週刊:新季語拾遺 最近のバックナンバー
2002年3月31日

桜(さくら、sakura)

 以前に「桜散るあなたも河馬になりなさい」という句を作った。桜の散るプールで大きな口をあけている動物園の河馬。あるいは寝そべったまま声をかけても少しも動かない河馬。そんな悠長に見える河馬を眺めていると、ひとときこの世のあわただしさを忘れる。河馬になることが人には時に必要だとまで思う。
 さて、日本列島は桜の季節になった。桜は日本の美や精神の象徴になっているだけに、取り合わせによって桜を相対化することが大事だろう。「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている」と言ったのは小説家の梶井基次郎だが、桜と死体を取り合わせることで、桜の意外な一面がはじめて見えた。取り合わせは私たちの物の見方を変えてくれる。私は桜に河馬を取り合わせたが、アンパンのへそに桜の花びらを置いたのなどは取り合わせの傑作だ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年4月4日)


2002年3月28日

春の岬(はるのみさき、haruno_misaki)

 「春の岬旅のをはりの鴎(かもめ)どり 浮きつつ遠くなりにけるかも」。三好達治の詩集「測量船」の冒頭にある短詩。詩というよりも短歌といういうべきか。口ずさんでいると、波に浮く鴎が遠くなるように、気分もまたぼうっとして遠くなる。
 3月から4月にかけてはたいていの人が忙しい。忙という字は心を亡(な)くすと書くが、多忙だ多忙だと思って過ごすと、実際に本来の心を失ってしまう。
 忙しい時期にはその反対ののんびりした事を意図的にするに限る。たとえば春の岬にでかけて、波に浮く鴎や沖を行く船を眺めているだけでも、胸が広くなる気がおのずとするだろう。
 ちなみに、「忙しい」は私の禁句。ついつい口にしがちなこの言葉を禁じ、別の言い方を工夫することで、心にほんの少し緊張感を与えている。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年3月28日)


2002年3月24日

菜の花(なのはな、nanohana)

 「はるか向こうには、白銀の一筋に眼を射る高野川を閃(ひら)めかして、左右は燃え崩るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりとなすり着けた背景には薄紫の遠山を縹渺(ひょうびょう)のあなたに描き出している」。これは夏目漱石の「虞美人草」の一節。京都市の北部から南を眺めた風景だ。
 そういえば、蕪村の名句「菜の花や月は東に日は西に」も京都南郊の桂川、宇治川、木津川が合流するあたりの風景。菜の花が咲いていたのは京都ばかりでなく、やはり蕪村が「菜の花や摩耶(まや)を下れば日の暮るる」と詠んだ神戸、また、「菜の花や和泉河内へ小商い」と詠んだ大阪近郊も、春には一面の菜の花世界になった。
 菜の花世界が消えたのは、灯火が石油、電力に移行してから。石油や電力が登場するまで、菜種油の灯火が人々の夜の世界を照らしていた。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年3月27日)


2002年3月17日

永日(えいじつ、eijitsu)

 エイジツ。永き日、日永(ひなが)とも言い、急に昼が長くなったと感じる春の日を指す。
 「永き日や欠伸(あくび)うつして別れ行く」(夏目漱石)。日の永い春の日、互いに欠伸をして別れたというのである。のどかでのんびり、肩肘(ひじ)のはらないその付き合いぶりはこのましい。漱石はこんな付き合いを理想とした。たとえば『吾輩は猫である』の人物たち。美学者の迷亭などは案内も乞わずに苦沙弥家へ出入りし、勝手な言動をほしいままにしている。
 「良寛に鞠(まり)をつかせん日永かな」。これも漱石の句。良寛のように鞠をついて無心に春の一日を過ごしたいという思いがこの句の心。良寛は「子供らと手鞠つきつつこの里に遊ぶ春日は暮れずともよし」と歌った。永日を愛する心は少し怠惰で少し放埓(ほうらつ)。でも、ネジがゆるんだようなそんな心に私もひかれる。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年3月20日)


2002年3月14日

春寒(はるさむ、harusamu)

 ハルサム。春になってからなお残る寒さ、つまり余寒のこと。
 私は京都の四条河原町で下車し、四条の大橋を東へ渡って、橋詰の駅から大阪行きの別の私鉄に乗る。それが通勤の経路。つまり、四条の橋を渡って、その橋の間だけ京都の空気に触れる。橋の上は今は春寒。通行人の足がまだ速い。
 夏目漱石に「京に着ける夕」という随筆がある。明治40年の春寒の日に京都に来て、下鴨神社の糺(ただす)の森にあった友人の家に泊まった話だ。駅からの道が寒く、風呂が寒く、蒲団も寒かった。夜明けの烏(からす)もかあと単純には鳴かず、曲折してきゃけえ、くうと鳴いた。漱石の口吻(こうふん)はそれも寒さのせいと言わんばかり。
 今はそんな春寒の京都だが、四条大橋の人の歩みはこれから日々にゆるやかになる。春の歩幅になるのだ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年3月14日)


2002年3月10日

下萌え(したもえ、shitamoe)

 シタモエ。早春、大地から草がもえ出ること。「草萌え」と同義。この季語、『新古今和歌集』の「春日野の下萌えわたる草の上につれなく見ゆる春の淡雪」などに由来する。
 「煙霞(えんか)の癖(へき)」という言葉がある。自然の風景を深く愛する習性のこと。空に霞(かすみ)がかかった下萌えの時期、私の心はふわふわしてどこかへでかけたくなる。「煙霞の癖」が頭をもたげるのだ。
 さしあたって行きたいのは川の上流。去年は四国の肱(ひじ)川と兵庫県の市川をさかのぼった。上流や支流の奥には、懐かしい感じの集落があった。
 「下萌えや明治の母のいるごとし」。これは私の句。私のイメージでは、明治の母は背筋の伸びた気骨のある人。下萌えはそんな明治の母の気配だが、川の上流にはわがあこがれの明治の母がいるかも。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年3月13日)


2002年3月7日

春の川(はるのかわ、haru_no_kawa)

 春の一日、丘や川、磯(いそ)などへみんなで遊びに出かける風習があった。雲や川の流れなどの生命力の旺盛(おうせい)なものを見るためだ。そんな旺盛な生命力を見ると、その力が人間に感染し、冬の間に弱った人間の生命力が回復した。古代のこんな野遊びは、男女が歌のやりとりをして求婚する歌垣の場にもなった。
 正岡子規の「墨汁一滴」に郷里・松山の「おなぐさみ」という行事のことが書かれている。時候が暖かくなると、一家一族、あるいは近所の者が誘い合って、郊外の川辺へ出掛ける。多いときは20〜30名が連れ立ち、川辺で食事をしたり摘み草をする。「普通には女子供の遊び」だが、芝居小屋などで悪い空気を吸うよりもはるかに愉快な遊びだ、と子規は言う。
 私は今、雪解け水のきらきらする春の川辺へ誰(だれ)かを誘って行きたい気分だ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年3月7日)


2002年3月3日

啓蟄(けいちつ、keichitsu)

 ケイチツ。24節気のひとつで今日がその日。冬ごもりの虫がはい出る日だ。
 物心ついてこのかた、啓蟄の日に虫を実際に見たことはない。それでも啓蟄という言葉を聞くと、どこかでぞろぞろと虫がはい出している気がする。言葉のもたらすこの不思議さ(miracle)は、まさに言葉のミラクル効果。「啓蟄や指輪廻せば魔女のごと」。これは東京の俳人・鍵和田?(ゆう)子の俳句。啓蟄という言葉のミラクル効果は指輪にまで及び、啓蟄の指輪は魔法の指輪に化しているのだ。
 わが愛読書に奥本大三郎の「虫の宇宙誌」(集英社文庫)がある。奥本はフランス文学者だが、少年時代から虫に魅せられ、今では虫のコレクターとして名高い。現代人には虫嫌いが多く、実は私もその一人だが、虫を嫌うのは<不健康な文明化>だと奥本は言う。耳が痛い。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年3月6日)


2002年2月28日

春の風邪(はるのかぜ、haru_no_kaze)

 春先は寒さが不意にぶり返す。季語ではそれを「冴(さ)え返る」とか「寒戻る」と言う。また、立春以後の寒さを「余寒」とか「春寒(はるさむ)」と呼ぶ。寒さがぶり返しながら、季節は確実に本格的な春へ向かっている。
 ともあれ、気候が不安定なだけに、うっかりすると風邪を引く。「魔女といふ綽名(あだな)のひとの春の風邪」(内田美紗)。こんな句があるが、魔女と呼ばれる人でも引いてしまうのが春の風邪。しかもぐずぐずと長引く。
 幸田文の随筆(『雀の手帖』)に、風邪にかかると鼻水が出る、咳(せき)が出る、熱が出ると、出るものばかりなのに、なぜ引くというのだろうと、とある。風邪を引いた筆者の風邪への腹いせ的な感想だが、たしかに、これ、なぜなのだろう。すでに風邪にかかっている人から、風邪を引き寄せるということだろうか。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年2月28日)


2002年2月24日

春はあけぼの(はるはあけぼの、haru_ha_akebono)

  「春は曙。やうやう白くなりゆく。山際少しあかりて紫だちたる。雲の細く棚引きたる」――よく知られた『枕草子』の冒頭。
 読み方は、新日本古典文学大系『枕草子』(岩波書店)において、こんな読み方も考えられると言う渡辺実の示唆に従った。事物を個別的、即物的に表現する『枕草子』の特徴が、こんな読み方で一層はっきりと出るだろう。ちなみに、こうした『枕草子』の表現法はとても俳句的。『枕草子』は俳句のさきがけのような本だ。
 「春あけぼの瀧の百絃奏でゐし」「壷を焼く春あけぼのの火勢かな」。これは四国・松山の俳人、篠崎圭介の作。この人、春の曙が好きで、早起きして歩き回っているのだろう。「日本の春はあけぼの犬の糞」。これは私の句。実は私も曙派。春の曙には道端の犬の糞さえも素敵だ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年2月27日)


2002年2月21日

椿(つばき、tsubaki)

  椿は木偏に春。古くから春の木の代表だ。
 民俗学者の柳田国男に「椿は春の木」というエッセーがある(『豆の葉と太陽』昭和16年)。椿は青森県や秋田県にも育っているが、そんな椿は昔々、南から北へ移って行った人が植えたもの。雲が晴れて日がさすと、真っ先に椿の葉の雪が滑り落ち、緑の葉がきらきら光る。その雪中の緑を見て、移住してきた人々は、近い春を感じ、なつかしい南の国をしのんだ。椿は占いなどに用いる神木であり、椿を北へ運んだのは、信仰を管理する女性たちだった。以上が柳田の説。
 南国育ちの少年期の私は、裏山の藪(やぶ)椿の木を自分の城にして過ごした。カズラがまといついた椿の木はまるでハンモックのようであり、枝の上に寝転んで花をむしっては蜜(みつ)を吸った。ちょっと小鳥の気分だった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年2月21日)


2002年2月17日

海苔(のり、nori)

 ノリ。横須賀の池田みつおさんから幅海苔が届いた。「子供のころから親しんでいる海苔です。ちょっとあぶってから食べて下さい。堅くて素朴ですが、坪内さん好みだろうと思います」と手紙がついていた。池田さんは三浦半島生まれの俳人。出たばかりの句集『青ズボン』には、「わがままな君は魚かも春の街」「二人来て捕鯨の遊び大枯野」などの句がある。
 あぶった幅海苔を手でもみほぐしながら、ふと思い出したことがある。しばらく前まで、海苔の袋を叩(たた)いて破る人が多かった。おしぼりの袋も同様だった。旅館の朝食の際などにはパン、パンという音が響きわたったものだ。そんな音がいつの間にか消えたが、時代を風靡(ふうび)したあの袋の炸裂(さくれつ)する音は何だったのだろう。かつての高度経済成長期のシンボルの音だったのか。  (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年2月20日)


2002年2月14日

光の春(ひかりのはる、hikari_no_haru)

 「日脚(ひあし)伸(の)ぶ」という季語がある。冬至を過ぎてだんだんに日が長くなる感じをさす冬の季語。日脚がずいぶん伸びた2月半ばには、光が春を先取りしたかのようにやさしくきらめく。それが「光の春」。暦の上ではとっくに春だが、実際は今が「光の春」だと言ってよい。
 「光の春」は気象キャスターの倉嶋厚が広めた季語。倉嶋は昭和39年に気象調査のためにロシアへ出張、ロシア語のベスナー・スペータ(光の春)を知って日本に伝えた。まだ冬で気温は低いが、日脚が伸びて空が明るくなり、屋根の雪から最初の水滴が日に輝いて落ちる、それが「光の春」のはじまりだ、と倉嶋は書いている。(『暮らしの気象学』)。
 今日はバレンタイン・デー。去年は「光の春ですね」と添え書きしたチョコレートが届いてわくわくした。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年2月14日)


2002年2月10日

バレンタイン・デー(ばれんたいん・でー、St. Valentine's day)

 さっちゃんは若い俳句仲間、20代のOLである。神戸の高層マンションに住んでおり、兵庫県南部地震の際にはタンスの下敷きになった。「でも頭からふとんをかぶったから助かった」という。
 「春一番ドレミのくつ下ふっ飛んで」「桜餅となりの黄粉がちょっとつき」「青虫が菜の花畑で口説かれて」。これが彼女(清水さつき)の俳句。去年、私たちのグループの勉強会で、「俳句は手作りの弁当と同じ。相手に食べてもらう工夫がいります」と彼女は述べた。たしかにこれらの俳句は可愛い弁当という感じ。
 さて、明日のバレンタイン・デー。私はさっちゃんをかじめとする神戸の女友だちにチョコを贈る。バレンタイン・デーは女の行事だが、今年ばかりはこの女の美風をまねたいのである。神戸の人へチョコを!(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年2月13日)


2002年2月7日

春の雪(はるのゆき、haru_no_yuki)

 立春を過ぎてから降る雪が「春の雪」。「春雪」とも言う。実際は今が一番寒い時期であり、春は名のみだが、それでも「春の雪」という語感には、春のやさしさが空から舞い降りてくる気配がある。
 そういえば、雪の研究者として知られた中谷宇吉郎は、雪を天からの手紙と呼んだ(岩波新書『雪』)。「ほほづゑの頬やはらかし春の雪」(鷲谷七菜子)。この俳句などは、その天からの手紙を受けとめる雰囲気そのもの。
 もっとも、春の雪をやさしいと感じるのは、私が四国で育ち、大阪に住んでいるせいだろうか。越後生まれの江戸時代の文人、鈴木牧之は、春の雪が淡くて消えやすいと思うのは暖国の人の考え、寒国の春の雪はことごとく凍り、雪道はまるで石のようになるのだ、と言っている。(『北越雪譜』)。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年2月7日)


2002年2月3日

佐保姫(さおひめ、saohime)

 さおひめ。春の女神である。春の女神を佐保姫と呼ぶのは、奈良の佐保山が春の方角である東に位置することに因(ちな)むという。
 「ねむげの春よさめよ春/さかしきひとのみざるまに/若紫の朝霞/かすみの袖を身にまとへ/はつねうれしきうぐひすの/鳥のしらべをうたへかし」。これは島崎藤村の『若菜集』にある「佐保姫」の一節。藤村は眠そうにしている佐保姫に「霞の衣をまとえ」と呼びかけているが、霞は佐保姫の定番の衣装だった。
 室町時代の俳諧選集『犬筑波集』には、「霞の衣すそはぬれけり」「佐保姫の春立ちながら尿(しと)をして」という付け合いがある。藤村の佐保姫は和歌的な雅の女神だが、この『犬筑波集』の行儀の悪い女神は俗の詩歌である俳句の原型。ともあれ、佐保姫が立小便をする候になった。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年2月6日)


2002年1月31日

淡雪(あわゆき、awayuki)

 アワユキ。沫雪とも書き、積もってすぐに消える牡丹(ぼたん)雪などをさす。「万葉集」に出ている古い言葉だが、古来、淡雪は冬のものか春のものかで議論があった。江戸時代の俳諧では冬の季語とされている場合が多いが、近代では春の季語。ちなみに旧暦では明日が元日、そして2月4日にはもう立春である。
 「あは雪の中に顕(た)ちたる三千大千世界(みちおおち)またその中に沫雪ぞ降る」。これは良寛の歌。仏教の宇宙観では、須弥山(しゅみせん)を中心にした一個の小宇宙が千個集まったものを小千世界、それが千個で中千世界、中千世界が千個集まったものを大千世界と言い、それらをまとめて三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)と呼ぶ。「みちおおち」はそれを国語に訳した言い方。良寛は降っては消える淡雪に大宇宙を感受している。なんとも壮麗な淡雪だ。もちろん、淡雪は春のさきぶれ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年1月30日)


2002年1月27日

海鼠(なまこ、namako)

 ナマコ。「生きながら一つに氷る海鼠かな」は芭蕉の弟子の去来。「思ふこと言わぬさまなり海鼠かな」は蕪村。いずれも海鼠の奇妙な姿を詠んでいる。今の時期、海鼠が旬だ。
蕪村には「大いびきそしれば動く海鼠かな」もある。大いびきをかく人をそしるとちょっと動く、海鼠はそんな大いびきをかく人のようだ、というのであろう。いびきをかくらしい私としてはなんだか自分のことを言われているみたい。もしかしたら、たとえばカミさんは「この海鼠め!」と夜な夜な私をそしっているのかも。
「父と子と西宇和郡のなまこ噛(か)む」。これは私の句。西宇和郡は愛媛県にある郷里。父と子のしんみりした付き合いを詠んだつもりだが、体型もすっかり海鼠的になった私は、海鼠を食べるとき、少しつらい。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年1月31日)


2002年1月24日

寒梅(かんばい、kanbai)

 急ぎの仕事に追われて年賀状が書けなかったので、今年は寒中見舞いを書いた。ハガキが値上がりする前に早く出してよ、とカミさんがせつくものだから、江戸時代の嵐雪の名句「梅一輪一輪ほどの暖かさ」を借用した。
この句、梅が一輪咲くごとにその一輪くらいずつ暖かさが増す、と読む人が多い。ところがこの句には「寒梅」と前書きがついており、寒中の梅が一輪咲いて、その一輪くらいのかすかな暖かさを寒中に感じるというのが作者の思いだった。
だが、寒梅でなく、春近いころの梅と読んでもよい。実はそんな誤読によってこの句は名句になっている。作者の意図を越えたり、誤読を誘い出すのは名句の条件。
こんなことを寒中見舞いに書き、ついでに「寒いだなんて言わないでおこ牡丹雪」という自作を添えた。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年1月24日)


2002年1月20日

煮凝り(にこごり、nikogori)

 魚などの煮汁が寒気で固まったものが煮凝(にこご)り。白身の魚を筒切りにし、寒天を加えて煮付け、その煮汁を凝固させた料理のことでもある。煮凝りを舌にのせた時のつるりと溶ける感触はエロティックなまでに妙。
 「煮凝りの出来るも嬉し新所帯」とは正岡子規の句。上手に煮凝りを作る新妻を讃えた。「煮凝りや凡夫の妻の観世音」は日野草城。自分は平凡な夫だが、煮凝りを巧みに作る妻はまるで観世音だというわけで、これも煮凝りに託して妻を賛美している。煮凝りはかつて、深遠にして微妙な家庭の味そのものだったらしい。
 「煮こごりのこの一塊の沃度いろ父母(ふも)の恩てふことばおそろし」。これは現代を代表する歌人・塚本邦雄の歌。最新の第20歌集『獻身』に収められている。「父母の恩」にたとえられたこの煮凝りは少し怪しい。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年1月23日)

煮凝や涙は涸れて雲仰ぐ  時枝武


2002年1月13日

貫一ぐもり(かんいちぐもり、kanichigumori)

 1月17日の夜が曇天であったら、それは今なお続く男の恨みの涙による<貫一ぐもり>。 間(はざま)貫一は尾崎紅葉の『金色夜叉(こんじきやしゃ)』の主人公。一高生の間貫一の許婚(いいなずけ)・鴫沢宮(しぎさわみや)は、指にダイヤモンドの指輪を光らせた銀行家の息子と結婚。裏切られた貫一は、学業を捨てて、高利貸、すなわち金の鬼(金色夜叉)になり、愛を翻弄する金力優先の社会に報復する。
別れの日となった1月17日、熱海の海岸で貫一は宮に告げる。「一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか・・・来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月を雲らせて見せる・・・」と。純情にして過激、明治時代のこんな男心は今ではかえって魅力的かも。
「鍋(なべ)焼きの火をとろくして語るかな」。俳人でもあった紅葉にはこんなしっとりとした句もある。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年1月17日)


2002年1月10日

十日戎(とおかえびす、tokaebisu)

 とおかえびす。1月10日に各地の戎神社で行われる祭礼。ことに大阪では<えべっさん>と親しまれ、新年はこの十日戎にはじまる感がある。
「十日戎浪速の春の埃(ほこり)かな」(岡本松濱)。こんな俳句があるが、参詣人が押し合いへしあいして立てる熱気と埃が<春の埃>。戎は耳の遠い神と言われており、参詣人は口々に「参りました、参りました」と叫び、社殿のうしろの羽目板を叩(たた)いた。「その音ははるかに響きて雷鳴のごとし」と1783年刊の『歯がため』という本に出ている。今でも「商売繁盛、笹持って来い」という囃(はや)しがにぎやか。福を求める気持を人々が率直に神にぶっつけるのが十日戎の伝統なのか。ちなみに、十日戎の翌日を残り福と呼び、なおも参詣が続く。「残り福とて駆け込みし人等あり」(稲畑汀子)。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年1月10日)


2002年1月6日

雪の朝(ゆきのあさ、yukinoasa)

 雪の朝二の字二の字の下駄のあと」。これは田捨女(でんすてじょ)が6歳のときに詠んだという句。雪は古来、豊年の吉兆として喜ばれたが、とりわけ朝の雪の光り輝くさまは、今でもなにか良いことの前触れという感じ。捨女の句にもそんな朝の雪への素朴な感動がある。
 捨女は1633年に現在の兵庫県柏原(かいばら)に生まれた。当時はまだ珍しい女性の俳人として活躍したが、49歳で仏門に入り、盤珪(ばんけい)禅師の弟子となった。前半は俳人の捨女、後半は尼の貞閑として、いわば人生を二度生きた。柏原では今、町の女性を中心に「田捨女を讃(たた)える会」が結ばれ、彼女の生き方や思想を学ぶ運動が起こっている。
 「天上の椅子降りてくる雪の朝」。これは熊本県玉名市に住む現代の俳人、あざ蓉子の作。「天上の椅子」はやはり何か良いことの予感だろう。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年1月9日)


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