週刊:新季語拾遺 バックナンバー
2003年12月28日

冬の夜(ふゆのよる、fuyu_no_yoru)

 寺田寅彦の随筆「追憶の冬夜」に「神鳴り」という遊びが回想されている。車座になって何か1つの品物、たとえば茶碗(わん)を順々に手渡してゆく。部屋の外では雷神になった1人が雷の真似をする。雷鳴をとどろかせ、最後に戸などを叩いてドーンと落雷する。その落雷したとき、不運にも手に茶碗を持っていた者が罰をうけて何かをするという遊び。こたつを囲んだいかにも冬の夜らしい遊びだ。
 「人間の海鼠(なまこ)となりて冬籠(ふゆごも)る」「先生の銭かぞへゐる霜夜かな」「哲学も科学も寒き嚔(くさめ)かな」。これらは寅彦の俳句。いずれも自画像だろう。寅彦は漱石に学んで俳句を作り、また随筆家として知られた。日本の代表的物理学者でもあった。この12月からその寅彦の新しい全集(岩波書店)が出始めた。私は冬の夜を寅彦を読んで楽しんでいる。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年12月16日)


2003年12月21日

柚子湯(ゆずゆ、yuzu_yu)

 酒席の話題が少年時代の風呂に及んだ。「近所で順番にたてた。2、3家族10人くらいが入ったな。最後の方だと湯が少なく、色も黒くなっていた」。「その湯を捨てないで、また水をたして沸かしたね。1週間くらい湯をかえなかった」。「きれいに洗うというよりも、体を暖めていたのかなあ。あのころの風呂は」。私たちが話題にしたのは昭和30年前後の風呂。当時、私などは風呂の焚(た)き口にすわって漫画を読みながら火の番をした。
 さて、今日は冬至。柚子(ゆず)湯をたてる日だ。柚子湯に入ると無病息災でいられるという。ちなみに、わが家はいつからか柚子湯ではなく蜜柑(みかん)湯。カミさんの実家が蜜柑農家なので、蜜柑湯をたてて消費拡大にささやかな協力をしているのだ。今年は蜜柑が豊作で安い。わが家の風呂には大量の蜜柑が浮かぶだろう。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年12月22日)

ひとつとて同じ面なき柚子湯かな 坂石佳音


2003年12月14日

闇汁(やみじる、yamijiru)

 近くの俳句仲間と忘年会を催す。今年の趣向は闇汁(やみじる)。参加者がそれぞれに食べ物を持ち寄り、互いに隠して鍋に入れて煮る。この闇汁、食べる段になって、何が出てくるんだろうという楽しみがある。というわけで、目下の私は何を入れようかと思案中。
 明治時代、闇汁に興奮した俳句の先輩たちがいる。正岡子規とその仲間。彼らは明治32年に闇汁会を催した。子規はそのようすを「闇汁図解」というエッセイにまとめ、同年の雑誌「ホトトギス」に発表した。子規は豚、高浜虚子は大福餅、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)は柚子、坂本四方太は里芋に蓮根、石井露月は南瓜、大谷繞石(じょうせき)は竹輪や蕪(かぶ)を入れた。「闇汁や芋蕪アンド、ソー、フォース」はその日のようすを詠んだ繞石の俳句。英語まで入れて闇汁の弾む気分を伝えている。さて、私たちの闇汁からは何が出てくるんだろう。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年12月15日)


2003年12月11日

ガラス戸(がらすど、garasudo)

 防寒、採光の役目をする障子は冬の季語。とすると、障子の紙がガラスに替わった近代のガラス戸も冬の季語とすべきではないか。
 いちはやくガラス戸を楽しんだガラス戸派は正岡子規。寝たきりの病人だった子規は、明治32年12月に病室の障子をガラス戸に替え、明るさや暖かさ、ガラス越しの風景を楽しんだ。「冬ごもる病の床のガラス戸の曇りぬぐへば足袋干せる見ゆ」という歌があるように、曇りをぬぐうと足袋が見えることさえが新鮮な体験だった。
 ところで、今日12月9日は子規の親友だった夏目漱石の忌日。漱石は亡くなる前年の大正4年に長編随筆「硝子(ガラス)戸の中(うち)」を書いた。「硝子戸の中から外を見渡すと」と書き起こし、硝子戸の内(書斎)にこもった日々の出来事、心境などを綴(つづ)った。彼もまたガラス戸派だった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年12月9日)


2003年12月7日

大根(だいこん、daikon)

 大根畑のきれいなこと! 勢いのある葉が青々と茂っており、大地の瑞々しい生命が噴き出した感じ。というように書くと、「まあ、おおげさな」と言われそうだが、夜明けの大根畑はほんとうに生き生きとしている。黙って1本失敬したいくらい。
 「畑大根皆肩出して月浴びぬ」は川端茅舎の俳句。以前はきれいすぎる俳句だと思っていたが、犬を連れて大根畑のまわりを歩くようになったこの冬、茅舎の句にもあらためて感動している。
 ところで、京都の千本釈迦堂や了徳寺では12月に「大根焚(だいこた)き」が行われる。とりわけ、9、10日の了徳寺のそれは「鳴滝の大根焚き」と呼ばれて有名。大釜で煮た約3500本の大根が参詣者にふるまわれる。その大根は中風除けになるという。この信仰、畑の大根の瑞々しさに発しているのだろう。(坪内稔典)
 (毎日新聞・新季語拾遺/1997年12月8日)  

くらわんか大根ほこと割れにけり     坂石佳音


2003年11月30日

師走(しわす、shiwasu)

 師走は陰暦12月の異称だったが、今では陽暦12月の異称としても定着した感じ。先生も走る、という漢字の意味が12月という月のあわただしさによく合っているからだろうか。
 もっとも、語源説によると、経をあげるために師僧が東西を馳せる月であり(『奥義抄』など)、また、四季や年が果てるシハツ、トシハツなどにもとづくという。江戸時代の大学者、契沖は、「セハシ」から生じた言葉だとみなした(『万葉代匠記』)。先生も走るという意味ではなかった。
 ところで、私は先日、「心とは火の崩れた字落ち葉焚(た)く」と作った。あぜ道の焚き火にあたり、心身がとろけていたとき、ふと、心という文字は火が崩れた字だ、と思った。実際は心は心臓の、火は炎の象形だが。ともあれ、忙しければいっそう、ときに存分にとろけたい。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年12月1日)


2003年11月27日

落ち葉焚き(おちばたき、ochiba_taki)

 子供のころ、焚(た)き火だ、焚き火だ、落ち葉焚き・・・と歌ったものだが、最近はその歌をあまり聞かなくなった。日本全国が都市化して焚き火をする場所がなくなったせいか。火災防止のうえからも落ち葉焚きは歓迎されないのだろう。
 だとしたら、畑の畦(あぜ)とか林のはずれなどに出掛けて思う存分に落ち葉焚きをしたら、と思いついた。それで「落ち葉焚き吟行」をしませんか、と仲間に呼びかけている。焚きをして同時に俳句も作ろうという次第。
 たちまち参加希望者が名乗りをあげ、焼き芋もしよう、紅葉を焚いて酒も暖めよう、猪鍋もしよう・・・などと計画がふくらんでいる。焚き火を世話してくれる友人のいる村まで、列車に乗ってみんなでわいわいとでかけるのだが、その列車を落ち葉焚き列車と呼ぶことにした。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年11月18日)


2003年11月20日

葱(ねぎ、negi)

 中国山地の山あいの町、兵庫県朝来(あさご)町は岩津葱(いわつねぎ)の産地。朝来町役場でもらったパンフレットによると、岩津葱、博多の万能(ばんのう)葱、群馬の下仁田(しもにた)葱を日本の三大葱と呼ぶそうだ。
 「葱買うて枯れ木の中を帰りけり」は蕪村の俳句。枯れ木立と青々とした葱の対象があざやか。この旬の葱は葉も食べる葉葱(はねぎ)だろう。葉葱は関西人の好む葱で、京都産の九条葱が有名。先年、私も京都の葱畑を歩き、「羅生門過ぎて南へ葱畑」と作った。私としては日本三大葱に九条葱を加えたい。
 葉葱に対して、いわゆる白根を食べるのが根深(ねぶか)。根深は関東で人気があり、品種としては東京の千住(せんじゅ)葱が古くから有名だ。
 岩津葱は葉葱と根深を兼ねた葱。土地の人の話だと、葱畑に霜が降りた後、あの葱特有のヌルヌルが増え、葱がほんとうにうまくなるという。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年11月18日)


2003年11月16日

小春(こはる、koharu)

 小春(こはる)は陰暦10月の異称。今年、陰暦10月は太陽暦の10月31日から始まっており、今はまさに小春。その小春のうららかな日和が小春日和。
 小春のはじめ、夏目漱石の名作『草枕』の温泉をたずねた。熊本県玉名郡の小天(おあま)温泉。もっとも、『草枕』には「那古井(なこい)の温泉場」とあり、その温泉場のヒントになったのがこの小天温泉だ。
 小天温泉は今では廃業しており、廃屋同然の湯壺のある小屋が残っているのみ。それでも、「三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る」という「那古井の温泉場」の面影はとどめている。
 さて、温泉場のそばに大きな柿の木があり、次郎柿に似た実をつけていた。頼んでわけてもらった。小春と呼ぶ柿だという。小春日和の道を私はてのひらに小春をのせて歩いた。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年11月17日)

小春日や一つ覚えの課題曲     坂石佳音


2003年11月13日

堂上蜂屋(どうじょうはちや、dojohachiya)

 甲州百目(ひゃくめ)、平核無(ひらたねなし)、四ツ溝、堂上蜂屋(どうじょうはちや)、新平、大和、横野、西条、祇園坊、会津身不知(みしらず)、愛宕、葉隠(はがくし)・・・。これらは渋柿の名前。熟柿にしたり干し柿にして食べる柿だ。
 柿は約900種が日本にあるという。そのすべてに会いたいというのが柿好きの私の願いだが、今年は堂上蜂屋とことになじみになった。この柿、九州から東北までに広がっている代表的な干し柿用の柿。大型で美味のこの柿の原産地は岐阜県美濃加茂市の蜂屋。
 美濃加茂市は実は坪内逍遙の出身地。逍遙と私にはどんな関係もないが、たまたま同姓ということで祖父のような親しみを一方的に感じてきた。
 その逍遙もやはり柿好き。晩年を過ごした熱海の別荘を双柿(そうし)舎と名付け、また逍遙という雅号とは別に柿双(しそう)とも名乗ったのだった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年11月11日)

あめ色の堂上蜂屋雲越えて  楠本圭子


2003年11月6日

時雨(しぐれ、shigure)

 「しぐるるや田のあらかぶの黒むほど」は芭蕉の句。あらかぶは刈り取って間のない稲の刈り株。その刈り株が時雨に濡れて黒ずんだ光景を詠んでいるが、時雨とはこの程度の雨だよ、という芭蕉の判断が下されてもいる。
 冬の季節風が連峰に突きあたって吹き上がると、空気が冷えて雲になり、にわかに雨を降らせる。それが時雨。降る範囲がきわめて狭く、山に近い京都のような地形のところに多い。初冬はその時雨の時期だ。ちなみに、京都の伏見に職場を持つ私は、今の時期、いつでもカバンに傘を入れている。京都は時雨の町と言ってよく、晴れていても時雨が不意に来る。
 「うしろすがたのしぐれてゆくか」は種田山頭火の句。彼は妻子と別れ、野宿同然の放浪を続けた。そんな自分の像を時雨の中に描いたのがこの句。「自嘲」と前書きがついている。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年11月10日)


2003年10月30日

晩秋(ばんしゅう、banshu)

 晩秋の林は、紅葉した木々の葉が落ち、木立のずっと向こうまでが見えるようになっている。その木々の間の透明な空気が好きだ。
 そういえば、晩秋から初冬にかけては、林に入って落ち葉をかき集めた。焚(た)き付けにするため。焚き付け集めは小・中学生のいわば日課だった。昭和20年代の話。もっとも、アケビやシイなどの木の実をとること、蔓(つた)にぶらさがってターザン遊びをすることなどがその日課より楽しみだったが。
 遊び疲れて落ち葉の上に仰向けになると、こずえの上の真っ青な空へ吸い込まれそうだった。「秋の空ちっぽけな自分に気づく時」。これは兵庫県柏原町の中学生、上田理誉さんの俳句。先日、上田さんたちと教室で俳句を作ったのだが、現代の中学生も晩秋の空へ吸い込まれそうになる、と知って妙に安心した。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年10月28日)


2003年10月26日

読書の秋(どくしょのあき、dokusho_no_aki)

 27日から読書週間。<読書の秋>というわけだが、実はこの秋、私は蔵書の大半を処分した。書庫として使っていたマンションを引き払うことになり、それを機に約30年にわたって集めた本を手放した。もちろん、迷った末の決断だったが、手放してみるとなんだか心身が軽くなった感じ。蔵書に拘束されていたのだろうか。
 手元にはこれからの仕事に必要な本と、特に愛着のある本とを残したが、その中にこわれかけた文庫本が数冊ある。角川文庫の『若山牧水歌集』や『山村暮鳥詩集』など、これらは中学時代に買い、もっとも早くに自分のものになった本。牧水の「われ寂(さび)し火を噴く山に一瞬のけむり断(た)えにし秋の日に似て」「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」なんて歌を私はその文庫本歌集で覚えた。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年10月27日)


2003年10月19日

落ち穂拾い(おちぼひろい、ochibo_hiroi)

 フランスの画家、ミレーに名作「落ち穂拾い」がある。3人の農婦が腰をかがめ、やわらかい日光のなかで落ち穂を拾っている。1857年の作品だ。
 ミレーはパリ郊外のバルビゾン村に住み、農民の生活に題材をとった一連の作品を描いた。「落ち穂拾い」もその1つであり、ほかに「春」「晩鐘」などが大正時代以降の日本人に親しまれてきた。
 ところで、落ち穂拾いという言葉は今では死語だろうか。私の近所の稲田は刈り取りが終わったが、落ち穂を拾う人の姿を見かけたことはない。江戸時代などには、落ち穂拾いは農村の老幼女子の大事な仕事だった。画家でもあった与謝蕪村は「落ち穂拾ひ日あたるかたへ歩みゆく」と詠んでいる。ミレーの絵にとてもよく似た句だ。蕪村はミレーの約100年前に活躍した。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年10月20日)


2003年10月16日

茸(きのこ、kinoko)

 タケ、キノコ。レストランの壁に「松茸や知らぬ木の葉のへばり付く」と書いた色紙がかかっていた。連れの一人がふふっと笑い「これ、子供の俳句?」と聞いた。木の葉が松茸にへばりついているというだけの俳句だから、たしかに子供の俳句のように単純。この句、実は松尾芭蕉の作。一見して単純素朴だが、「へばり付く」という俗っぽい表現が松茸のようすを生々しく伝えており、やはり巧者の作だ。
 伊賀上野という山国で育った芭蕉は茸が好物だったらしく、自らが作った月見の献立はシメジ、ハツタケ、マツタケと茸尽くし。ちなみに、海辺育ちの私は茸にうとく、食べたのはもっぱらシイタケ。母がシイタケを食べると頭がよくなると信じており、その母にのせられて食べた。今でも高価なマツタケより頭のよくなるシイタケが好き。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年10月14日)


2003年10月12日

赤蜻蛉(あかとんぼ、akatombo)

 科学者、随筆家、俳人として多面的に活躍した寺田寅彦に「柿の種」という短文集がある。次はその1節。「昭和9年10月14日、風邪をひいて2階で寝ていた。障子のガラス越しに見える秋晴れの空を蜻蛉(とんぼ)の群れが引っ切りなしにだいたい南から北の方向に飛んで行く」。蜻蛉は2匹が連なり、約20分にわたって数千匹が飛んで行った。
 寅彦は考える。この群れはどこから来てどこを目指しているのか。連なった2匹が雌雄だとすると、婿選び、嫁選びはどのように行われているのか。相手を求めそこねた落伍者の運命はいかに。
 寅彦は言う。こうした問題が解かれるまでは人間の社会学にもどんな大穴が残され忘れられているかもしれない、と。そういえば、少年の頃、群れ飛ぶ赤蜻蛉が空にあいた無数の穴のように見えた。怖かった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年10月13日)

   赤蜻蛉漢字の重さ知らぬげに  楠本 圭子


2003年10月5日

後の月(のちのつき、nochi_no_tsuki)

 陰暦8月の十五夜に対して、9月十三夜の月を後の月と言う。「後の月という時分が来ると、どうも思わずにはいられない」と始まるのは、伊藤左千夫の小説『野菊の花』。15歳の民子と13歳の政夫の清純な恋を描いた名作だ。
 『野菊の墓』の名場面は、今夜が後の月だという日、民子と政夫が畑へ綿摘みにでかけるところ。政夫は民子に向かって、「民子さんは野菊のような人だ」と言い、また、野菊が「大好きだ」と告白する。10代のころ、私はこの場面にあこがれた。
 さて、50代になった近年の後の月の時分、わが家では枝豆の買い出しにでかける。枝豆は丹波地方の黒豆。車に詰め込んで戻り、東京などの友人に送る。酒のつまみとしても好評。ちなみに、後の月は豆名月とも言い、今年は10月24日。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1996年10月21日)


2003年10月2日

三日月(みかづき、mikaduki)

 「出て見よと人釣り針か三ヶの月」は田捨女(でんすてじょ)の俳句。三日月は人を釣って外へ連れ出す釣り針なのかな、という意味。外に出て三日月が見たくなる気分を、釣り針のかたちの三日月が人を釣ると洒落た言い方をしたのだ。捨女は元禄時代の俳人だが、当時の俳句はこのような言葉の洒落を楽しむものだった。
 捨女を「元禄の4俳女」の1人として称えたのは正岡子規(「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」明治25年)。4俳女とは捨女、智月、園女(そのめ)、秋色(しゅうしき)であり、子規は「捨女は燕子花(かきつばた)の如し。うつくしき中にも多少の勢いありて、りんと力を入れたる処あり」と評した。
 さて、今年は捨女の3百回忌。捨女の生地の兵庫県柏原町には捨女記念館がオープンした。10月10日には町内の捨女ゆかりの地を歩いて俳句を作る<俳句ラリー>が行われる。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1997年10月6日)


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