象として近いかも知れません。(・・・)

 眼球が動くことと「見える」こと、「見る」ことは違うこと、「見る」という言葉では伝わりにくいものを「目撃」と言い換えて伝えようとしていること。なるほどなあ、流石。

 先日、「日本語なるほど塾」(2)を見ていたら、視覚や触覚や味覚の言葉はたくさんあるが、嗅覚の言葉は少ない、という話をしていた。「ネギのニオイをどう表現しますか?」という街頭でのインタビューに「ウチの下駄箱のニオイ」と答える人までいる始末。でも、それは何もネギには限らない。レモンだって、コーヒーだって、パンだってご飯だって・・・、ソレを知らない人にそのニオイを言葉で伝えるというのは殆ど不可能だ。
 でも色だってそうなんですよね、ホントは。赤を知らない人に言葉で赤を説明するなんてできないもの。赤という色を説明するには赤いものを見せるしかない、筈。でも、赤いバラの色とその香りを誰かにわかってもらおうとするとき、香りの方が断然難しい。この差はどこから来るか、といえば、それは赤いものはそこら中にあるが、赤いバラの香りは赤いバラしか持っていない、ということだろう。

 で、話を戻すと、「日本語なるほど塾」で、リービ英雄は、ニオイの表現には他の感覚に使われる言葉が借りられてきている、と言う。まあ、リービ英雄でなくても、あなたも毎日のように使っておられますよね。甘い香り、青臭い匂い、などなど・・・。  こういう表現の仕方を「共感覚法(synesthesia)」というのだそうですね。ちゃんと専門用語があるんだ、とびっくりして、あわてて「ネットで百科」(3)をみてみると、「共感覚」が見つかった。

共感覚 きょうかんかく synesthesia

 ある刺激に対して,その本来の感覚に,ほかの感覚が伴って生ずる現象。外界からの刺激は目,耳などのそれぞれ固有の感覚受容器を通って,視覚,聴覚などの感覚属性がもたらされる。こうしたさい,ときには一つの感覚受容器からもたらされる感覚属性の感覚 (一次感覚) が他の種類の感覚属性の感覚 (二次感覚) をもたらすことがある。たとえば音をきいて色が見える (色聴) 人がいる。このように,一つの感覚系統に属する直接の反応のほかに,本来,その感覚器以外の系統に属する感覚反応が起こる現象が共感覚である。高い声を〈黄色い声〉というように,低音に暗い色,高音に明るい色を感じる共感覚現象があるが,このさいの二次感覚は主観的現象と受けとられ,現実性を欠く。ある種の薬物の中毒や癲癇 (てんかん) の前兆現象のときには,そばで話された言葉と同時に頭に痛みを感じたり,音楽から色彩や味,においをありありと感じるような共感覚異常が起こることがある。 (中根 晃)


 うん、これがあるから言葉の貸し借りができるのか、と一応納得・・・。いえ、自信はないです。この解説だと、行き過ぎると病気なのか、という感じだし。
 それはともかく、リービ英雄の指摘はスルドイ、と思う。『香りの百科事典』(4)の「感覚用語を利用した表現用語」によれば、ニオイの表現には他の四感のすべてから用語が借りられているのがわかるから。

(1)視覚的表現
 明暗:ライト(light):明るい、ダーク(dark):暗い
 形状:ラウンド(round):丸い、フラット(flat):平坦な、シャープ(sharp):鋭い
 色彩:赤い、青い、白い

(2)皮膚感覚的表現
 重量:ヘビー(heavy):重い、ライト(light):軽い
 柔軟:ソフト(soft):柔らかい、ハード(hard):硬い
 寒暖:ウォーム(warm):暖かい、クール(cool):冷たい
 湿度:ウェット(wet):湿った、ドライ(dry):乾いた
 触覚:ベタベタ、サラサラ、ザラザラ

(3)聴覚的表現
 ノート(note):調子、ハーモニー(harmony):調和

(4)味覚的表現
 スィート(sweet):甘い、ビター(bitter):苦い、サワー(sour):酸っぱい、ホット(hot):辛い、アストリンゼント(astringent):渋い


 こう見ると、日常私たちがニオイの表現に一番よく借りて使っているのは味の表現であろうか。そう言えば、香道では香木の香りを分類するのに六国五味といって、六つの産地の名と五つの香りを組み合わせて表現している。六国とは伽羅、羅国、真南蛮、真那賀、佐曾羅、寸門多良、五味とは甘、酸、辛、苦、鹹だというが、ひっくるめて五つの味、と称しているのだから、共感覚法による表現の大先輩である。しかし、もともと飲食物の味と匂いは切っても切れない関係にあり、両方とも化学感覚であるという点でも共通している。表現用語の貸し借りは当然かもしれない。

 もちろん、視覚にかかわる表現もあちこちに借りられている。香りの表現に使われている「青臭い」などは、更に、「青臭い意見」だの、「青臭い若造」などとまた貸しされているくらいだ。匂いと味ほど近くはなくても、きっと五感は密接につながっているのだろう。いや、ネットで百科(3)の「五感」の解説には第六感もちゃんと入っているのだ。

 五感 ごかん five senses
 古くアリストテレスの時代から,外界のいろいろな刺激によって生ずる感覚として視覚,聴覚,味覚,嗅 (きゆう) 覚,触覚の五つが区別されてきた。これを五感という。この五つの感覚は今日でいう感覚の種に相当するものであるが,感覚の種はこの五つに限られたものではなく,とくに触覚で代表されている皮膚感覚は,触・圧覚,温覚,冷覚,振動感覚などが区別されており,そのほか位置および運動感覚,平衡感覚などが感覚の種とみなされている。 第六感という言葉があるが,これは上記の五感に含まれない 6 番目の感覚の意味で,文献的には,ベル Charles Bell (1826) が筋肉の運動感覚に対して,これを第六感 the sixth sense といってはじめ使ったとされている。また身体の一般的感覚 cenesthesia の意味で用いる場合もある。ジャバール E.Javal は 1905 年に未開人にみられる〈本能的〉ともいうべき探索能力,方向感覚を第六感としている。 ⇒感覚(小川 哲朗)


 色即是空、というけれど、いつか、なにもかもが一つにつながっているのが分かる日がくるのかも知れないな。では、また来月。
                                  中原幸子

〔参考文献〕
(1)村上春樹著『海辺のカフカ』(新潮文庫、2005年)
(2)NHKテレビ「日本語なるほど塾」(2005年5月19日)
(3)ホームページ「ネットで百科」(有料)(http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)
(4)谷田貝光克他編『香りの百科事典』(丸善、2005年)


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