週刊:新季語拾遺 最近のバックナンバー
2002年9月29日

秋(あき、aki)

 大正元年10月2日の午後、夏目漱石は佐藤診療所を退院した。迎えに来た妻としっしょに人力車で家に帰った。漱石にはいくつかの持病があった。神経衰弱、胃潰瘍(いかいよう)、痔(じ)などだが、この度は2度目の痔の手術をし、1週間の入院をしたのだった。
 退院から3日目に診療所に行ったら、「今日は尻が当り前になりました。漸く人間並の御尻になりました」と言われた。漱石はこの医者の言葉をその日の日記に記している。よほどうれしかったのだろう。日記にはまた、診療所からの帰りに見た神社の森の紅葉、かんかんと照るまばゆい秋の日のことが書かれている。人間並の尻になった漱石には、車上から見る秋の風景がなぜか新鮮だった。そんな風景を見ながら、入院した際の自分を思い出して次のような俳句を作った。「秋風や屠(ほふ)られに行く牛の尻」。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年10月2日)


2002年9月26日

草泊まり(くさどまり、kusadomari)

 九州の阿蘇山、青森の岩木山など、火山の山麓(さんろく)に草原の広がるところでは、彼岸の後に村中総出の草刈りが行われた。その際、草刈り場に仮小屋を建てて人々は寝泊まりした。それが草泊(くさど)まり。若い男女がこの草泊まりで結ばれることも多かったという。「くれなゐの星を真近(まぢか)に草泊まり」(野見山朱鳥)。草泊まりは過去の習俗だが、この言葉はロマンティックで美しい。
 子供のころ、どこの家でも山羊(やぎ)を飼っていた。昭和20年代、牛乳の普及する前のことだ。餌の草刈りから乳しぼりまで、山羊の世話は子供の仕事であり、私はことに朝の草刈りが好きだった。草の露で手足が濡(ぬ)れる感じが好きだったのだ。「今刈りし朝草のやうな匂ひして寄り来しときに乳房とがりゐき」(河野裕子)。朝の草刈り仲間にはこんな歌のような少女もいた。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年9月26日)


2002年9月22日

秋の夕暮れ(あきのゆうぐれ、aki_no_yugure)

 「秋の日はつるべ落とし」と言うが、秋の日暮れは早く、しかもたっぷりと暗くなる。そんな秋の夕暮れには、オジサンになった今でも暗い井戸の底へつるべを落としたような不安な気分につつまれる。
 夏目漱石の「吾輩は猫である」の終わり近くに、「呑気(のんき)と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする」という言葉がある。秋の夕暮れにはしばしばこの言葉を思い出す。
 こうした気分になるせいか、秋にはさっさと寝る。晩ごはんを食べてしばらくしたらもう寝ている。ところが友人の多くは夜更かし派。君は俳人のくせに秋の夜のもののあわれを感じないのか、となじられるが、夕暮れのあわれに夜のあわれを重ねるなんていうのはたまらない。もっとも、食べてすぐ寝るからだろうか、牛のように肥えて困る。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年9月25日)


2002年9月19日

糸瓜(へちま、hechima)

 ヘチマ。「痰(たん)一斗糸瓜の水も間にあはず」「をととひのへちまの水も取らざりき」。正岡子規の絶筆となった俳句。糸瓜の水は痰切りの妙薬、ことの名月の晩に採った水は薬効がいちじるしいとされていた。子規が句を書いた2日前が名月だった。
 子規の絶筆のにはもう1句、「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」がある。これは死後の自画像。子規が亡くなったのは明治35年9月19日。窓の外の糸瓜棚には数個の糸瓜がぶら下がっていた。 
 先年、我が家のカミさんも化粧水用に糸瓜水を採った。1本の茎から1リットルは採れるはずであった。ところが名月の翌朝に見たら、ビンの底にほんの数滴。糸瓜の根の側の茎をビンに差し込むべきなのに、カミさんはその逆をしでかしたのだ。「美人になりそこねた」がカミさんの言。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年9月19日)


2002年9月15日

秋空(あきぞら、akizora)

 「秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座してゐたことがあつた」。こんなふうに始まるのは、二葉亭四迷が翻訳したツルゲーネフの小説『あひゞき』。明治21年に発表されたこの小説は、自然描写の新鮮さが多くの人に影響を与え、たとえば国木田独歩の名作『武蔵野』が生まれた。
 『あひゞき』では、雨があがって雲間からのぞいた秋空を、「澄みて怜悧(さか)し気(げ)に見える人の眼(め)」と表現している。この小説を読んで以来、私も秋空に澄んだ人の眼を感じるようになった。
 『あひゞき』は猟に来た私が若者のデートを木の間から覗(のぞ)く話。田山花袋の『蒲団』、夏目漱石の『心』などがその例だが、近代日本の小説には個人の秘密を覗こうとする傾向がある。『あひゞき』は近代の覗き見小説のはしりでもあった。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年9月18日)


2002年9月12日

老人の日(ろうじんのひ、rojin_no_hi)

 9月15日は「敬老の日」。この呼称は砂糖をまぶした感じがする。老いを率直に受け入れたり見つめたりするためにも、「老人の日」「年寄りの日」と端的に呼びたい。
 近代の自由詩や短歌は、中原中也や俵万智が代表しているように青春の詩型であった。ところが、俳句では、中年に開花し老年に独自の境地を獲得する人が多い。水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、西東三鬼なども最初の句集を出したのは30代だった。
 評論家の鶴見俊輔は、俳句を「もうろく文学」として評価している(「家の中の広場」)。もうろくして自我が砕けた老人の言葉を、俳句の形式は受け止め得るというのだ。74歳の高浜虚子は「爛々(らんらん)と昼の星見え菌(きのこ)生え」と作った。こんな不思議な時空感覚が「もうろく文学」としての俳句の味であろう。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年9月12日)


2002年9月8日

月見(つきみ、tsukimi)

 今日は立待(たちまち)月。昨日の十六夜よりも月の出が31分遅れるが、その月を立って待つという意味。明日は今日よりもさらに34分遅れの居待(いまち)月。明後日の臥待(ふしまち)月は居待月よりも39分遅れる。ともあれ、立ったり寝たりして月を待つ心は楽しい。
 わが家ではこの時期、車に蚊取り線香、懐中電灯、ビニールシート、弁当、飲料などを積み込んで郊外に出掛ける。そんなふうにして、田圃(たんぼ)のあぜ道、村の小学校の校庭、河原などで月見をしてきた。虫の声を聞きながらのこの風流、わが家では家族みんなが喜んで参加する数少ない行事だ。
 月見は平安時代の寛平・延喜のころから盛んになったという。中国の月見にならい、宴を設けて詩歌管弦が行われた。そんな雅(みやび)な月見もいいが、私はもっぱら素朴派。今年はどこかの海岸に行こうと思っている。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年9月11日)

夜遅く月見しながらうとうとと     松本 哲


2002年9月5日

いなご(いなご、inago)

 蝗、螽、稲子などと書く。江戸時代の百科事典『和漢三才図絵』には、「味甘美、小蝦(えび)のごとし」「稲もし茂盛せざれば、いなごもまた少なし。しかれば、多くありといへども、いとはざるなり」とある。
 小学生時代、学校の休み時間はいなご捕りタイムだった。捕ったいなごはフライパンで炒(いた)めて食べた。そのいなごに先日、久しぶりに出会った。場所は兵庫県山間部の無農薬の稲田。「わが袖に来てはね返る螽かな」の俳句のとおりに飛び交っていた。
 さきの句は明治27年の正岡子規のもの。当時、新聞社の窓際族になっていた子規は、毎日のように手帳と鉛筆をもって郊外にでかけ、いなごや草花などを俳句で写生した。ことにいなごは彼の失意の気持ちを癒(いや)した。子規を祖とする近代の写生俳句はいなごから始まった。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年9月5日)


2002年9月1日

残暑(ざんしょ、zansho)

 立秋以後の暑さが残暑だが、「ああ、これが残暑だあ」と実感するのは9月に入ってからのこと。それまでに秋めいた日があり、さわやかさをすでに体験しているだけに、9月に入ってからの残暑はこたえる。「小錦のだぶだぶと行く残暑かな」。これは私の句。小錦関には悪いが、私にとっての残暑は汗びっしょりの小錦がだぶだぶと歩いて行く感じなのだ。
 「朝の間はかたづいて居る残暑かな」。これは江戸時代の俳人、千代女の句。今の時期、朝は涼しいからてきぱきと片付けがすすむ。でも、残暑がきびしくなる午後には部屋はかなり乱雑になる。私の部屋などはまさにそのとおり。こんな句を見ると、江戸時代も今も人の気持ちはほとんど変わっていないと知れる。その残暑もだぶだぶと体を揺すって通り過ぎようとしている。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年9月4日)


2002年8月29日

野分(のわき、nowaki)

 ノワキ。9月1日は二百十日。いよいよ風の季節だ。
 多田道太郎は、春夏秋冬の四季のほかに梅雨と野分を加え、1年を6季に分けたほうが季節の実感にかなうと言う(『身辺の日本文化』)。梅雨と秋霖(しゅうりん・秋の長雨)を四季のほかに独立させるべきだという気象学者もいる。四季は中国伝来の季節感だが、それに梅雨や野分という日本列島の特色を加えると、季節感はたしかに実情にそう。多田の意見に賛成だ。
 野分は台風を指す古語だが、台風の襲来する晩夏から秋の一時期を野分と呼ぶようにすると、私たちの風に対する感覚が鋭く繊細になり、風という自然と共生する思想が生まれるのではないか。たとえば、9月1日から3日間続く富山県八尾(やつお)の「風の盆」は、風の神を鎮めて豊作を願う踊り。この風の盆などが野分の季節の代表的行事である。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年8月29日)


2002年8月25日

ふくべ(ふくべ、fukube)

 ふくべとは瓢箪(ひょうたん)、またはひさごのこと。正岡子規に「古池に蛙とびこむ俳画かな」という句があるが、ふくべはもっとも俳画的な植物だろう。ふくべ1つを描いて俳句を添えたら、これはもう典型的な俳画。
 昔、ふくべは酒を入れる器だった。風流な人は酒を愛したから、ふくべもまた風流なものというイメージを帯びた。酒を愛した気配のない松尾芭蕉は、ふくべを米入れにしていた。米入れとは言え、そのふくべには友人が「四山(ざん)」と名をつけた。芭蕉自身も「もの一つ瓢(ひさご)はかろきわが世かな」と詠んだ。ふくべ1つの軽さが私の生き方ですよ、という句。
 今、わが家の窓には青いふくべが垂れている。日覆に糸瓜(へちま)を植えたつもりが、実をつけたのはふくべだった。風流な風景だが、いかにも俳人の家という感じ。ちょっと照れくさい。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年8月28日)


2002年8月22日

地蔵盆(じぞうぼん、jizobon)

 お盆の精霊を送ると、こんどは地蔵盆がやってくる。8月24日が地蔵盆。
 辻や村境には侵入する悪霊悪疫を防ぐ塞(さい)の神(道祖神)がいる。その塞の神が地蔵に変形し、それまでの塞の神祭が地蔵祭に変形した。それが今日の地蔵盆らしい。
 そう言えば、四国の私の郷里では、村境に大きな草鞋(わらじ)を吊(つ)るしていた。そんな草鞋をはく巨人の塞の神が村境にいて、侵入する悪霊などを防いでいたのだ。
 地蔵祭(地蔵盆)がさかんなのは京都を中心にした関西。町内の子供が中心になって地蔵を祭る。ちなみに、各地に残る盆飯(ぼんめし)、盆竈(ぼんがま)などの子供が共同で飲食する行事(塞の神祭)が、関西では子供中心のこの地蔵盆になったらしい。
 いつも前を通る町内の地蔵は、地蔵盆を前にして1年ぶりの化粧直しがすんでいた。水引草が供えてあった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年8月22日)


2002年8月18日

秋の蚊(あきのか、aki_no_ka)

 秋の蚊には大きく分けて2種類がある。1つは立秋のころからさかんに活動しているヤブカ類。さされると痛いこのヤブカは秋の暴れ蚊とも言う。
 ヤブカはいわば秋の到来を告げる蚊だが、秋も次第におそくなると、弱々しい蚊が耳のそばに来て鳴く。これが2つ目の秋の蚊。
 ところで、夏目漱石に「叩(たた)かれて昼の蚊を吐く木魚かな」という句がある。この句、漱石の愉快な作として知られているが、実は江戸時代に「叩かれて蚊を吐く昼の木魚かな」(東柳)があった。漱石の句は東柳の句を変形しただけに見える。これは盗作だろうか。
 俳句では1字でも違えば盗作ではない、と私は考えている。要するに元の作品より優れたものであればよいのだ。漱石の友人の正岡子規には「古池に蛙とびこむ俳画かな」がある。パロディだが、見事に盗作的。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年8月21日)

音立てて秋の蚊去にし長子かも    村井秋


2002年8月15日

盆飯(ぼんめし、bommeshi)

 ボンメシ。地方によって盆竈(ぼんがま)、辻飯(つじめし)、精霊飯(しょうりょうめし)などとも言う。少年少女が河原や辻に竈(かまど)を築き、煮たきをして食べる盆の伝統的行事。
 四国の私の郷里では、近所の4、5人の子供が組になり、井戸のそばなどに小さな竈を作って煮たきした。男の子は男の子で、女の子は女の子で組を作り、米や野菜などを持ち寄った。稲の葉を数枚入れてご飯を炊くのがならわしだったが、これは豊作を願ってのことだったろう。木陰に敷いた茣蓙(ござ)の上で過ごす盆飯の行事は、今日風に言えばちょっとしたアウトドアライフ。ご飯の出来具合をのぞきに来る母などの顔が普段と違って見えたのは、こちら側の気分がいつもと違っていたせいか。
 民俗学によると、盆飯の行事は辻などで迷っている精霊にお供えをする意味があるという。子供は精霊の代理。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年8月15日)


2002年8月11日

蝮(まむし、mamushi)

 マムシ。草を分けて歩く。早朝だとズボンの裾(すそ)が露(つゆ)に濡れるが、濡れてもいいからどんどん歩く。子供のころからなぜかそんな草歩きが好きである。もっとも、今の時期は蝮に要注意だ。
 蝮は沖縄などのハブとともに日本では珍しい毒蛇。しかも、ほかの蛇とはちがって、卵ではなく数匹から10数匹の子を産む。
 毒性や変わった生態は、時に反転して聖なるものになる。蝮も生きたままを焼酎(しょうちゅう)につけた蝮酒が、強精剤などとして信仰的に愛好されている。「曇天や蝮生き居る罎の中」(芥川龍之介)。
 私も蝮の力を実感したことがある。妹がまだ若い日、草道を歩いていると、蝮にかまれてしゃがみこんでいる青年がいた。妹は救急車に乗り込んで病院まで付き添い、結局それが縁で結婚した。妹夫婦は蝮がとりもった蝮夫婦なのである。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年8月14日)


2002年8月8日

立秋(りっしゅう、risshu)

 「そよりともせいで秋たつことかいの」。江戸時代の俳人、上島鬼貫の句。『古今和歌集』の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行)を踏まえ、軽い口語調で立秋の気分を表現している。
 「ゆがんだよ雨の後ろの女郎花(おみなえし)」「にょっぽりと秋の空なる富士の山」。鬼貫はこんなふうに口語調を自在に操った。彼は芭蕉と同様に「まこと」を俳諧の根本精神とみなしたが、その「まこと」は俳諧らしい自在な表現によって実現するものだった。
 「なんで秋の来たとも見えず心から」。これも鬼貫の作。今日は立秋、暦の上では秋になったのだが、この鬼貫の句のようにたしかにまだ心から秋とは思えない。それでも、耳や目を澄ませば、風や雲や草花などはすでに秋の気配を帯びている。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年8月8日)

立秋の風するり抜け体育館    村井秋


2002年8月4日

露草(つゆくさ、tsuyukusa)

 私は昭和19年、申(さる)歳の生まれ。戦中生まれだが、戦争の記憶などはなく、戦中派とは言いがたい。そうかと言って純粋な戦後派でもない。
 こういう曖昧(あいまい)さのせいか、妙に連帯感があり、詩歌の好きな人たちで昭和19年の会(東京)、サルの会(大阪)を作っている。さきごろ、その会の会員同士が結婚した。互いの家庭を清算しての結婚だった。この話題は、金属疲労ならぬ中年疲労を生じていた会員にショックを与えた。自分たちにはまだ何かが出来るという思いをもたらしもした。「露草の忘れをりたる色に咲く」(山尾玉藻)。
 私たちに誇るものがあるとすれば、半世紀を越した半生で戦争を直接には体験しなかったこと。これを貴重な体験や財産として主張したい。朝の散歩道に咲く露草を眺めながら、私はそんなことを考えた。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年8月7日)


2002年8月1日

鬼貫忌(おにつらき、onitsuraki)

 オニツラキ。明日(8月2日)は芭蕉と同時代の俳人・上島鬼貫(うえじまおにつら)の忌日。鬼貫は「冬はまた夏がましぢやといひにけり」などという奔放な句を作った。この句、訳知り顔をして「暑い夏より冬の方がよい」と述べた人に応えたものか。「人間に知恵ほど悪い物はなし」も鬼貫の句。
 鬼貫の句では「行水の捨てどころなし虫の声」がよく知られていた。ところが、風呂(ふろ)やシャワーが普及して今や行水の習慣が廃れた。それにつれてこの句も引用の機会が急に減った。時代の変化が俳句に強く影響する一例だ。
 鬼貫は今の兵庫県伊丹市に生まれた。伊丹は酒造で栄えた町。その町には酒造業者が支援した俳諧(はいかい)学校「也雲軒(やうんけん)」があった。鬼貫もその也雲軒の出身。去年、伊丹市では町おこしの一環としてその也雲軒を再興、私が塾頭をつとめている。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年8月1日)


2002年7月28日

百日草(ひゃくにちそう、hyakunichiso)

 季語は現在、いくつかの問題をかかえている。
 まず、太陰暦から太陽暦に移行したための季節感のずれ。花火、朝顔などは秋の季語とされてきたが、現代では夏とするほうが季節感に合う。行事に多いこのずれの場合、太陽暦に統一すればことは解決する。
 次に季節感の希薄化。栽培や保存の技術が進み、野菜、果物、魚介などに季節感が希薄になった現象である。夏の季語のトマトやキュウリは今では1年中でまわっている。産物のこの混乱は、その物の旬(しゅん)をその季節と決めればよい。
 最後に国際化などに伴う新しい言葉の流入。外来の草花などの問題だが、これは時間が解決するだろう。たとえば百日草。花期が長くて種類も多いこの花は、夏の花としてすっかり定着している。だが、元々はメキシコ原産の外来の花だった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年7月31日)


2002年7月25日

猫じゃらし(ねこじゃらし、nekojarashi、)

 道端の雑草が好き。ことに猫じゃらし。風のままに揺れている素朴なしなやかさがよい。猫じゃらしは、イネ科の1年生草。えのころ草、えのこ草とも言う。「えのこ」は犬の子。その穂が子犬の尾に似ていることにちなむ名前だ。猫じゃらしは、その穂で猫をじゃれさせたことによる。えのころ草にしろ猫じゃらしにしろ、草と人(子供)との触れ合いのさまがその名前にうかがえて楽しい。
 かつて「行きさきはあの道端のねこじゃらし」と作った。芭蕉は「物いへば唇寒し秋の風」を座右の銘としたが、私にはこの猫じゃらしの句が目下の座右の銘。猫じゃらしの風情を身につけたい。
 「くるぶしに夜風の通うねこじゃらし」(月森法子)は若い友人の作。この友は猫じゃらしの中で猫じゃらしのようにそよいでいる。素敵だ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年7月25日)


2002年7月21日

暑さ(あつさ、atsusa)

 江戸時代の俳人・上島鬼貫に「冬はまた夏がましぢやといひにけり」という句がある。『仏兄七久留万(さとえななくるま)』という句集の夏の部に収められている。誰(だれ)かが「こんなに暑いと冬のほうがまだよい」と言ったのに対し、即座に俳句で応えたのがこの句。
 私なども、あまりに暑いと「まだ冬の寒さのほうがよい」と言い、冬にはまた「夏のほうがましだ」と口にするタイプ。要するに、そんな不平を口にすることで暑さや寒さをしのごうとする。
 それにしても、あまりに暑いと自分がとける気がする。そんなときに思い出すのは「声出して己れととのふ暑さかな」(山田みづえ)という俳句。この句のとおりに「暑い!」「えいっ!」などと叫ぶと、とけかかっていた自分が再び整う感じがたしかにする。この消夏法、費用がかからず、しかも効果的だ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年7月24日)


2002年7月18日

鱧の皮(はものかわ、hamo_no_kawa)

 上司小剣の「鱧(はも)の皮」は大正3年1月の「ホトトギス」に載った傑作短編小説。大阪道頓堀のうなぎ屋の主人・福造は、養子にして道楽者。今は家を出て東京に行っているが、妻のお文に金の無心をし、その手紙の末尾に好物の鱧の皮を送ってくれと書き添えた。お文は鱧の皮が好きだという福造の情にほだされる。
 さて、関西の夏料理の代表は鱧料理。骨切りにした鱧をちり、澄まし汁、てんぷらなどにする。もっとも、そんな鱧料理は今では高級料理。値段も高い。
 わが家では素焼きにして刻んだ鱧の皮を近所のスーパーで買い、もっぱら「鱧の皮のざくざく」を作る。ざくざくは胡瓜(きゅうり)もみ。鱧の皮を入れた胡瓜の酢の物だ。鱧の皮は身を上等のかまぼこなどにした余り物だから安い。「鱧の皮のざくざく」は庶民的鱧料理の逸品である。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年7月18日)


2002年7月14日

祇園祭(ぎおんまつり、gionmatsuri)

 今日は祇園祭。もっとも、八坂神社のこの祭礼は7月1日から29日まで続く長い祭だ。今日17日はそのクライマックスの山鉾(やまぼこ)巡行の日。「月鉾に上りたる子は月の御子」(後藤比奈夫)。
 この祭の期間には浴衣を着て団扇を持った女性が目立つ。ことに若い人に多く、なかには履き慣れない下駄をひきずるみっともない者もいる。
 それでも、たいていが普段と同じ洋服姿の男たちと比べると、祭の晴れ着によって普段とは違う世界へ変身できる女性の方が、もしかしたら文化度が高いのではないだろうか。
 ところで、今日の山鉾巡行の後、神輿(みこし)は四条新京極の御旅所に24日までとどまる。その御旅所へは無言で参詣すると願い事がことにかなうと言い、今でも祇園の舞妓などが無言まいりを続けているらしい。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年7月17日)


2002年7月11日

暑中見舞い(しょちゅうみまい、shochumimai)

 今年は例年になく暑い。それで数年ぶりに暑中見舞いを出すことにした。
 「炎天の遠き帆やわがこころの帆」。これは山口誓子の傑作ですが、今年の炎天下、いかがお過ごしですか。我が家はもろに炎天にさらされています。と言いますのも、家の前の工場が移転し、跡がさら地になっているのですが、そのさら地の照り返しがわが家を襲うからです。この土地、ゆくゆくは火葬場になる予定です。反対運動も力及ばず、文化施設を併合した未来型火葬場になるらしいです。ともあれ、我が家はやがて、「工場裏の坪内さん」から、「火葬場脇(わき)の坪内さん」になります。未来型火葬場予定地の照り返しを受けながら、俳句をひねったり、ビールを飲んだり。これはこれで乙な夏と言うべきでしょうか。
 以上が今年の私の暑中見舞い。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年7月11日)


2002年7月7日

炎天(えんてん、enten)

 真夏の日中のまるでもえるような空が炎天。「炎天の遠き帆やわがこころの帆」(山口誓子)は、そんな炎天をうたった近代の代表的な俳句だ。遠い帆にあこがれや夢、希望などを読むことができよう。
 炎天と言えば高校時代の一つの風景を思い出す。その日、ガールフレンドの家を訪ねるA君の介添え役として私たちは炎天の道を歩いていた。私とB君は紐(ひも)でくくった大きな西瓜(すいか)を提げていた。その西瓜はA君の家でとれたとびきり大きいものだった。目的のガールフレンドの家に近づいたとき、何かの拍子で西瓜を道に落としてしまった。「お前たちは・・・」と絶句したA君。落としたのは故意でも悪意でもなかったのだが、結局、路上に散った赤い西瓜のように、A君の恋も散ってしまった。
 「炎天に山あり山の名を知らず」は私の句。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1995年7月10日)


2002年7月4日

睡蓮(すいれん、suiren)

 睡蓮(すいれん)は好きな花だ。眺めているだけで自分の心身がきれいになる。  その睡蓮で今年はちょっと物議をかもした。「キスしましょ」という題名で雑誌に俳句を発表したところ、きまじめな俳人の反発をかったのである。
 いくつかの非難や抗議のなかに、私の父の世代の俳人から届いた長文の手紙があった。戦争で苦労し、貧しい時代を乗り越えてきたその人は、私の句に生きることの切実さが感じられないと言う。
 問題の句は「睡蓮へちょっと寄りましょキスしましょ」。日常語を用いた軽い調子の句だが、この調子は、睡蓮を通して心身のこわばりをほぐした結果。そんなほぐれた心身を確保しないと、生きることの切実さに深く触れることができないと私は思うのだが。この睡蓮事件、尾を引きそうだ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1994年7月4日)


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