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| 第1回 (2010年1月1日〜2月10日) | 小倉喜郎 vs.本村弘一 |
| テーマ : 櫂さん、なぜ? |
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2010年 1月 1日 小倉喜郎発 鶯や一つ大きく明らかに 長谷川櫂 昨年5月に出た句集『富士』(ふらんす堂)からのものだが、どうも面白くない。明らかになったことが具体的に全く見えてこないからである。俳句は短い詩形であるから、このように具体性に欠け、景色の見えてこない句はどうも頂けない。新鮮さもない。しかし櫂さんはこのような句をよく書き、また句会や誌上で選をしている。不思議でならない。俳句を始めて十数年になるが、ずっと持ち続けている疑問の1つなのである。おおらかな句といえばそうなのだが、漠然としてつかみどころのない句である。次の句も、この句集にある代表的句である。 天上を吹く春風に富士はあり 山はみな浮きつ沈みつ桜かな 春眠や五つの欲のすこやかに ごつとある富士こそよけれ更衣 本村さん、掲出の句をどう読まれますか? 2010年 1月 4日 本村弘一発 第1回目のメール、早速、読ませていただきました。あれこれ正月の用がありましたので、返事が今日になってしまいました。ごめんなさい。 一読して、櫂の句の明晰さと焦点の絞り方に巧いなぁとびっくりしてい ます。小倉さんは「具体性に欠け、景色が見えてこない句」と指摘され て「頂けない」と判断なさっていらっしゃいますが、私には目に見えて 具体的で明晰な句と読めるのですが、どうでしょうか。たとえば、〈鶯や一つ大きく明らかに〉 の句を見ますと、「鶯や」という一呼吸ある詠嘆の次にすぐ「一つ大きく明らかに」とその鳴き声の簡単なスケッチが添えられているわけ ですが、その簡単なスケッチだけであのちいさな生き物のいのちの力強 さが上手に表現されていると言えないでしょうか。うしろから棒で全身 をバシッとたたかれたかのようなあの鶯のこれでもかというホーホケ キョの声の大きさを思っているのですが。 また追加の四つの句、一番目〈天上を吹く春風に富士はあり〉は、横山大観の富士に通じる 風格があるし、二番目〈山はみな浮きつ沈みつ桜かな〉は、日本画によくある桜だと思います。三番目〈春眠や五つの欲のすこやかに〉、「春眠」をふまえて、人間的欲望の肯定(讃歌)。四番目〈ごつとある富士こそよけれ更衣〉、「ごつとある富士」と「更衣」の取り合わせの妙味。 これらの句はすべて言いたいことははっきりしていると思いますがどうでしょうか。「漠然としてつかみどころがない」とは言えないと思います。ただ、どの句にしても、きわめて巧く同じような顔つきにでき上がっているので、他に抜きん出た、ハッとさせるような面白さ、新鮮さのそなわった句には欠けているのではないでしょうか。わたしにとっては巧い手つきが見えてすこし退屈な世界のように感じられます。 2010年 1月 6日 小倉喜郎発 この「俳句時評」はこのように、しばらく二人のやりとりからスタートし、後には読者の皆様のご意見も紹介することになっています。お楽しみに。 本村様、突然のメールにも関わらず、早速丁寧な読みのお返事をくださりありがとうございます。 鶯や一つ大きく明らかに 「鶯や」で一呼吸ではなく、意味の切れもあるのではないかというのが私の読みです。そうするとこの句は、鶯の鳴く景色、例えば目の前の山から響いてくる鶯を聞いている自分がいて、今まで疑問であったことが鮮やかに明らかになってくる。「明らかになったこと」は鶯のことではなく、作者自身のことと読んだのです。 本村さんの読みの可能性ももちろんわかります。「や」を軽い切れととり、意味的には切れていないと読んでいる。この読みだと、確かに私の知っている鶯の谷の風景は出てくるが、それで終わってしまっているように思います。この句は「巧い季語の説明」になってしまうのではないでしょうか。どちらの読みにしても、既に私が持っているイメージから抜け出たものではなく、私にとっても退屈な句になってしまう。この退屈さが私の疑問なのです。 私が「漠然として」と書いたのは、例えば本村さんの「横山大観の富士」「日本画によくある桜」というコメントからもわかるように、作者が、具体的な独自の「富士」「桜」を示していないということ。言い換えると我々がすでに持ってしまっている観念的「富士、桜」のイメージを、少し巧く呼び起こしたに過ぎないということです。そのあたりが退屈さにつながっているのではないかと思います。 2010年 1月 9日 本村弘一発 小倉さん、前回私の説明がすこし舌足らずだったかもしれませんね。二回目のお便りを読んで申し訳なく思いました。 私は小倉さんの前回の便りで櫂の〈鶯や一つ大きく明らかに〉を読んで、すぐ思い出したのが古今和歌集仮名序の「花に鳴く鶯水にすむかはずのこゑをきけば」で、この「花に鳴く鶯」(梅に鶯)の変形の世界だったのです。 今回の便りで、小倉さんは、私の「鶯や」の句のとらえ方について、「(や)を軽い切れととり意味的には切れていない読みで、そうとる と、それはそれで終わってしまって、中七以下がたんに巧い季語の説明 になってしまう」と指摘されていると思いますが、私は、ごくあたりまえに、そもそも初めから何の疑いもなく鶯の声のことだと思って読んでいました。 それで「一呼吸ある詠嘆の次に」と書いたのです。 小倉さんのように中七以下を作者自身のことと読むのは、むりだろうと思います。 この「鳴く鶯」は和歌の世界では、作例が多く、伝統的によく使われていました。 古今集 野辺ちかく家ゐしせれば鶯のなくなるこゑはあさなあさなきく 春きぬと人はいへども鶯のなかぬかぎりはあらじとぞ思ふ 新古今集 鶯の鳴けどもいまだ降る雪に杉の葉しろきあふさかの関 霞たつ春の山辺にさくら花あかず散るとやうぐいすの鳴く 櫂の句の世界は、このように古典の世界に沿いながら、それを現代のあたらしい切り口で切り取るという方法で成り立っているといえるのではないでしょうか。ですから、櫂の「鶯」は「鳴く鶯」の現代的変形版ととって間違いないのだろうと思います。 櫂の句が退屈に感じられるのは、あの芭蕉が「古池」の句でそれまでの和歌の世界ではあたりまえであった「なくかはず」を「跳ぶかはず」に変えたようなものの見方を変えるほどの新鮮さがないからではないでしょうか。 2010年 1月12日 小倉喜郎発 鶯や一つ大きく明らかに なるほど、「鳴く鶯」はよくわかります。和歌になじんでいない者はすぐにこの句の「明らかに」が鶯の声であることが素直に入ってこない。それに私のように鶯の鳴く谷の小さな村に住んでいて、ごく当たり前に鶯の鳴くのを聞いているとなおさらです。それで別の読みに走ってしまい、この句に関してはお手上げになり、「櫂さんなぜ、こんな句を?」と思うのです。 今私の中での一つの疑問が解けたわけですが、同時に別の疑問が浮かんでくる。「古典に沿った現代のあたらしい切り口」にどのあたりがなっているか。またこれを「鳴く鶯の現代版」の作品と呼んでいいのかということです。確かにこの句を読んで古今和歌集仮名序の「花に鳴く鶯水にすむかはずのこゑをきけば」を思い出す人もあるでしょう。櫂さんも鶯の声を聞き古の歌の世界を思ったのかもしれない。17音で多くのことを思わせるという意味では「良い句」と言えなくはない。しかしこの句は優れた古典があってのみの句であり、それを思い出させるだけの句と言えませんか。今の時代に詠まれただけで、現代版の作品にはなり得ていない。 春眠や五つの欲のすこやかに このコーナーの始まりに挙げた句ですね。私は正直に言えば、目が点になりました。本村さんの「『春眠』をふまえて、人間的欲望の肯定(讃歌)」の読みに賛成なのですが、今更こんなことを堂々と言って何になるのかと。 2010年 1月15日 本村弘一発 小倉さん、私は、櫂の名前や新聞紙上での選者としての活躍は知っていましたが、最近どういうものを作っているのか、どういう句集を上梓しているのかについては、ほとんど知らない、というよりもほとんど興味をもっていませんでした。だから小倉さんのメールで、はじめて〈鶯や一つ大きく明らかに〉を読んで、その句の明晰さと焦点の絞り方の巧さにびっくりしたようなわけです。ああこういう世界もあるんだと思いました。 たとえば「鶯や」の、櫂の巧さは、鶯の鳴くのをとらえる語の配列にまで及んでいます。「大きく一つ明らかに」とやったのと、櫂のように「一つ大きく明らかに」と3音4音5音と語の関係を、前進的にはっきり切って刻むのとではその効果は大違いで、ちいさな生きもののいのちの力強さの度合も高まってきます。 もちろん、575の短い世界のことですから、こうした細部の表現にも敏感である必要はあるのですが、それにしても巧いなあと実感しました。ただ、巧いけど、それでいいのか。それで事足りるのかどうかということになると、また別の問題だと思います。 春眠や五つの欲のすこやかに 「春眠だなあ、それにしても、このように眠さを覚えるということは五欲の一つとよく言われるが、まあ五欲があるということは、これも人間として健康に生きている証拠だよ。」というほどの句意だとおもうのですが、ある種の生命讃歌で、この「欲望」が「すこやかだ」という思いつきが作者にはちょっと面白かったんではないでしょうか。 小倉さんは「今更こんなことを堂々と言って何になるのか。」と思っているようですが、私もそう思っています。あとは他人に支持してもらえる作品を多く作ることでしかないのではないでしょうか。 2010年 1月18日 小倉喜郎発 本村さんの句評を読んでいると、少し「鶯」の句が良く感じられてきたようで不思議です。まだ退屈ではありますが。 私がこのコーナーの最初に長谷川櫂を選んだのは、ときどき目にする彼の句と句評があまりにも退屈であるにもかかわらず、現在大活躍していることが不思議でした。「真顔でそんなことを言われても・・」と思うことがしばしばだったのです。そのうち、この退屈さには何か秘密があるのではと思うようになった。このつまらなさの構造を知り、出所を知ることで、俳句のひとつの面白さに到達するのではと思ったのです。ひょっとする長谷川櫂の句が面白く思えてくるかもしれないとまで思ったわけです。 古池や蛙飛こむ水のおと 数年前に彼の著書『古池に蛙は飛びこんだか』(2005年 花神社)で、彼はこの句の切れ字「や」について結論に達し、現在彼はそれを実践しているようです。「蛙が水に飛びこむ音を聞き、そして芭蕉の心に古池の面影が浮かんできた」と。現実と精神世界とをとり合わせたところがなにより画期的であり蕉風開眼の所以であると。 それが正しいかどうかは別にして、その結論を導き出すきっかけになったのは『俳句と宇宙』(1989年 花神社)の冒頭にある「この句を初めて聞いたとき、芭蕉という人は、いったい、何が面白くてこんな句をよんだのだろうと不思議に思った。」のようです。 実は私もそう思っていました。もちろん当時の「鳴く蛙」を飛ばせたところ、取り合わせの常識を打ち破ったという点では名句でしょう。しかし蛙が水に飛びこむことが当たり前となってしまった現在ではあまり面白い句とは言えないと感じています。 本村さんはこの句を、改めて、長谷川櫂の読みも含めて、どう読まれますか。 2010年 1月22日 本村弘一発 小倉さん、返事が遅くてごめんなさい。メール、読みました。 長谷川櫂の句も芭蕉の「古池や」についても、あまり興味はもっていません。櫂の句で覚えているものといえば、 春の水とは濡れてゐるみづのこと だぶだぶの皮のなかなる蟇 餅ふくる崑崙山も天山も ぐらいでしょうか。住む世界が違っているなあという感じです。 「古池や」についても同じで、興味はありません。ただご指摘のように、芭蕉の生きた時代にはその「古池」と「蛙飛び込む水のをと」の取り合わせがハッとするほど革新的で、その後名句として永く残った、そして今でも残っているということだと思っています。芭蕉の句では、いい句がたくさんありますが、 木のもとは汁も鱠も桜かな が一番だと思います。櫂の評論は読んでいないので何もいいようがありません。 2010年 1月28日 小倉喜郎発 櫂さんに興味がないと言われればそれまでなのですが・・・。 木のもとは汁も鱠も桜かな ちょっと興味深いのは本村さん一押しの句ですね。数ある芭蕉の句の中でなぜこの句なのでしょう。桜の木の下では汁も膾も散る桜まみれになっているという、普通の花見のワンシーンの句のようですが。本村さんの読みを是非教えてください。 2010年 1月29日 本村弘一発 小倉さん、私が興味がないと言い放ったのは、興味のない世界(櫂のは古典の焼き直しで、作る側も読む側も皆、安心していられる世界に過ぎないし、芭蕉の「古池や」の句にしても頭では音の発見の新鮮味が理解できても、われわれの今の世界は、音にまみれた生活の中で、「蛙飛びこむ水のをと」が特別なものではなくなっている。)の句をいくら分析しても、自分にとってはあまり有益な時間ではないという意味で、「興味ない。」とすこし強く言い放ったような次第です。 小倉さんには強すぎましたか、ごめんなさい。ただ私の経験から言いますと、句はいいか悪いかどちらかのはっきりした世界ですから、悪い句をいくら退屈だ、面白くない、何でだろう、ダメダダメダと分析してもやはりダメなものはダメなんです。むしろ面白いもの、興味を引かれるもの、新しいと感じるものに出会ったら、それはどうしてだろう、他と違ってどのようにできあがっているんだろうと考えるのがよいようです。 技法としての写生の時代は終わりました。あとは定型の575、季語、取り合わせ、切れそしてリズム、音ぐらいしかありません。これで衝撃を生んでいかねばならないのです。大きくは取り合わせと季語に注目して考えるしかないと思います。新しい衝撃はこうした関係のつくりかたから生まれると思っていいのではないでしょうか。 ただことばの世界のことですからその人のことばの感覚・考え方に微妙に左右される世界だということはもちろんです。私たちはふだんある文化の中で生活しています。横断歩道みんなで渡れば怖くない、でやってきていますから、ある程度共通してわかることには安心しているのですが、ちょっと自分のわからないことにはハラハラドキリ不安になる。衝撃的であるのはこの不安ですから、この不安をつついて「おやっ」とか「えっ」と思わせる関係をつくってみるのもよいかと思います。 木のもとは汁も鱠も桜かな この句はもともとは風麦亭での花見の席で披露された句で「木のもとに」の形だったが、その後土芳「三冊子」などの表記では「木のもとは」となっている句だそうです。かるみを実践した句だということです。 まあ、それはともかくとして、小倉さんの句の読み通り、普通の花見のワンシーンですが、わたしがなぜ一番に押しているかというと、芭蕉以来近代現代と「桜かな」の句は数多いのですが、多くは視覚中心で作られていて、この句のように「汁・膾」と味覚を取り入れて俗で、それでいて賑わいを艶のあるものとして描いているものはこれだけだと思うからです。 楸邨は「木のもとに」の「に」の方が自然で平淡な味わいが出ると解しているようですが、私は「木のもとは」の「は」のもつ明るい「ア」音に魅かれます。また、「は」の方が日本中の桜の木の下は春爛漫となっていいと思っています。とにかく芭蕉の句の中でも秀逸です。小倉さんからの初めのメールの櫂の五句中の「桜かな」の優美な自己中心の桜と比べてみてください。広さが深さがまるで違います。 2010年 1月30日 小倉喜郎発 山はみな浮きつ沈みつ桜かな 櫂 木のもとは汁も鱠も桜かな 芭蕉 櫂の句はおおらかに見えてそれ以上の広がりがない。広がり切ってしまった句といえる。私が挙げた他の句もそうです。それに対して芭蕉の句は広がりが確かにあり、それは俳句の持つ短さの強みであると思います。局所的というか、つまりは片言的ということ。小さく言って大きく広がるか、大きく言ってそれまでという差かな。句は読者を得て初めて広がらなければならないわけです。ただ、私にとって芭蕉の一押しの句にまではならない。 以前「百万人の英語」という、英語を学習する人たちへの雑誌がありました。ずいぶん大胆な雑誌名だなと思ったものです。日本国民の1%ですから。長谷川櫂が今年から角川の雑誌「俳句」で「一億人の『切れ』入門」を書き始めています。既にそのような本も出しているようです。彼の感覚で1億人を対象にされては、またそれを許す俳句の世界もちょっと怖いなと感じます。1億人ということは、俳人たちも入っているわけで、私はもちろん、ひょっとすると本村さんも対象に入っているかもしれませんよ。 ここ数年私は小学校、中学校、高校の生徒たちと句会をしています。最初彼らは俳句を古臭いと思っていますが、私が見せる現代の俳句に「おやっ」とか「えっ」と驚きます。そして自分たちの感覚で俳句を作るようになります。そんな人たちが本当に俳句を始めた時に手にする本が、あるいはテレビや新聞で見る俳句が「芭蕉の句の焼き直し」では申し訳ないような気になるわけです。もちろんそういう世界があっていいのですが、それがすべてではないことをもう少し明確にしなければと感じています。 現代の目でしっかり読み、時にはダメであることをしっかり示すことも、特に今の時代は必要だと感じます。もちろん優れた句も示さなければならない。説得力を持って。そこで本村さんにはもう少しお相手をお願いし、今度は若い人たちの俳句を少し読んでみたい。 そして櫂さんにはせめて「百万人」、いや「十万人」くらいにして欲しいと願います。 2010年 2月 2日 本村弘一発 山はみな浮きつ沈みつ桜かな 櫂 木(こ)のもとは汁も鱠も桜かな 芭蕉 櫂の句は「山みな」「桜かな」と優美な満開の山の桜の姿にまさに賛嘆しているのですが、どうやら雲か霞がかかっていて、そこで「浮きつ沈みつ」という古くからの日本の絵画の世界が臆面もなく借用されていると思うのですが、この世界はすこしも新しくないし、それでよしとする姿勢からは新しいものは生まれません。わたしが「古典の焼き直し」に過ぎないと言っているところです。 それに対して芭蕉の句は、連句用の挨拶としての「木のもとに」と、単独発句としての「木のもとは」の形の違いがあるとしても、「汁も鱠も」(味覚で味わう)の俗語をとりいれて、果敢に「新しみ」を試みて、つねに新しいものに挑もうという姿勢で臨んでいる点が櫂とは断然違っていると思います。 「木のもとは」の句は、とくにわたしの一押しにあげてありますが、芭蕉はこの一句一句新しいものに向かう姿勢でつらぬかれて、しかも粒ぞろいですから、一押しがたくさんあってどれをとるといっても困るのですが、まあ、あとは好みですね。 二点目の「入門書」の件ですが、百万でも一億でもいいんじゃないですか。キャッチコピーと同じですから大胆でなければ売れませんし、本屋の戦略かもしれません。要は中身で、どういう内容でどういう感性で貫かれているかだと思います。 わたしはわたしの経験からして、どんな入門書を読むより、作品と出会うことだと思っています。むかしたまたま稔典さんの「落花落日」のいくつかの句に出会って、これだこの感性だ、この感性こそ、探し求めていたいまの時代の感性だと、つよい震えるような衝撃をうけたのを今でもまだ全身で覚えています。 さて、三点目ですが、「感性もまた教え育てねばならない」ことは、わたしもそう思って案内も必要かなど考えてはいるのですが、やはり読書、句会などでよい作品と出会う経験を多くつんでいって、感性を高めるのが回り道になるかもしれませんが、一番手っ取り早いように思います。 最後になりましたが、そろそろ対象を変えて若い人の作品を読みたいとのことですが、わたしは若い人の作品はほとんど読んでいません。申し訳ありませんが、決められた期間内に充分に作品を読み込んでメールをやりとりするのは無理です。櫂なら以前少しよんだことがあるので御引き受けしましたので、櫂の終るところがよい区切りだと思います。誰か次回からのテーマにふさわしい相手を探してください。ご要望にお応えできなくてすみません。 2010年 2月 5日 小倉喜郎発 若手作家の句は別の機会に読むことにします。私がこの場で若手作家の句を読みたいと思ったのは、彼らの句を戦う本村さんがどう読むかすごく興味があったのです。「戦う」というと本村さんに失礼かもしれませんが、私にとっては以前から俳句と真剣に戦う数少ない俳人、本村さんなのです。 1月29日のコメントで本村さんは「句はいいか悪いかどちらかのはっきりした世界ですから、」と言い切ってますね。本村さんの中では全ての句が「いい」「悪い」にはっきりと分けられるのでしょうか? 更に「むしろ面白いもの、興味を引かれるもの、新しいと感じるものに出会ったら、それはどうしてだろう、他と違ってどのようにできあがっているんだろうと考えるのがよいようです。」とありますね。本村さんにとって、今、面白いもの、興味を引かれるもの、新しいと感じるもの、を教えてもらえませんか。 そして今でも坪内稔典の『落花落日』のいくつかの句は本村さんの中ではその時の評価のままなのでしょうか。 2010年 2月 8日 本村弘一発 小倉さん、わたしは戦う俳人ではありません。575(俳句)が好きで楽しんでいる老人のひとりといったところですか。 芸術(句を含めた文学、絵画、彫刻、音楽など)は、基本的に自分で感じるものです。人間関係(社会的・集団的)の親疎による評価を抜きにして、作品評価だけならば、いいか・悪いかと自分が感じること、それだけが評価です。普通は「悪い・不十分」と思う方がほとんどですが、わずかな「いい」のが救いです。そんなものじゃないでしょうか。 イエスに関すること、芭蕉の像についてなどに興味をもっているのですが、俳句については取り合わせの仕掛けについて興味をもっています。 今でもそのとき(*)の衝撃は感じています。わたしの青春時代では文学は人生を語るべきもののように思われていましたから、全体に暗く重く感じられ、もっと透明でもっと軽やかなものが希求されていました。だから稔典さんの出現は衝撃的で時代を引っ張るだけの力があったのだと思います。(*注:『落花落日』に出会ったとき) 2010年 2月10日 小倉喜郎発 本村さんの俳句を読んでいると、なるほど『落花落日』に出会ったときの衝撃が少しわかるような気がします。そしてそれが私には戦っているように見えるのですね。戦うとは、実は本村さんのように好きで心底楽しんでいる人のことかもしれない。お付き合いありがとうございました。 蛇逃げて我を見し眼の草に残る 杖のごと蛇さげて来りけり 時評第1回をどのように締めくくろうかと考えていると、小西昭夫著『虚子百句』(創風社)が届いた。パラパラとページをめくって気になる句の評を読んでいるとこの2句の評で止まった。なるほどと思いながら読んだのだが、それぞれ1か所「おやっ?」と思うところがあった。それぞれの評の中に「こんな句を作る作者は、たぶん極端な蛇嫌いなのではなかろうかと思う。」「虚子もたぶん蛇嫌いだ。」とある。そして小西氏もまた蛇嫌いだそうである。 私はさほど蛇が嫌いではなく、どちらかといえば蛇を見るとその尻尾をつかみ振り回した子供であった。そして小西少年に近付いてゆくタイプでもあった。そんな正反対の人間がこの2句を読んでも、作者或いは読者が蛇嫌いかどうかを除いては、感じるところが同じであることが面白い。そしてこの句を解釈するにあたって、蛇が嫌いかどうかが重大であると思えばそう思えるし、さほど重要ではないと思えばそうも思える。 さて来週からは早瀬淳一と芳野ヒロユキによる時評が始まる。 |
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