週刊:新季語拾遺 最近のバックナンバー
2003年6月29日

鴨足草(ゆきのした、yukinoshita)

 今回の鴨足草の読み方、わかるだろうか。以前、10年くらい前のことだが、講演の中でこの鴨足草の出る文章を紹介した。カモアシソウと読んだ。老年の女性が手を挙げて、「先生、カモアシソウでいいのでしょうか」と言ったので、「いいでしょ。これ、季語で、俳句によく出てきます」と強引に押し切った。帰ってからそのやりとりが気になり、辞書で確かめた。確かに季語ではあるが、なんと読み方はユキノシタ。今でもそのやりとりを思い出すと冷や汗が出る。
こんなこともあった。ある句会に金亀子という言葉を用いた句が出た。読み方を聞かれた人が、「キンカメコ、金属製のタワシでしょ、多分」と答えた。私はコガネムシと読むと知っていたので、この場合は思わずふきだしてしまった。ともあれ、鴨足草や金亀子の季節だ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年7月1日)


2003年6月26日

明かり色(あかりいろ、akari_iro)

 明かり色とは、かつての松明(たいまつ)、行灯(あんどん)、ぼんぼり、提灯(ちょうちん)の火の色、つまり橙(だいだい)色である。
明かり色という色名は国語辞典には出ていない。私はこの名前を『京の色』(光村推古書院)という本で知った。この本は青竹色、京紫、朽葉色、香色など約30の色から京都をとらえようとしたもの。それぞれの色は京都の植物、建築物などの写真で示されており、明かり色の写真は祇園の茶屋の門灯など。
さらに『京の色』によると、明かり色は日没の太陽の色に近く、人の肌を美しく見せ、安らいだ雰囲気をもたらすという。また、昔はこの色に悪魔払いや清めの意味もあったという。その明かり色がことに映えるのは夏の夜ではないだろうか。線香花火のはぜる火、祇園祭の提灯などは現代の明かり色だ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年6月30日)


2003年6月22日

梅雨の蛙(つゆのかえる、tsuyu_no_kaeru)

 小学校の5年生の時だった。好きだった女の子の長靴に蛙(かえる)を数匹入れた。踏んづけた女の子は泣いた。先生は、誰が入れたのかとクラスのみんなを問い詰めたが、私は名乗り出なかった。50代の今になってもちょっと胸が痛い。
 そのころ、小さな蛙が至る所で跳ねていた。小学校は水田に囲まれていたので、ことに蛙が多く、梅雨の時期にドアを開けておくと教室にまで跳びこんできた。秋にはイナゴが蛙と同じ状態になった。
 「蛙が殺された、子供がまるくなつて手をあげた、みんないつしよに、かわゆらしい、血だらけの手をあげた、月が出た、丘の上に人が立つてゐる。帽子の下に顔がある。」これは萩原朔太郎の詩「蛙の死」。私たちもたくさんの蛙を殺した。そのせいだろうか、時々、寝ている私の腹の上で蛙の踊る夢を見る。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年6月24日)


2003年6月19日

独歩忌(どっぽき、doppoki)

 今日は国木田独歩の命日。独歩は『武蔵野』『春の鳥』『忘れえぬ人々』などの名品を残し、明治41年6月23日に死去した。37歳だった。
『武蔵野』は生活と自然が密接した武蔵野、つまり東京近郊の落葉林の美しさを発見した誌的な散文。そこでは武蔵野の夏が以下のように描かれている。「林という林、梢(こずえ)という梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに溶けて、まどろんで、なまけて、うつらうつらとして酔っている」。
次に引くのは『武蔵野』のさわりの部分。「もし君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、畑のまん中にいる農夫にききたまえ。農夫が四十以上の人であったら、大声をあげて尋ねてみたまえ。驚いてこなたを向き、大声で教えてくれるだろう」。以下、もし少女であったら・・・、もし若者であったら・・・と続く。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年6月23日)


2003年6月15日

汗(あせ、ase)

 以前に「木の下のあいつ、あいつの汗が好き」という俳句を作った(句集『百年の家』)。少女か娘の気分になって作ったのだが、ちょっと同性愛的な雰囲気もありますね、と評した人がいる。まあ、どのように読んでもらってもよいが、要するに私は汗が好き。全身から滝のように流れる汗は気持ちがいいし、人の額などに汗が光るようすなども大好き。
 ところが、近年はさほど汗をかかない。つい先日、若い同僚とタイ料理を食べにいったら、彼らはまさに滝のように汗をながし、暑いと辛いを連発した。ところが、同じものを食べながらも50代の私などは単に辛いだけ。体の新陳代謝の機能が弱ったのだろう。
 「汗水は暑さより湧く湯玉かな」は近世の俳人・季吟の作。人の体ではなく、自然現象の暑さから汗が出るのだというひねった見方が面白い。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年6月17日)


2003年6月12日

金魚玉(きんぎょだま、kingyodama)

 正岡子規は明治35年秋に死去するが、亡くなる前2年間はことに悲惨だった。結核菌が骨を腐らせるカリエスが悪化、寝たきりになっていた。詩歌を作るのも文章を書くのも、そして食事も排泄(はいせつ)も寝たままでした。体を動かすことも困難で、天井から垂らした紐(ひも)、あるいは蒲団の外の畳に結んだ紐の輪をにぎってわずかに動いた。
そんな子規の楽しみの1つは、枕もとに置いた季節の風物や草花だった。明治34年の随筆『墨汁一滴』には、たとえば次の記事がある。「ガラス玉に金魚を10ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛みをこらえながら病床からつくづく見て居る。痛いことも痛いが綺麗(きれい)なことも綺麗じゃ」。
金魚が実にきれいに見える文章だ。丸い金魚鉢(金魚玉)はガラスが安くなった明治時代に普及した夏の風物。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年6月16日)


2003年6月8日

端居(はしい、hashii)

 端居はハシイ、夏の夕方などに涼を求めて縁側などにいることを言う。
 先週、蟻(あり)に陰茎をかまれた南方熊楠の話をしたが、大正2年の新聞に出たその話(「田辺通信」)はまだ続く。彼は再びかまれたのだ。「前文発送後、深夜、縁側で読書しおると、また蟻に酷(ひど)く陰嚢(いんのう)を二度まで咬(か)まれた。今度は砂糖を塗らず、しかも浴湯後だった」と熊楠は書いている。熊楠の妻は、あなたの特別に大きな嚢に圧された蟻が苦しくてかんだのだろう、と言った。浴湯後、縁側で端居する熊楠夫妻のようすが目に浮かぶ。
 ところで、先日、「男根の立つはわがまま若葉時」という俳句を新聞にのせたら、女子大時代のまだ若い教え子から、おかしくて大好き、仕事中も思い出してクックッと笑っています、と葉書が来た。その素敵な葉書を手に私もクックッと笑った。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年6月10日)


2003年6月5日

水無月(みなづき、minaduki)

 水無月(みなづき)は陰暦6月の呼称だが、ここでの水無月は菓子の名前。6月の京都ではういろうに小豆を散らしたその水無月を食べるならわし。
水無月という菓子は江戸時代の京都ですでに作られていたようだが、なぜそれが6月の菓子であるかについてはいくつかの説がある。その1つは、盛夏に朝廷へ奉っていた氷室(ひむろ)の氷の形を模したというもの。2つ目は、夏越(なごし)の祓(はら)い(6月の晦日)に食べ、半年間の邪気やけがれをはらったという説。
近年、京都の文書家、駒敏郎は第3の説を出した(『誤解される京都』本阿弥書店)。土用の丑(うし)の鰻、関西の節分の巻き寿司などと同様に、商才にたけた菓子屋が戦略的に売り出したというもの。私はこの菓子屋陰謀説に賛成。陰謀と知って食べるちょっとした心の余裕がまさに水無月のほどよい甘さだ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年6月9日)


2003年6月1日

蟻の道(ありのみち、ari_no_michi)

 「梅雨晴れやところどころに蟻の道」は正岡子規の俳句。梅雨晴れ、つまり梅雨の晴れ間にはこの句のような光景をよく見かける。蟻の道は蟻の行列。
蟻といえば、子規と同年生まれの南方熊楠を連想する。民俗学から菌類の研究まで、博学多才ぶりを発揮した学者。その熊楠が和歌山県田辺市の自宅の庭でオニゲナという珍しい菌の研究をしていたところ、陰茎を蟻にかまれ、体のあちこちが腫(は)れた。そこで、古今東西の蟻に陰茎をかまれた例を文献で調べ、それからその蟻を特定する研究を開始した。砂糖や鶏の煮汁を陰茎に塗り、そこをかませようと庭にうずくまったのである。かませる場所が場所だけに妻が必死にとめた(と熊楠は書いている)が、なに、学問のためだと1カ月続けた。だが、蟻は来ず、かゆいばかり。学問的大発見はついにならなかった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年6月3日)


2003年5月29日

鮎(あゆ、ayu)

 6月に入ると各地の河川の鮎漁が解禁になる。
鮎の旬は7〜8月だが、それ以前の若鮎はことに香気が高く、まさに別名の香魚(こうぎょ)そのもの。
私は海辺育ち。そのために川や池、沼などのことに疎い。この春、ため池がたくさん残っている地域に移住し、ため池の風景に驚いている。池畔の植物や動物がまず珍しく、それに早朝から老若の釣り人が来ていることも驚き。若い人はブラックバスを、年配の人は鮒(ふな)などを釣っている。
こうしたことがあって、以前から関心のあった鮎が、今年は特に気になっている。鮎は川で生まれ、海で育ち、また川に戻る遡河魚(そかぎょ)。その生活圏の広さにまず関心がある。それに、交友でも食べ物でもさっぱりした感じが好きな私は、鮎の味と香りが大好き。今年は各地の鮎を食べ、鮎の俳句をたくさん作るつもり。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年6月2日)


2003年5月25日

ビヤホール(びやほーる、biyahoru)

 正岡子規に「病牀(びょうしょう)六尺」という随筆集がある。明治35年、モルヒネで痛みを抑えていた重病人の子規は、日々の感想などを短い文章にして新聞に連載した。それが「病牀六尺」。
 「病牀六尺」5月26日の記事は、一昨年以来まったく外出ができなくなったことにふれ、日々に変化する東京の「ちょっと見たいと思ふ物」を以下のように列挙している。活動写真。自転車の競走及び曲乗り。動物園の獅子及び駝鳥。浅草水族館。浅草花屋敷の狒々(ひひ)及び獺(かわうそ)。見附の取除け跡。丸の内の楠公の像。自働電話及び紅色郵便箱。ビヤホール。女剣舞及び洋式演劇。鰕茶袴(えびちゃばかま)の運動会。
 こういうものが明治35年初夏の東京の話題だった。ビヤホールは3年前に開業していたが、ビールがのどを通る感触を子規に体験させたかった。彼はどんな感想を記しただろう。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年5月27日)


2003年5月22日

卯の花腐し(うのはなくたし、うのはなくだし、unohana_kutashi、unohana_kudashi)

 ウノハナクダシ、またはウノハナクタシ。卯の花の咲くころに降る長雨。折からの卯の花を腐らせるかのように長く降る。今は走り梅雨とも言うが、卯の花腐しの方が情緒に富む感じ。
卯の花腐しは実に古い言葉だ。「万葉集」巻10に「春されば卯の花ぐたしわが越えし妹が垣まは荒れにけるかも」という歌がある。
もっともこの歌の「卯の花ぐたし」は、卯の花をいためて、という意味。垣根の卯の花をいためて恋人の元へ通ったが、今ではその垣根がすっかり荒れている、というのである。恋がさめたのだ。ともあれ、卯の花をいためて、という古語を、雨の名前に転じて興じたのがこの季語。
ところで、今の時期、生け垣がとてもきれい。私が好きなのは蔓(つる)バラ、カラタチ、そしてウバメガシの垣根。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年5月26日)


2003年5月18日

新茶(しんちゃ、shincha)

 以前、静岡の大学へ集中講義に行った際、休憩時間に学生がお茶をいれてくれた。窓からは富士山が見えた。その折のお茶のおいしかったこと。しかも名物のあべかわ餅があり、甘党の私はすっかり満足し、甘党にしてお茶派という気分になった。
 それで静岡のお茶を買って家に帰ったが、家で飲むとなぜかうまくない。私はまた元のコーヒー派に戻ってしまった。
 関西の茶所といえば宇治。宇治市が出している紫式部賞の選考を手伝っているため、年に何度か宇治へ行くが、そのときにいただくお茶と茶団子は最高だ。それで、やはり、宇治茶をもとめて戻るが、家で飲むともう一つ。
 お茶って、水や空気が味に影響するのだろう。えっ? 坪内さんの場合はあべかわ餅や茶団子の影響だろう、って。ともあれ、新茶の季節だ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年5月20日)


2003年5月15日

草刈り(くさかり、kusakari)

 早朝に犬をつれて散歩する。このところ、その散歩の道や空き地の草が刈られ、刈り草特有のちょっと甘い匂(にお)いを発散している。
 刈り草というと、「今刈りし朝草のやうな匂ひして寄り来しときに乳房とがりゐき」という短歌を思い出す。現代を代表する歌人、河野裕子の初期の歌。かつて牛馬の飼料や堆肥にするために草を刈った。その草刈りは草が露に濡れて刈りやすい早朝の仕事だった。以上のような草刈りが河野の初々しい恋の歌の背景。
 ところで、私の勤務する京都教育大学では、年に2度、教職員と学生が総出でキャンパスの草刈りをする。乏しい予算をカバーするために始まった草刈りだが、今では予算のことなどを忘れ、みんなが半日の草刈りを楽しむ。今年も間もなくその草刈りの日がやって来る。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年5月19日)


2003年5月11日

卯の花と時鳥(うのはなとほととぎす、unohana to hototogisu)

 「卯(う)の花の匂う垣根に 時鳥 早も来鳴きて 忍び音もらす 夏は来ぬ」。明治の歌人・佐佐木信綱の「夏は来ぬ」の第一連。夏はかつて卯の花に来る時鳥からはじまった。
 明治22年5月、22歳の正岡常規は突然に喀血(かっけつ)し、「卯の花をめがけてきたか時鳥」「卯の花の散るまで鳴くか子規」などという俳句を作った。子規は時鳥の別字。卯の花に卯年生まれの自分を、時鳥に結核を掛けている。当時、時鳥は、その鳴くようすが「啼いて血を吐く時鳥」とたとえられ、不治の病と考えられていた結核の代名詞になっていた。以来、彼は子規と名乗る。
 今日、卯の花も時鳥もなじみが薄くなっている。現代人は何によって夏の訪れを感じているのだろうか。私は仕事部屋の窓を覆う金木犀(きんもくせい)の新緑。そしてその下で飲む生ビール。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年5月13日)


2003年5月8日

苺つなぎ(いちごつなぎ、ichigo_tsunagi)

 俳句を作るためにどこかへでかけることを吟行と言う。先日、道端の雑草へ吟行をした。 兵庫県伊丹市に柿衛(かきもり)文庫という俳諧資料館がある。上島鬼貫を中心にしたコレクションで知られるが、鬼貫は青年時代に也雲軒(やうんけん)という俳諧塾で学んだ。先年、柿衛文庫ではその也雲軒を再興、請われて私が塾頭になった。雑草吟行はその也雲軒の行事。
 いくつかの草の名を覚えることが吟行の課題だったが、「雀のえんどう」「苺(いちご)つなぎ」「米粒詰め草」「春の野芥子(のげし)」などを私は覚えた。ことに気に入ったのは、子供が摘んだ苺をその茎に刺したというイネ科の「苺つなぎ」。そして、小さな莢(さや)に2粒の実が入った「雀のえんどう」。私は「道それて苺つなぎをきゅっと抜く」「朝9時の雀のえんどう下さいな」と作った。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年5月12日)


2003年5月1日

雉(きじ、kiji)

 キジ。雉子とも書き、古くは「きぎす」「きぎし」などと呼んだ。雉は日本特産で、本州、四国、九州にいる。1947年に国鳥に指定された。
 「春の野に何よけんけん雉子の声」(西山宗因)という句があるが、雉はケン・ケーンと二声にかん高く鳴く。その声は実に特徴的。まさに「雉も鳴かずば打たれまい」ということわざの通り。もっとも、その声はオスがメスを呼ぶ妻恋いの声。つまり、ラブコールだ。
 小学生のころ、雑木林のはずれの草むらで、深緑色の光り輝く雉に不意に出会った。どきっとして胸が高鳴った。雉は高く鳴いて飛び立ったが、その時、自然界の秘密に出会ったような気がし、その気分は今なお続いている。後に、「人麻呂の手紙か朝の畦(あぜ)の雉」という俳句を作ったが、この俳句の元になったのも、雉とのあの不意の出会い。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年4月28日)


2003年4月24日

春の土(はるのつち、haru_no_tsuchi)

 3月の末に引越しをした。市内を5キロばかり動いただけだが、昔のままに農村風景が残っていて、空では雲雀(ひばり)がさえずり、雑木林では雉(きじ)が鳴く。幼児期を過ごした環境に似ているせいか、なんだかうれしくて、早起きをして犬といっしょにあたりを歩きまわっている。
 その朝の散歩の折、道端の菫(すみれ)や薊(あざみ)を素手で掘って持ち帰り、庭に移植した。ところが、爪は割れるわ、爪の間に土が入って取れなくなるわで、今もって手は惨憺たるありさま。
 中学時代に覚えた島崎藤村の言葉がある。「素人は土を見ると直(す)ぐに手を使いたがる。百姓は手を大事にして鍬(くわ)や鋤(すき)を働かせる。ほんとうの百姓のみが土の恐ろしさを知って居るのだ」。この言葉を覚えたころ、私は庭に花壇を作っていた。土いじりが趣味の変な中学生だった。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年4月21日)


2003年4月20日

遍路(へんろ、henro)

 その女性は四国88カ所を巡っている。何回かに分け、徒歩で巡っているのだが、仲間と巡礼をはじめてから、店の経営が軌道にのり、そのうえ再婚もし、いいことずくめ。「四国は人もお日様も笑ってるのよ」と彼女は言う。友人のそんな話を聞いていると、遍路に出かけた気になった。春は遍路の季節だ。
 明治のころ、嫁入り前の女性は、世間を知るために、仲間と連れ立って四国遍路に出た。そういう話が宮本常一の「女の世間」という聞き書きにある(岩波文庫『忘れられた日本人』所収)。その聞き書きにはまた、遍路の途中でもらいものをして、家に帰りついたら所持金が倍に増えていたとか、四国の貧しい家の子供をもらって帰ったとかいう話がある。
 信仰と同時に人生修行でもあった遍路。そんな遍路の道はいま春風の中。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年4月22日)


2003年4月17日

春昼(しゅんちゅう、shunchu)

 春昼(しゅんちゅう)は春たけなわのころの昼間。「春の昼」とも言う。明るく、あたたかく、のどか、そしてとても眠いのが春昼。そんな春昼には憂いや倦怠(けんたい)が生じ、また、中村草田男の次の俳句のような妙な気分にもなる。「妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る」。余談だが、山口誓子には「妻ゐねば松葉を燃やす春の昼」がある。松葉を燃やすほかない男はわびしい。
 春昼は大正時代から使われるようになった新しい季語。それ以前の春昼に近い季語は春日(はるび)か。もっとも、春昼は昼間という独特の時間に、春日は春の日光に中心がある。
 春日と言えば、「うらうらに照れる春日に雲雀あがり心かなしもひとりし思(も)へば」という「万葉集」の大伴家持の歌を思い出す。春日の雲雀の声は明るいが、明るいだけに逆に人の心に孤独感を生じさせるのだ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年4月14日)


2003年4月13日

筍と若布のたいたん(たけのことわかめのたいたん、takenoko_to_wakame_no_taitan)

 筍(たけのこ)は夏の、若布(わかめ)は春の季語。しかし、筍は今では春の季節感が強い。その筍と若布を炊き合わせたものが「筍と若布のたいたん」。「たいたん」とは炊いたものという意味の関西言葉。私は、食堂や飲み屋に「筍と若布のたいたん」とか、「筍とわらびのたいたん」なんていうメニューがあると、それだけで素敵な店を発見した気分になる。
 筍も若布も好物だが、それ以上に「たいたん」という関西言葉が好きなのだ。ことに女性がやわらかい口調で「たいたん」と発音すると、筍と若布のうまみが互いにとけあって、えもいえぬ香りまでがたちこめる感じ。「たいたん」は極上の関西言葉。
 「波止に向く一膳めし屋若布干す」(南上加代子)という俳句があるが、こんな一膳めし屋にはきっと「筍と若布のたいたん」があるだろうな。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年4月15日)


2003年4月10日

蛙の目借り時(かわずのめかりどき、kawazu_no_mekaridoki)

 カワズノメカリドキ。省略して「目借り時」とも言う。春もたけなわになると、人はしきりに眠りを催す。いわゆる春眠だが、その春眠を催す時候、またはひどく眠い春の夜が蛙の目借り時。
 民俗学的な理解では、「めかる」は「妻(め)狩る」、すなわち配偶者を求めることであり、蛙が相手を求めてしきりに鳴く時期が「蛙の妻狩り時」。
 その「妻狩り時」を、「目借り時」と読み替え、眠いのは蛙に目を借りられるためだ、としゃれた時、この季語が誕生した。江戸時代初期の『醒酔笑』に、座頭がよく眠るので大名がそのわけを尋ねると、「昔より春は蛙が目をかりると申し伝へて候」と応える話がある。この季語の誕生を示す話だ。
 このところ、私は蛙に目を借りられっぱなし。いつでもどこでも眠い、眠い。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年4月7日)


2003年4月6日

花明かり(はなあかり、hana_akari)

 花明かりとは、桜の花のあたりが夜でも明るく感じられること、または、桜が闇の中でもほのかに明るく見えること。
 司馬遼太郎の『燃えよ剣』にこの花明かりという言葉の見事な使用例がある。 「新選組が誕生した。
――壬生郷(みぶごう)八木源之丞屋敷の門に、山南敬助の筆(て)による『新選組宿』の大札がかかげられたのは、文久三年三月十三日のことである。京は、春のたけなわであった。この宿陣からほど遠くない坊城通四条の角にある元祇園社(もとぎおんしゃ)の境内の桜が、満開になっている。  きのう今日、壬生界隈(かいわい)は、花あかりがした。」
 土方歳三や沖田総司が、まるで花明かりそのもののように目に浮かぶ。もっとも、この後に「が、歳三の顔だけは明るくない」とある。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年4月8日)


2003年4月3日

囀り(さえずり、saezuri)

 「囀(さえず)りに耳の大きな道祖神」(山田弘子)。囀りは繁殖期の小鳥の鳴き方。人間にたとえれば恋人たちの歌だ。この俳句、そんな歌に道端の道祖神が聞き惚(ほ)れているさま。
 小鳥たちは吸う息と吐く息の両方で鳴くことが出来るらしい。鶯(うぐいす)のホーホケキョだと、ホーを吐く息で、ホケキョは吸う息で出すという次第。私たちは吐く息だけで音を出す。
 このように二つの息で音を出すことが出来るため、飛びながら鳴くという器用な事も可能になる。空の一点にとどまって囀る揚雲雀(あげひばり)がその端的な例。雲雀は空にとどまるために羽を上下に激しく動かしている。つまり、激烈な運動をしながら囀っているのだ。夏目漱石はそんな鳴き方を、「雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体で鳴くのだ」(『草枕』)と評した。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年3月31日)


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