ねんてんの今日の一句 バックナンバー

2010年1月31日
地球一万回転冬日にこにこ
高浜虚子

 昭和29年、80歳の作。出たばかりの小西昭夫著『虚子百句』(創風社出版)では、地球の1万回転は27年と少しだと計算している。その27年余は自分が産まれてからか、子どもが産まれてからの日か、と考え、思いつくのはそんなことだが、いつも冬日にこにこではないよなあ、と小西は言う。「つまりは分からないのだが、その分からなさがこの句の魅力だともいえる」。分からないことがどうして魅力なのか。そこが読者の私には分からない。
 もっとも、小西はこの後で、この句の作句事情を勘案し、それを知ると、「地球一万回転」も「冬日にこにこ」も「すんなり納得できる見事な表現である」と述べている。作句事情とは、この句が俳人の結婚30周年記念に贈られたこと。でも、ここでも小西は、見事な表現である理由を示すべきではなかったか。

2010年1月30日
丸木橋冬田と冬田つなぎけり
大串章

 情景のよく分かる句。私はこの俳人の抒情的な句のファンだが、掲出した句のレベルではもはや満足しない。この句、最新の句集『山河』(角川書店)にある。
 作者もまた満足はしていないだろう。この句の前後には「牡蠣を剥く人牡蠣殻の山の陰」「涸川を跳び老人のはにかめり」があるが、「山の陰」「はにかめり」という見方(下5の処理)が不満だ。平易な処理をしているのだが、意外性がほとんどない。はっきり言えば、これらは現代の俳壇俳句のつまらない平均作である。私は『山河』を前にしてややがっかりしている。大串章の抒情の意外な展開を私は見たい。

2010年1月29日
冬木から岡本太郎が落ちてくる
小倉喜郎

 岡本太郎との取り合わせになって季語「冬木」が急にモダンな姿を現した感じ。句集『急がねば』(2004年)から引いたが、この句のそばには「山眠る新幹線の丸洗い」というやはり取り合わせの新鮮な句がある。
 現在、「e船団」では喜郎と本村弘一の「俳句時評」が始まっている。どのように展開するかはまだ予想できないが、今日の俳句について忌憚のない意見が次々に飛び出すだろう。俳句のおもしろさ、新しさ、魅力などを引き出すための批評はいくら過激であってもよい。いや、過激でなければ俳句の新しい魅力を発見できないだろう。2人には顰蹙を買うほどの過激さの発揮を期待している。

2010年1月28日
ひたひたと生きてとぷりと海鼠かな
本村弘一

 こんな句を見ると、海鼠もいいなあ、と思う。この句、弘一の第3句集『ぼうふり』(2006年)にある。1947年生まれの弘一は肝臓癌になり死を覚悟した。遺作のつもりで『ぼうふり』を準備していたら、なんとある日の検査で癌が消滅していた。この句集の末尾にあるのは「冬晴やさようならそしてありがとう」。この世への別れの挨拶のつもりだったが、癌細胞との別れに急変したのである。ともかく、この俳人はおもしろい。みなさん、弘一に注目してください。彼を楽しんでください。

2010年1月27日
たい焼きは尾頭つきのコピーです
本村弘一

 昨日に続いて句集『だよね』から引いた。たい焼きは確かにコピーのようなものだ。君はコピーだよ、と思いながらたい焼きをかじると、いっそう味わい深いかも。
 弘一は句集のあとがきで、「わたしという『枠組み』をすこしでも組みかえるきっかけとなった句」を載せたと書いている。そして、「ことばの関係をあたらしく見直すことによって、思いがけないわたしに出会うことは、漫画家滝田ゆうの名作『泥鰌庵閑話』にでてくるいろんなおじさんに出会ったときのように楽しい」とも。

2010年1月26日
そうではないということにする犀どどど
本村弘一

 句集『だよね』(1996年)から。無季句だが、犀のイメージが実に鮮やか。
 「e船団」ではこの1月から小倉喜郎とこの本村弘一との対談風俳句時評が始まっている。その展開に注目しているが、弘一は一貫して俳句という形式の自在さを追求してきた。彼の作品にふれると、俳句形式ってこんなに軽やかで自在なのか、と思うに違いない。『だよね』はその彼の第2句集だが、「そら豆はマサヒロのようでもありまして」「永き日を漕ぎだしてゆく鼻の穴」「となりのみよちゃんがいない」「ペンギンを鞄につめてごめんごめん」など、読むたびに愉快になる。

2010年1月25日
シマウマがよく降ってくる朧かな
本村弘一

 こんな句を知ると、早く朧の季節にならないかなあ、と思う。降ってくるシマウマに会いたいから。句集『ちいさな青』(1994年)から引いたが、この句集は1947年生まれの作者の第一句集。画家のミロとの一種のコラボを実現している。「庭よ、いま蜜豆くんを起こしてはいけない」という斬新な句はミロの「沼地の星」をモチーフにしているという具合。
 写真は京都市の山間部にある花背小中学校の「俳句集会」風景。小学生、中学生20名あまりのこの小さな学校では四季に「俳句集会」なる行事をしている。先日、集いに招待され、子どもたちといっしょに給食も食べた。

2010年1月24日
猪のように生きたいどんぶらこ
大角真代

 思い出す度に笑ってしまう句。猪が海を泳いで島の恋人に会いに行っている、そういう場面(何年か前にそういうテレビの報道を見た)を想像するのだ。この作者が1979年生まれの女性だと知ると、いっそうこの句が愉快になるだろう。
 句集『手紙』(創風社出版)にある句だが、引用は「子規新報」1月号から。実はこの「子規新報」、9月以来の久しぶりの発行である。もう出ないのかと思っていたらひょっこり出た。私は同紙の「句集の新風」欄でこの句を取り上げ、「野性や卑猥さに満ちている気がする」とこの句を称賛した。

2010年1月23日
炭叩く叩けば森の骨の音
松本秀一

 「船団」77号の特集「私の小宇宙」にある句。秀一のアトリエ(彼は版画家)を訪ねていっしょに炭を叩きたい。

2010年1月22日
鴨沢山呼んであります来ませんか
ふけとしこ

 はい、行きます。ああ、いい気分の句だ。「船団」77号の特集「私の小宇宙」から引いた。

2010年1月21日
雪の日の数学解けず点灯す
浅井愼平

 句集『冬の修羅』(東京四季出版)から。言うまでもなく作者は高名な写真家、そして何冊もの句集を持つ俳人でもある。この新しい句集のあとがきでは、「ぼくの宇宙のなかに降り積った記憶のコラージュが俳句というかたちになるのだ」と述べている。この「記憶のコラージュ」という言い方が面白い。掲出の句にしても、数学の問題の解けなった記憶が、雪の日の情景としてかたちをなしたのだろう。
 「冬尽きて土蔵にひとすじ光かな」「流氷やわれの殺意の行きどころ」「木枯しや中原中也のゆやゆよん」「曇り日や苺は赤く皿白く」。これらも愼平の作。対象の写生ではなく、構成された言葉のコラージュだ。

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