月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー

月刊「e船団」 「香りと言葉」2009年1月号

お香あれこれ(10)婆裟羅(バサラ)

 明けましておめでとうございます。

 初春にふさわしい豪勢なお花見をご紹介しましょう。
それは貞治5年(1366年、南朝は正平21年)の3月4日のことでした。
 『太平記』の巻第三十九に出てくるバサラ大名・佐々木道誉の真骨頂、これが実に面白いお話で、まず、ちょっと読んでみてくださいますか。

本文      現代語訳

 ね?面白いでしょう?
 小学館の『新編 日本古典文学全集 太平記』(1)から転載させて頂いたのですが、この全集は頭注・本文・現代語訳が同じページに組まれていて、私のような古文の知識のない者には大助かりです。特にこの『太平記』は現代語訳がとてもよくわかる、楽しんで読める文章で書いて下さっているので、佐々木道誉のバサラぶりもよく伝わってきますよね。

 で、そのバサラとは一体何なのか、どこでどう香道とつながるのか、ですが、ここに『ばさら大名のすべて』(2)という本があります。こんな帯。

 平成3年度NHK大河ドラマ
 ばさらとは何か
 華麗なるばさらの世界を生きた、土岐頼遠、高師直、佐々木道誉をとおして描く労作

(この大河ドラマは「太平記」、原作・吉川英治、主演・真田広之でした)。

 この本の冒頭、「ばさら大名の時代」の、そのまた冒頭に、こう書かれています。
ばさらとは何か

 南北朝内乱は、自由狼藉、下剋上の世界を現出した(「二条河原落書」)。
 下剋上の社会における悪党の行為は、権威を否定するばさらぶりに通じる。現状否定という観点において、ばさらは悪の積極的側面である。室町幕府が「建武式目」の第一条において、ばさらの流行を厳制したことは十分に理由のあるところといえよう。「倹約を行なわるべき事」と題する第一条は、つぎのようにいう。

近日婆佐羅と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍、精好銀剣、風流服飾、目を驚かさざるはなし。頗る物狂いと謂うべきか。富者はいよいよこれを誇り、貧者は及ばざるを恥ず。俗の凋弊これより甚だしきはなし。もっとも厳制あるべきか。

 室町幕府の禁制にもかかわらず、ばさらの風は、内乱期社会を吹き荒れ、狂乱の世相を彩っていった。 ばさらは、派手にふるまうこと、贅沢にふけることに意味を持ち、「ばさら絵」「ばさら扇」「ばさら大名」のように多様に使用された。田楽舞いなどにおいて、わざと調子を乱し、人目をひきつけることもばさらと称された。着物の裾の乱れも「ばさら」であった。旧体制を否定する思想、反体制運動の展開なども、ばさらの行為であった。 さらには、ばさらはサンスクリット語のヴァジャラを原語とするもので、不動心、硬質なるもの、金剛石、魔神を降伏させる法具、いかなるものをも砕く利器のことでもあるといわれている。 「ばさらに風流をつくす」(『太平記』)と称されるように、ばさらは猥雑さと美の極というアンビバレンスの様態を示す。まさに十四世紀の内乱期社会における諸現象を端的に表現する流行語であった。

 引用が長くなりましたが、バサラをこんなに見事に伝えることは、私には到底不可能なことを、皆さんも分かって下さると思います。

 「二条河原の落書」とは、むろん建武元年(1334) 8月、鴨川の二条河原(中京区二条大橋附近)に掲示されたといわれる、「このころ都にはやる物」で始まる落書(落首)なわけですが、そこにバサラ扇とともに「茶香十炷の寄合」も出ています。10種類の茶を会衆に飲ませて、茶の種類を当てさせる闘茶の遊びを十種茶、10種の香を嗅ぎ分けさせる闘香の遊びを十炷香といい、その会を寄合といったのですが、それが盛んに行われていたことを示しています。

 佐々木道誉の花見に「百服の本非の茶を飲んで、褒美の品々を山のように積み上げた」とあるのは、闘茶の会が催されて、勝者に豪華な賞品が出たことを意味します。「本」の茶とは京都・栂尾産の茶、「非」の茶はそれ以外の産地の茶のこと。これは鎌倉時代の初期、栄西によって伝えられチャを、高山寺の明恵上人が京都の栂尾に栽植したといわれることから来ており、後には宇治の茶も「本」とされるようになったとか。「百服の本非の茶を飲む」とは百服の茶を飲み分けて、それが「本」か「非」かを当てるのであり、「褒美」はその勝者に与えられたのです。
 闘茶のやり方にも色々あり、ここに書かれている記述だけでは実際にどのように行われたのかよくわかりませんが、道誉は『太平記』の他の巻でも「七十服の本非の茶」を催し、豪奢な景品を出したりしています。
いずれにしろ、「建武式目」(建武3年(1336)年)で禁止されたことで、バサラ魂は却って一層燃え上がったようですね。

 佐々木道誉のこのバサラぶりと香道の関係について、香(こう)の権威・山田憲太郎先生は、「佐々木道誉をもって香道の元祖とするのは、なんでも古い時代まで香道の初めをさかのぼらせ、もったいをつけようとする香人の考え方以上の何ものでもない」、とバッサリ切り捨て、
『太平記』にあるような彼の生活と行動、そして彼を取り巻いている時世粧を思えば、一種の沈香の匂いを深く掘りさげて、その匂いの深さ浅さ、すなわち種々の姿を知り、そして聞こうとする態度とは雲泥の相違があろう。
と、書いておられます(3)。

 そう言えば、大原野の花見の話、香料屋としては、「それはおかしいでしょ」と言いたいところがあります。
 1つは「鶏舌の沈水」という言葉。これでは鶏舌という種類の沈香のように聞こえますが、鶏舌というのは丁香、つまり、皆さんがスパイスとしてお使いになる丁字(クローブ)のことです。丁字もたしかに薫物の材料ではありますが、香炉で焚く、というのはちょっと考えられないことです。
 もう1つは、その「鶏舌の沈水」を焚くと「覚えず栴檀の林に入」った気分になった、というところです。栴檀は白檀のことで、沈香とは明らかに違う香りです。まあ、『太平記』(1)の「沈水」の頭注は「沈香。ジンチョウゲ科の香木から製した香料のことだが、ここは広く香料一般をいった」としていますが。

 でも、道誉がそんなに沈香に造詣が深かったとしたら、少なくとも「鶏舌の沈水」など焚くわけはない、と、私は思います。

 なんだか、バサラな道誉に取り憑かれた感じです。バサラの時代の香の様相が、ちゃんと分かるといいのですが。

 今年もどうぞよろしくお願いします。 では、また来月。

中原幸子
〔参考文献〕
(1)長谷川端校注・訳『太平記(4)』(『新編 日本古典文学全集57』、小学館、1998年)
(2)佐藤和彦編『ばさら大名のすべて』(新人物往来社、1990年)
(3)山田憲太郎著『香料博物事典』(同朋社、1979年)


月刊「e船団」 「香りと言葉」2009年2月号

お香あれこれ(11) ちょっとひと息

 婆裟羅、バサラと、ものすごいエネルギーの爆発(暴発?)ぶりに、ちょっとひと息入れたい気分、読んで下さる方もきっとそうなのではないでしょうか?

 で、突然ですが、「オール読物」2月号の「とびきり屋見立て帖 ええもんひとつ」は、香炉が主人公です。著者の山本兼一は、この度「利休にたずねよ」で第140回直木賞を受賞されたのですが、でも、私は、第139回の直木賞候補になった『千両花嫁 とびきり屋見立て帖』で受賞して欲しかったです。

 とびきり屋は京都・三条通りに面した古道具屋。ときは幕末、「暗殺やら、襲撃やら、怪しげな落書きやら、京では、気の重くなる揉め事がしょっちゅう起こって」いる。とびきり屋の2階にはときおりふらりと坂本龍馬が下宿しにくる、という設定である。店の主人は真之介。奉公先の老舗茶道具商「からふね屋」で、愛娘のゆずと相思相愛となり、紆余曲折の末、とうとう手に手を取って駆け落ちした。むろん、ゆずは姿形も心もとびきりの美人で、しかも真之介も一目置く骨董の目利き。店の奉公人たちの呼び名がふるっている。鶴亀、鍾馗、俊ェ、牛若。

 さて、2月号は、そのとびきり屋がとてつもない「とびきり」を手に入れるお話。

 ある日、とびきり屋に武家屋敷の小者が来て、道具の値踏みをしてくれ、という。手代の牛若に行かせてみると、香箱を買って帰ってきた。稽古用で、しかも使い古されていて、価値のある物ではなかったが、ゆずには見覚えがあった。それは、ゆずが香道・浮橋流に入門して稽古に通っていた頃、その家元の香道の伝承を受け持っていた青侍・藤原元盛の家で見た香箱だったのである。青侍なんて言葉、初めて知りましたが、公家に仕える身分の低い侍の由。
 真之介から、藤原はんは、ええもんは何も持っていないのか、と聞かれて、ゆずが思い出したのは、「とびきりええ色絵の香炉」であった。真之介は自分で改めて藤原老人を訪ね、その香炉が飾られているのを見る。
 ――ゆずの言うてたのは、これやな。雉はすっくと首を立て、まっすぐに尾を伸ばしている。緑と紺、青、茶、赤などの釉薬で羽根を描き、一枚ずつ金彩でふちどってある。いたって豪華な品だ。京焼きのとびきり上等な一級品である。大名人野々村仁清の作にまちがいない。

 藤原老人は、老い先も短くなったので、香道具を売り払って亡き妻の墓を建てて死にたい、と言うのだが、真之介の見立てではどれも二流以下のものばかり。色絵の香炉以外は全部売っても墓は建ちそうもない。そこで藤原老人は、夏は香を聞くには向かない季節だが、その夏にふさわしい香りを聞かせてくれたら売ってもいい、と言う。真之介はさまざまにトライするが、老人を、うん、と言わせられなかった。そこで、例によってゆずが奇想天外なアイデアでこれを見事に手に入れる、という次第。
 そのからくりをここでばらすと、営業妨害になりそうなので、ご自分で読んで頂くとして、まあ、これをご覧ください。
 ね、藤原老人の持ち物とそっくりでしょう?


 これは、1991年1月13日、友人と能登へ雪見酒を酌みに行き、石川県立美術館に立ち寄った際の入場券です。え?ナカハラさんは下戸では?・・・とお思いでしょうが、下戸だからこそ雪見酒にあこがれるんです。あ、入場券ですか?行ったところ、見た物、聴いた物、ぜーんぶあります。

 石川県立美術館のホームページに出ている「色絵雉香炉」の解説によれば、

 幅48.3 cm × 奥行12.5 cm × 高18.1 cm。 (形状) 香炉 (用途) 茶道具/調度品。
 国宝 色絵雉香炉:野々村仁清/ほぼ等身大の雉の香炉で、京焼の祖といわれる仁清の彫塑的な作品のうちでも特にすぐれている。上下二つに分かれ、蓋に4個の煙出し孔がうがたれ、胎土はわずかに黄色味をおびている。緑、紺青、赤などの絵具と金彩で、羽毛などを美しく彩った豪華な作品で、尾を水平に保って造形、焼成するなど至難な技が駆使され、緊張感あふれる作となっている。


 他に同じく仁清の作で、やや小振りな、重要文化財の「色絵雉香炉」も所蔵されています。リンクのお許しを頂きましたので、ご覧になりたい方はこちらへどうぞ。時間を忘れる楽しいサイトですよ。

 国宝・野々村仁清作・色絵雉香炉を、とびきり屋のゆずが後生大事に抱えて、京の三条通りを歩いているなんて。もっとも国宝に指定されたのは1951年で、旧国宝の指定でも1939年だそうですが。

 うーん、小説ってこういう風に作られるか、と思って、つらつら読み直せば、なるほどフィクションだ、と思うことがいくつかあります。

 まず、香炉というのは、分類すれば茶道具だと思うのですが、それが香道の家元の、しかも青侍の家にある、という不思議。『国宝 仁清の謎』(1)によれば、「色絵雉香炉」は伝来がいまひとつあきらかではない、という。江戸時代、加賀の豪商であった銭屋五兵衛が所持したともいわれるそうで、美女に抱かせて京の町をさまよわせる、という趣向は、実に楽しい。
 それに、この香道の家元、浮橋流というのですね。浮橋流って、『香道の歴史事典』(2)などには出ていないのですが、もしかして著者の創作なんでしょうか?源氏物語54帖のうち、組香の「源氏香」使われていないのが「桐壷」と「夢浮橋」。その浮橋をここに持ってくる、という遊び心なんでしょうか?私の想像にすぎないですが、そうだとしたら、これまたなんと楽しいことか。

 それから、藤原老人に「・・・あの仁清の香合、気持ちよう売らせてもらおう。・・・」と言わせているんですね。お香の師匠に、香炉と香合を間違えさせるなんて、これはちょっと遊び過ぎじゃないでしょうか。

 それはそうと、すごいものを見てしまいました。アーサー・ウェイリー英語訳の「源氏物語」を日本語に復訳(って言葉があるかどうか知りませんが)したウェイリー版「源氏物語」!(2)そこではなんと、沈香がヒマラヤスギになっているのですね。

 では、また来月。
                                   中原幸子
〔参考文献〕
(1)岡 佳子著『国宝 仁清の謎』(角川書店、2001年)
(2)神保博行著『香道の歴史事典』(柏書房、2003年)
(3)佐復秀樹日本語訳『ウェイリー版 源氏物語』(平凡社ライブラリー、2009年)

月刊「e船団」 「香りと言葉」2009年3月号

お香あれこれ(12) 道誉の実像

 バサラの時代は香道にとってどういう時代だったのだろうか。
 佐々木道誉は香道にとってどういう人物なのだろうか。

 香道の本をいろいろと読んで、道誉は香道の始まりに深く係わっている、と、私は思ってきました。小さな一片々々の香木の香りの違いを見極め、それにふさわしい銘をつけて後世に残した、というだけで、十分香道に貢献したとあがめられる価値はある、と考えてきました。でも、道誉の香道への関わりについて書かれている記事は、どれも「・・・という」とか、「・・・といわれる」とかで結ばれているのですね。
 改めて「・・・といわれる」でない道誉を、『京極道誉』(1)や『ばさら大名のすべて』(2)から、探ってみなければ、と思うようになりました。

 まず、佐々木道誉のことを書いた本がなぜ『京極道誉』なのか、というところから。
 この人、広辞苑の見出し語は「佐々木高氏」で、
南北朝時代の武将。京極氏。法名導誉。近江半国守護。足利尊氏に従い初期の室町幕府に重きをなし、出雲・飛騨の守護をも兼ねる。太平記にはバサラ大名として描かれているが、和歌・連歌に秀でた文化人であった。

とあります。京極家というのは、その系図が、宇多天皇 → 敦実親王 → と始まる名門宇多源氏・佐々木氏の庶流の一つ。道誉はそのまた庶流・佐渡判官宗氏の子として生まれました。それが、諸般の事情が重なって、わずか2歳で京極家の家督を継ぐことになった由。

 『寛政重修諸家譜』というモノがあるそうで、私はこれを「かんせいちょうしゅうしょかふ」と読む、ということさえ知らなかったのですが、諸大名以下幕臣御目見以上の諸氏の系図・略歴を記した書とのこと。『京極道誉』(1)にはこれとか『尊卑分脈』などを参照して作成された道誉の年表がついています。ちなみに、ここには「香」の文字は1度もでてきません。また、1月号でご紹介した『太平記』の「大原野の花見」は、史料で確認できないためか、載っていません。(以下、元号の後の〔 〕内は南朝の元号です)。

 道誉の人生のスタートと終焉は(生年は2説あるが、有力な方をとる)、
永仁4年(1296)、佐渡守宗氏の三男(中原注:四男の間違いか?)として生まれる。
嘉暦元年(1326)、北条高時の出家に相伴衆として出家し、道誉と号した。(31歳)

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応安元年〔正平23〕(1368)、足利義満の相伴衆となる。(義満は征夷大将軍に)。
応安6年〔文中2〕(1373)、8月27日に死去。法号を勝楽寺殿徳翁道誉大居士と号す。このころ『太平記』が成立。


と記されている。道誉の享年は78。
 その武将としての経歴を見てみれば、
正慶2年〔元弘3〕(1333)、尊氏の挙兵にあたり、その幕下となる。(38歳)
建武2年〔ナシ〕 (1335)、足利尊氏が謀反して新田義貞を攻めたとき、天皇方につく。(40歳)
暦応4年〔興国2〕(1341)、伊勢国(三重県)の南朝軍征伐を直義から命ぜられる。(46歳)
貞和4年〔正平3〕(1348)、大和の国(奈良県)水越で南朝軍に敗れ、道誉は負傷し、二男秀宗は討ち死にする。(53歳)


 こうした軍功により、その所領はどんどん増え、その地位も上がる。
 『京極道誉』(1)によれば、道誉の所領は康永2年〔興国4〕(1343)、48歳で出雲国(島根県)の守護に任じられてから、貞治5年〔正平21〕(1366)、71歳で摂津国(大阪府)多田院に所領を受けるまで、続々とその所領を増やし続ける。ここに列挙されているだけでも28にのぼる。戦だけではなく、建武3年〔延元元〕(1336)(41歳)、尊氏が幕府を開いて『建武式目』を制定した際には道誉もこれに参画している。

 そして、連歌を愛し、『菟玖波集』の成立に尽力し、茶・花・香と新しい文化の芽吹きにいち早くのめりこんだ文化人の顔。
延文元年〔正平11〕(1356)、二条良基が『菟玖波集』を撰した。道誉の作品78句が入る。(61歳)
貞治元年〔正平17〕1362、新玉津社の歌合に出た。(67歳)


 でも、茶も花も香もおとなしく楽しんではいられず、バサラの王者として『太平記』でも大活躍してしまった道誉。そのバサラ振りの頂点が1月号でご紹介した大原野の花見でした。

 最後に父の死、子・孫の死にみまわれる道誉。
元徳元年(1332)、父宗氏死去。(34歳) 暦応3年〔興国元〕(1340)、嫡男秀綱が妙法院坊人と争い、父子で宮の御所を夜襲して焼いた。その廉で官位が削られ、道誉は出羽、秀綱は陸奥へ流される。(43歳)
貞和4年〔正平3〕(1348)、大和の国(奈良県)水越で南朝軍に敗れ、道誉は負傷し、二男秀宗は討ち死にする。(53歳)
文和2年〔正平8〕(1353)、秀綱が南朝軍と堅田で戦って戦死。(58歳)
貞治元年〔正平17〕(1362)、孫の秀詮が摂津国・渡辺で戦死。(67歳)


 戦、戦で息子や孫を失った。自分が喜寿を超える長生きをしても、それは憂き目でしかなかったのではないか、と思ったのは、以下のように、寺院を建てたり、得たものをどんどん寄進しているのを知ったときだった。
暦応4年〔興国2〕(1341)、近江国甲良荘に慶雲山勝楽寺を創建。(46歳)
延文元年〔正平11〕(1356)、義詮から京都四条京極の地を賜り、京都の金連寺へ寄進。(61歳)
延文2年〔正平12〕(1357)、近江国甲良荘の年貢から50石を金連寺へ寄進。(62歳)
貞治2年〔正平18〕(1363)、摂津国多田荘内の年貢を多田院に寄進した。(68歳)


 いわば、子や孫の命と引き替えに得た富。その空しさは想像に余りある。あちらこちらへ寄進するだけでなく、爆発的なバサラのエネルギーの中へそれを投入してしまいたかったのではなかろうか。さらに、
応安3年〔建徳元〕摂津国多田院の境内で殺生することを禁じた。

というような行動にも道誉の最晩年の虚無感が出ているのではないか。でも、それがどうだというのだ、とぐずぐず悩んでいて出会ったのが宗左近著『日本美 縄文の系譜』(3)でした。宗左近は『菟玖波集』に入集した道誉の句から道誉のバサラを解いて行くのです。
来月はそれをご紹介したいと思います。

 それはそうと、私は2、3歳のころ大好きだった、という絵本に遂に出会うことが出来ました。繰り返し読まされて、今もそれをソラで読める叔母が覚えてくれていた数行だけが手がかりなのに、大阪国際児童文学館の司書の方が見つけて下さったのです。ソレは『動物園』という本でした。私が大好きだったのは、大きな駱駝の絵があって、お父さんに連れられた子どもたちが柵につかまって見ているページ。

 ラクダ ガ ボンヤリ タツテマス。
 アヲイ オソラ ヲ ミテルノカ。
 オクニ ノ サバク ガ
 コヒシノカ。
 ソレトモ オナカ ガ
 スイタノカ。


 橋本大阪府知事様。お願いですから、大阪国際児童文学館をつぶさないで下さい。
 では、また来月。

中原幸子
【参考文献】
(1)渡辺守順著『京極道誉―バサラ大名の生涯―』(新人物往来社、1990年)
(2)佐藤和彦編『ばさら大名のすべて』(新人物往来社、1990年)
(3)宗左近著『日本美 縄文の系譜』(新潮撰書、1991年)

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