2018年1月 1日〜10日
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日刊:この一句 バックナンバー
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2018年1月20日

わが音となりて歩けり冬の靴

加藤楸邨

 楸邨80代の句である今井聖さんの評論集『言葉となればもう古し―加藤楸邨論』(朔出版)から引いた。主人公が冬の靴、というのがとてもおかしい。自分という存在は、たとえば靴に取って代われる。それくらいの軽いという頼りないものだ。そういうことの自覚が楸邨晩年の句の基調ではないか。(坪内稔典)


2018年1月19日

先生と同じ黒子の雪だるま

岡清秀

 小学生たちの作った雪だるまであろう。先生とのこのような交流、いいなあ。今はこうした交流に親などが介入して、教師と子どもの素朴な交流を阻害している。今日の句、俳句とエッセー集『僕である』から。エッセーでも教師をしばしば取り上げているが、この句の情景は作者の教師像の原点であろう。(坪内稔典)


2018年1月18日

ささやかな雪合戦がすぐ後ろ

西村麒麟

 昨日と同じく句集『鴨』から。句集では昨日の句の後にこの句が、その前に「侍の恰好でする鏡割」がある。雪合戦の句や鴨の句がおもしろいかどうか。あたりまえ、単に情景そのままのトリビアルな句、と見えるかもしれない。だが、雪合戦を「ささやかな」とか、「すぐ後ろ」と表現したところは並ではない。微小な事や物から何かを取り出そうとしている。彼は果敢に試みる俳人だ。(坪内稔典)


2018年1月17日

寒鯉として清盛の喪に服す

西村麒麟

 寒鯉が平清盛の喪に服している。いや、自分が寒鯉になったのかも。今、平清盛と言ったが、この句の清盛は、たとえばこの句の主人公のおじさんかもしれない。そのように見る方がいろいろと想像が広がりそう。句集『鴨』(文學の森)から引いた。作者は1983年大阪生まれ。(坪内稔典)


2018年1月16日

初雪に兎の皮の髭作れ

松尾芭蕉

 元禄2年(1689年)の句。「伊賀の山家に子供と遊びて」という前書きがある。雪の中で子どもと遊んでいるのだが、「兎の皮の髭作れ」の意味が分からない。たとえば『新芭蕉俳句大成』を開いても諸説紛々、いや、こじつけ読みがいろいろだ。伊賀の子どもたちの遊ぶに解釈のヒントがあるのだろうが。ともあれ、芭蕉が子どもと遊ぶ老人だったということがうれしい。(坪内稔典)


2018年1月15日

しなければいけないことがある
だが何もしない
うっとりと
谷川俊太郎

 「座る」という詩のひとつの連である。この前の連は「ソファに座っている/薄曇りの午後/剥き身の蛤みたいに」。そして、引用した連の次に来るのは「美しいものは美しく/醜いものも/どこか美しく」。というわけで(どんなわけ?)、今日は一日、うっとりとしていよう。(坪内稔典)


2018年1月14日

列島のまんまんなかの日向ぼこ

岡清秀

 俳句とエッセー『僕である』(創風社出版)から引いた。この句に並んで、「初雪や母の戒名彫られゆく」があって、これもいい句だなあ、と思った。母への愛情が初雪によって具体的なイメージになっている。清秀さんは兵庫県北部の山中で育った。その村での暮らしが彼のその後の日々の基調になっている気配。ことに、この人の自分を茶化すユーモアのセンスは抜群。(坪内稔典)


2018年1月13日

初夢や巨燵(こたつ)ぶとんの暖まり

正岡子規

 いい気分で初夢を見た句だが、ただそれだけで、子規の言い方を借りると、うまくできた月並み句だ。俳人は、私もその一人だが、日々にこのレベルの月並み句を作っている。ときどき、それでは飽き足らなくなって、果敢に取り合わせに挑んだりする。子規だって同様だった。
 子規の句稿などが見つかると、新発見を言い立てる新聞などがある。だが、ほとんどはつまらない句ばかり。いい句だととっくに世に出ているだろう。「俳句」2017年11月号では復本一郎さんが掲出句を含む新出資料を紹介しているが、復本さん、見つかった句はつまらないというか、月並み句だ、と言うべきだったのでは。(坪内稔典)


2018年1月12日

蒟蒻の刺身もすこし梅の花

松尾芭蕉

 蒟蒻の刺身も梅花も少しある。両者が調和して早春の快さをうまく表現している。
 「俳句」2017年12月号に俳文学者の堀切実さんの〈「取合せ」て「とりはやす」という手法〉という長いエッセーが出ている。「取り合せ」の生命は二物を緊密に調和させる主体的な感合としての「とりはやし」にある、というのがエッセーの趣旨だが、私は違うと思う。二物を調和させないところに取り合わせの生命がある。調和させるもなにも、そのような作者のはからいを超えるのが取り合わせだ。ちなみに、私にとっての取り合わせは、片言を際立たせること。今日の芭蕉の句は堀切説にかなうが、取り合わせの句としてはさして面白くない。読みが広がらない。(坪内稔典)


2018年1月11日

文芸や羽根ぼろぼろの冬鷗

大木あまり

 「俳句」2017年12月号から。文芸とは何かと問いかけ、羽根がぼろぼろの冬鷗だ、と応じた句。一見取り合わせのかたちだが、問答と見るほうがよい。
 この雑誌「俳句」は取り合わせを特集しているが、ひどい内容だ。タイトルが『必ず成功する!』なのだが、取り合わせは成功するかどうか分からない手法。奥坂まやは、取り合わせは、ブラウスとスカートを組み合わせるのに似ている、と述べているが、そんなもんじゃないでしょ。それだと2つのものを調和させるに過ぎない。ブラウスと、たとえば犀との組み合わせだと取り合わせに近づく。(坪内稔典)


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