俳句 e船団 今週のねんてん バックナンバー

ねんてんの今日の一句 バックナンバー

2010年8月31日
鳳仙花行きに帰りに爆ぜさせて
ふけとしこ

 いかにも鳳仙花という感じ。鳳仙花は「行きに帰りに爆ぜさせ」る花だ。この句、わが愛読句集『インコに肩を』(2009年)にある。
 話は変わるが、雑誌「ユリイカ」7月号が田辺聖子を特集している。そこに田辺と宮本輝の対談があり、そこで田辺が「七〇言葉」ということをしゃべっている。〈七〇になったら処世ということが分かってきます。でも同時に、こんどはそれに言葉がすっとついてこなくなってきますね。思っていることがすっと出るのはやっぱり六〇歳くらいの頭がパーっとしている時。その代わり、七〇では七〇歳なりの言葉が出てくるもんなんです。「七〇言葉」というのがある。〉七〇言葉、八〇言葉というものがおそらくあるのだろう。

2010年8月30日
しおりひも中也にはさむ夏の雨
山田まさ子

 この句、私の愛唱句である。季語「夏の雨」は夏という季節の途中にはさむしおり紐のように感じられる。その夏の雨と実際のしおり紐が響きあって、夏の雨の日のきらきらした情感を表現した句だ。今日あたり、夏という本のしおり紐は終りに近い頁に挟まれているのだろうか。
 このところ、清流出版から復刻版として出ている田辺聖子の小説を読んでいる。今は「休暇は終わった」の3分の2近くまでを読んだが、この人の小説は「言葉を楽しむ小説」である。そこが凡百の小説家との確然たる違いだ。この小説、登場する人たちの言葉が弾んでいる。
 写真は信州の黒姫童話館。

2010年8月29日
叶うならポンポンダリアほどの恋
山田弘子

 昭和21年の作。作者は昨年2月に急逝した。この句、ポンポンダリアのような恋をしたい、というのだが、なんとなく同感である。そういえば私は、「恋人とポンポンダリアまでの道」と作っている。ポンポンダリアのような恋に私もあこがれているのかも。「苦瓜の棚くぐり入るバー奈々子」。これも弘子の句だが、なんとなくいかがわしいような「バー奈々子」も覗いてみたくなる、それがこの人の素敵な俳句的好奇心だった。

2010年8月28日
夕焼けの燃えつきさうな小学校
山田弘子

 夕焼けの中に小学校がある風景。夕焼けは今燃え尽きようとしているのだが、なんだか小学校そのものの燃えつきる気配がする。この世のはかなさ、あるいは命のはかなさを一幅の言葉の絵にした作品だ。「奥能登の稲架がくれなる小学校」も同じ作者の句。
 今日の句は作者の第7句集『月の雛』(ふらんす堂)から引いた。弘子は今年の2月に急逝した。かつて私はこの俳人の生家を訪ねたことがある。広い深い土間と、遊び場だったという裏山を今でも印象にとどめている。とても好きな俳人だった。

2010年8月27日
我宿(しゅく)は朝霧昼霧夜霧かな
小林一茶

 黒姫も妙高も斑尾もすぐ霧の中に隠れた。ホテルも霧に包まれた。霧の多いところだなあ、と思って一茶の霧の句を検索したら、やはり霧の句がいっぱいあった。その代表句と言ってよいのが掲出句。「霧下中山八宿」と前書きがあるが、北国街道の信州から越後に至る8つの宿場が中山八宿であり、そこは霧の濃い宿場として知られていたらしい。そういえば斑尾のホテルの近くに「霧下」という蕎麦屋があった。「霧下」はなんて読むのだろう。

2010年8月26日
そば所と人はいふなり赤蜻蛉
小林一茶

 先日、上田や黒姫に泊まって信州の数日を過ごしたが、そのあたりは昔の北国街道に沿った地方である。人と物が行き交う街道という場に小林一茶は出現した。街道文化の典型として一茶の俳句をとらえたい。
 ところで、野尻湖から斑尾高原のホテルへ向かう道筋にはあちこちに蕎麦の花が咲いていた。古海小学校という山の学校の入り口には「木々おのおの名乗り出たる木の芽かな」の句碑が建っていた。

2010年8月25日
無花果はジャムに恐竜はいしころに
水上博子

 野尻湖でナウマンゾウ博物館を楽しんだ。氷河期のナウマンゾウの臼歯が見つかったのが1948年、以来、野尻湖友の会という組織を中心に、専門家と関心のある一般の人々が共同で発掘作業を繰り返してきた。夢を共同して掘る、という感じだが、それを「いいなあ」と思った。
 ナウマンゾウでも恐竜でも化石はいしころのようにしか見えない。しかし、ジャムにしてもいしころにしても物が変化してゆく一過程だと思うと、無花果と化石がにわかに近くなる。今日の句、作者の第一句集『ひとつ先まで』(ふらんす堂)から引いた。この句集、間もなく出る。

2010年8月24日
青胡桃雲にちかぢか学ぶ子等
中村草田男

 句集『時機』(1980年)にある句。信州から戻ったばかりの私は、目にした山の学校などを思い出し、この草田男のややロマンチックな句に共感している。「教師が伝へし恋の名詩や青胡桃」も同時作と思われる。草田男は小諸あたりでこれらの句を作ったようだ。
 草田男を考えたい、と前々から思っている。「船団」で特集するのもいい。草田男クラブを作ろう。

2010年8月23日
金亀虫擲つ闇の深さかな
高浜虚子

 昨日、一昨日は西郷竹彦の『名句の美学』に触発されて一茶の句「うつくしや障子の穴の天の川」などを考えたが、この虚子の代表作も一茶的かもしれない。「金亀虫擲つ闇」で一応の表現ができており、その表現の意味が「深さかな」だから。一茶と同じく、作者が前面に出て句の意味を読み解いているのだ。作者がどこまで句の意味に関与していいのか。これはじっくり考えるべきことかも。
 写真は伊賀上野の俳聖殿。

2010年8月22日
しづかさや湖水の底の雲のみね
小林一茶

 昨日に続いて西郷竹彦著『名句の美学』増補合本から引いた。この本、文芸における美が虚構であること、その美は異質、あるいは矛盾するものの弁証法的構造として実現する、という見方が鮮明にしてシンプル。俳句を作る人に一読を勧めたい。
 今日の句も、実は昨日の句と同じで、「湖水の底の雲のみね」で表現が終わっている。湖水と雲という異質なものを取り合わせ、両者を止揚した。その結果が「しづかさ」だが、作者が答えを出してしまったので、分かりやすくはあるが、底が浅い感じもする。読者に読みの楽しさを与えないのだ。

2010年8月21日
うつくしや障子の穴の天の川
小林一茶

 「卑近・卑小・卑俗な破れ〈障子の穴〉であればこそ、〈天の川〉は一段とその美しさを増すのである」。これは『名句の美学』(増補合本、黎明書房)における西郷竹彦の意見。賛成だ。ただ、この句の場合、「障子の穴の天の川」で十分に美が表現されている。ほんとうはそれだけで表現は完結しているのだ。ところが、この句では、「うつくしや」と作者が読み方を示している。この光景は美しいよ、と決めつけているのだ。このように作者がでしゃばり、読み方を決めてしまうのは一茶の特色。読みが限定されるので、分かりやすくなるが、逆に底が浅くもなる。

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