ねんてんの今日の一句 バックナンバー

2010年3月10日
石投げて卒業の海光らする
黛まどか

 『その瞬間―創作の現場ひらめきの時』(角川学芸出版)から引いた。自作にたいして1頁の短いエッセーを添えた本だが、この句については、中学時代の次のような思い出をまどかは書いている。「卒業を間近にしたある日の放課後、私は同級生たちと海へ繰り出しました。波と戯れたり石を投げたり……別れを惜しむ卒業子の傍らで、ふるさとの海はひたすらに光を返していました。」

2010年3月9日
椿が赤いぼくが火傷をさせたんだ
ふけとしこ

 この「ぼく」、どのような人を連想するかでこの句の中身が変わる。「船団」84号の特集「変身!?」にある作品だが、この特集は生物以外のものに変身して句を作る、というもの。作者はスチームアイロンに変身した。ともあれ、火傷をさせたい、とはいつも思っている私の願い。もちろん、時には火傷もしたいのだが。

2010年3月8日
朧夜の原子炉を出る燃料棒
能勢京子

 出たばかりの「船団」84号から引いた。この号、「変身!?」を特集しているが、引用した句は「船団・あの人この人」欄にある。伝統的な季語「朧夜」と原子炉の燃料棒の取り合わせから、読者は何を感じるだろう。現代の危機感?
 先日、石川県立動物園でカバのデカに会ってきた。朝日の記者に連れていってもらったのだが、2時間ばかり、この日本で最長老のカバを眺めた。悠然とした春の1日であった。写真は室内プールのデカ。

2010年3月7日
湧くからに流るゝからに春の水
夏目漱石

 寺井谷子著『風の言葉―九州俳句歳時記』(文學の森)から引いた。この本は主に九州在の俳人の季節の句を紹介したもの。「西日本新聞」に連載したものだという。谷子はこの漱石の句について、水前寺公園の園内に湧く阿蘇の伏流水を詠んだものであり、「湧くからに流るゝからに」に、「豊かな水量と輝きが伝わる。それは春の生命の輝きである」と書いている。ああ、阿蘇に行き、湧水を口に含みたい!

2010年3月6日
蝶の背とジャコメッティの椅子の背と
コダマキョウコ

 先日のミコアイサ句会に出た作品。この句会、京都で月に1度の割で行われる句会。私は講師として参加しているが、運営は女性たちが自主的に行っている。会員の多くは船団に属しているものの、船団と関係があるわけではない。つまり、船団とは組織が別である。この句会では、前半に子規を読み、後半で句会をする。掲出した句は句会での話題作。「蝶の背」が意外だが、ジャコメッティと取り合わされると、なんだかその蝶の背の実在感が増すから妙だ。

2010年3月5日
からっぽの春の古墳の二人かな
夏井いつき

 句集『伊月集』(1999年)にある私の愛唱句。この二人、古墳時代の人の末裔だろうか。
 昨日、冨田拓也に不満を漏らしたが、このいつきにも不満がある。「俳句甲子園」を育てた功績は認めるが、俳句がいっこうに面白くない。いつきらしさが顕著でないのだ。主宰する「いつき組」にしても、俳句の表現史にからむ試みが乏しい。期待しているだけに歯がゆい。いつきよ、俳句ってもっと大胆で自在な表現形式なのでは?

2010年3月4日
棒に振る夢もあるべし揚雲雀
冨田拓也

 句集『青空を欺くために雨は降る』(2004年)から引いた。この句集は第1回芝不器男俳句新人賞の賞品として刊行された。拓也はこの賞の1回目の受賞者である。私もその賞の選考委員なので、拓也にずっと注目してきた。だが、いっこうに古臭い文学臭が抜けない。俳句の独自性をなかなか見つけられない気配だ。拓也よ、他の表現にない俳句の特色を早く見つけろよ。それをしないと他のジャンルの人とか俳句に関わらない一般の人の共感を得られない。

2010年3月3日
卒業近しバスケットボールはづむを摑み
橋本多佳子

 「はづむを摑み」がうまい。卒業の近づいた子の鼓動が聞こえる感じ。この句、句集『海彦』(1957年)から引いた。
 話は変わるが、私の新著『モーロク俳句ますます盛ん』(岩波書店)のサブタイトルは「俳句百年の遊び」。この本、実は私の俳句史の本なのである。
 今日はわたなべじゅんこさんと俳句史をめぐって対談する。「船団」85号用の対談だが、彼女も俳句史をめぐるエッセー集『俳句の森の迷子かな―俳句史再発見』(創風社出版)を出したばかり。橋本多佳子を基軸にして2人で論じるのだが、さて、どうなるか。

2010年3月2日
紅梅の老樹と合せ鏡かな
藤川游子

 句集『銀川』(ふらんす堂)から。自分もまた1本の紅梅の老樹だ、というのだろう。そういえば、先日、コラムニストの天野祐吉さんから、「坪内さんも隠居塾に参加してよ」と言われた。以前、隠居を楽しむ話で天野さんと盛り上がったのだが、いよいよその実践に入るという次第。私は『モーロク俳句ますます盛ん』(岩波書店)に書いている。「まともな大人だとやや馬鹿にする日本語。日本語のそんなところに俳人は住んでいるだろう」。この俳人が隠居道を行く俳人である。

2010年3月1日
家中の柱が芽吹く朧かな
齋藤慎爾

 『俳句の現在 齊藤慎爾集』(1989年)から引いた。家中の柱が芽吹くなんていうことは一種の怪奇現象だが、そういうことがあってもおもしろい。いや、早春とはそういう芽吹きを予感させる時期かも。
 写真は滋賀県長浜市高月の欅。この木の近くに渡岸寺の国宝十一面観世音がある。

戻る