
| ねんてんの今日の一句 バックナンバー |
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2010年7月10日
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塚本邦雄 |
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唐手二段ともあればいかつい男なのだろう。そのつわものが結婚詐欺をした、という句。夕べの合歓との取り合わせがおかしく哀れ。作者は有名な前衛歌人。この人、俳句も作り句集も出したが、今までのところその俳句の評価は高くない。だが、この句などはいかにも俳句的発想の作。この人の俳句を読み直してみたい。ちなみに、引用は三一書房の『俳句の現在別巻T』所収の「甘露」である。 |
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2010年7月9日
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橋本多佳子 |
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「船団」85号の特集「興奮する俳句―橋本多佳子」を昨日に続いて話題にする。強い意志を感じるこの句は昭和23年1月の「天狼」創刊号に載った。多佳子はこの雑誌で大きく育つが、「天狼」と多佳子を話題にした陽山道子は、山口誓子の「出発の言葉」を引用している。その中で、「天狼」は「友情的俳句雑誌」だと誓子は言い、この雑誌に「漂ひ漲るものは、友情であつて、必らずしも主義主張ではない。詩友は各自の仕事に没頭し、各自の前進を続行する。」と断言した。いいな、この姿勢と気概。俳句の集団のもっとも生き生きしたありかたを「天狼」は示したのである。 |
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2010年7月8日
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橋本多佳子 |
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このところ、ちょっと自慢である。「船団」85号の特集「興奮する俳句―橋本多佳子」が自慢なのだ。約50頁のこの特集は船団の会会員が多佳子を読んだ成果である。「船団」は 多佳子に直接的な関わりがあるわけではない。彼女は俳句のすぐれた先達だった。それだけの関係だが、私たちは俳句のいわば遺産として多佳子を受けとめた。その結果がこの特集である。派閥や師系を越え、俳句全体を視野にいれて考えること、これが船団の会の一つの目的だが、こんどの特集はささやかながらその目的の実現であった。だからちょっと自慢の気分。ちなみに、今日の句は特集において林せりが話題にしている。「何か恐ろしい状況を暗示させる構図だ。」と林。 |
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2010年7月7日
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野澤節子 |
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季語「髪洗う」は古い季語かと思っていたが、なんと近代になって頻出するようになった季語。つまり高浜虚子以降の俳人が好んだ季語なのだ。節子の句はいとしい人を思って洗っているのだろう。こちらまでが切なくなる。 ところで、季語「髪洗う」が今も有効かどうか。シャワーなどが普及した今日、「髪洗う」をことさら夏のものにしなくてもよい気がする。皆さんはどう思われますか。e船団にご意見を寄せてください。 |
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2010年7月6日
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関悦史 |
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アンソロジー『新撰21』(邑書林)から。作者は1969年生まれ。この世に蠅叩だけが残っている光景だが、こういう光景を描くのは俳句だからこそ、であろう。なにしろ、俳句は蠅が好き、そして蠅叩も好きだった。私も「晩夏晩年角川文庫蠅叩き」と詠んだ。蠅叩のある光景は近代俳句の原点的光景だ。もちろん、今はもう蠅叩は消えているだろう。わが家からもとっくに消えている。 |
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2010年7月5日
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正岡子規 |
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「蝸牛」はデデムシと読む。この句には「小照自題」と前書きがある。小照は自分の写真だ。すなわち、この句は写真を見て作った自画像である。寝たきりのに病人だった子規は頭をもたげた蝸牛のように暮らした。 この句、『正岡子規の世界』(角川学芸出版、1800円+税)の子規200句抄から引いた。この本は、現代の俳人を総動員して子規を論じたという感じ。机辺に常備したい1冊だ。 写真は橋本多佳子旧居のアガパンサス。 |
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2010年7月4日
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くぼえみ |
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昨日に続いて近刊予定の句集『猫じゃらし』から引いた。わが家の近辺は今ちょうど合歓が咲いている。人生でも恋でもマラソンでも折り返し点という場所があるが、その折り返し点に合歓が咲いている光景はいいなあ。 その合歓のような1冊を紹介したい。ベスト・エッセイ2010『この星の時間』(光村図書、2100円)。帯に「あざやかに蘇る場所がある。人がいる。しみじみと心に届く珠玉のエッセイ集。」とある。私の「柿は嫁の木」も入っている。 |
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2010年7月3日
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くぼえみ |
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準備中の句集『猫じゃらし』(創風社出版から8月に出る予定)から。知人と藻の花を見ていたら、その人の知人がきて、そしてまたその人の知人が来るというように人の輪が広がったのである。その雰囲気、藻の花に似ているなあ、という句。 くぼえみは1947年生まれ。私が「女プラトン」とあだ名をつけた20年来の友人だ。それだけにこの句集の出版は楽しみ。もう一句、引こうか。「七夕のブルートレインジャムパンと」。 |
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2010年7月2日
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小枝恵美子 |
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蚊を殺すといういわば些事が、「大阪湾に日が沈む」という大景と取り合わされている。その取り合わせのアンバランスがおかしい。この句、「船団」77号の特集「道具―私の小宇宙」から引いた。 今夕は京都の紫野句会。「丘」の句が課題である。丘といえば、私はいつからか丘に憧れている。萩原朔太郎に「蛙が殺された、子供がまるくなって手を挙げた、みんないっしょに、かわゆらしい、血だらけの手をあげた、月が出た、丘の上に人が立ってゐる。帽子の下に顔がある。」という短詩(「蛙の死」)がある。この詩の「丘」にあこがれているのだ。 |
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2010年7月1日
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中村草田男 |
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7月になった。いよいよ夏本番である。その夏という言葉とともに思い出すのがこの句。海岸の赤い玫瑰(はまなす)の花と沖の青い海の対照が鮮烈だ。1901年生まれの草田男は「永遠の青春」を希求した俳人であった。その句は年を追って詰屈になり、難解になったが、そうした俳句の傾向と求め続けた青春性とにどのような関係があったのだろう。そういうことを考えてみたい。今日の句は第一句集『長子』の代表作。 |