月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー

月刊「e船団」 「ことばを探る」2005年10月号

俳人たちの「みる」(3)

 俳句技法の既存のいくつかのパターンによって、感動を処理する俳句は、死んだ俳句。書かれてはじめて、突出した感動をもたらし、切実に何かが見えたという興奮をもたらすのが、真正の俳句。

 これが、『俳句百年の問い』(1)の(22)「切実な『見る』行為」(高柳重信)に、編者の夏石番矢がつけたレジュメである。ついでに言うと、「切実な『見る』行為」というタイトルも編者がつけたもので、原題は「『書き』つつ『見る』行為」(昭和45年6月号「俳句」)だった由。

   私は「ことばを探る」にあたって、素人には素人にしか見えないものが見える筈、と開き直り、素人であることを丸出しにして、というより、それを楽しんできました。 でも、「切実な『見る』行為」は勝手がちがいました。素人が近づくことを受け付けてくれない、という感じだったのです。上記のレジュメに続けて、「皆さん「『書き』つつ『見る』行為」をお読みください」、と書いて、今月号はお終いにすべきか、と思いました。何か書いてみても、とっくに読まれた方にとっては勿論のこと、読んでおられない方にとっても、迷惑でしかないな、と思って。

 でも、危ないことはしてみたいもの。私は、なんとかならないものか、と思い、大阪府立中央図書館から『高柳重信全集』全3巻(2)を借りてきました。そして、第1巻の扉の高柳重信(31歳)のポートレートを見たとき、突如こうひらめいた(?)のです。「わあ、なんてよく似合う髪形をしてるんだろう! 俳句を多行形式で書くって、きっとこの髪形みたいに高柳重信によく似合っていたのだ!」。
 その人に似合って、その人にしか似合わない形。それをもつことが高柳重信のしたことだったのかなあ、と思いました。これこそ素人の感想ですが、でも、急に肩が軽くなりました。お陰さまです。

 さて、「『書き』つつ『見る』行為」は「俳句研究」の編集長になって3年目の高柳重信が、「俳句」の求めに応じて書いた評論で、テーマは「我が俳論」だった。全集の年譜には、これによって「自己の俳句詩法を開陳」したと記されている。その書き出しは、

 俳論とは、いったい何であろうか。いま、それを求められて、いささか困惑している。敗戦直後、まだ二十歳を幾つも出ない頃には、たしかに、その俳論らしいものを書いたことがあるが、それは、いわば、若気のあやまちのようなものであったろう。
 その頃は、正直なところ、俳句形式について、ほとんど何も知らない状態だったから、(中略)当時の僕の書いたものは、その後の僕の俳句創作のために、ほとんど実用的な効力を示したことはなかった。
 その後、二十数年を経て、現在の僕は、当時とくらべて、多少なりとも俳句形式についての理解を深めているにちがいないと思うのだが、そうかと言って、いま、格別な俳論を書けるような気には、一向になってこないのである。要するに、その二十数年の歳月によって、僕の得たものといえば、きわめて僅かな洞察にすぎない。


 そして、高柳が、俳論とはどんなものでないといけないと考えているか、が述べられる。

 〈降る雪や明治は遠くなりにけり (中村草田男)〉の句には、それに先立って〈獺祭忌明治は遠くなりにけり(某氏)〉という句があった。高柳は、世間に草田男の句を盗作もしくは剽窃であるとする説があることに対して、「これくらい愚かしい議論はない」とし、なぜそれが愚かしいのかを論じた上で、次のように言う。

 (・・・)もし、本当に実用的で有効な俳論を書こうとするならば、この「獺祭忌」にかわる「降る雪や」を、どうしたら発見できるかということを、はっきりと言いとめなくてはいけないはずである。だが、おそらくは、現在の僕のみならず、明日の僕も、明後日の僕も、まず不可能であるにちがいない。もっとも、俳壇では、この段階に至ると、誠心誠意だとか、感動に忠実であれとか、あるいは、泥にまみれるまで対象に没頭せよだとか、きわめて精神主義的な言葉が安直に乱発され、それが、そのまま、有益な俳論として通用してしまうようである。しかし、それを言っている当人が、その説をどれほど信じているのか疑わしいし、現実に彼らの書きあげる俳句を見ると、そのご利益のほども軽々しくは信じられないような気がするのである。
 それを思うと、俳論というものは、誰が書いてみても、およそ不毛な感じが濃厚である。(略)


 つまり、「『獺祭忌』を『降る雪や』に変えただけやろ? 盗作や!」という説の愚を縷々論じてみても、「『獺祭忌』を『降る雪や』に変えてみたらどうやろ」と思いつく方法を書けていないのなら、それは実用的な俳論とは言えない、ということですよね?
 私はものすごく嬉しかったです。これまで俳句の本を沢山読んできたけれど、読んだからといって「この句のこの語を何に代えたら良い句になるか」が具体的にわかったためしはなかったので。

 で、唐突ですが、私は「アクターズ・スタジオ・インタビュー」というテレビ番組のファンです。先だって、その10周年記念番組(3)が放送され、冒頭にアクターズ・スタジオの学長の1人であるエレン・バースティンがスペシャル・ゲストとして出演していました。

 自身もアクターズ・スタジオで学んだことのある彼女は、司会のジェームズ・リプトンから、「あなたにとって、メソードの根本精神とは?」と訊かれ、若い頃、リー・ストラスバーグから、自分の演技を、「とても自然な演技だがリアルではない」と評されたことを思い出し、次のように答えていた。

 (自然な演技とリアルな演技の)違いがはっきりと分かるまで7年かかったわ。それほど理解するのは難しいものなの。
 当時の私には素材を読み込み、自然に見せる演技力はあった。でも、素材の奥深くまで入り込んで、そこに自分の経験や感情を重ね合わせ、アクターズ・スタジオで習得した技法を用いると、それまでとは全く違う世界が開けたの。チェーホフがとらえた架空の世界ではなくなる。演じる物語の中に、私自身の人生が息づき、その時その場で私の感じる真実が舞台の上にさらけ出されるの。でも、リアルな演技とチェーホフは無縁ではないわ。チェーホフに命を与え、活気づけることなのよ。だからモスクワを夢見た「三人姉妹」は、今も舞台で息づいている。


 ジェームズ・リプトンは、「そのモスクワこそメソード発祥の地」と応じ、バースティンは「ええ」とうなずいた。
 ここで私は、メソードという言葉が私の理解しているのとは違う深い意味を持っているらしいことに気付き、あわててコンサイスをめくった。そこにはなんと、定冠詞がついて大文字で始まる「the Method」が出ていたのです。意味も見ました。「スタニスラフスキー法〔俳優が演ずる役柄になりきろうとする手法〕」と書いてありました。

 バースティンの話に出てくる「技法」は英語ではtechniquesだった。普通のmethodだったら「方法」とでも訳されたであろう言葉が、日本語字幕で「メソード」になっていたのにはちゃんと訳があったのだ。恥ずかしい。でもまあ、嬉しくもあった。そして、私はふと、高柳重信が求めていたものはこの「メソード」の書かれている、あるいは「メソード」を生む俳論では、と思った。例えば山口誓子にとって、「取り合わせ」は「技法」で「写生構成」は「メソード」だったのでは。苦しんで、苦しんで写生構成というメソードに至ったとき、誓子に名句が生まれたのでは、と。
 え?これって、まさか、ジョーシキ?困ります。

 それに、また、高柳重信の「見える」に辿り着けませんでした。ごめんなさい。来月は是非。
 ではまた、来月。
                                        中原幸子

〔参考文献〕
(1)夏石番矢編『「俳句」百年の問い』(講談社学術文庫、1995年)
(2)『高柳重信全集』(立風書房、1985年)
(3)NHKテレビBSU(2005年8月26日放送)


月刊「e船団」 「ことばを探る」2005年11月号

俳人たちの「みる」(4)

 俳句技法の既存のいくつかのパターンによって、感動を処理する俳句は、死んだ俳句。書かれてはじめて、突出した感動をもたらし、切実に何かが見えたという興奮をもたらすのが、真正の俳句。
 この、『俳句百年の問い』(1)の(22)「切実な『見る』行為」(高柳重信)に、編者の夏石番矢がつけたレジュメをもう一度お目にかけておいて、さて、少しは先へ進めたかどうか、なのですが・・・。
 一旦はあきらめ状態でしたが、でも先月、「来月は是非、高柳重信の「見る」に辿り着きたい」などと書いてしまった手前、なんとかしなくちゃ、と、とうとう一語一語音読してしまいました。すると、おかしなことですが、どこからか、「え?俳句って香水と同じ?」という感想が浮かんできたのです。香水とは長年仕事で付き合ってきた仲なので、きっと見かねて助けてくれたのでしょう。
 と言っても、みなさんには何のことやらお分かりにならないと思います。うまく書けるかどうか分かりませんが、トライしてみますと・・・。

 前号で述べたようにこの「切実な『見る』行為」の原題は「『書き』つつ『見る』行為」だった。『高柳重信全集』(2)では第三巻に収録されているのだが、この巻には坪内稔典による解題がついている。坪内は、高柳が俳句形式への執着をもっとも率直に語っているのが「『書き』つつ『見る』行為」だとし、そこから、
 『蕗子』以後の僕は、まさに文字どおり、言葉を書くだけであり、そして、きわめて稀に、そこに書き並べられた言葉のなかに、何かを『見る』だけであった。したがって、現在の僕には、発想というほどのものもないし、その発想に先立って何ものかに対する感動のようなものもない。僕にとって、感動とは、時に言葉のなかに何かを見た場合の感情である。
 という部分を引用した上で、
 言葉のなかに高柳が見ようとしたのは、言うまでもなくあの〈非常に切実な何か〉、すなわち出会うべき俳句であった。高柳においてその俳句は、常に逆説的に存在していた。誕生がたちまち死であるようなそんな《未知の俳句》を語るとき、その語り口は当然ながら逆説的になった。ときには衒学的にも韜晦的にもなった。(以下略)
 と述べている。

 ここで、ああそうか、と思い当った。なぜ「俳句って香水と同じ?」と思ったかに。高柳は、高柳自身にもまだ見えていない《未知の俳句》のことを書こうとしていて、だから、それがどんな俳句かを具体的に示してくれられないのだ。だとすれば、それは香水の創作の場とそっくりだから。

 香水の創作と言えば、マリリン・モンローが着て寝たので有名な「シャネル5番」にまつわるエピソードが有名である。その調香師の名はエルネスト・ボー。1882年にモスクワで生まれたフランス人だった。彼はその創作のインスピレーションを、講演で次のように語ったという(『香りの世界をさぐる』(3))。

 私が、それをつくったのは、正確には、1920年です。戦争からの帰りのことでした。従軍でヨーロッパ北部に私は行っていました。北極圏の彼方には、真夜中の太陽が輝き、湖や大きな河がとても新鮮な香りを漂わせていました。私はその香りを心にとどめておいて、苦心の末に香水に再現しました。

 この後に、現代の香水つくりについてこう続く。

 現代の香水づくりは「シャネル5番」がつくられたときのような、個人の偶然の着想とか、インスピレーションによっているのではない。(中略)現在の香水の設計は、香水の基本的なコンセプトを最初につくり、それから、物としての瓶とパッケージ、名前、当然ながら最も重要な香りのほかに、その流通ルート、価格、宣伝、広告などのマーケッティングの方法と費用などを総合的に検討することが必要である。

 提示されたコンセプト、それはどんな香りをも意味しない「言葉」として示されるわけだが、それにぴったり合う香り、それはまさに、書かれてはじめて「これだ!」とわかる《未知の俳句》に匹敵する、嗅いではじめて「これだ!」とわかる《未知の香り》の筈なのである。
 もっとも、ボーのつくり方にしても、記憶にある匂いの単なる再現ではなかった。彼が創った「シャネル5番」は、世に出たばかりの新しい化学香料を見事に使いこなした、自然には存在しない香りだったのである。ボーも、自分の書いた処方箋に従って調合された香りが「シャネル5番」の香りを放ったとき、「これだ!」と感動したに違いないのである。

 くどいようですが、私が言いたいのは、本当にクリエイティブな調香師なら、新しい香水をつくろうとするとき、出発点では、それがどういうニオイなのか知っているわけではなく、出来て初めて「これだ!」と知り、感動するのだということです。

 高柳は「『書き』つつ『見る』行為」の最後に、次のように書いている。

 要するに、僕は、ある時、一つの言葉に出会う。それは週刊誌の愚劣な実話小説の一行のなかに於いてでも、生物学の教科書の見出しのなかに於いてでも、あるいはテレビの画面に流れるテロップの断片に於いてでも、何でも構わない。出会ったという思いは、その言葉が僕の眼に入った瞬間、その言葉が現に置かれてある前後の言葉と関係なく、その文脈とも無関係に、その言葉の独立した意志の働きのように、もう一つの言葉を浮かびあがらせてきたときに、たしかな手応えとして響いてくる。
 そして、このあとは、ちょうど十七字の分量のコップのなかに、すでにある言葉が招いている言葉を次々と流しこむだけである。流しこまれた言葉は次々と溢れ出し、そのコップのなかの言葉は少しずつ微妙に変化する。こんな作業を現実に紙の上に文字を書いてゆくというかたちで行っていると、ふと何かが見えたような気がする瞬間がある。僕が、その言葉を通して、何かを見たと信じ、それを見たことによって、なにがしかの感動めいた興奮が生まれたとき、それは僕の作品として書きとめられる。したがって、この作業に加わっているのは、俳句形式と、その形式に反応しながら自由に流れてゆく作業と、それを書きとめてゆく僕の手である。


 こう読んでくると、高柳重信という俳人の俳句の産屋をちょっと覗かせてもらった気がするが、でも、それにしても、高柳重信様、『伯爵領』の最後にあるこれ(↓)っていったい?


 「『書き』つつ『見る』行為」以降、昭和47年から50年にかけての句を収めた『山海集』の後記に、高柳は、自分に呼びかける「何ものとも知れぬ不思議な呼び声」のことを書いている。うーん、私もそんな声が聞けたらなあ。ものすごく苦しそうだけど。
 ではまた、来月。
                            中原幸子

〔参考文献〕
(1)夏石番矢編『「俳句」百年の問い』(講談社学術文庫、1995年)
(2)『高柳重信全集』(立風書房、1985年)
(3)中村祥二著『香りの世界をさぐる』(朝日選書、1989年)


月刊「e船団」 「ことばを探る」2005年12月号

年賀状の研究

 年賀状の方はおすすみですか。
 私の友人に、「暮に『おめでとう』なんて、おかしい。ゼッタイ嫌だ」とつっぱってるのが1人います。知り合って50年、ずっと、正月二日に筆で書いた年賀状。時に2枚に亘り、1枚目の終りに(続く)と書いてある。
 彼女はヘソ曲がりなのか、それとも正しいのか? などと改めて考えたのは、朝日新聞の天声人語(1)がきっかけだった。覚えておられる方も多いでしょうが、今は亡き池波正太郎さんは、年が明けると間もなく翌年の年賀状を印刷に出し、夏から秋、そして師走にかけて少しずつ宛名を書いてゆかれたのだという。池波さんほどではなくても、みんな年末には年賀状が気になる。いつもアタマの隅にちょこんと居座っている気配がする。なんで年賀状って年末に書くの? 昔はどうしてたの? いったい、年末に年賀状を出すのって、いつ、誰が、なぜ、どのように始めたことなの?

 ところが、不思議なことに、「ネットで百科」(2)には「年賀状」の項は無いのですね。百科辞典に無いなんて! 広辞苑にはあります。ありますが、「年賀のために出す書状。年始状。〈季・新年〉」とそっけない。「知らないの、そんなこと?」と言わんばかり。

 それで図書館へ行ってみた。
 「あのう、年賀状の歴史を調べたいんですけど・・・」と言うと、司書の女性は「え、歴史ですか。書き方ならたくさんあるんですけど・・・」と戸惑いながらも、いくつか見つけてくれた。
 ま、物好きな(失礼!)人はいるものですね。まず、ズバリ、「年賀状の始」(3)というのがあった(引用部分の表記は一部変更あり)。

 はがきに謹賀新正とか恭賀新年、元旦、祈禧、賀正、新正などと書いて新しい歳を迎えたことを祝う挨拶に代えて出すようになつたのは明治12年(皇紀2539、西暦1879)の頃からであり、それが年をおうてしだいに盛んとなるにおよび取りあつかい上の混雑をふせぐために年賀郵便の特別扱いの方法が行われるようになつたのは同39年(皇紀2566、西暦1906)12月からである。

 なあんだ、郵政省(そのころは逓信省)が、正月にどっと押し寄せる年賀状に困って、暮に受け付けて正月に配達することにしたわけ?
 それにしても、うまいことを考えたものだ。暮に書く気忙しさはともかく、お屠蘇機嫌で年賀状をめくるのはなかなかいい気分じゃないですか。ちなみに、お年玉つきになったのは昭和25年からで、特等の賞品はミシンだった。
 「年賀状の始」(3)には、先の文に続けて短歌や川柳も紹介されている。

 正月の四日になりて
 あの人の
 年に一度の葉書も来にけり (石川啄木)

 年賀状旅の父へは子に書かせ (三次)
 年賀状カルタのようにならべて見 (紫苑)


 とても新鮮でうれしそうだ。一方、俳句の方は悲喜こもごもというところ。

 ひとひらの紅き賀状を胸にとめ (石原八束)
 賀状うづたかしかのひとよりは来ず (桂信子)

 で、当然ですが、ハガキができるまでは年賀状は封書だったわけですよね。ハガキの登場は「ネットで百科」(2)に次のように出ていますから。

 郵便はがきは日常の簡易通信に供するために考えられたもので,考案者はウィーンの陸軍大学の経済学担当教授ヘルマンEmanuel Hermann (1839‐1902) であり, 1869 年に無封印刷郵便が認められている以上,封書でないカードで郵便を出せるように郵便法を改正すべきであると提案した。これがオーストリア郵政当局を動かし採用することとなり, 69 年 10 月オーストリア・ハンガリーが世界最初の郵便はがきを発行したのである。(中略)
 日本では郵便創業の1871年 (明治 4) から 2 年後の 73 年 12 月 1 日,初めて郵便はがきが発行された。市内用半銭 (5 厘),全国用 1銭の2 種で, 〈はがき〉の文字が料額印面中に印刷してあり,用紙も薄く,今の往復はがき式に二つ折りになって, 1 枚目の内側に規則が次のように印刷してある。(中略) ちなみに日本の郵便はがきという名の考案者は,当時駅逓頭(かみ)だった前島密の相談に応じた,前島の旧来の学友で当時大蔵省紙幣寮に勤務していた青江秀であるといわれる。


 すると、ハガキのない頃、年賀状はどうだったのか? これがまた、『時代風俗考証』(4)に「江戸時代の年賀状と歳暮」という文があってびっくりした(引用部分の表記は一部変更あり)。

 江戸時代の風習を『里見八犬伝』の著者で知られる滝沢解(とく・曲亭馬琴)の天保4年(1832)正月の日記から拾ってみよう。
 滝沢家では馬琴はすでに隠居しているので、もっぱら在宅して年始客をうけ、廻礼は松前藩の医師である息子の宗伯が、供をつれて元旦から毎日のように出かけている。(中略)本人が年礼に来られぬ向きからは、使いに年賀の手紙にそえて年玉などを届けてくる。七日には高松藩の家老木村亘が江戸の藩邸から、賀状と、年玉の画扇二本を届けてきた。


 近くだとこうだが、遠いと大変だ。正月5日に伊勢松坂で出された年始状が2月1日に届いたとか、幸便を待っていた人からは、1月25日に出て3月7日にやっと届いたとか・・・。
 でも、馬琴ほどの有名人でも、この年届いた年始状はたった4通だったという。つまり、年賀状をやりとりする、というのはごく特殊なことだったらしい。
 なぜか。ひとつには、飛脚便で書状を届ける、というのが恐ろしく高くついたからだろう。『時代風俗考証』(4)には、飛脚の料金(逓送料)も出ているが、書状1通につき、一番安いので2860円、別に飛脚を仕立てて一番早いので届けたりすると、なんと、34万3200円!!(1両=22,880円で換算)。
 うーん、100枚はおろか、10枚でも無理かも・・・。1枚50円でお年玉つき年賀はがきをやり取りできて、お互いの健在を確かめ合えるというのが、とてつもない幸せに思えてくる。

 『解読 近世書状大鑑』(5)という本には、江戸時代の年始状の影印が出ていて、その解説によると、字の崩し方を見るだけで目上の人に出した書状か、目下の人に出した書状かがわかるという。先生からは草書の賀状を頂いても、私は楷書で差し上げないと礼に反するのだ。表も裏もパソコンで、なんて、許されないんだろうなあ。どうしよう。

 それにつけても、茨木中央図書館の司書の方には今年もお世話になりました。なんでも魔法のように見つけてくれて驚きですが、特に今年の夏は、「表が漱石のカオだったころの千円札の、裏のデザインのことを知りたいんですけど」と頼んだら、5分もしない間に探し出し、ページまで開いて持ってきてくれて仰天しました。今年は年賀状をお出ししないと。

 では、みなさん、どうぞよいお年を。来年もよろしくお願いします。
                                 中原幸子

〔参考文献〕
(1)天声人語「朝日新聞2005年11月11日(朝刊)」
(2)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科 http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/
(3)日置昌一著『ものしり事典・風俗篇(下)』(河出書房、1952年)
(4)林美一著『時代風俗考証』(新装版)(河出書房新社、2001年)
(5)林 英夫監修『解読 近世書状大鑑』(柏書房、2001年)


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