ねんてんの今日の一句 バックナンバー

2010年2月10日
菜の花やノルマンディの野を埋めて
有馬朗人

 先日からロージン俳句を楽しんでいる。この句、「フランス」というタイトルのもとに句集『鵬翼』に収録されているのだが、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」という大景の現代版という感じ。あるいは与謝野晶子の「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟」を連想させる。広々として満ち足りた気分(幸福感)が一句を満たしている。「の」の音の交響がその気分を高める。「春寒やパリの道化の指のそり」もパリという町の春の光景を鮮やかにとらえている。句集『鵬翼』のロージンは実にのびやかに句を作っている。

2010年2月9日
ウィリアム・テルが榾くべ春暖炉
有馬朗人

 これって物語俳句と名付けたい。作者の意図としてはウィリアム・テルのような人物を登場させたのかもしれないが、ウィリアム・テル自身が登場している、と私は読みたい。もちろん、あの弓の名人のウィリアム・テルだ。
 昨日に続いて句集『鵬翼』から引いたが、春暖炉という季語が実にモダンというか、楽しいムードを帯びている。一句の引きよせた物語性がそのムードを高めたのであろう。

2010年2月8日
暮遅し凱旋門を出るヨーヨー
有馬朗人

 句集『鵬翼(ほうよく)』(ふらんす堂)から。この句集は海外で詠んだ俳句を集めたもの。ロージンのこの句集を読むと、今や海外で詠むことはなんら特別なことではない、と思う。つまり俳壇で使われている「海外詠」という用語はもはや死語なのではないか。この句、パリの凱旋門を詠んでいるのだが、パリでなく、どこかの国の凱旋門であってもよい。凱旋門とヨーヨーとの新鮮な取り合わせが鮮明な光景を描いており、その光景は世界的というか、世界のどこの光景でもいいのである。
 写真は尾道の波。

2010年2月7日
春昼や鍋に手のあり耳のあり
土肥あき子

 句集『夜のぶらんこ』(未知谷)から。この作者の前の句集『鯨が海を選んだ日』は、その表題作「水温む鯨が海を選んだ日」によって話題になった。水温むという季語と鯨の決断との取り合わせが大胆で意外だった。水温むという古い季語が急に新しくなって出現した感じだった。
 こんどの句集では作者が達者になっている。俳句的な表現技法を適度に使いこなしているのだ。掲げた句の場合も、鍋に手足があるというちょっとしたおかしさが春昼というのんびりしておだやかな時空に程よく合っている。ほどよく合っているので上手なのだが、だが、大胆さや意外さは感じさせない。ここが問題だ。この作者、身につけたうまさを破壊すべきだろう。

2010年2月6日
菜の花や湖底に青く魚たち
川島由紀子

 句集『スモークツリー』(創風社出版)から。この作者、大津市堅田に住む。琵琶湖畔には菜の花の名所がある。菜の花畑の対岸に雪の比良山が見えるのだ。去年の2月、この作者などとその菜の花のスポットを訪ね、湖畔のフランス料理を楽しんだ。この句、その日の句会に出て、皆の気分をとても快くさせたのであった。

2010年2月5日
山を見て湖見てわたしふきのとう
川島由紀子

 豊かな蕗の薹だ。山や湖の生気がうす緑色にかたまった感じがする。この句、出たばかりの句集『スモークツリー』(創風社出版)から引いた。
 「にんげんを洗って干して春一番」「春るるる深呼吸するへその穴」「きさらぎの光のティッシュつまみあげ」「恋猫や三角窓が光る頃」。この句集の春の句を引いた。勢いがあって明るい。俳句の春のシーンを一変させるような句だ。作者は1952年生まれ。私たちの「青畝を読む会」の幹事である。

2010年2月4日
春かなし象のかたちの象を見る
木村和也

 「象のかたちの象を見る」という言い方をしなければいけないことが「かなしい」のかも。ごく普通には象は象であって、「これは象のかかちの象だなあ」なんて思わない。思うということは、どこかが壊れているのだろう。自意識というか、外界に対する感覚が。句集『新鬼』(本阿弥書店)}から引いた。
 なんだかむつかしいことを言ったが、先日、天王寺動物園の河馬、ナツコが亡くなった。私はかつて「なっちゃんもてっちゃんも河馬秋晴れて」と詠んだが、ナツコはテツオの母だった。

2010年2月3日
紅梅の蕾は固し不言
高浜虚子

 昭和8年、虚子59歳の作。虚子を特集した雑誌「国文学解釈と鑑賞」平成21年11月号から引いた。この特集号では、虚子自選の「虚子百句」を船団の会会員が鑑賞している。表現に即して俳句を読む、という試みを実践したのだ。その雑誌でこの句を読んだのは小西昭夫。小西は「不言(ものいはず)」に注目し、この表現は不言実行などの「古来からの日本人の美意識を浮かび上がらせもする」と鑑賞している。
 ともあれ、小西の『虚子百句』、そして、「国文学解釈と鑑賞」の「虚子百句」の鑑賞は、虚子の句をその表現から読み解こうとする試み。この試みは、そうすることが虚子の俳句の新しい地平を拓くのではないは、という思いに発している。

2010年2月2日
大根を水くしやくしやにして洗ふ
高浜虚子

 小西昭夫著『虚子百句』から。水をくしゃくしゃにして洗うという表現の「斬新さがこの句の魅力」という読みに賛成だ。ただ、小西は大量の大根を洗っていると読んでいるが、1本でもいいのではないか。
 昨日の「流れゆく大根の葉の早さかな」だが、虚子自選の『虚子百句』では、年尾が次のように虚子の言葉を伝えている。「自然界の一つの相をゑがいたものである。この大根の葉はどこまで流れてゆくのであらう。この水は海に注ぎ、水蒸気となり、雲となり、雨となり、又この小川を流るゝ水となるのであらう。人は冬になれば畑から大根をぬいてきて又その小川のほとりでそれを洗ふであらう」。水の力、水の普遍性を言う小西は、この作者の見解とどこが違うのか。あるいは違わないのか。

2010年2月1日
流れゆく大根の葉の早さかな
高浜虚子

 昭和3年、虚子54歳の作。昨日は小西昭夫の新刊『虚子百句』に注文をつけたが、この句の彼の鑑賞は刺激的(問題的)である。「かつて、家の近くの小川は庶民の生活に欠かせないものであった。(略)しかし、この句の魅力は、そういった近世以降の庶民の生活が詠まれているということばかりではない。『水』という言葉こそ一語も使われていないが、『流れゆく大根の葉の早さ』が教えてくれるのは『水の力』、『水の普遍性』なのである。その鮮烈で活力のある生命の源としての『水』が詠まれていることこそがこの句の魅力であろう。」この鑑賞、どうだろう。大根の葉でなく、それを流す水を読んでいるのだが、1句の背後を読むいわゆる深読みになってはいないだろうか。
 写真は琵琶湖(堅田)にある虚子の水中句碑。

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