月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー

月刊「e船団」 「香りと言葉」2010年10月号

では、モンタージュへ

 なんと!
 先月、英語なので・・・と中途半端なご紹介に終わった論文、「情緒デザインの役割と組織」(1)の日本語版を、著者の日原広一氏ご自身が送って下さったのです。タイトルは「『商品開発プロセスにおける情緒設計の手法と効果』―情緒設計の役割と構造」(2)。
 やっぱり、先月、ちゃんと読めていなかったのがわかって、困ったな、と、思うワケですが、でも、更に困ったことには、せっかくの日本語版も、私にはよく理解出来ないのですね。  基礎的な用語がわからない、中でも、「情緒デザイン」、という言葉、日本語版では「情緒設計」ですが、これが身の廻りの辞書・辞典には出ていなくて・・・。
 困っていたら、著者の勤務先である宮城大学のホームページで、ひとつヒントを頂きました。宮城大学には、日本初の開設、という「事業構想学部」があり、そこが日原氏の研究現場で、その特色が下記のように書かれています。

事業構想学部は、事業の企画に関する知識や技術を体系的に学び、新しい時代における各種事業を総合的にプロデュースできる人材を育成する日本初の学部です。現代社会発展の原動力である事業構想の知識・技術および政策課題について教育・研究し、様々な社会ニーズをとらえ、サービスや事業を創造し、社会の豊かさや地域の発展に貢献することを目指しています。

   「取り合わせ」がこんなところでも働いているとは。
 で、「研究者詳細」ページの日原氏の欄に、次のような記事がありました。
活動内容:商品開発プロセスにおいてはコンセプト設計及びデザイン設計に比較して「情緒(イメージ)」についての重要性が見逃されてきた。本研究においては、その重要性についてモデルを立てて検証している。

 「情緒(イメージ)」か、と、ちょっと取っかかりが見つかった気がしました。情緒をデザインする、ということはイメージをデザインする、ということと相通じている、のですよね。取り合わせの俳句も、いうならば言葉の取り合わせによってイメージをデザインし、それによって自他のこころを揺さぶろう、というのですから。

 日原氏へは、お礼のメールに、無遠慮にも「日本語でもわかりません」などと書き添えてしまったのですが、なんと、またまた、「中原さんにはこの論文の方がいいのでは?」と、今年1月に発表されたばかりの、
 「『モンタージュの定義と構造化』―ヒトの心を揺り動かすユニバーサルな法則について」(3)を送って下さいました。

 「ホントだ!よくわかる!全文引用したい!」と、今、読んでいますが、私は、これまであまりモンタージュについては触れずにきました。というか、コワイので敬遠してきたというのが本音です。

 『俳句用語の基礎知識』(6)の解説を引用してみます。

モンタージュ

 〔定義〕元来は機械や建築物などの組み立てを意味するフランス語であるが、映画の技術用語として多く用いられ、俳句用語としても、取合せ、配合などの意で用いられるようになった。映画では、独立のフィルムの断片をつなぎ合わせて組み立て、そこに美と意味とを統一して一篇に仕上げる芸術表現の手段をいい、この映画理論を基礎においたのが、ソ連邦の映画監督のエイゼンシュテインやプトーフキンで、日本の伝統芸術、特に俳諧からも多くの示唆をうけたといわれる。
 日本でこの言葉を俳句に関連して用いたのは寺田寅彦で、《近頃映画芸術の理論で云ふところのモンタージュは矢張取合せの芸術である。二つのものを衝(つ)き合わせることによつて、二つの各々とはちがつた全く別な所謂陪音或は結合音ともいふべきものが発生する。此れが、映画の要訣(ようけつ)であると同時に又俳諧の要訣でなければならない》(「俳諧論」)といっている。
 〔歴史〕
(略)
 〔関連語〕「配合」「取合せ」「掛合せ」などは同義語として用いられ、他に「二句一章」「二物衝撃」など。また「行きて帰る心」「即(つ)かず離れず」はモンタージュの極意とされる。
 〔具体例〕
〈山里は万歳おそし梅の花 芭蕉〉〈蟾蜍(ひきがへる)長子家去る由もなし 草田男〉〈鰯雲人に告ぐべきことならず 楸邨〉〈初蝶やわが三十の袖袂(そでたもと) 波郷〉を挙げて解説。
 〔一般語への転用〕(略)(岸田稚魚)

 このような解説に、私はいつも分かったような、分からないような気分を持ちつづけてきました。ところが、私事で恐縮ですが、私が句集『以上、西陣から』(5)を出したとき、お一人だけ、「モンタージュ」という言葉を使って評(7)を書いて下さった方がおられました。俳人で文芸評論家の生野毅氏です。

 タルコフスキーは映画論集『映像のポエジア』(鴻英良訳・キネマ旬報社刊・1988)の中でこう書いている。「モンタージュは明らかにどんな芸術の中にもある。それは芸術家が行う選択と不可避性の結果なのだ。モンタージュなしではどんな芸術も存在しない。」俳句の根本原理といわれる「二物衝撃」、すなわち要素AとBの衝突ないし結合が、AでもBでもない「第三の意味」を生み出す作用が、エイゼンシュテインの「モンタージュ理論」のヒントになったことは知られている。タルコフスキーはエイゼンシュテインのモンタージュが「時間の真実がない」として批判したが、にもかかわらず芭蕉の句を「捉えられ停止させられ永遠の中に落下していく一瞬が、反復不能のもの」と語って賞賛せずにおれなかった。さて、俳句の根本原理に極めて真摯に寄り添うことにおいて白眉といえる二冊の句集を挙げる。『以上、西陣から』(ふらんす堂刊・2006)の著者中原幸子は、「(俳句の)取り合わせが心にもたらす効果の不思議さに取りつかれ」た(あとがき)と告白しつつ、次のような句を開陳する。
 うん、いいよ。余寒もいいよ屋根の上
 冷奴墓を作っておこうかな
 せんせいはどしゃぶりわたしきゅうりもみ
 「取り合わせ」、すなわちモンタージュ。一見平明な言葉の連鎖はうっかりしているとあっという間に想定外の世界へ読者を引き込んでしまう。作者は「取り合わせ」の妙によって、世界のみずみずしい回復を祈念しているのだ。


 この後、後藤比奈夫句集『めんない千鳥』(ふらんす堂刊・2005)へと話は移るのですが、私にとっては、自分の俳句を例として「取り合わせ」を解説して頂いたことになり、実に有り難いことでした。
 なんだか、引用だけで終わってしまって、マズイなあ、という気持ちですが、日原氏の  「『モンタージュの定義と構造化』―ヒトの心を揺り動かすユニバーサルな法則について」では、モンタージュが、俳句という囲いの中でなく、様々に論じられていきます。で、そのご紹介の前に、ちょっと俳句のモンタージュをおさらいしたかったのですが、これではあまりにも入り口過ぎて恥ずかしいです。来月がどうなりますか、心配です。では、また来月。
中原幸子

〔参考文献〕
(1)日原広一著「情緒デザインの役割と組織」(英文標題「THE ROLE AND ORGANIZATION OF AN EMOTIONAL DESIGN」(KANSEI Eng Int Vol.8, No.2、2009年3月)
(2)日原広一著「『商品開発プロセスにおける情緒設計の手法と効果』―情緒設計の役割と構造」(同上日本語版)
(3)日原広一著「『モンタージュの定義と構造化』―ヒトの心を揺り動かすユニバーサルな法則について」(「デザイン学研究」56(5)所収)(日本デザイン学会、2010年1月31日)
(4)『俳文学大辞典』(角川書店、1995年)
(5)中原幸子著『以上、西陣から』(ふらんす堂、2006年)
(6)村山古郷・山下一海編『俳句用語の基礎知識』(角川選書、1984年)
(7)生野毅著「俳句の『取り合わせ』について」(図書新聞、2006年12月12日)


月刊「e船団」 「香りと言葉」2010年11月号

さて、モンタージュとは?

 いま、風邪にぐずられています。皆さんは大丈夫ですか?
 めったに引かないが、引くと、風邪とは思えない悪さをするのがワタシの風邪で、幼馴染みの慢性中耳炎は目を覚ますわ、胸の回りから上腕部まで筋肉痛になるような咳は出るわ・・・。病気慣れない患者がしんどがる割に、かかりつけのドクターは冷たく、「大したことないで・・・」とおっしゃる。そう言えば、まだ働いているころ、38度も熱が出て、出勤の前に寄ったら、「会社へは行くんやろ?曙は40度でも相撲取ってるで」とおっしゃった。もう、曙は横綱でしょう!
 ともかく、いろんな薬をもらった。咳を和らげるのも。ところが、なんと咳の発作はこれでは止まらないのですね。来るナ、と思ったら、こののど飴。

 宝塚清荒神参道「健康食材屋 堀内八郎兵衛」の「本格派 のど飴」。

 この頃のこととて、丁寧な成分表示もあり、使用法も書いてある。
 名称/飴菓子
 原材料名/砂糖、水飴、生姜汁、レンコン汁、カリン末、ハーブエキス、還元麦芽水飴、 香料(生姜オイル、ハッカ油)
 本品は、昔からのどにいいと言われている生のれんこんをすりおろし、花梨の粉末、生姜の汁をふんだんに使用し良質のハーブエキスを配合した本格的なのど飴です。独自の製法により、引き出された味と香りをお楽しみ下さい。


 21世紀の医学にできないことを、1個10円ほどの、こののど飴が、と思うと、なんか、納得いかないけれど、これを舐めるとすーと治まるのだから仕方がない。どう眺めても、そんなに効きそうなモノが入っていそうには見えないが・・・、これが「配合の妙」ってモノだろうか?この配合の妙と、タルコフスキーのいう「どんな芸術にも必ずある」モンタージュって、何か関係があるのだろうか?まったく、「配合」ということの引き起こすさまざまな様相には、出会う度に戸惑ってしまう。

 しかし、ここは、ともかくも俳句のモンタージュに行かないと。
 先月、『俳句用語の基礎知識』(1)から「モンタージュ」の項をご紹介した中に、

 日本でこの言葉を俳句に関連して用いたのは寺田寅彦で、《近頃映画芸術の理論で云ふところのモンタージュは矢張取合せの芸術である。二つのものを衝(つ)き合わせることによつて、二つの各々とはちがつた全く別な所謂陪音或は結合音ともいふべきものが発生する。此れが、映画の要訣(ようけつ)であると同時に又俳諧の要訣でなければならない》(「俳諧論」)といっている。

 というところがありましたよね。これは「俳諧論」の中の「俳諧の本質的概論」(2)に出ているのですが、ご覧のように「モンタージュは矢張取合せの芸術である」となっています。これって、寺田が「映画のモンタージュ」を包含する大きな「取り合わせの芸術」を認識していた、ということですよね?その広い「取り合わせの芸術」の世界って、どういう世界なのだろう、と思って、寺田がそれ以前にモンタージュについて書いたモノを見てみました。
 「映画時代」(昭和5年9月)、「ラジオ・モンタージュ」(同6年12月)、「青磁のモンタージュ」(同6年12月)、「映画芸術」(昭和7年8月)などなど・・・。
 で、「ラジオ・モンタージュ」(3)にこんな風に書かれていました。モンタージュの理論が大分もてはやされているが・・・、という意味の前置きをしたあとに、

 このモンタージュなるものは西洋人にとってはたしかに非常な発見であったに相違ない。そうしてこれに対する解説を近代的な言葉で発展させればいろいろむつかしくも言えるようであるが、しかしわれわれ日本の旧思想の持ち主の目から見れば実質的にはいっこう珍しくもなんともないことのように思われてしかたがない。つまり日本人がとくの昔から、別にむつかしい理論も何もなしにやっていた筆法を映画の上に応用しているようにしか思われないのである。
 たとえば昔からある絵巻物というものが今の映画、しかもいわゆるモンタージュ映画の先駆のようにも見られる。またいわゆる俳諧連句と称するものが、このモンタージュの芸術を極度に進歩させたものであるとも考えられるのである。そうしてまたこのモンテーという言葉自身が暗示するように、たとえば日本の生花の芸術やまた造庭の芸術でも、やはりいろいろのものを取り合わせ、付け合わせ、モンタージュを行なって、そうしてそこに新しい世界を創造するのであって、その芸術の技法には相生相剋の配合も、テーゼ、アンチテーゼの総合ももちろん暗黙の間に了解されているが、ただそれがなんら哲学的な術語で記述されてはいないのである。
 ところがおもしろいことには、日本でエイゼンシュテインが神様のように持てはやされている最中に、当のエイゼンシュテイン自身が、日本の伝統的文化は皆モンタージュ的であるが、ただ日本映画だけがそうでないと言ったという話が伝えられて来た。彼は日本の文字がそうであり、短歌俳諧がそうであり、浮世絵がそうであると言い、また彼の生まれて初めて見たカブキで左団次や松蔦のする芝居を見て、その演技のモンタージュ的なのに驚いたという話である。


 と述べ、そのあと、「たとえば食物でも巧みに取り合わせられた料理は一種のモンタージュ芸術と言われなくもない」と言っています。ならば、「堀内八郎兵衛」の「本格派 のど飴」もレッキとしたモンタージュ芸術!?
 そう言えば、正岡子規も、いろいろ取り合わせについて考えているうちに、とうとうお茶漬けに香の物という取り合わせに思い当たって喜んでいたことがありましたっけ。 え?でも、そんなことを言うなら、地球上至るところにいい取り合わせの料理はある筈だけど・・・。なんだか、新しいモンダイに突き当たった感じ・・・。
 それはともかく、「俳諧の本質的概論」には、取り合わせる二つのものの選択についても書かれています。二つのものを連結する糸は3種類だ、と。

 ・常識的論理的な意識の上層を通過している
 ・古典の中のある挿話で結ばれている
 ・潜在意識の暗闇の中でつながっている

 そして、「蕉門俳諧の方法の特徴は全くこの潜在的連想の糸によって物を取り合わせるというところにある。幽玄も、余情も、さびも、しおりも、細みもこの弦線の微妙な振動によって発生する音色にほかならないのである」と述べる。ここらはいかにも「尺八の音響学的研究」と題する論文で博士号を取った人らしい表現ですよね!先々月、9月号のタイトル「取り合わせ―深い共通点」もこんな風に表現できるとよかったんですが。

 ところで、「天災は忘れた頃来る」という言葉は、寅彦の名言、ということになっているが、そうじゃないらしい、と聞いて慌てました。佛教大学・四条センターで11月にやらせて頂く講座「寺田寅彦の俳句」のご案内に、寅彦の論だと書いてしまってるのです。どうしよう、と思ったら救いの神は中谷宇吉郎。「天災は忘れた頃来る」が寅彦の名言になったいきさつをちゃんと全集に残してくれていました。「書かれたものには残っていないが、寅彦の言葉には違いない」と。よかった!
 では、また来月。
中原幸子
〔参考文献〕
(1)村山古郷・山下一海編『俳句用語の基礎知識』(角川選書、1984年)
(2)寺田寅彦著「俳諧の本質的概論」(『寺田寅彦全集 第十二巻』、1997年、岩波書店)
(3)寺田寅彦著「ラジオ・モンタージュ」(『寺田寅彦全集 第八巻』、1997年、岩波書店)


月刊「e船団」 「香りと言葉」2010年12月号

走るモンタージュ

 OMODENをご存じですか?

 先日、中学校卒業60周年の同窓会があり、和歌山県紀の川市貴志川町の大池莊に集合した。大池莊は大池遊園内の大池のほとりにあり「オイケソウ」と読む。そこへ行く電車が「和歌山電鐵貴志川線」で、その「大池遊園」駅で降りる。はい、オイケユウエン駅です。
 JRきのくに線の和歌山駅のはずれに「和歌山電鐵貴志川線」の和歌山駅はあり、そこで待っていたのが「OMODEN」こと「おもちゃ電車」だった。

  外側・・・ン?              座席・・・わ!


 窓際のケースに並ぶおもちゃたち。

 和歌山駅からこのOMODENに乗って大池遊園へ。単線。
 向かい側に座った若者はイヤホンを耳に挟んで目をつむった。次に乗ってきた2歳ぐらいの男の子は、お父さんにだっこして一番前の運転席の隣の窓に貼りつく・・・。地元の人はもう慣れっこらしい。車内にはベビーサークルが設置されていて、お母さんが眠り込んだ赤ちゃんをそこに降ろした。小さな枕が3つある。
 車窓にはミカンがきらきらと光り、田んぼでは、ひこばえが穂を出して、また稲刈りが出来そう。案山子も頑張っている。ときどき真っ赤な櫨紅葉。
 それにしても、車内は、赤、ダイダイ、黄、緑、ショッキングピンク、青、などが互いに譲らぬ気配であふれかえっているのに、なんだか、気持ちいいのはなぜだろう。
 ・・・あ、なんだ、そうか!木だ!おもちゃのケースと床が木、木目が見えるのです。

 そうこうする間に大池莊に着き、会費は8000円。ちなみに男は1万円。
 くじ引きで隣に座ったジュンちゃんに、OMODENに乗ってきた、知ってるか、と自慢したら、あれなあ、スッちゃんらがやったんや、ボクも応援した、だと。スッちゃんも同級生。廃線になりそうなのを、みんなで反対運動して、なんとかいう助成金を貰って、命拾いさせたのだとか。

 「それにしても、あの派手派手色と天然木を取り合わせて、「和み」を生んだデザイナーはすごいね。あ、あれ、モンタージュ?私は走るモンタージュに乗って来たん?」と言うと、ジュンちゃんは、一瞬目を泳がせたあと、ああ、そうやな、と同意してくれた。持つべきモノは同級生だ。

 実は、最近、なんでもモンタージュに見えて困っているのです。
 寺田寅彦の「青磁のモンタージュ」(1)を読んでから、特にそうなったような気がします。

 「黒色のほがらかさ」ともいうものの象徴が黒楽の陶器だとすると、「緑色の憂愁」のシンボルはさしむき青磁であろう。前者の豪健闊達に対して後者にはどこか女性的なセンチメンタリズムのにおいがある。それでたぶん、年じゅう胃が悪くて時々神経衰弱に見舞われる自分のような人間には楽焼きの明るさも恋しいがまた同時に青磁にも自然の同情があるのかもしれない。(中略)
 青磁の皿にまっかなまぐろのさしみとまっ白なおろし大根を盛ったモンタージュはちょっと美しいものの一つである。いきのよいさしみの光沢はどこか陶器の光沢と相通ずるものがある。逆に言えば陶器の肌の感触には生きた肉の感じに似たものがある。ある意味において陶器の翫賞はエロチシズムの一変形であるのかもしれない。(中略)
 青磁の香炉に赤楽の香合のモンタージュもちょっと美しいものだと思う。秋の空を背景とした柿もみじを見るような感じがする。
 博物館などのように青磁は青磁、楽は楽と分類的に陳列してあるのも結構ではあるが、しかしそういう器物の効果を充分に発揮させるようなモンタージュを見せてくれる展覧会などもたまにはあっていいかもしれない。もっとも茶会の記事などを見ると実際自分の考えているようなモンタージュ展を実行しているのであるが、それは限られた少数の人だけのためのものでだれでもいつでも見られる種類のものではない。
(後略)

 そして、最後を「赤楽の茶碗もトマトスープでも入れられては困るであろう」とモンタージュの失敗例で締めくくっている。よくも見つけたり、という例ですよね、これ。いかにも美味しくなさそう。

 と、いう風に読んでいて、美しいもの、調和のとれたもの、居心地のいいものはみんなモンタージュに見えるようになったのです。だから、中には見当外れも混じっているにちがいないですが、まあ、身の廻りのモンタージュ探しも結構楽しいものです。

 それにしても、山口誓子ってひとは、跳んだ(?)発想のできる人だったのですね。「詩人の視線」(2)を読んでいたら、こんなところがありました。

 脱ぎ捨てゝある数多の下駄の中から自分の下駄を見出すこと、下駄の「個」を見出すこと。  このことは、句作に当つて季物の「個」を見出すことゝ一致する。
 或る句会で下駄を間違へられた私は、さういふことを考へながら心が平らかでなかつた。


 そうか、下駄を間違えられただけで、頭がこんな風に動く人なのか、と思うと、ここからほんの1ページほど先に、
 モンタアジュは連鎖である――P
 モンタアジュは衝撃である――E

 と、あるのも、むろん、Pはプドフキン、Eはエイゼンシュテインですが、なんだか納得、という感じ。

 来年こそは、香りや味のモンタージュに迫りたいものです。
 どうぞよいお年を。
中原幸子
〔参考文献〕
(1)寺田寅彦著「青磁のモンタージュ」(『寺田寅彦全集 第八巻』、1997年、岩波書店(初出「雑味」昭和6年12月))
(2)山口誓子著「詩人の視線」(『山口誓子全集 第七巻』、1977年、明治書院(初出「ホトトギス」昭和8年4月))


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