月刊:ことばを探る 最近のバックナンバー

月刊「e船団」  言葉を探る 2001年6月号

喃語(なんご):赤ちゃんはなぜかわいらしいか?

 いまはむかし、男の子のバイブルは「次郎物語」、女の子のそれは「赤毛のアン」だなどと言われていた。両方とも私にはバイブルだったし、もう少女ではなくなってからも、アンのシリーズは翻訳が出るのを待ちかねて読んだものである。
 アンはシリーズの6番目である「アンの夢の家(Anne's House of Dreams)」で初めて母になる。最初の女の子を難産の末に失ったアンにとって、この、ジェームス・マシュウと名付けられた男の子は何にも代えがたく、だからアンはこの子をジェム(Gem:宝石)と呼んだ。
 生まれる前から、アンは理想的な育児を目指して何冊もの本を読み、特にオラクル卿著「子供の養育と躾」に傾倒した。オラクル卿は「子供に『赤ん坊言葉』を決して使わないように」と母親たちに懇願し、「始終『こんないい子はありまちぇん』などと言われている子供が自分の存在や可能性や運命について正当な観念が得られようか」と説いたのである。アンは断じて赤ちゃん言葉は使わないつもりだった。夫のギルバートと堅い盟約を結んで。
 だがジェムをはじめて抱いたとき、アンは「まあ、なんてかわいい、いい子でちょう!」と叫び、オラクル卿のことを「自分の子供をもったことがないから、あんなバカなことを書くのだ」と嘲笑したのだ。ジェムがはじめて「ウァーガ(wowga)」と言った日などはもう他のことは目にも耳にも入らない。
 この「ウァーガ」の類いの、まだ言葉になっていない音は喃語(なんご)と呼ばれる。生後2、3ヶ月ごろのこのアンの母親初体験からは、喃語が母にどれほどの喜びを与えるかや、赤ちゃん言葉(幼児語)が「母」から本能的にほとばしり出るものであることがとてもよく伝わってくる。

 Lucy Maud Montgomery (1874-1942)がシリーズの第1号である「赤毛のアン」を出版したのは1908年、6番目である「アンの夢の家」は1917年であった。因みに日本語訳はそれぞれ1954年と1958年(村岡花子訳、新潮社)。「赤毛のアン」は平成11年5月までに113刷を重ねている。私はどれも初版で読み続けた世代だが、村岡花子は「あとがき」でいつも、1巻出すとすぐに読者から次の催促が始まる、と記していたものだった。

   「赤毛のアン」が書かれて半世紀以上もたってから、この母親の本能的話法は幼児のことばの発達にとってとても重要であることがわかってきた。

 1966年、幼児に話しかけるときの母親の話し方に「motherese」という造語をあてはめたのはアメリカの文化人類学者チャールス・ファーガソンであった。Japanに-eseという接尾辞をつけるのと同じやり方でmotherに-eseをつけてその発する言葉を現わしたのである。まぎらわしいが、「motherese」は赤ちゃん言葉ではなく母親が幼児に話すその話法であるらしい。「motherese」を「母親語」と和訳したのは比較行動学者正高信男であるが、その後これは母親だけのものではなく、父親にも使われることから育児語という語も造られている。

 先のファーガソンは6つの異なる言語文化圏(日本語を含まない)で母親語の比較検討を行い、それらに共通の特質を見出した。すなわち、(1)ことさら声の調子を高くすること、(2)声の抑揚を誇張すること、の2点である。このファーガソンの発見を踏まえて、正高信男はさらに実験をすすめ、生後6ヶ月くらいの乳児と母親の間で母親語がどのように働いているかをあきらかにしていった。
 幼児をあやすとき、母親は普通乳児がなんらかの反応を返すまで、忍耐強く繰り返し話しかけるが、初めから常に母親語で話しかけているわけではない。最初は普通の声の高さと抑揚で話しかけ、3度、4度と無反応が続くと母親語になるのだ。そしてこの場合の母と子の語調を分類すると大体次の5つのメロディータイプに別れるという。

(1) 上昇型:疑問文のように語尾が上がる
(2) 下降型:語尾で音調が落ちる
(3) 平坦型:音の高さが変わらない
(4) 「下降+上昇」型:まず下がりその後上がる
(5) 複合型:上記のどれにも当てはまらない複雑な型

   母親が母親語で語りかけるとどうなるか。乳児は、普通に話しかけられたときとは比べものにならないほど上手に、母親の語りかけを真似ることができるのである。
なぜか。
 ヒトの乳児は母親語を聞くと「うれしい」と感じるような聴覚の性質を生まれながらにして備えているからである。乳児は生まれて間もなくから、母親の言葉、それも母親語により強く惹きつけられ、敏感に反応する。しばしばほほ笑み、足をばたばたさせて「うれしい」情緒反応を示す。何度かの無反応のあと、わが子から「うれしい」反応を貰った母親はもちろんうれしい。母と子はこうして「うれしい」を共有することができ、この情緒の共有が乳児にしぐさを真似るという行為を企てさせるという。ことばの習得は母と子の間の「おうむがえし」のやり取りが重要な役割をはたしているのだが、その原動力が母親語(育児語)による「うれしい」感情というわけである。

 喃語を発し始めたころの乳児は、のどの構造がチンパンジー型からヒト型へと変わり、だんだんと吸気よりも呼気の時間の方が長くなっていく。声を出すのは呼気のときだから、一呼吸で出せる音が長くなり、変化もつけられることになる。いよいよ音ではなく言葉を発する身体的準備が整っていくのである。
 この時期と、乳児が母親語に「うれしい」と反応して母を喜ばせることができるようになる時期とが一致しているというのはまさか偶然ではあり得ないだろう。赤かちゃんがかわいらしいことは赤ちゃんが言葉を身につける上で大切な意味があったのだ。
が、少し疑問に思うことがある。
 正高信男の研究は乳児の「かわいらしさの発見」にも及んでいる。しかし、子を持たない私の乏しい経験でも、血のつながりのある甥や姪はどういうわけか他人の子よりかわいらしかった。客観的に見れば一目瞭然向こうが勝ってる、という場合ですらウチの子がかわいらしいのだ。これはなぜだろう。

ご参考までに(広辞苑から)
新生児:分娩直後から2〜6週間までの乳児。初生児、新産児
乳児:生後1年ぐらいまでの母乳または粉乳などで養育される時期の子供。児童福祉法では、1歳未満児をいう。ちのみご、嬰児。
幼児:(1)おさない子。おさなご。(2)(児童福祉法で)1歳から小学校に就学するまでの者。
幼児語:幼児期にのみ使われる言葉。「あんよ」「うまうま」など
母親語:なし
赤ちゃん:「赤ん坊」を親しみをこめていう語
赤ん坊:生まれて間もない子供。体が赤みがかっているからいう。赤子。あかんぼ。比喩的に、幼稚・世間知らずの人のさまにもいう。
子供:(2)幼いもの。わらわ。わらべ。小児。まだ幼く世慣れていないことにもいう。(中原幸子)

参考文献
・ディヴィド・クリスタル「言語学百科事典」(大修館書店、1992年)
・正高信男「0歳児がことばを獲得するとき」(中央公論新社、1993年)
・伊藤克敏著「こどものことば」(勁草書房、1990年)
・文部省「学術用語集」(言語学編)(初版、1997年)
・鈴木孝夫「ことばと文化」(岩波新書、1973年)
・城生佰太郎「ことばの科学・雑学事典」(日本実業出版社、1994年)
・モンゴメリ・村岡花子訳「アンの夢の家」(新潮社、1958年)


月刊「e船団」  言葉を探る 2001年5月号

コミュニケーション事始

 ヒトは生まれたとき産声をあげる。産声がまわりの人に与える安堵と喜びを考えるとき、それはコミュニケーションと呼ぶにふさわしい機能を十分果たしているといえるかもしれない。しかし、コミュニケーションが何らかの「意味」のやりとりであるならば、どうであろう。そこに何か意味を伝えようとする意志が働いているであろうか。また、何よりも、赤ちゃんは自分の産声が聞こえているのであろうか。

 まず、産声とは何か。
 伊藤克敏著『こどものことば』によれば、「生れ落ちると同時に発する泣声は、一体何を意味しているのか、についていろいろな憶測がなされている。哲学者カントは『新生児の自由に動けないことに対する苛立ち、怒りの声である』といっているが、暗い産道を母親との協力でやっと抜け出て、この世にうまれで出た喜びと勝鬨(かちどき)の声であるかもしれない。それはともかく、産声には生理的な理由があるようである。つまり中耳にたまっているゼラチン状液を外に出し耳が聞こえるようにするためだといわれている」。ここでみるかぎりでは、どうも産声はただの音のように思われる。
では、産声は赤ちゃん本人に聞こえているのだろうか。驚くべきことに、それはちゃんと聞こえているばかりか、胎児の段階ですでに母親の声を覚えるトレーニングが積まれているという。
 生まれたときの聴力がほぼヒトと等しい、といわれているニホンザル8頭での実験によると、母親の声を識別できるようになるのは出生後14日目から41日目であったという。その差27日。ところがこの日数を受精後の日数で勘定しなおすと、190日目から202日目となり、その差は12日に短縮される。つまり、受精時にすでに、声による母親の識別が必要な時期になれば、それを学習できる仕組みになっているというのである。この実験結果は、ほぼヒトの赤ちゃんにも当てはまると推測されている。

 ヒトは生れ落ちた瞬間から聴力をもち、たとえただの泣き声ではあっても音をもつ。生後まもなく母親の声を他と識別することも学習する。しかし、生まれて間もない、まだ泣き声しか出せない新生児の、母親との最初のコミュニケーションは、実は音によるものではないらしい。
 赤ちゃんは母乳でもミルクでも吸っては休み、吸っては休みしながら飲む。子供を育てた経験のある人ならこれはすぐ思い出すであろう。ところがほとんどの母親の方は、その吸っては休み吸っては休みのインターバルに、自身の動きが密接にかかわっていることを意識していない。その動きとは、吸うのをやめた赤ちゃんをやさしく揺さぶることである。赤ちゃんは揺さぶられている間中吸うのを休み、揺さぶりが終わるとまた吸い始めるのである。
 赤ちゃんとお母さんは「吸う」と「揺さぶる」というそれぞれの働きかけでもって見事にコミュニケーションを交わしているのである。
 では、揺さぶりをわざと止めるとどうなるか。赤ちゃんは揺さぶられなくても、リズムは崩されながらもおっぱいを吸うことができるし、リズムの崩されかたは生長につれて弱くなる。ところが、生後6週間から8週間を経て、赤ちゃんが泣く以外にも「アー」とか「クー」とか、クーイングと呼ばれる音声を出すことができるころになると、揺さぶりをやめられたらクーイングで催促することがわかっている。

 赤ちゃんに可愛くクーイングで揺さぶりをおねだりされたら、大概の母親はあわててゆさぶってあげるだろう。自分の一声で母親が直ちに動く。話はそれるが、わたしは今、赤ちゃんが自分のこの力に気付いたときの気持にものすごく興味がある。「アー」、「クー」と言うだけでヒトが動くのだから。クーイングに母親がどう答えるかが、もしかしたら人生を大きくゆるがすのではないかという気がするのだ。これほどの力をもった言語を吐く大人がそうそういるだろうか。人に動いてもらうために私たちが費やす言葉の数といったら!

 ところで、「クーイング(cooing)」という語は日本語、英語ともに『学術用語集・言語学編』(文部省、初版、1997年)には載っていない。著者によっては「泣き声」の「叫喚音」に対して「クーイング」を「非叫喚音」としている例もある。また、ディヴィッド・クリスタル著『言語学百科事典』では「クークー音声」という訳語が使われている。
 クーイングに限らず、幼児の言語の習得について書かれたものを読むと、その発達段階の区切り方も用語も著者によっていくらか違っている。が、幼児の言語習得の研究がテープレコーダーの出現によってはじめて画期的に進んだという事実を知れば、それもよく分かる気がする。

 さて、上述のように赤ん坊は生後6週〜8週くらい経つとクーイングを発するようになる。まだ言語ではなく、前言語的音声などと呼ばれていても、立派にコミュニケーションに役立っていることも前に述べた。クーイングが始まって1ヶ月もすると、それはよりしばしば発せられるようになり、母親がそれに応じて声を返せば、赤ちゃんはそれを真似ることを覚え、しかも真似ができたことを認識できているという。そして、われわれの言葉の原型となるような母音様の音を発するようになる。
 実はこの頃赤ちゃんの喉に劇的な変化が起こり、それまでのチンパンジー様の構造を卒業してヒトの成人の喉の構造になるのである。どうして赤ちゃんの喉は初めから大人の喉の構造になっていないのだろうか。それはチンパンジー様の喉は食べ物が気管の方へは流れられない構造になっていて、赤ちゃんが食べ物を喉につめて息ができなくなる心配がないからである。体力がついて、食べ物を喉につめて死ぬ心配が減ってはじめて、赤ちゃんの喉はヒトの大人の喉の構造へと急成長するのである。

 初めての声変わりをすませた赤ちゃんは、咽頭がちゃんと拡張していて、くすぐられると笑いが「ハッハッハッ」と口から出るようになる。

 いよいよ言語獲得の準備完了である。(中原幸子)

参考文献
・ディヴィド・クリスタル「言語学百科事典」(大修館書店、1992年)
・正高信男「0歳児がことばを獲得するとき」(中央公論新社、1993年)
・ 伊藤克敏著「こどものことば」(勁草書房、1990年)
・ 文部省「学術用語集」(言語学編)(初版、1997年)
・ 鈴木孝夫「ことばと文化」(岩波新書、1973年)


月刊「e船団」  言葉を探る 2001年4月号

ことばのはじまり

 で、ヒトは鳥がさえずるのをまねて言葉をつくった、というのは実は私の嘘でも仮説でもない。19世紀にはそう信じている人が大勢いたのだ。そのモトは18世紀に、モンボドウ卿ジェイムズ・バーネットという人が作ったらしい。このイギリス貴族が『言語の起源と進歩』全6巻を世に出したのは1773年で、彼はその中で「人間は糸を紡いだり、布を織ったりすることを蜘蛛から、ダムの建設はビーバーから、歌い、話すことを鳥から習った」と言っているという。同じ著書の中で、彼はまたダーウインに先駆けること1世紀余にして「進化」に言及しているのだ。
 ともかく、鳥から習ったと言われればそうかな、と思えるほどにコトバの始まりは混沌としている。20年ほど前に、ある人が数えてみたら「言語の起源」の理論は主なものだけで23もあった。長い間、言葉の起源に関する研究は実に労多く実り少ない、論争の種にばかりなるものであったため、1866年パリ言語学会はその創立規約に「言語の起源や普遍言語の考案に関する論文は受理しない」旨をうたい、会合で言葉の起源いついて論じることを禁じたという。
 それでも、ヒトの好奇心を抑えることはできない。言語の起源をはっきりさせたい人はいくらでも現れた。
 デンマークの言語学者、オットー・イエスペルセン(Otto Jespersen, 1860-1943)は彼の時代に一般的だった言語の起源についての理論を4つにグループ分けし、さらに自分でもひとつ付け加えて次の5つの理論を発表している。それら5つの理論は見るも楽しいニックネームで呼ばれている。

(1) ワンワン説(Bow-wow theory)
(2) プープー説(Pooh-pooh theory)
(3) ディンドン説(Ding-dong theory)
(4) よいとまけ説(Yo-he-ho theory)
(5) ラララ説(la-la theory)

 「言語学百科事典」によれば
(1) ワンワン説:言語は人間が回りの環境の音、特に動物の鳴き声を真似することを通じて生み出されたというもの。その主な根拠は、擬音語を使用するということであるとされる。

(2) プープー説:言語は、痛みや怒りなどの感情によって刺激されて、人間が本能的に音を発することから生じたというもの。その主な証拠は、間投詞のような、すべての言語に共通の音を使用することであるとされる。「プープー」は鼻であざけること。

(3) ディンドン説:言語は人間が自分の周囲の刺激に反応して、ある面で環境を反映するか環境に調和するような音声を、自発的に発すること(「口頭の身振り」)から生じたというもの。その主な証拠は、ある種の意味をもつ単語に、すべての言語が共通の音を用いることであるとされる。「ディンドン」は鐘などの音。

(4) よいとまけ説:言語が発生したのは、人々が一緒に労働するときに、肉体的な努力をすることから、共同の、しかもリズムをもったうなり声のようなものが発せられ、それがやがて歌へと、つまり言語へと発達していったからであるというもの。その主な証拠は、言語では韻律的な特徴、特にリズムの使用が普遍的に行われていることであるとされる。

(5) ラララ説:イエスペルセン自身は、もしある1つの要因が人間の言語を生じさせるとすれば、それは生活の叙情的な側面、つまり愛や遊びや詩的な感情あるいは恐らく歌などであろうと思った。しかしここでもまた、言語表現の感情的な側面と理性的な側面の間の開きは、まだ説明されているとはいえない。

 この5説はいずれも言語の起源を完全には理論づけられていない。因みに手許の「文部省・学術用語集・言語学編」(初版、平成9年刊)にはワンワン説だけが載っていて、不思議だ。

 この5つの説に関しては、ここに面白いホームページがある。
  http://www02.u-page.so-net.ne.jp/ja2/hitokoto/higuhon9901.html
 日記になっているので、1月4日のところをどうぞ。

 このホームページには名前も、メールアドレスも記載がなく、やむを得ず無断でリンクさせて頂く。このページの持ち主の方、お許し頂けないときはすぐに外しますのでご連絡ください。
 ところで、「言語の起源」というが、そもそも、「最初の言葉」というのが存在したのかどうかが分かっていないのである。
 1つの源をもつとする「一元発生説」、いくつかの源で同時に発生したとする「多元発生説」のほかに同時に発生はしたが、現在まで続いているのはその中の1つだけだとする説などがある。

 こうなると、誰でも考えるのは、生まれてから言葉を使えるようになるまでの、ヒトの言葉の習得過程を調べたらどうかということであろう。1月号で述べたように、ヒトは生まれてから1年ほどのあいだに人類の進化の百万年分を経験するのだから。
それは、勿論実行に移された。
 紀元前7世紀のエジプトの王プサンメティスコをはじめ、神聖ローマ皇帝ホーエンシュタウフェン侯フリードリヒ2世、スコットランド王ジェームズ4世などは、権力をもって、言葉を学習できない状況に子どもをおけば、どういう語を発するかをみようと試み、いずれも失敗に終っている。
 また、人為的に試されるのではなく、不幸にも野生の状態で育たなければならなかった子どもの例も報告されている。しかし、これらにおいても、ヒトが自然に得る言語はどういうものかについて明瞭な答えを与えられはしなかった。

 現在では、科学的に言語の起源を解明できるかどうかを見極めようとする取り組みがなされているのだという。幼児と人類の両方について、その言語の形成と発達が研究されているのである。そして、生まれたての赤ちゃんとその母との間に交わされる人生最初のコミュニケーションは、実に意外な形で行われていたのである。以下は次号で・・・(中原幸子)

参考文献
(1) デイヴィッド・クリスタル「言語学百科事典」(大修館書店、1992年)
(2) ジーン・エイスチン「ことば・始まりと進化の謎を解く」(新曜社、1999年)
(3) 正高信男「0歳児がことばを獲得するとき」(中公新書、1993年)
(4) ジョン・ライアンズ「言語と言語学」(岩波書店、1987年)
(5) 風間喜代三「言語学の誕生」(岩波新書、1978年)


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