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| 第2回 2010年2月14日〜3月25日 | 早瀬淳一 vs.芳野ヒロユキ |
| テーマ:面白い俳句とは? |
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2010年 2月14日 早瀬淳一発 小倉さん。本村さん。お疲れ様でした。少しはらはらする、読み応えのある往復書簡でした。 私のお相手は芳野ヒロユキさんです。よろしくお願いします。 さて、本村さんの文章でなるほどと思ったのは「句はいいか悪いかどちらかのはっきりした世界ですから、悪い句をいくら退屈だ、面白くない、何でだろう・・・と分析してもやはりダメなものはダメなんです。」(1月29日分)というところ。いくら論じ合っても生産的な議論にならない俳句というのはあるでしょうね。しかし小倉さんの言わんとするのは、世間(俳壇)で上等とされる句でも本当だろうか、裸の王様のような句があるのでは、との問題提起であったと思います。 前置きが長くなりました。思い切り単純化すれば、私は俳句はおもしろい俳句かおもしろくない俳句に分けられると思います。どのような俳句がおもしろいかに行く前に、二つの座標軸、きれい(雅)―俗、うまい―へた(文字通り下手ではなく小上手くはない)を入れてみます。すると、 ![]() キレうま、キレへた、ゾクうま、ゾクへた、の四種類の領域が表れます。(昔、ヘタウマという漫画が注目された時代がありました。谷岡ヤスジ、蛭子能収、郷田義家、岡田あーみん、他)これからの俳句界で俳句を活性化していくのはどのような俳句なのか、それは四つの領域のどのあたりに位置するのか、そのあたりから始めたいと思います。 唐突ですが、角川「俳句」(21年11月号)を読んでいておもしろいと思った句に、 春の闇より側転でやって来る 興梠隆 がありました。それに触発されて作った句。 マイケルが後ろへすすむ春の闇 淳一 長くなりますので、どのようにおもしろいと思ったか、というはなしは後にしたいと思います。 芳野さんは、おもしろい俳句、と言うとどのようなことを思われますか。 2010年 2月16日 芳野ヒロユキ発 早瀬さん、こんばんは。時評は正直しんどいですよね。俳句作ってるほうがよっぽど気楽です。ですが、俳句について自分の考えてるところをアウトプットすることは自身の俳句観を確かなものにすることは間違いありません。そのような機会を与えていただき感謝申し上げます。 まず早瀬さんの言うところの四領域についてですが、僕はどこかの領域に位置する俳句が俳句界を活性化するとは考えないのです。どちらかというとどの領域も大切だと思うのです。実にアバウトで大まかで包含的でいい加減だと思うでしょうね(笑)。知り合いにもよく言われます。いい加減な人って。でも俳句なんてそんなもんでいいんじゃないかなと思うのです。実際に俳句を作っていると、どの領域の俳句も作ってるんですよね。 さて、僕が面白いと考える俳句を以下に挙げます。 買初めのぼうたんの画の渦に入る 尾上恵子 (「週刊俳句」第142号(2010-1-10)より) 山茶花の中に田中正造伏す 今井 聖 (「週刊俳句」第141号(2010-1-3)より) 2句のうち、最も面白いと思うのは今井聖さんの句です。この句の骨格は「花の中に伏す」であり、みつばちマーヤ、みなしごハッチならばあり得るけれど、田中正造は無理でしょう、と読むほうは思うわけです。けれど、僕はそう思わないのですね。 尾上さんの「画に入る」もそうなんですが、実際に画の中に入ってしまった何かや、花の中で(花に囲まれてではない)腹ばいになっている田中正造をイメージするのです。普通の人間には不可能です。でも、例えば、仙人ならば可能ですよね。名づけるならば「仙人俳句」ですね。 想像力と発想力を刺激してくれるこのような俳句を面白いと思います。更に言えば、そこに読みの多様性も許されるからなのです。田中正造が投獄されたときに山茶花が咲いていたと読むこともできます。この場合伏すは「伏罪」です。また、田中正造が山茶花の咲くころ天皇に直訴をした場面と読めばこの伏すは「伏奏」なのです。つまり、面白い俳句とは僕にとって、想像力とものの見方と読みの多様性の3語がキーワードですかね。 2010年 2月22日 早瀬淳一発 「僕はどこかの領域に位置する俳句が俳句界を活性化するとは考えないのです。どちらかというとどの領域も大切だと思うのです。」 ![]() そうなんです。実は私もそう思います。4領域のいろんな俳句を点検して、結論をそういう方向に持って行こうと思ったのですが、いきなり到達してくださりありがとうございます(笑)。ただ、結論が出た後、いろいろ論ずるというのもまぬけですが、この後もときどき俳句を考えるもの差しの一つとさせてください。 さて、前回提出したままの、 春の闇より側転でやって来る 興梠隆 の句ですが、私のイメージでは、校庭で、若い背の高い男性が春の闇からゆっくり側転で回りながら現れる、というもの。なぜ側転で現れるかは、説明はつかない。実景でもいいし、春の闇とは得体の知れない何かが側転でやって来る、そういうものだという再定義でもいいと思います。つまり、芳野さんの言われる「想像力」「見方の多様性」「読みの多様性」を満たしているのかもしれません。そして4領域では、伝統的な典雅な世界に行っていないという意味でゾクうまでしょうか。よくわからない魅力がある。 ところで、前回、ついでに、ヘタウマの漫画を少し紹介しましたが、俳句にもヘタうまといえるようなジャンルがあればおもしろい。ヘタだけどうまい、うまいけどヘタ。なにかエネルギーがある俳句が生まれそうに思います。 たとえば、攝津幸彦。仁平勝は「12の現代俳人論・攝津幸彦論」(角川選書)の中で、「(寺山修司や唐十郎や早稲田小劇場などは)そうした既成の芸術をひっくり返すことで、その時代にふさわしい表現を手に入れたのである。そして幸彦は、ならば自分も「素人」の俳句によって、自分の思いを表現したいと考えたのである。・・俳諧の伝統は「ホトトギス」の退屈な俳句にではなく、幸彦の俳句のなかに息づいているといってもいい。」と書いています。私も、俳句を作ったり、俳句について考えるとき、頭のどこかにかすかにでも常に攝津幸彦の俳句をつり下げたいなと思っています。 一月許可のほとけをのせて紙飛行機 幸彦 幾千代も散るは美し明日は三越 出る釘の頭に亡父を養へり 2010年 2月25日 芳野ヒロユキ発 早瀬さん、こんばんは。 先週の土、日と吉野山に行ってきました。それはそれは見事な桜の芽でした。(笑)流れを読めなくて申し訳ありません。(笑)僕は、早瀬さんの紹介してくれた漫画は一度も目にしたことがないのですが、ここで早瀬さんが言う「ヘタうま」は4領域とはまた別の領域なのでしょうか。それとも、たとえば4領域にあてはめるなら、(言葉の用い方)が上手いならば内容は俗、(言葉の用い方)が下手ならば内容は雅というようにy=x的な方程式と考えればよいのでしょうか。僕は一応後者であると考えて話を進めますね。 さて、興梠隆の俳句とヘタうま漫画については今回もスルーをさせていただいてですね、 攝津幸彦の話題だけにしぼらせてもらいます。他意はありませんよ。(笑)(三つのことを述べようとすると訳がわからなくなりそうなので。)早瀬さんが挙げている三句、 一月許可のほとけをのせて紙飛行機 幸彦 幾千代も散るは美し明日は三越 出る釘の頭に亡父を養へり これらを「ヘタうま」だと、僕は思えないのですね。ですからこの三句の「ヘタうま」度については早瀬さんの次回にお任せします。(笑)僕がですね、面白いと思った攝津幸彦さんの俳句は次の句です。 軍艦をひとひねりする秋の暮 (「現代俳句文庫 攝津幸彦句集」ふらんす堂) 『陸々集』に収められている句です。この句集は1992(平成4)年刊です。先ほどの、ふらんす堂の文庫には「俳句と私性」と題された安井浩司さんとの往復書簡が収められていて、末には『俳句空間』第3号とあります。『俳句空間』の創刊は1986年(昭和61)ですから第3号は1987年(昭和62)ごろでしょうか。その中に、次のような箇所があります。 小生もまた、いつしか霊的な上昇体験に与かるべく“口誦性”とは無縁の密室で自己と数少ない読者のために俳句形式を通じて表現との格闘に参じるつもりです。 この文章からだいたい5年後に先ほど僕が挙げた俳句はあるわけですが、軍艦をひとひねりするなんて仙人にしかできないですよ。前回の今井聖さんの句も今回の攝津さんの句も僕は面白いと思うけど早瀬さんがそう思うとは限らない。逆の場合もありますね。さらに、早瀬さんと僕が面白いと思っても、中学生、高校生にとっては何が面白いのかさっぱり、なんてことが多々あります。子どもや俳句を作らない人たちが喜ぶのは僕の愛誦句の一つである次のような句です。 ぴろぴろは春の耳よりこぼれだす 南村健治 (『歩く魚』より) ですから、僕にとって面白い俳句とは想像力とものの見方と読みの多様性に口誦性もはいってくるわけです。長くなりました。この辺にしときます。吉野山は面白かったです。歴史が違う。だからとてもあやふやでいいかげんなとこもあって。また今度、飲みながらゆっくり話しましょ。 2010年 3月 1日 早瀬淳一発 芳野さん。こんにちは。 「スルー」、いいですね(笑)。さすがサッカー王国静岡県民の身のこなし方。でも、そうしないと、どんどん袋小路に入っていって書く方も読む方も息苦しくなってきますものね。 攝津幸彦の後の2句、 幾千代も散るは美し明日は三越 幸彦 出る釘の頭に亡父を養へり は、もちろん上手い句です。名句であり私の好きな句なので、出してしまいました。誤解を招きすみません。解釈は長くなりますので略します。 さて、芳野さんのご質問、 「(ヘタうまの俳句は)・・・言葉の用い方が下手ならば内容が雅というように、y=x的な方程式で考えればよいのでしょうか?」 そうですね。それも一つの考え方ですね。下手というよりわざとそう見せているのかもしれません。元祖(?)ヘタうま漫画の赤塚不二夫は、技巧の跡を見せずに人の心臓をわしづかみにするような画を描きます。(そしてバカボンが人生の真実をかいま見た瞬間、シュールな美しさをたたえた大画面のひとコマが突如現れます。)画家でいえば、ゴッホでしょうか。 例えば、自分の俳句が沈滞したとき、自分に活を入れるために読むゆにえす。 人間のマークはトイレ去年今年 ゆにえす 笑っていいとも!9月11日も 人類の後もセイタカアワダチソウ (「船団」第77号「ゆにえす50句」より) 1句目。詰まるところ人間はあのトイレの2種類のマークではないかということに、それも年も改まろうかというときに気づく。 2句目。同時テロのあった日にもタモリの番組は変わりなくあったろうし、またあのような出来事があったとしても笑っていくしかないか、というニヒリズム。 3句目、人類がいなくなった遠い未来、ゴキブリが残る世界はイヤだが、セイタカアワダチソウのみが残っている世界は悪くないなと思わせる。 もちろん、このような種類の俳句だけが面白いといっているわけではありません。虚子のいう、「単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句」(「ホトトギス」明治36年10月)という形容がなぜか、いつも頭に残っています。また、勝手な謎を残してしまったかもしれませんね(笑)。 この欄は、『時評』と名が付いていますので、何か最近の話題にも触れたいなとも思っています。が、長くなりますので、それは次回以降に。一度、一緒に飲みたいですね。 2010年 3月 7日 芳野ヒロユキ発 早瀬さん、返事が遅くなって申し訳ありません。早瀬さんの「勝手な謎」に答える前に、もう少し、僕が面白いと思う俳句を紹介させて下さい。俳句を作らない人達が面白がる句は前回挙げた南村さんのほか、たとえば次のような句です。 春の風ルンルンけんけんあんぽんたん 坪内稔典 (『坪内稔典句集〈全〉』)
春の雪だよねかもでしょまっいっか 本村弘一
(『だよね』)
ザ噴水やるときはやるときもある 中原幸子
(『以上、西陣から』)
メンデルの父もメンデル豆の花 塩見恵介
(『泉こぽ』) これらの句を子どもでも大人でも、とにかく俳句を作らない人達に示すと必ず笑いがこぼれます。ふふっ とか ぷぷっ とか クスクスッ とか アハハ とか。このとき俳句という形式による言葉の力を感じるのです。なんか幸福な気分になるんです。俳句を通して「笑う」という場が生まれるわけです。場は大事です。日本においては。 先日、こんな俳句を作ったんです。 春の闇暴れう―んこ退治して 芳野ヒロユキ この句を小4の娘と小1の息子に覚えさせようとしたら、子どもたちは「う―んこ」と言わないんです。「うんこ」と言うんです。僕は言うわけです。「うんこじゃない。そんな汚い言葉をつかうな。(笑)う―んこだ。のばせ!」と。すると子どもたちはまた、「暴れうんこ」って言うんですね。わざと言うわけです。言ったあとゲラゲラ笑うわけです。またまた僕は言うわけです。「春の闇暴れう―んこ退治して」と。子どもたちはまた「暴れうんこ」です。「ちがう!う―んこ」「うんこ!」「ちがう!」もう、ゲラゲラ笑いながら言い合ううちに覚えちゃったんですね。自分も子どもたちも。この変な句を。 なんか、早瀬さんのメールにうまく返事ができてなくてごめんなさい。読んでくださっている方からお便りも来ているみたいなので、次回からはもう少しうまく答えられるようがんばってみます。 2010年 3月 9日 早瀬淳一発 芳野さん。こんばんは。子供さんと俳句で遊べるのはいいですね。うちはその域まで行っていないので、羨ましいです。 6日の夕食時、子どもたちが見る「レッドカーペット」というお笑い番組をつき合って見ていました。その中で、「フットボール・アワー」というコンビが少し面白かったです。1人が「ユー・エス・エー!」と叫ぶと、相方が「運転手さん、そこ左、あ、過ぎてもた。」とか、「ユー・エス・エー!」「うどんすすったら、熱い。」「ユー・エス・エー!」「運転手さん、そこ左、あ、も一つ先やった。」「ユー・エス・エー!」「主電源は切りや。」この脱力感・ナンセンス感に、とぼけた俳句のような味わいを感じました。 さて時評的に、最近かなり話題をさらったのが、『新撰21−発見!若き俳人たち』(邑書林)。オムニバスの21人に関しては、関西を含め東京以外の、地方の元気な若手俳人を入集していないという弊は、百も承知のようです。 この本に対して、高柳克弘氏は、「現代俳句の挑戦」(「俳句」・平成22年2月号)のなかで、「作家ひとりひとりの特徴を指摘してゆくだけでは、彼らの表現史におけるあり様は見えてこない。そこで、彼らを通時的な観点から検証するために、一本の補助線を入れてみたい。」ということで、『現代俳句の海図』(小川軽舟・角川学芸出版)のなかの、昭和30年代俳人の特徴だと指摘されている「俳句という詩型への信頼」という物差しでもって、21人をいろいろと検証されています。そこで、この稿では、ヘンな俳句(勿論誉め言葉)という物差しで何人かの俳人を取り上げてみたいと思います。 まず気になったのが、関悦史氏(昭和44年生)。介護俳句で有名らしいですが、一読、俳句の肝が据わっているなと思いました。 蝋製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ 悦史 アンドロメダ忌空き家の電話鳴りにけり (*アンドロメダ忌は埴谷雄高忌)
戦後詩を滅ぼすために鯰を叱る1句目の、目付けの鋭さと、かなりのちから技ができる腕力。2句目の、安井浩司の系譜を引いていく一人になりそうな資質。3句目の、インテリジェンス・不条理とナンセンス・諧謔の間の回路を掌中の珠としているセンス。これからの俳壇に爆弾を仕掛けるうちの一人かなと思いました。 なんか、勝手なことをどんどん書いていますね。これにとらわれずに、何かおもしろい ことがありましたら、どんどん書いてください。いま、そば焼酎・雲海にはまっています。後味に蒼い風が吹くようです。 追伸 太田様。ご指摘ありがとうございました。9月11日の事件の直後の「笑っていいとも」は放送中止されていたこと、私の勉強不足で事実誤認でした。関係方面にご迷惑をおかけしたとしたら、お詫び申し上げます。 2010年 3月14日 芳野ヒロユキ発 こんばんは、早瀬さん。雲海うまいですよね。雲海といえば川中美幸です。川中美幸がパーソナリティを務めるラジオ番組があります。毎日夕方17:30〜17:40、文化放送をキー局にして放送されている『川中美幸 人・うた・心』です。ご存知ですか。川中さんの声は実に心地よいです。しゃべりが歌のようなんです、この方。 さて、前回『新撰21−発見!若き俳人たち』(邑書林)を取り上げてましたね。僕は持っていないので関悦史さんがどのような俳句を作るのかわかりません。ですから僕が面白いと思う俳句もきっとあるでしょうが、早瀬さんが面白いと思った3句に関しては僕はどこが面白いのかさっぱりです。学生時代、面白くない授業って必ずあったじゃないですか。一方的な講義形式の授業。受け手が参加できないつまらなさ。俳句も同じで読者が参加できないような俳句は面白くない。たとえば、 蝋製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ 悦史 ですが、僕なら「蝋製の」までは言わない。「パスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ」とします。そのほうが、現実的にも読めるし(パスタを口に持っていく途中、何か衝撃的な一言を相手に言われ、その瞬間凍りついた。その情景からパスタとフォークだけを切り取って俳句にした。)非現実的にも読める(何か人の目には見えないものがパスタを食べようとしている。)からです。 その関悦史さんのブログ「閑中俳句日記(別館)」で僕が面白いと思った俳句がありました。関さんが中山美樹さんの『Lovers』(豈の会 / 邑書林)という句集を紹介しています。ブログから中山美樹さんの句を引用させてもらいます。 水仙の香りになってつきまとう 美樹 恋人はやよいのひかりでできている ふたりなら莢隠元のなかにいる 肉体を脱いであなたのそばにいる 一句目、香りならストーカー行為になりませんからね。二句目、穏やかで温厚な恋人。でも永遠に抱きしめることはできないのかも。せつない。三句目、いいなぁ、閉じこもりたいなぁ、莢隠元のなかに。これから莢隠元を食べるときは必ず中を覗いちゃうかも。四句目、ピュアだなぁ。 中山美樹さんという方は1947年新潟県生まれだそうです。僕は「あれ?」と思いました。そういえば本村弘一さんも新潟県出身だったなと。本村弘一さんも1947年生まれなんです。これは何かつながりがあるのかな。それとも新潟の人は、新潟が生み出す素晴らしく飲みやすい日本酒のように、素晴らしく飲みやすい俳句を作るものなのでしょうか。新潟の酒を飲みながら句会したいなぁ。こんど会ったらやりましょう。新潟の酒がまずあって、ついでに句会をする新潟の酒句会を。 2010年 3月17日 早瀬淳一発 芳野さん。こんばんは。なんか、お酒の蘊蓄大会みたいになっていますね(笑)。それとは別の私の趣味は、ジョギングです。走っている最中は意外と俳句を思いついたり、評論の種を授かったりします。 少しずつ芳野さんと私の俳句観の違いが見えてきました。勿論違って当たり前で、そうでないと面白くない。また、重なっているところもあるでしょう。 蝋製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ 悦史 私は「蝋製の」がいいのです。芳野さんの「何か衝撃的な一言を相手に言われ、その瞬間凍りついた。」とか、「何か人の目には見えないものがパスタを食べようとしている。」という曖昧な想像は、この俳句のインパクトを弱めるのではないか。「蝋製の」まで言うのは、確かに悪趣味。だからこそグロテスクな現代の空気を掬い取っているのでは、と思うのです。いわゆる俳句的情趣ではないそれの。 何か、私はことさら仰々しい「新しいだろう!」といった俳句を取り上げて、喜んでいるように見えるかもしれません。でも、些事の中に真実を湛えている俳句も知っているつもりです。でも、それは多くの方が取り上げていらっしゃるので、私は他の機会に譲りたいと思います。 せっかく『新撰21−発見!若き俳人たち』(邑書林)を話題にしましたので、もう一方取り上げたいと思います。山口優夢氏(昭和60年生)。「・・・まあいろいろ発見もあって、いいんじゃないかと思いますけど・・・」(筑紫盤井)とか、「これからの人っていう感じがしますけど」(対馬康子)とか、合評ではあまり高い評価ではないようです(笑)。でも、私には面白かった。 あじさゐはすべて残像ではないか 優夢 夏暁や壁の重なる部屋の隅 婚約とは二人で虹を見る約束 卒業や二人で運ぶ洗濯機 1句目。それは残像だと言われて紫陽花ほどなるほど!と膝を打ちたくなるものはあるだろうか。2句目。部屋の隅は壁の集まるところ。そんなことをわざわざ言った人はいるでしょうか。3句目。私は本当はこういう恥ずかしげもないロマンティシズムが好きなのです。4句目。多くを語らない只事俳句のおかしさ。 降り続く春雨、穀雨...と言いながら、「降り過ぎやろー!」と関西人ならツッコミを入れたくなるこのごろの天気。昨日の残り物のカレーにこれまた残り物のエノキダケを入れて、一人で食べています。 2010年 3月21日 芳野ヒロユキ発 早瀬さん、こんばんは。返事が遅くなりました。ごめんなさい。前回の早瀬さんの手紙にあった、 「蝋製の」まで言うのは、確かに悪趣味。だからこそグロテスクな現代の空気を掬い取っているのでは の部分ですが、僕は悪趣味だと言いたかったのではないんです。「蝋製の」と書いてなくても「蝋製のスパゲティ」をも十分イメージできるいい句なのです。僕のたとえが悪かったんですね。またまたごめんなさいですね。(笑) さて、山口優夢さんの俳句ですが昭和60年生ということは25歳ですか。僕は今、自分が25歳の頃に作った俳句が書いてあるノートを見ながらこの手紙を書いてるのですが、実にうまい。山口さんのほうが。(笑) 夏暁や壁の重なる部屋の隅 山口優夢 早瀬さんの読みだと「壁」は「ものの一辺」ということになりますね。僕は単純に「面」と読んだので、部屋の隅っこで床の上に重ねられてる壁を思いました。上五が「夏暁や」ですから、つまり、部屋の隅っこで夏の夜明けに重なり合っている男と女を詠んだ句です。実にうまい。子供から大人まで多様な読みが可能です。(笑)「壁」の持つイメージは他にもありますね。耳や本や死体などが代表です。「壁」がいいですね。 さて、僕は山本純子さんの句集『カヌー干す』(ふらんす堂)を取り上げたいと思います。 雪だるまでいた一日缶コーヒー 山本純子 パジャマから出てパジャマへ帰る遅日 カナカナと八月三十日(みそか)が鳴きました 銭湯の人も金魚もみなはだか 一句目。まさに仙人俳句。僕も術を使えたら雪だるまになって子どもたちを喜ばせたい。二句目。発想が先なのか。「出て」という言葉が先なのか。どちらから句を作ったのか。「脱ぐ」「着る」という既製品のような言葉を用いてない。三句目。365句作れるヒントがここにある。四句目。金魚も銭湯に入ってるんだけど、金魚だけ若くてかわいいんだな。一緒に入ってるおばちゃんたちの声が聞こえる。「いいわねぇ、若いって。(笑)」 先日、授業で葉山嘉樹の『セメント樽の中の手紙』を読んだんです。そのなかにこんな部分がありました。 彼は、ミキサーに引いてあるゴムホースの水で、一と先ず顔や手を洗った。そして弁当箱を首に巻きつけて、一杯飲んで食うことを専門に考えながら、彼の長屋へ帰って行った。 小説の内容はとても重たくて、くどくど説明してたらそれこそみんな寝てしまいます。(笑)その重くなりがちな授業のなかで、ある生徒が「弁当箱を首に巻きつけて」というところを言い間違えたんですね。次のように。「首を弁当箱に巻きつけて」と。一瞬の間のあと、どっと笑いが起こりました。首と弁当箱が入れ替わっただけですよ。面白い俳句のヒントは、ふだんの、身近な言葉のなかにあると思いませんか。 我が家の小さな枝垂桜も赤いつぼみを見せ始めました。春ですね。それでは。 2010年 3月25日 早瀬淳一発 芳野さん。こんにちは。芳野さんの引用された「首を弁当に巻き付けて」と言った偶然の言い間違いは、俳句、いや詩の1つの技法を巧まずして示していますね。つまり、詩や俳句には、 〔1〕ある言葉の意味を一度ご破算にして解体してしまう、そうして新しい使い方によって別の意味を創出する、 〔2」通常はその言葉と結びつけられないような言葉とくっつけて、普通の論理を微妙にずらす、 〔3〕通常の言葉の並び方をひっくり返す、などの技法があるかと思います。 さっきの例は、〔3〕の技法ですね。 『カヌー干す』(山本純子・ふらんす堂)。私も好きな句集(というより詩集のような感じ)です。 秋の浜大人になったから座る 純子 このごろをポンと蹴とばし春爛漫 花疲れうどんは粉にもどりたい 1、2句目はA、3句目はBの技法でしょうか。1句目。浜には勿論子供も座る。でも、「秋の浜」というと、大人になって初めて座ってもいいような気がして、おかしい。2句目。世間はどこもかしこも春爛漫。なんだかんだあった鬱陶しい「このごろ」はポンと蹴飛ばすという気持ちはすごくわかる。3句目。桜はちらりと見るくらいが良い。しかし、思う存分見て疲れてしまった。目の前にあったうどんと同化して、ぐだぐだと粉にもどっていきたい気分。本句集を読んでいると、俳句について小難しいことを考えているのがアホらしくなってきます。 さて、いつもの癖で長くなってきました。芳野さんと私の「時評」は今回でおしまいです。次回(4月)からは、また小倉喜郎のシリーズが始まります。なので、喜郎の句集『急がねば』(ふらんす堂)をパラパラとめくっていました。喜郎というと、 空梅雨や向き合っているパイプ椅子 喜郎 アロハシャツ着てテレビ捨てにゆく などの句がよく引かれますが、 朝曇りパン屋に車が来て止まる 喜郎 犬小屋に犬がいなくて鰯雲 早春の転がっている拡声器 のような、特別なことは言わない、どこか乾いていて素っ気ない、けれども胸のどこかがチクリと痛むような淋しさ、抒情。意外と喜郎の本質はそのあたりにあるのかなと、ふと思いました。ほめすぎですね。 芳野さん。この書簡を始めたのは、バレンタイン・デーの頃でした。まだ寒かったですが、もう桜の咲く頃になりましたね。3本の山桜の咲くいつもの場所で、七輪で炙るアジの干物などをアテに飲むワインが楽しみです。 それでは、お元気で。 |
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