週刊:新季語拾遺 最近のバックナンバー
2002年6月30日

雹(ひょう、hyo)

 ヒョウ。雷雨、すなわち夕立にともなって降る氷塊である。先年、松江市で雹にあった。市内にある月照寺という藩主の菩提寺は、その静かなたたずまいが大好きなのだが、その寺でお茶をいただき、門を出て炎天の道をぶらぶらと歩いているとき、たちまち空が曇って雹が降った。雹はピチピチという感じで道や屋根に跳ねた。
 雹は豆粒大から人のこぶし大までさまざま。大きなものは当然ながら農作物に害を与える。そんな雹だが、以前に私は、「君はいま大粒の雹、君を抱く」という俳句を作った。以来、夏にはひそかに雹を待つ。
 さきの句は若い人に人気があり、「私も雹のような女性になりたい」と手紙を寄越した学生もいた。だが、実際は雹のような人は私のあこがれの女性。そんな人に会いたいのだ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年7月3日)


2002年6月27日

茅の輪潜り(ちのわくぐり、chinowa_kuguri)

 チノワクグリ。陰暦6月晦日(みそか)には古くから夏越(なごし)の祓(はら)えが行われた。人形(ひとがた)にけがれを託して水に流したり、茅の輪を潜ったりして、厄を祓い無病息災を願う。今は6月30日、あるいは7月30日に各地の神社で行われている。
 神社の参道に作られたおおきな茅の輪は、その浅緑色がすがすがしい。しかも茅の匂(にお)いがさわやか。茅の輪を潜ると、梅雨のさなかのうっとうしい気分がさっとぬぐわれる感じ。ちなみに、私が育った四国の村では、この行事を実に即物的に「輪抜け」と称した。
 宮中の女官の日記「御湯殿(おゆどの)の上(うえ)の日記」によると、室町時代の宮中の茅の輪潜りでは、左足から輪に入り右足から出ることを3度繰り返した。そして、「水無月の夏越の祓えする人はちとせの命延ぶというなり」という歌を唱えたらしい。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年6月27日)


2002年6月23日

かたばみの花(かたばみのはな、katabami_no_hana)

 四国の西に九州へ向かって長く伸びた半島がある。佐田岬半島。この半島の家々は、たいていが青石の石崖(がけ)の上に建っている。そしてその石崖には黄色やピンクのかたばみの花が咲いている。かたばみの咲くその半島は私の故郷。
 かたばみは道ばたや庭すみなどで普通に見かける草だが、ハート型の葉は酸味が強く、皮膚病の漢方薬として、また鏡、真鍮(しんちゅう)などを磨くために用いられた。私などはちょっと眠くなったとき、その葉や茎を噛んで眠気ざましにした。黄の小さな花をつけるのがかたばみの在来種。近年はピンクなどの大型の花を咲かせる洋種も多い。
 先年、「炎天を来てかたばみの花へまず」という句を作った。その際、ある人がかたばみの花言葉を教えてくれた。「あなたと生を共にする」だという。素敵だ、かたばみは。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年6月26日)


2002年6月20日

蟻(あり、ari)

 アリ。「一匹一匹が、3という数字に似ている。それも、いること、いること! どれくらいかというと、333333333333・・・ああ、きりがない」。フランスの作家、ルナールは「博物誌」において蟻をこのように表現した(岸田国士訳)。
 きりのない行列を作る蟻を、3時間もの間、錆(さ)びた包丁で叩(たた)き続けた男がいる。与謝野鉄幹。明治41年に雑誌「明星」が終刊になると、鉄幹は世間から忘れられ、夫人の晶子ばかりが有名になった。失意の鉄幹は、晶子が原稿を書いている書斎の前の庭で、穴から出てくる蟻を3時間も叩き続けた。晶子が自伝的な小説「明るみへ」に書いている話。
 私は、蟻を叩くぶざまな鉄幹が大好き。好きだということをラジオで話したら、殺生を礼賛するとは何事かと投書がきた。びっくりした。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年6月20日)


2002年6月16日

桜桃忌(おうとうき、otoki)

 桜桃忌は太宰治の忌日。昭和23年6月、39歳の太宰は愛人と玉川上水に入水(じゅすい)、19日に死体が発見された。
 彼の忌日を桜桃忌と呼ぶのは、その死の時期がちょうど桜桃(さくらんぼ)の時期であり、また名作「桜桃」があるから。
 この小説は「子供より親が大事、と思いたい」という言葉で始まる。3人の幼い子供を抱えた主人公は、夫婦喧嘩(げんか)をして家を飛び出し、いきつけの飲み屋に至る。飲み屋では桜桃が出た。以下はこの小説の末尾。「大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事」。
 太宰は親であることに悩んだが、「親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト」とは俵万智の短歌。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年6月19日)

桜桃忌あたまの熟す夜だった  松井 康子


2002年6月13日

枇杷(びわ、biwa)

 ビワ。「びわは水人間も水びわ食べる」。以前にこんな句を作ったが、私は顎(あご)に汁をしたたらせ、周囲に皮や種を散乱させて食べる。カミさんなどは野蛮で行儀の悪い食べ方だと言い、私が枇杷を食べようとするとすぐに新聞紙を広げる。いくら非難されようと、枇杷は汁まみれになって食べるべきだ。西瓜(すいか)と桃も同様。
 枇杷の俳句では「ふたまわり下の男と枇杷の種」(池田澄子)が好き。年齢がふたまわり違う男女、しかもちょっと危うい関係の男女が、「この種、艶がいいわね」などと話している。大人の恋の場面だ。実際、枇杷は格別に種が立派。食べられないし無用の存在だが、無用のものの存在感をその大きさと艶が示している。だが、果物の種を嫌う風潮があり、わが家の娘も枇杷は種が邪魔だと言う。枇杷の種が好きになってこそ大人なのに。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年6月13日)


2002年6月9日

楊梅(やまもも、yamamomo)

 ヤマモモ。以前に勤めていた女子大学のキャンパスには楊梅の木がたくさんあった。梅雨の晴れ間に学生たちと実を採取し、試食しながら俳句や短歌を作るのが毎年の習いだった。「やまももの一粒ずつの授業かな」(月森法子)。
 楊梅は西日本の太平洋岸、ことに徳島、高知に多く、梅雨のころに紫赤色の丸い実をつける。少し酸っぱいが、素朴で懐かしい味。
 私が今年こそは、と思っている楊梅の木がある。兵庫県福崎町の鈴の森神社境内にある大きな楊梅。なんども訪れているのだが、いつも実が落ちた後。いちど鈴なりのようすを見たいのである。その神社は民俗学者の柳田国男が幼少時に遊んだ場所。すぐそばに彼の生家が復元されており、のちに国男は「うぶすなの森のやまもも高麗(こま)犬は懐しきかなもの言はねども」と歌った。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年6月12日)


2002年6月6日

虹(にじ、niji)

 「虹(にじ)立ちて忽(たちま)ち君の在る如(ごと)し」(高浜虚子)。「虹消えて了(しま)へば還る人妻に」(三橋鷹女)。「虹二重神も恋愛したまへり」(津田清子)。虹はふっと立ってふっと消える。そのはかない美が、人を一瞬、現実とは別の世界へ誘うようだ。そんな幻覚を引き起こす虹のようすがこれらの俳句にうかがえる。
 虹と言えば7色と決まっているが、子供がまだ小さいころ、虹の7色を教えてくれと言われて困ったことがある。こっそりと調べて教えたのだが、虹の色は紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の7色。
 英語ではレッド、オレンジ、イエロー、グリーン、ブルー、パープルの6色、藍はブルーに含まれる。ちなみに、虹を5色、3色、2色とみなす言語もある。私たちは自分たちの言語に応じて対象を見ているのであり、7色の虹は日本語の虹だ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年6月6日)


2002年6月2日

素肌(すはだ、suhada)

 なにかの拍子にふっと孤独感に襲われることがある。自分がひとりぼっちになったようで、わけもなくさびしい。周囲に生気の満ちた青葉の季節にそんな孤独感にとらわれることが多い。この季節には私たちはいわば素肌になる。その素肌の外界に対する敏感な反応が孤独感になるのだろうか。「素手、素足、傷つきやすき<素>と思う誰にも逢わぬ独(ひと)り居(い)の今日」(松平盟子)。
 松平の歌は句歌集『世紀末の饗宴(きょうえん)』(作品社)に出ている。この本、歌人と俳人が同じ題で競作した珍しい作品集だが、「素肌」の題のもとには「忘れそうな地球の素肌よところてん」(松本恭子)「窓々のガラスの素肌ひえびえと醒めて光れる朝のビル街」(高野公彦)「鼻先に裸の赤ん坊をおく」(宇多喜代子)などがある。いずれも素肌を通して世界と触れ合っている。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年6月5日)


2002年5月30日

雛罌粟(ひなげし、hinageshi)

 ヒナゲシ。虞美人(ぐびじん)草とも言う。風にそよぐしなやかで奔放な風情が好きだ。  「ああ皐月(さつき)仏蘭西(ふらんす)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟」。明治45年5月、夫を追ってフランスへ行った与謝野晶子は、夫との再会をこんなふうに歌った。コクリコは雛罌粟の仏名。時に彼女は34歳、7人の子の母だった。  この時期の歌を収録した第11歌集『夏より秋へ』には秀作が多い。第1歌集『みだれ髪』の特色だった奔放な感覚が蘇(よみがえ)っている。晶子はその感覚を「気まぐれ」と呼んだ。命の衝動のままに行動し、そしてその行動に責任を持つことが晶子の多産な活力につながった。
 昨日はその晶子の忌日・白桜(はくおう)忌だった。この忌名は法名「白桜院鳳翔晶燿大姉」に因(ちな)む。だが、私はひそかにコクリコ忌と呼んでいる。風に揺れるコクリコはまさに気まぐれ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年5月30日)


2002年5月26日

ブルーヘイズ(ぶるーへいず、blue haze)

 ブルーヘイズは青い靄(もや)。初夏の山々は青く霞(かす)んで見えるが、それはブルーへイズに包まれているため。
 ブルーヘイズは樹木の葉が発散するテルペンという物質がもとになってできる。テルペンがオゾンや窒素酸化物の影響で微細な粒子になり、その粒子が波長の短い青い太陽光を反射する。それがブルーヘイズだ。ジャマイカ産のコーヒーの銘柄に有名なブルーマウンテンがあるが、この名前は、ジャマイカの大森林が発生させるブルーヘイズが山々を青く包むことにちなむという。
 実は、テルペンはふくいくとした森の香りの正体。香や線香にも含まれており、人の気分に安心感や清爽(せいそう)感をもたらす。
 「分け入っても分け入っても青い山」。これは放浪の俳人・種田山頭火の句。ブルーヘイズの中を彼は歩いた。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年5月29日)


2002年5月23日

花茨(はないばら、hana_ibara)

 ハナイバラ。野薔薇、野茨などとも言う。華麗な園芸種のバラも素敵だが、野道のかたわらに楚々(そそ)と咲く花茨は見飽きることがない。
 「花いばら故郷の路(みち)に似たるかな」。これは与謝蕪村の句。詩人の萩原朔太郎はその名著『郷愁の詩人与謝蕪村』において、蕪村の俳句は時間の遠いかなたにある「魂の故郷」に対する郷愁だと述べた。たしかにこの句の道のべの花茨は、そんな永遠の郷愁の香りを馥郁(ふくいく)と放っているようだ。蕪村はまた、「愁ひつつ岡にのぼれば花いばら」とも詠んだ。この「愁ひ」はやはり郷愁に通じている。
 花茨だけでなく、野いちご、虎杖(いたどり)、どくだみなどの路傍の草花の風情は、いずれも魂の故郷の気配を帯びている。なんとも懐かしい。「虎杖の花をこぼしてジャワ更紗」(久下伊功子)。友人のこんな句を思い出す。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年5月23日)


2002年5月19日

糸瓜の苗(へちまのなえ、hechima_no_nae)

 今の時期、園芸店の店頭には茄子(なす)、胡瓜(きゅうり)、トマト、糸瓜(へちま)などの苗が並んでいる。以前に「茄子苗の一本を手に乗せて買う」と詠んだが、毎年1本か2本の苗を買うのが我が家の習い。今年は糸瓜の苗を買った。西日のさす窓に這(は)わせて糸瓜の日覆いを作るつもり。
 習いと言えば、昔の初夏には苗もの売りが来たらしい。寺田寅彦の昭和10年の随筆「物売りの声」によると、長くゆるやかに引き延ばした節回しで、ナスービノーナエヤーア、キュウリノーナエヤ、トオーガン、トオーナス、トオーモローコシノーナエと売り歩いたという。「眠いようなうら悲しいようなやるせのないような、しかしまた日本の初夏の自然に特有なあらゆる美しさの夢の世界を眼前に浮かばせるような気のするものであった」とはその声にたいする寅彦の感想。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年5月22日)


2002年5月16日

青葉若葉(あおばわかば、aoba_wakaba)

 「弥生も末の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月は有明(ありあけ)にて光をさまれるものから、富士の峰幽(かす)かに見えて、上野・谷中の花の梢(こずえ)またいつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住(せんじゅ)といふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。行く春や鳥啼き魚の目は泪(なみだ)」。
 これは「おくのほそ道」の旅立ちのくだり。「弥生も末の七日」は太陽暦に換算すると5月16日。つまり、元禄2年の今日、松尾芭蕉は青葉若葉の日光街道をみちのくを目指して出発した。
 日光へ参詣(さんけい)した芭蕉は、「あらたふと青葉若葉の日の光」と詠んだ。「日の光」に東照宮の威光と初夏の陽光を掛けているが、東照宮は平和な江戸時代を開いた徳川家康を祀(まつ)る。「青葉若葉」は平和日本の象徴。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年5月16日)


2002年5月12日

祭り(まつり、matsuri)

 明日、京都は葵祭(あおいまつり)。葵祭は真夏の祇園祭と比べると地味だが、牛車を中心に薫風に吹かれて進む平安風俗の行列は、いかにも初夏らしいすがすがしさ。平安時代には単に祭りと言えばこの葵祭のことだった。
 「風流の花落ちてあり葵橋」(中川四明)。四明は明治・大正時代に活躍した京都の俳人。風流は衣服や車に花などを飾ったもの。葵祭では牛車や人々の冠にフタバアオイが飾られる。御所を出た葵祭の行列は河原町を北上し、葵橋を渡って下鴨神社に至る。
 学生時代、私は葵橋の近くに住んでいた。近所に質屋を兼ねた古書店があった。ダンボールに本を詰め、リヤカーを引いてその質屋になんども通った。アルバイトの金が入ると、またリヤカーを引いて本を請け出しに行った。葵祭が来ると、私はきまってそのリヤカーを思い出す。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年5月15日)


2002年5月9日

卯の花(うのはな、u_no_hana)

 ウノハナ。「卯の花のにおう垣根に、時鳥(ほととぎす)、はやも来鳴きて・・・」。先日、よい気分でこの歌(「夏は来ぬ」)を口ずさんでいたら、奇抜な見解でしばしば驚嘆させるわが娘が、「お父さん、時鳥って腐ったオカラが好きな鳥?」と尋ねた。たしかにオカラの別名は卯の花だ。
 佐佐木信綱が作詞したこの歌は、明治29年に登場、以来、初夏の歌として親しまれた唱歌。卯の花と時鳥は平安時代以来、初夏の風物詩であった。
 卯の花はユキノシタ科のウツギの花。白い五弁の花が清楚(せいそ)だ。旧暦4月の呼称はこの花にちなむ「卯月」「卯の花月」であったが、いつのまにか卯の花も時鳥も遠い存在になった。「夏は来ぬ」を口ずさむ人も減り、今では尾瀬の水芭蕉(ばしょう)を歌った「夏の思い出」(江間章子作詞)が初夏の代表歌になったようだ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年5月9日)


2002年5月5日

薔薇(ばら、bara)

 バラ。「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク。ナニゴトノ不思議ナケレド」。薔薇といえば北原白秋のこの短詩を思い浮かべる。薔薇の咲くことに不思議はないが、薔薇の花そのものは、そのこみいった薔薇という文字そのままに不思議。自然の神秘を感じる。
 数年前の早朝、大阪府高槻市のIさんの薔薇園を仲間と訪ねた。大学教授だったIさんは、退職後、好きだった薔薇の栽培に専念し、5月には自宅続きの薔薇園を一般に開放する。露の光る夜明けの薔薇を堪能して、お茶までいただいた。私は素直に「朝五時のひかりのままにこの薔薇は」と詠んだ。
 以来、Iさんの生き方は私の夢の一つになった。何かを育て、しかもそれを公開して楽しむ生き方は格別にぜいたく。そんなぜいたくならしてもよい。「椅子を置くや薔薇(そうび)に膝の触るる処」(正岡子規)。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年5月8日)


2002年5月2日

クサギの虫(くさぎのむし、kusagi_no_mushi)

 弟は壁をむしり取ってかじり、また燃えさしの炭を食べた。口のまわりが炭で黒くなっていた。弟にとりついた疳(かん)の虫のせいだった。
 その弟といっしょに疳薬のクサギの虫をたべさせられた。この虫は体長5センチくらい、コウモリガの幼虫だ。クサギや桐(きり)の幹にいる。串(くし)刺しにしてあぶったり、黒焼きを粉末にして食べた。
 虫は古来、不思議な力を持っていた。「日本書紀」には富士川の近くにいた大生部多(おおうべのおお)という人が、柑橘(かんきつ)類にいる虫を神として祀(まつ)った記事がある。この虫の力で金持ちになり若返るという次第。当時の新興宗教だった。古代には虫麻呂、大虫、真虫、広虫などという人もいた。いずれも虫の力にあやかろうとする名前。
 若葉などを食べる虫は、現代では嫌われがちだが、神や薬になったこともある。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年5月2日)


2002年4月28日

夏みかん(なつみかん、natsumikan)

 「夏みかんたわわに実り/橘(たちばな)の花さくなべに/とよもして啼くほととぎす」「空青し山青し海青し/日はかがやかに/南国の五月晴れこそゆたかなれ」。これは佐藤春夫の「望郷五月歌」の一部。春夫の故郷・紀州の初夏の風景だ。
 春夫の詩には「荒海の八重の潮路を運ばれて/流れよる千種百種」ともあるが、みかん類もまた、はるかな昔、海の彼方の異郷(常世(とこよ))から来たという。実際、今日の夏みかんは山口県に漂着した種が育ったものらしい。今私の机上では近所から失敬したみかんの花一枝が常世の香りを放っている。  ところで、沖縄の古語では初夏は若夏(わかなつ)。若夏の沖縄は、南風に日が輝き、デイゴ、フクギ、ゲットウ、イジュ、ハマユウなどの花が咲く。「おそるべき君等の乳房夏来る」(西東三鬼)。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年5月1日)


2002年4月25日

柿若葉(かきわかば、kakiwakaba)

 新緑がきれいだ。ことに欅(けやき)、楠(くす)、榎(えのき)などの高い木のそばは、空気も陽も梢(こずえ)のうす緑色に染まっている感じ。私がことに好きなのは柿(かき)の若葉。「柿若葉重なりもして透くみどり」(富安風生)。柿若葉を眺めていると気分がのびやかになる。
 わが家には柿が育つだけの庭がないので、毎年の柿若葉の時期には、柿の葉茶をいれたり、柿の葉ずしを買ってきたりして、柿好きの心をなだめる。「柿若葉カミさんと地図買いに出て」という句も作った。
 そんな私の目下の楽しみは、奈良県西吉野村にオープンした柿博物館を訪ねること。西吉野村は柿の産地として知られるが、日本初のその柿博物館には、敷地内に約200種の柿の木が集められているという。ちなみに、柿博物館は富有柿をひっくり返したユニークな外観だ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年4月25日)


2002年4月21日

行く春(ゆくはる、yuku_haru)

 過ぎて行く春を「行く春」と擬人化した最初は、「拾遺和歌集」にある紀貫之の歌「花もみな散りぬる宿は行く春のふる里とこそなりぬべらなれ」だという。花が散ってしまった家を行く春の古里だと見立てた歌。
 見立てと言えば、「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」という『おくの細道』冒頭の芭蕉の言葉を思い出す。芭蕉は歳月を永遠の旅人に見立て、自分もまた歳月と同様の旅人なのだと自覚していた。旅人の芭蕉は、やはり旅人の行く春に「行く春や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)」と挨拶(あいさつ)した。
 ある所でこの句を話題にしたら、行く春を惜しんで鳥は啼くが、私は足にできた魚の目が痛くて涙をこぼす、という意味ではないか、と質問された。愉快な質問だが、行く春を惜しんで魚も涙を浮かべるという見立てがこの句の面白さだろう。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年4月24日)


2002年4月18日

春雨(はるさめ、harusame)

 「春雨じゃ濡(ぬ)れて行こう」。これは月形半平太の名台詞(せりふ)。半平太は行友李風の戯曲「月形半平太」の主人公。剣のヒーローだ。新国劇の沢田正二郎が扮(ふん)して人気を博した。初演は大正8年4月、京都明治座においてであった。
 正岡子規は、「春雨の朝からショボショボと降る日はまことに静かでこ淋(さび)しい」と言っている(『墨汁一滴』)。春の雨には大雨もにわか雨もあるが、春雨という季語が指すのは、休みなく降るもの静かな雨。それだけに、ただ1人でいたりすると淋しい。
 さて、そんな春雨の日、寝たきりの病人だった子規は、あおむけになってぼんやりしていた。部屋にある張り子の動物や菅笠(すげがさ)などを見て子規は考えた。「オモチャにも古笠などにも皆足が生えて病床のぐるりを歩きだしたら面白いであろう」と。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年4月18日)


2002年4月14日

春風(はるかぜ、harukaze)

 「春風や闘志いだきて丘に立つ」は高浜虚子の代表作。新入社員や新入生、あるいはこの春に転勤した人などは、今まさにこの俳句の気分かもしれない。
 「春の風ルンルンけんけんあんぽんたん」は私の俳句。虚子の句が希望に向かって一直線、文部省推薦のまじめな青春映画のようだとしたら、私の句は落ちこぼれか不良の映画というところ。ともあれ、春風は模範生にも落ちこぼれにもともにやさしい。
 ところで、窓からそよりと入って来る春風が私は苦手。風に酔うのだ。扇風機の風も同様。風に酔うのはこっちが動かずに一方的にそよりとした風に吹かれているときだけ。カミさんなどは変な体質だと馬鹿にするが、私と同様の人はいないだろうか。こんな私も春風に吹かれて歩くときは、ルンルンけんけんあんぽんたんの気分を満喫する。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年4月17日)


2002年4月11日

通り抜け(とおりぬけ、torinuke)

 俳句の基本の技法に「取り合わせ」がある。あまり関係のない二つの物を組み合わせることだが、この取り合わせは、俳句に限らず日常生活のいろんな分野でも行われている。たとえば料理の盛り付けとか家具の配置など。夫婦や友人の関係にしても取り合わせの妙で成り立っている場合が多い。
 染井吉野が派手に散ると、関西ではその次の桜、つまり、「通り抜け」の桜が待っている。大阪の造幣局には111種、約400本の桜があり、その桜並木が一般に開放されるのが「通り抜け」。今年は4月15日から21日まで。
 それにしても、「通り抜け」とは微妙な名称だ。大量のお金をわき目にして、ただ通り抜けるだけの物足らない庶民の気分があらわ。ともあれ、造幣局と花見の取り合わせはすごい人気、今では関西の風物詩だ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年4月11日)


2002年4月7日

朧(おぼろ、oboro)

 オボロ。春の夜の万物がかすむさまを言う。南風が多量の水蒸気をもたらすと朧な春の夜となるが、見えるものだけでなく、声や音、人の心などまでが朧に感じられるのが春の夜。
 私たちの仲間に「朧の儀三武(ぎさぶ)」と呼ばれた人がいた。本名は儀三武信治。ブライダル関係の会社経営者だったが、風貌(ふうぼう)や物腰に朧の感じがあった。「春浅し致し方なく手をにぎる」「妹(いも)が手をにぎりしままに春の闇」。「朧の儀三武」はこんなちょっと甘い俳句が得意だった。
 彼は四国遍路を続けていた。数年に分けて、自分の足で札所を巡っていた。去年の春、88カ所をすべてまわり終え、大阪に戻ったその夜に卒然と逝った。
 「なで肩の妹と並んで春朧」。こんな句を残した「朧の儀三武」は、あだ名どおりに朧に化したのだろう。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年4月10日)


2002年4月4日

桜散る(さくらちる、sakura_chiru)

 三好達治は歌った。「あはれ花びらながれ/をみなごに花びらながれ/をみなごしめやかに語らひあゆみ/うららかの跫音(あしおと)空にながれ/をりふしに瞳をあげて/翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり」(「甃(いし)のうへ」)。
 花吹雪の中を歩むこんな「をみなご」(少女)にあこがれて、学生時代の落花の時期、京都の古寺を徘徊(はいかい)した。桜の散るころにはそんな思い出が蘇る。
 「花は桜木人は武士」ということわざ、また本居宣長の「しきしまの大和心を人とはば朝日ににほふ山桜ばな」という歌などにことよせて、桜はその散りぎわのいさぎよさが愛されてきた。
 だが、私は散りぎわよりも、散って花むしろになった桜、川の面に浮かんで花いかだになった桜、達治の詩の少女に踏まれる甃(いしだたみ)に散った花びらなどが好き。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年4月3日)


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