月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー

月刊「e船団」 「香りと言葉」2006年4月号

ニオイスミレ

 菫の花咲くころ、になりましたね。ちょっと宝塚を思い出したりしますが、なんと、ナポレオンが大のスミレ好きだった、というのも有名な話なのだとか。エルバ島に流されたとき、翌春スミレの花が咲く頃には帰ってくる、と誓ったので、同志たちはスミレをシンボルとして用い、ナポレオンのことを「父なるスミレ」、「伍長のスミレ」などの愛称で呼んだのだそうです。かわいい!
 で、今月はそのスミレの1種、ニオイスミレが香水に使われるまで、というのを辿ってみるのはどうでしょう。でも、その前にニオイスミレという植物をちょっとおさらいしましょうか。
 『香りの百科事典』(1)に次のように出ています。(念のためですが、冒頭の「スミレ」は香料用語で、植物分類学上の「スミレ」ではありません)。

スミレ(sweet violet)
学名:Viola odorata Linne
和名:ニオイスミレ
英名:sweet violet 仏名:violette
花言葉:誠実、謙譲

 スミレ科の植物は熱帯、亜熱帯、温帯に分布する。スミレ科は草本から亜高木まで約800種の植物が含まれる比較的大きな科で、その約半分、400〜450種をスミレ属が占めている。ヨーロッパ原産のニオイスミレ(Viola odorata)もスミレ属であり、花と葉に非常に強い芳香をもつのが特徴である。
(中略)日本人にもスミレは親しみ深い花で、『万葉集』や『枕草子』にスミレの歌や記述が残っている。しかしニオイスミレがヨーロッパから日本に渡来したのは明治時代のころであるので、日本でのそれ以前の“スミレ”の記述はニオイスミレに関したものではなく、スミレやツボスミレである。

 上でご覧のように、ニオイスミレの学名はViola odorata Linne。もう少し詳しく植物界での位置づけを見てみると、ニオイスミレは、被子植物(モクレン)門・モクレン(双子葉)綱・ビワモドキ亜綱・スミレ目・スミレ科・スミレ属に属している(クロンキストの分類表(1988年)(2))。ややこしいのでにしてみた。この、学名の最後のLinneは、この名前をつけた人がLinneさんという人である、ということを表わす。ちなみにviolaは「スミレ色の」、odorataは「匂いがある」という意味。
 日本では珍しい「匂うスミレ」であるニオイタチツボスミレの学名はViola obtusa Mikinoで、Makinoは言うまでもなく『牧野日本植物図鑑』の牧野富太郎である。改版の『牧野新日本植物図鑑』には45種のスミレ属植物が載っているが、そのうち実に16種がMakino。その中にはこれも匂うスミレであるエイザンスミレも含まれる。

 このニオイスミレ、ヨーロッパではローマ時代にすでに花冠にしたりブドウ酒に入れて飲んだりして日常生活に大量に使われ、盛んに栽培もされていた。でも、日本に入ってきたのは明治30年代といわれる(3)。正岡子規が「京の人より香菫(においすみれ)の一束を贈り来しけるを」と前書きをつけて、

 わかやとの菫の花に香はあれと君か菫の花に及ばぬ

と、その香りを愛でたのは明治35年(4)で、子規は日本のニオイスミレの最前線にいたのだ。漱石の「菫ほどな小さき人に生まれたし」は明治30年の作だから、ニオイスミレではない可能性が高い。与謝野鉄幹が、晶子との恋愛を機に星菫調の感傷的な歌風に転じたのが明治34 年(1901)(5)。鉄幹の渡欧は明治44年だし、このころニオイスミレを知っていたかどうか微妙だ。向こうで「ああ、ワーズワースがうたったのはこの香り高い菫だったのか」と感動した可能性もある、ように思う。どなたかそこらの事情をご存知の方、教えてください。

 香料をとるのに使われるのがこのニオイスミレで、香料業界ではふつう「バイオレット」と呼ばれている。いま、主に南フランスのトゥーレットを中心に栽培され、収穫量は年に160トン程。スミレの香りと言えば誰でもスミレの花の香りを思い浮かべるのが当然なので、がっかりされるかもしれないが、香料に使われているのは今では葉だけである。昔は花からも香料が作られていたのだが、恐ろしく高価なこと、似た香りの合成品ができたこと、更に香りの世界では菫の香りがあまりメジャーでないこと、などで作られなくなってしまった。葉からの香料だって、いつまで作り続けられか心配だ。160トンの原料からたった数十キロしかとれないのだから、すごい値段だし。ちょっと知人に訊いてみたら、本当の本物だったらキロ当たり何百万円とかするらしい。

   ニオイスミレの葉、即ちバイオレットリーフは年に2度、4−5月と7−8月に収穫され、香料会社の工場に運ばれて香りの成分が採り出される。ここで「香料」と呼ばれるものに変身するのだ。植物から香料を採る方法はいくつかあり、レモンなら搾ってレモン油を採るし、ラベンダーなら水蒸気蒸留によってラベンダー油を採る。バイオレットリーフの場合は、まず、石油エーテルなどの溶剤で抽出されて「バイオレット リーフ コンクリート」になる。これがアルコールでもう一度抽出されて「バイオレット リーフ アブソリュート」という「香料」になる。コンクリートは固体なのでそう呼ばれ、アブソリュートは花精油(かせいゆ)と訳されるように、香りの世界での「花の精」である。

   え? 出来たバイオレットリーフアブソリュートの匂いですか?青臭くて、強烈で、はじめてだと「クサイ!」と感じるかも。まあ、もとの葉の2500倍にも濃縮されているのだから、当たり前と言えば当たり前ですが。それに、香水の原料って、たいていはそのまま嗅いでも快くはないのです。バラやジャスミン、麝香や龍涎香(りゅうぜんこう)なども。だから、香料会社に勤めていた頃よく、「いいお仕事ですねえ、毎日いい香りに囲まれて」と言われると、ちょっと答えに困りました。ちょうど、米作農家の方が「いいお仕事ですねえ、おいしいお握りに囲まれて」と言われているような感じかな。

 天然から得られるものだけでなく、化学的に合成された香料も同じで、どれもひと癖もふた癖もある「香料」たちですが、それを数十種類から時には数百種類も配合し、調和のよい、しかも個性ある香りに仕上げるのが調香師(パーヒューマー)と呼ばれる人たちの仕事です。
 このバイオレットリーフの香りを使った有名な香水というと、例えば、あのベッカム様がイメージキャラクターだった「ポリス インターラクティブ フォーヒム」、イタリアの名門トラサルディの「スキン」、新しいのでは2005年夏限定の「エタニティのサマーバージョン」など。こんど香水のお店を通りかかったら、是非お試しください。

 ところで、スミレってなぜスミレだと思われますか?いくつか語源説はあるようですが、花の形が墨壺に似ているところから「すみいれ」→「すみれ」になった、というのが有力。
 すべてのスミレたちに共通の花言葉が「私の事を考えて下さい」(6)。

 ではまた来月。
                                      中原幸子
 〔参考文献〕
 (1)谷田貝光克編『香りの百科事典』(丸善、2005年)
 (2)週刊朝日百科『植物の世界』(朝日新聞社、1994年〜)
 (3)春山行夫著『花ことば(上)』(平凡社ライブラリー、1996年)
 (4)正岡子規著『仰臥漫録』(岩波文庫、1999年・第42刷)
 (5)「世界大百科事典」(有料:ネットで百科http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)
 (6)西島楽峰著『世界花言葉全集』(春陽堂、1930年)


月刊「e船団」 「香りと言葉」2006年5月号

バラ

 手もとの記録をみると、それは1988年のゴールデンウィーク明けだったようだ。
 私は香料会社の研究所で働いていて、数日前にKさんから「バラの香りを分類してほしい」と頼まれていた。Kさんの家は有名なバラ園で、バラの育種、苗木の販売、造園などをしている。「香りのよいバラを・・・」という消費者の要望にこたえて、Kさんは、カタログに香りの情報を盛り込む、という画期的なことを考え付いたのだった。それには、まずバラの香りをよくよく知らなくては、ということだった。

 その朝、大きくふくらんだビニール袋を持って現われたKさんは、ちょっと息を切らしていた。 「夜明けに摘みましたんや」と、やさしい手つきでつぎつぎに取り出したバラまたバラ。2m×1mほどのテーブルが、色も大きさもとりどりのバラで蔽われた。パーヒューマー(調香師)たちの喜んだことといったら。

 このバラたちは全部、Kさんのバラ園で苗木を販売している園芸品種で、どれにも名前がついている。マダム・ビオレ、コンフィダンス、八甲田、ホワイト・クリスマス、いなの、ブラック・ティー・・・。写真はこちらをどうぞ。(6)  この色や形、あなたが名前から想像されたのとぴったり合ったでしょうか?ちなみに、これらの花の直径はおよそ13〜15cmぐらいの由。

 Kさんはこれらの香りを4つのタイプに分類してほしいのだ、と言って次のようなメモを見せてくれた。

(1)ダマスク系統
 ロサ ダマセナというトルコ原産のバラの系統。ローマ時代から栽培されていた品種であるが、現在はブルガリアのソフィア地方の谷でバラ香油の生産に使用されている。濃厚でバラの香りの代表。
(2)ムスク系統
 ロサ・モスコサの系統。チュニス地方の野生種で、ある人はムスキーな香りとし、ある人はナデシコに似た香りとしている。
(3)ティー系統
 ロサ・エグランティナの系統、この品種の葉がジャスミンの香りに近いとされ、さわやかな香りが特徴です。
(4)フルーティー系統
 あるものはラズベリーやシナモンに似ているとされ、ソフトな甘さと、はなやかな香りと云われている。

 歓声をあげて飛びついたものの、パーヒューマーにとっても、それは困難極まる仕事だった。どの花の香りも実に複雑で、テーブルを4つに仕切ってはみたものの、どこへ置こうか、迷いに迷った。しかも、迷っている間にも香りは刻一刻と変わっていく。バラの香りは夜明けからの数時間をピークにどんどん衰えるのだ。まして摘まれてしまえば。でもまあ、そこは鼻のプロ、どこやら不完全燃焼気味ながら、なんとか格好はつけたのだったが・・・。
 そしてKさんの動きは素早かった。翌年のカタログにはちゃんと香りの欄ができ、無香、微香、中香、強香などと書かれていたのだった。香りのないバラには「香りがない」と書かれている、これは素晴らしいことだ、と私たちはヘンな感心もした。

 だが、これはちゃんとモノにしなくては、という気持ちが残った。調べてみて、香料の分野の人たちもバラの香りの分類を試みていること、苦労していることもわかった。
 この頃に出た月刊誌「ガーデンライフ」(1)に「バラの香り」と題するエッセーが掲載されていた。そこでは、バラの香りは6系統に分類され、「その他」も加えられている。やっぱり簡単には分類しきれないのだ、と同病相哀れむ気分だった。その分類法に、私たちの経験も加えて出来たのが次の表だった。


バラの香りの分類

分 類香 調/(代表的な栽培品種)
* ダマスク・クラシック香料用に栽培されるオールド・ローズであるロサ・ダマスケナやロサ・ケンティフフォーリア系の、いわゆる「バラの香り」。
(香具山など)
* ダマスク・モダンダマスク・クラシックの香りを受け継ぎつつ、より情熱的で洗練された香り。
(パパ・メイヤンなど)
* ティー淹れたてのダージリン紅茶の香りを想起させるという。
(ディオラマなど)
* フルーティーピーチ、アプリコット、アップルなど果物の香りを想起させる。
(ダブルデライトなど)
* ブルー青バラ系の品種に多い、独特の香り。
(ブルー・ムーンなど)
* スパイシーダマスク・クラシックを基調に、スパイシーが加わった香り。
(ハマナスなど)
* その他どれにも分類しがたい・・・。
(上の表に出ているバラの写真はこちらをどうぞ。(6))


 現在はこの表から「その他」を除いた形になっているようである。

 「え?園芸品種のバラってそんなに香りがあったっけ?」という方もおられるかも知れない。花屋さんや植木店で売られているバラは香りのないのが結構多いので。でも、バラは香り高いもの、という期待に満ちて育てて、匂わないのにがっかり、という人も多くて、その声がKさんに届いた、というのも事実だろうと思う。

 さて、ここまでバラ、バラと書いてきたが、実は「バラ」って何なのかはけっこう難しい。バラの仲間がどのくらいあるのかもよく判らないらしい。バラ属には100種以上あり、約200種とする説もある、と「植物の世界」(2)に書いてある。また、いつもの「ネットで百科」(3)にはこうある。

バラ(薔薇) バラ rose‖Rosa L.
 美しい花をつけ,また香料の原料ともなるバラは, バラ科バラ属Rosaの落葉または常緑の低木やつる性植物から育成されたもので,多数の観賞用園芸品種を含む。この属は約200種の野生種が知られる。茎葉にはとげが多く,互生する葉は通常,奇数羽状複葉,まれに単葉になり,托葉がある。花は茎頂に単生か散房状につき,花弁は 5 枚,園芸品種では重弁化するものが多い。おしべ,めしべともに多数。 充果 (そうか) は肉質の花床に包まれる。北半球の亜寒帯から熱帯山地にかけて分布し,日本にはノイバラ,テリハノイバラ,ヤマイバラ,タカネバラ,サンショウバラ,ナニワイバラ,ハマナスなど十数種が野生する。


 5月はバラの季節のせいか、「NHK趣味の園芸」から別冊の「バラ大百科」(4)が出たし、5月号は「ばら大特集」(5)だ。これが下記のようにわかりやすくてほっとした。

バラは大きく分けると野生種、オールドローズ、モダンローズの3つに分類することができます。
 野生種は山野に自生するいわゆろ「野バラ」で、これらの中から優れた固体や自然雑種が選抜され、さらには人為的交配などによって園芸品種のグループが誕生していきます。これがオールドローズになります。(中略)さらにオールドローズの交配をより複雑に繰り返し、著しく雑種化した園芸品種のグループが誕生していきます。これがモダンローズになります。


 上述の香りの分類表に出ているハマナス(ハマナシ)は野生種で、交配親としても活躍した。その他はモダンローズである。オールドローズの例としては最初にKさんのメモに出ていたロサ・ダマセナなどがある。

 愁ひつつ岡にのぼれば花いばら  蕪村
は日本の野生種、

 椅子を置くや薔薇に膝の触るる処  子規
はモダンローズ、でしょうね。

 ではまた来月。
中原幸子

〔参考文献〕
(1)中村祥二著「バラの香り」(「ガーデンライフ」)(誠文堂新光社、1987年)
(2)朝日百科『植物の世界』55号(朝日新聞社、1995年)
(3)ネットで百科(有料:http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)
(4)『別冊NHK趣味の園芸・バラ大百科』(日本放送出版協会、2006年)
(5)「NHK趣味の園芸」2006年5月号(日本放送出版協会)
(6)伊丹バラ園カタログ「Roses」(1989・秋〜1990・春)より(ハマナスを除く)


月刊「e船団」 「香りと言葉」2006年6月号

黴(カビ)と芳香

 突然ですが、5月18日のクローズアップ現代(1)、ご覧になりましたか?タイトルは「微生物ハンター」でしたね。玉川大学の奥田徹教授がこう言ってました。

   「はい、専門はカビです。(・・・)この世の中で、これまで8万種のカビが知られています。ところが、恐らく150万種はいるだろう、と言われています。しかも8万種の中で実験室で再現できる、つまり培養できるのは数パーセントだと・・・」

 ひぇー。150万種。

 黴の世の黴も生きとし生けるもの (鷹羽狩行、『五行』(1979年))

 なんて言ってる場合でしょうか。はい、そこが俳句のすごいところ、とも思いますが。 で、いったい、カビって何もの?と思えば、おなじみの広辞苑にはごくシンプルにこうある。
 かび【黴】
 (1)菌類のうちで、きのこを生じないものの総称。主に糸状菌をいう。アオカビ・クロカビ・ケカビなど。〈季・夏〉
 (2)飲食物・衣服・器具などの表面に生ずる微生物の集落の俗称。

 ま、そう言えばそうだけど。

 ネットで百科(2)では、
 カビ(黴) カビ mo(u)ld‖mo(u)ld fungi
 外見的な形態によって一群の菌類に対して与えられた一般名称。キノコやイーストという名称と同様,分類学的な意味はもたない。日本の梅雨ごろから秋にかけての湿度の高いとき,いわゆる〈かびる〉といった現象を起こす菌類 (主として糸状菌) を指し,体制の主体は糸状の菌糸細胞であり,そこで形成される各種の胞子もふくまれる。 キノコとの差も明りょうなものではなく,糸状に発育したキノコも外見からカビと称されることがある。とくに,家屋土台などに一面に生える木材腐朽性のナミダタケなどのキノコの場合は,まったくカビ状である。


 つまり、カビみたいに見えるものがカビだ、ということ?どうも、カビの定義は私の手にはあまる。
 で、もう、「カビ」のニオイに取り掛かろうと思います。「カビ」のニオイというと普通、すぐに「黴臭い」とか「カビ臭」とか悪いイメージが先に浮かびますが、そこを、今日は「カビと芳香」で行きたいのです。

 例えば、カツオブシ(鰹節)。名人の作ったお吸い物のあの香り。
 カツオブシのブシ(節)とは「魚肉を煮熟後に燻して十分に乾燥したものをいい、用いた魚種によりカツオブシ、ソーダブシ、サバブシ、イワシブシ、マグロブシなどに分けられる」と、『[食べ物]香り百科事典』(3)に出ている。もちろん香りに関してはカツオブシが他を圧していることは誰も異論がないであろう。それにしても、鰹のたたきからカツオブシへのこの驚くべきニオイの変貌はどのようにして達成されるのであろうか。

 カツオブシの生産工程は、要約すれば上記のようになってしまうが、実際はおそろしく複雑だ。
 「ネットで百科」(2)にも「水産加工品の製造がすっかり機械化された昨今でも, 鰹節の製法は基本的には手仕事の域を脱しておらず,仕上がりまでの期間も半年近くと長い」と出ている。
 カツオブシの生産で日本一のシェアを誇るのが鹿児島県だが、枕崎市にある的場水産株式会社のホームページ(http://www.rinnet.co.jp/matoba/kotei_1.html)をちょっと見せて頂くと、その複雑な工程が一目瞭然だ。
 工程は、

  生きり → 籠立て → 煮熟 → 骨抜き → 薫乾 → 選別 → カビ付け

と進む。「薫乾(=焙乾とも)」はナラやクヌギなどの薪を燃やして燻しては乾かすという工程だが、それが5時間ほど進んだ段階が「ナマリブシ」。ここで「修繕(身割れなどを直す)」されて更に10〜14日も薫乾が続けられ、「アラブシ」となる。これは煙やタールで黒くなっているらしい。その表面をきれいに削り取ると「ハダカブシ」。「ハダカブシ」を10〜15日カビ付け庫に放置してカビを付け、天日で乾かしてはカビを払い落とす。この工程がカビ付けで、4回繰り返されてやっと最終製品である「本枯れ節」になる。が、ご存知のように「ナマリブシ」も「ハダカブシ」も立派に商品として売られているわけで、出世魚というのがあるが、これは「出世節」!?

 カツオブシの製造工程が今のように出来あがったのは江戸時代のことらしい。
 前述の『[食べ物]香り百科事典』(3)にはこうある。
 カツオブシの原型は『大宝令』(701年)や『延喜式』(927年)などの古文書にみられる堅魚や煮堅魚といわれる.カツオブシということばは「カツオいぶし(燻し)」から転じたものとみられ、この燻すという工程がとられるようになったのは今から330年ほど前の寛文のころで、さらに300年ほど前の元禄時代に燻して乾燥した後にカビをつける方法が土佐で考案され、今日のように4番カビまでカビつけをして本枯節をつくる技術が完成したのは100年ほど前といわれる。

 スーパーに生鮮食料品があふれ、どの家庭にも冷蔵庫や冷凍庫があるようになったのは、人類の歴史で言えばごく、ごく、ごく最近のこと。ずっとずっと、手に入れた食物の保存は文字通り死活問題だった。塩づけにすること、煮たり焼いたりすること、乾燥すること、煙で燻すこと。ひとつ良い保存方法が見つかることは、そのまま多くの人の命を救うことだった。しかも、それが美味の発見にもつながっていたことは、このカツオブシでも明らかである。
 しかし、燻したり、カビまみれにすることで何がおこるのだろうか。『香りと暮らし』(4)にはこんなことが書かれている。

 燻製の成分については,現在までに400以上の揮発性成分が確認されている。(中略)
 燻煙成分は、
(1)魚肉や蓄肉に特有の香気および風味を与え、魚の生臭さや蓄肉の獣臭をマスキング(隠蔽)する作用がある。
(2)燻煙中のフェノール類、有機酸類やアルデヒド類などには抗菌作用があり、食品の保存性を増加する効果がある。
(3)一般に、燻製食品は酸化されにくい。これらは燻煙中に存在するフェノール性化合物が抗酸化性を有するためである。


 またカビ付けでは、カビの出す脂肪分解酵素の作用で、魚肉の脂肪が分解されて脂肪酸となり、これが更に工程中に分解されてより小さな分子になって行くという(『香りの百科事典』(5))。なるほど、カビ付けにはそんな効用があったのか、と納得。だって、目刺しなんか、カラカラに乾燥していても結構早く脂がまわって味が落ちるのに、カツオブシはケロリと長持ちするものね。

 このように、カツオブシ独特のあの香気が生まれるのは、主として、薫乾(=焙乾 (ばいかん)) とカビ付けの工程においてであり、薫乾工程では重い香り、カビ付け工程では軽い香りが作られると考えられている。また、カツオブシの香り成分の数は、本によってバラつきがあるが、少ないもので130ほど、多い例では343成分とも書かれている。(『香りと暮らし』(4))。

 私たちは、一番出しを取るとき、カツオブシを入れたら、ぱっと煮立つやすぐに火をとめますが、あれは、この半年がかりで醸成された貴重な香り、特にカビ付けで生まれた軽い香りを逃がさないためだったのですね。

 ところで、俳句の世界にはちゃんと「黴の香」という季語があります。やっぱり俳人はエライなあ。

  馥郁と黴の香立てり母の家   草間時彦

 ではまた来月。
                               中原幸子

〔参考文献〕
(1)NHK総合テレビ「クローズアップ現代―微生物ハンター」(2006年5月18日)
(2)ネットで百科(有料: http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/
(3)日本香料協会編『[食べ物]香り百科事典』(朝倉書店、2006年)
(4)亀岡弘・古川靖編著『香りと暮らし』(裳華房、1994年)
(5)谷田貝光克編『香りの百科事典』(丸善、2005年)


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