月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー

月刊「e船団」 「香りと言葉」2009年10月号

お香あれこれ(19)続・千種香(ちぐさこう)


 さて、千種香は、いまも、実際に楽しまれているのかなあ、と探してみましたら、早速2件ヒット。うれしい!
 1件目は共立女子大学の香道部「習風会」。ご自分たちで主催してお香席を行っておられるとのことで、2009年9月30日は下記のようなご計画の由。「お、千種香が!どのような香木が選ばれるのかな」とメールでお訊ねしていますので、そのうちお返事を頂いたらまたご紹介しますね。

第一席目
経験者席/須磨香
恋ひわひてなく音にまかふ浦波はおもふ方より風や吹くらむ 源氏
第二席目
初心者席/新月香
三五夜中新月色 二千里外故人心 白楽天
第三席目
経験者席/賢木香(OG席)
小女子があたりと思へば榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ
第四席目
初心者席/千種香
緑なる一つ草とぞ春は見し秋は色々の花にぞありける 不知詠人


 もう1つは吉村ゆらさんの和の世界「たまゆら『玉響』」。快くリンクのお許しを頂きましたので、タイトル通りの優雅な世界を訪ねてみてください。こちらです。

 「千種香」が紹介されています。なんか、京都でいう「はんなり」という表現にぴったりの世界です。ブログには、

今日の香のお稽古は、千種香(ちぐさこう)。
試み香はひとつ。
そのあと、新しい香を二種類まぜて、三種類の香を聞き分けます。
香組は
   初花・・・寸聞多羅
   白菊・・・伽羅
   尾花・・・真南蛮 上

どれも、すばらしい香りで、香炉を持った手を、しばらく離せませんでした。
先生持ってきてくださった香木が、最上級であったのはもちろんのこと。
空気も澄んできて、私達の感覚も細やかになり、また、香もよくたつようになったのかもしれません。


 と、その香席の報告があり、「この秋初めての北風を感じた帰り道」だったと結ばれています。帰り道でもう一度、證歌「みどりなるひとつ草とぞ春に見し秋はいろいろの花にぞありける(古今集 よみ人しらず)」を思い起こし、味わいなおされたのでしょうね。

 さて、「千種香」の構造式(1)はこうでしたね。
   ゆらさん達の香席で出された香は、

 一が「初花」・・・寸聞多羅
 二が「白菊」・・・伽羅
 三が「尾花」・・・真南蛮 上

 となっています。
 「初花」は、辞書などには「春になって最初に咲く花」「その季節になって最初に咲く花」「その草木に初めて咲く花」などとあります。證歌の「緑なる一つ草」にぴったり対応させるとすれば、普通なら、先月ご紹介したように、「春草」になるでしょうから、敢えて「花」を持って来られたところに、何か、この香を組まれた方の思いがこもっているのでしょうか?「白菊」と「尾花」はむろん、秋の象徴のようなもの、よくわかります。

 この組み方で最初に感じたことは、ああ、これは聞き分けやすいだろうな、ということでした。
 香道のことを初めて知ったとき、私も自分で焚いてみたくてたまらなくなりました。それで、鳩居堂に行って香道具一式を買い込んでしまったのです。聞香炉、七ツ道具、銀葉、炭団、灰、その他もろもろ。もちろん香木が要りますが、ちゃんと「六国五味」がセットになったのが売られていました。これです。


 で、『香道』(2)という本を傍らに、えっちらおっちら、一種ずつ聞いてみました。そして、いきなり特徴をはっきり覚えたのが「寸聞多羅」でした。なんというか、ふわーっと、炭火がおこり始めたときのような感じが立ちのぼってきたのです。
 これを「一」に選び、試香として廻せば、初心者でもすぐに覚えることができる筈です。
 「二」の伽羅と「三」の真南蛮も、割合に聞き分けやすい特徴があります。『香道』(2)では六歌仙にたとえた、次のような解説を紹介しています。
 伽羅=苦 品位高く優にして苦味を主とする。高尚なる事雲上人の如し、故に遍昭僧正とす。
 真南蛮=甘 甘味を主とす。銀葉の油ぎるは此香の證なり。他に劣りて卑き処あり。故に山賤の花蔭に休らへる黒主に適すべし。

 ついでながら、
 寸聞多羅=酸 酸味を主とす。品位は優ならず。いはゞ商人のよき衣着たりとやいはむ。故に此を安秀(原文のママ)と見たつべし。

 燻らせてお届けできないのが残念ですが、でも想像して頂けますよね。試香で文屋康秀が出て、あとは、遍昭僧正、大友黒主、文屋康秀にたとえられる香が順不動でまわって来る!楽しそうな香席ですよね。
 香りが言葉で表現し難いものであることを、逆にこうした「見立て」に生かして楽しむこともできるのですね。

 ところで、この「e船団」は2001年1月にスタート、この「月刊」欄も、なんと100回を超えてしまっているのですね。で、2002年の12月に、「ことばの美(3)『うつくしい』と『きれい』」(http://sendan.kaisya.co.jp/kotobbak200210.html#dec2002)というのがあるのですが、そのときすごく悩んでいたのを飯塚さん(毎日、更新して下さっている「e船団」の機関長)が覚えて下さっていて、そのとき思い出せなかったという文献を送って下さいました。
 それが、まあ、素敵で。またご紹介しますね。では、また来月。
                              中原幸子

〔参考文献〕
(1)三条西公正著『組香の鑑賞』(理想社、1965年)
(2)杉本文太郎著『香道』(雄山閣出版、1969年)

月刊「e船団」 「香りと言葉」2009年11月号

お香あれこれ(20)なぜ?


 香りと言葉の取り合わせが、やっとちょっと分かってきた、と、私はほくほくしているのですが、ここまで付き合って下さったあなたはいかがでしょうか?
 こんなとき思い出すのは、半世紀ほど前に研究ってモノを手ほどきして下さった方の言葉です。もしかして、あなたも、先生や上司からお聞きになったことがあるのではないでしょうか。

 「なぜ?」を3回繰り返されて、それで答えに詰まるようでは、プロとは言えないよ、ナカハラさん。

 「香り」で、最初の「なぜ?」に、もう答えられませんでしたから、きっとびっくりして教えて下さったのでしょうね。「取り合わせ」も同じです。「取り合わせ」は「取り合わせ」やろ?でした。
 『病牀六尺』(1)は、私にとって、「取り合わせ」に関する子規の遺言みたいな本ですが、その八十二段は「月並調」について書かれており、次のように締めくくられています。

 男子にして修飾を為さんとする者は須(すべから)く一箇の美的識見を以て修飾すべし。流行を追ふは愚の極(きわみ)なり。美的修飾は贅沢の謂(いい)に非ず、破袴弊衣(はこへいい)も配合と調和によりては縮緬よりも友禅(ゆうぜん)よりも美なる事あり。名古屋三山(なごやさんざ)が濡燕(ぬれつばめ)の縫ひは美にして伊左衛門の紙衣(かみこ)は美ならずとはいひ難し。余は修飾を以て悪しき事とは思はず、ただ一般の俗人はいふまでもなく、俳句の上にては高尚なる趣味を解する人さへ、月並的修飾を為すを悲しむなり。(八月二日)

 「修飾?」「美的?」「配合?」「調和?」「美?」「名古屋三山の濡燕?」「伊左衛門の紙衣?」「俗人?」「高尚?」「趣味?」「月並的?」。
 これら「?」の行列のそれぞれについて、三段構えの「なぜ?」をぶつけられたら、どうなることやら。
 例えば「修飾」。ぱっと見て「多分、おしゃれのことだろうな」と思い、一応、納得しました。でも、待ち合わせた友だちがハイセンスなおしゃれで現れたとき、「わあ、美的な修飾をしてるねえ!」なんて言います?相手もきょとんとするでしょうし。それを、子規は、なぜ、「修飾」?

 「修飾」という語はむろん子規の造語ではなく、『日本国語大辞典』にも、「美しくかざること。欠点を隠そうとして、また、実質以上に見せようとして、つくろいかざること。」などとあり、一番古い用例が「漢書(外戚伝上)」の「婦人貌不修飾不見君父(婦人貌を修飾せずば君父に見えず)」。日本での用例も「吾妻鏡」(1189)や「古今著聞集」(1254)が引用されている。
 「辺幅を修飾す」ということわざもあるそうで、『ことわざの辞典』(2)にこう出ている。
 ―〈後漢書・馬援伝〉
 うわべを飾る。みえをはる。「辺幅」は、織物のへりの部分。そこにむだな飾りをつけることで、外見だけを立派に見せようとする意。


 なるほど、子規の文から、「修飾は、ホントは好ましくないのだが・・・」という気分が伝わってくるのは、こういうワケだったのですね。「なあ、君たち、身を飾るなとは言わないが、真実、配合と調和を理解するならば、破袴弊衣を身にまとって、しかも美しいな、と感心させてみろよ!」と子規は言いたいのでしょう、きっと。

 ここらへんまでが最初の「なぜ?」ですよね。
 で、次の「なぜ?」は「うわべを飾るって?」だと、私は、思うのですが、ここで、先月最後にご紹介した、飯塚さんが送って下さった文献です。

 建築家・出江寛の「修景のこころ」(3)という論文ですが、この方の代表作の1つが近江八幡市の「かわらミュージアム」とのこと。まずそのホームページをご覧下さい。

 「修景のこころ」はこんな風に始まる。
■絵にならない現代都市
都市には現代建築が建ち並び,どんどん綺麗にはなってくるが,その反面,描きたくなるような,心が潤される風景は望めなくなってしまった.このように,絵にならない風景をつくり出してしまったことは,現代建築の最大の失敗であるといえる。なぜ,このようになってしまったのか.その理由のひとつは"綺麗"と"美しい"を混同してしまったことに始まったと思われる.
古くなったものを新しいものに取り替えると,それは"綺麗"になったという.綺麗というのは,単に古くなったものがサニタリー(衛生的)になったことにすぎない.綺麗でなく美しい建築であるためには,それが「古びる」=「古美る」ものである必要がある.


 出江寛は前々から瓦に特別な思い入れをお持ちだったとのことで、福田平八郎の「雨」、あの、今まさに瓦に雨が落ちて吸い込まれる瞬間のような絵、あれを文章にしたような筆致で瓦が語られる。
瓦とは沈黙の素材である.それが雨に打たれるとき,雨粒はもちろん,ポツ、ポツという音さえ吸い込んでしまうような深みのある表情を見せる.水を得た瓦は,まるで魚の鱗のようにみずみずしく美しいものだ.東山魁夷や福田平八郎らではなくても,もし自分にうまく絵が描けるなら描いてみたいとつくづく思うのである.

 もう、全文引用したいところですが、私が特にハッとしたのは、
 それら(欺瞞に満ちた新建材)は新しいうちは「綺麗」なのだが、古くなり剥げてきたりすると、表面とは異なったものが露出したりする。

 というところ。これ、「うわべを飾るって?」という「なぜ?」へのベストアンサーではないでしょうか。剥いだら別のモノが現れることの怖さ、それを知りなさい・・・、そんな子規の声が聞こえてくるような。

 そう言えば子規も、「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまふ」(ホトトギス 第3巻 第5号 明治33・3・10)と書いた人である。『病牀六尺』にもモルヒネで苦痛をなだめなだめ草花を写生する姿が出てくる。明治35年、亡くなる一か月ほど前のこと、
 八十七段「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分つて来るやうな気がする」(八月七日)
 八十九段「或絵具と或絵具を合せて草花を画く。(・・・)神様が草花を染める時も矢張こんなに工夫して楽んで居るのであらうか。」(八月九日)


 建築と俳句って、相通じるものがあったのですね。
 さて第三の「なぜ?」は。
 これは「正直って?」で行きたいと思います。では、また来月。
中原幸子

〔参考文献〕
(1)正岡子規著『病牀六尺』(岩波文庫、1927年初版、84年改版、2003年54版)
(2)三省堂編修所編『三省堂実用 ことわざの辞典』新装版(三省堂。1997年)
(3)出江寛著「修景のこころ」(「新建築」1995年9月号、新建築社)


月刊「e船団」 「香りと言葉」2009年12月号

お香あれこれ(21)続・なぜ?


 先月、子規が『病牀六尺』(1)の八十二段で使っている「修飾」ということばを「?」で追及してみたい、という試みが途中で終わってしまいまいた。
 「修飾って?」→「うわべを飾るって?」と来て、12月は「正直って?」で行きたい、と思ったのは、同じく『病牀六尺』の八十七段に、
 ○草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分つて来るやうな気がする。
とあったからでした。

 でも、この「正直」、ちょっと違和感ないですか?私は、ずっと「え?正直ってこういう時も使うの?」と思っていました。
 ところが、この間、虚子の「写生といふこと」(2)を読んでいましたら、こんなことが。
 「自然を写生する以上は一草一木も私することを許さない。自然をいつはるのは罪悪である。」と子規居士は力を極めて此の「自然をいつはるのは罪悪である。」といふ事を言つた。

 虚子によれば、これは、中村不折の油絵に描かれている立て札に、何となく不自然なものを感じた子規が問いただすと、実際にそこに在ったのは唯の棒杭のようなものだった、ということが分かって、そこで出た言葉だというのですね。
 すると、子規が「正直に写生する」、と言っているのはこのことなのでしょうか。自然をいつわるのが罪悪だ、という考えに基づけば、そこにあるものだけをいつわらずに書くのが正直、ということになって、私の違和感はすこし薄れる気がしますが。

 そして、先月もご紹介した出江寛の「修景のこころ」(3)に出てくる「正直」は、こうです。千利休の先生だった武野紹鴎が「侘び」を、「正直に慎み深くおごらぬさま」と定義したとかで、
 瓦は、武野紹鴎の言葉を借りると「正直で慎み深く奢らぬ」素材であり、「古美る」素材である。

 辞書では、Wikipediaに、
 正直(しょうじき・じょうじき・せいちょく・ただしくなおき)とは
 1.心がすなおなこと。いつわりがないこと。
 2.桶屋の用いる1.2メートルの鉋(かんな)。正直台。
 3.柱を検査する道具。


とあり、簡単明瞭!と思ったら、1.の解説がすごかったです。

 1.は「せいちょく」とも読む。
 1-1.神道・古代の政治思想のキーワードの一つ。中国の古典に発し、根本の徳として私人のみならず統治者の徳とされた。未来の複数の選択肢に対し、自己の有利・不利の比較考量をせず、「無邪心」「無黒心」(記紀)などの無私の精神であることが求められた。三種の神器においては鏡が「正直」のシンボルとされた[1]
(この注[1]は「北畠親房は『神皇正統記』において三種の神器の鏡・玉・剣にそれぞれ「正直」・「慈悲」・「智慧」を当てはめた。」というもの)。
 1-2.中世文学のキーワードの一つ。正直な主人公が幸福となるストーリーの類型がある。たとえば「花咲か爺」では犬が「ここ掘れワンワン」と言うと「爺」は犬が人間の言葉を話しているという異様な状況を疑いもせず、素直に犬の言う通りに地面を掘り、宝物を手に入れる。

 え?私の中にある「正直」はもっと下世話なんだけど・・・、と思って『日国』(4)を見ると、ありました。
 しょう‐じき[シャウヂキ]【正直】(略)
 〔名〕(形動)うそやごまかしのないこと。かげひなたのないこと。すなおで正しいこと。また、そのさま。しょうちょく。せいちょく。


 「うそやごまかしのないこと」がトップに来ていますね。古語はどうだ?と『古語大辞典』(5)をみてみれば、ここでは「偽りのないこと。正しく素直なこと」として、用例に、「徒然草・第八十五段」が出ていました。(6)
 ・ 第八十五段
 人の心すなほならねば、(いつは)りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。おのれすなほならねど、人の賢を見て羨(うらや)むは尋常(よのつね)なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎(にく)む。「大きなる利を得(え)んが爲に、少しきの利(り)を受けず、僞り飾りて名を立てむとす」と謗(そし)る。おのれが心に違(たが)へるによりて、この嘲りをなすにて知りぬ。(略)


 「すなお」「偽り」「正直」に加えて、「飾」も出てます。現代語訳には、
 人の心は真っ直ぐなものではないから、世の中に偽りがないわけではない。しかし、まれには正直な人がいないはずはあるまい。自分がすなおでなくても、人の賢さを見てうらやむのは世の常である。しかし、きわめて愚かな人は、ふとしたときに賢い人を見て、これを憎む。「大きな利益を得ようとして、わずかな利益を受けないで、うわべを偽って名声を得ようとするのだ」と悪口をいう。賢人の行為が自分の心と違うのでこのような非難をするのである。そのことによって、次のようなことがわかる。(略)

 これ、現代の「正直」に近いですね。
 心って、もともとは真っ直ぐなのに、生きている間にワタシが曲げてしまうのだとばかり思っていましたが、もともと曲がっているものだったのですか!
 なんか、ほっとしますね、こう言ってもらうと。自分が正直でなかったときはもちろん、信じていた人に欺かれても、それが人ってモンよ、ワタシもおんなじよ、と、寛大になれる。

 では、子規の「正直」は?
 シンプル大好きの子規のことですから、きっと、「嘘やごまかしをせず、ありのままに」ということだと思います。でも、翌々日の八十九段で、思う色に描く工夫を、「神様が草花を染める時もやはりこんなに工夫して楽しんで居るのであろうか」と書いているところをみると、草花を写生している子規はきっと、徒然草にいう「まれにはいないとも限らない正直な人」になり切っていたのでしょうね。
 そして、出江寛が「修飾のこころ」で言っている「正直」な建築素材とは、見たまま、ありのままを信じても大丈夫な、削っても中から違うモノなんか出てこない、正直な心のような、古くなると却って美しくなる素材。
 「正直」って、なんだか強迫されてるような気のする言葉だったのですが、いい言葉ですね。
 では、また来年。
中原幸子

〔参考文献〕
(1)正岡子規著『病牀六尺』(岩波文庫、1927年初版、84年改版、2003年54版)
(2)高浜虚子著「写生といふこと」(『正岡子規』(1943年、甲鳥書林)所収)
(3)出江寛著「修景のこころ」(「新建築」1995年9月号、新建築社)
(4)『日本国語大辞典』(ジャパンナレッジ(有料):http://www.japanknowledge.com/stdsearch/display
(5)中田祝夫編監修『古語大辞典』(小学館、1983年)
(6)三木紀人訳注『徒然草(二)』(講談社学術文庫、1992年、第13刷)

戻る