週刊:新季語拾遺 バックナンバー
2004年3月28日

落花(らっか、rakka)

 3分咲の桜もよい。満開ももちろん素敵。だが、それ以上に心をひかれるのは、はらはら、さらさらと散る桜。あるいは、風にあおられた花吹雪。
 毎日、そんな落花を見に行く。たとえば動物園。私の指定席は河馬舎の前の桜の下のベンチ。そこで大きく口をあけた河馬を見るのだ。河馬のまわりには時間がゆったりと流れており、その時間の中にいると気分がおおらかになる。そんな気分で「桜散るあなたも河馬になりなさい」と作った。
 今年はどこかの古寺へ行こうと思う。「あはれ花びらながれ/をみなごに花びらながれ/をみなごしめやかに語らひあゆみ/うららかの跫(あし)音空にながれ/をりふしに瞳(ひとみ)をあげて/翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり」。三好達治の「甃(いし)のうへ」の一部だが、こんな詩を口ずさみながら花の散る石畳を歩きたい。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年3月30日)


2004年3月25日

京の春(きょうのはる、kyo_no_haru)

 「京の春は牛の尿(いばり)の尽きざるほどに、長くかつ静かである」。これは夏目漱石の『虞美人草』に出ている言葉。この小説、2人の青年が比叡山に登ろうとしている場面から始まるが、大原女に出会い、牛に出会い、2人は減らず口をたたきながら、実にのんびりと登ってゆく。
 『虞美人草』は明治40年6月から10月にかけて新聞に連載された。漱石がプロの小説家として書いた最初の小説である。それだけに力が入っており、文章は装飾をこらした美文調。
 「紅(くれない)を弥生に包む昼酣(たけなわ)なるに、春を抽(ぬき)んずる紫の濃き一点を天地(あめつち)の眠れるなかに、鮮(あざ)やかに滴(した)たらしたるが如き女である」。ヒロインの藤尾を紹介するくだりだが、こんな文章は音読すると快い。音読していると、今の世の繁忙を忘れ、京の春ののどかな気分に満たされる。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年3月29日)


2004年3月21日

草餅(くさもち、kusamochi)

 散歩をしていて、たとえば和菓子屋の店頭に草餅(くさもち)が並んでいるとする。私は買わずにおられない。草餅はよもぎ餅、草団子などとも言う春の食べ物。
 「母が作り我れが食べにし草餅のくさいろ帯びて春の河ゆく」。現代の歌人、高野公彦の歌である。たっぷりと水量をたたえた春の大河は、たしかに深いよもぎ色だ。草餅は母なる大河の色だと言ってもよさそう。
 公彦の歌のように、草餅は多くの人にとって母と結びついているらしい。俳句にも「草餅の濃きも淡きも母つくる」(山口青邨)、「草餅といふは母ゐし四十代」(石川桂郎)などがある。もっとも、草餅をわが家でつくることはほとんどなくなってきた。草餅と言えば母を連想するのも、今しばらくの間なのかもしれない。「よもぎ餅途中で買うて古墳まで」は私の俳句。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年3月23日)


2004年3月18日

はんなり(はんなり、hannari)

 「はんなり」は代表的な京都言葉。明るくはなやかなさま、あるいは、さっぱりした気分や晴れ晴れとしたようすを言う。『京ことば辞典』(東京堂出版)によると「この帯、ハンナリした色合いドスナー」「この辺を片づけたので、ハンナリしたナー」というように使う。カタカナ部分が京都言葉だ。
 「はんなり」は次のような変化をしてできた。「花にあり」→「花なり」→「はんなり」。元になっているのは花だが、この花、梅にちがいない。古典では花といえば桜をさすが、桜が花の代表になるまでは、花といえば梅だった。明るく、そして晴れ晴れとした雰囲気は、桜よりも梅のものだ。
 「はんなり」がその例だが、季節感は言葉にもある。私の編集した『京の季語・春』(光村推古書院)では「はんなり」を春の季語にした。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年3月15日)


2004年3月14日

挿し木(さしき、sashiki)

 挿し木は、彼岸前後から八十八夜までの間に行われる。挿し木に適しているのは柳、葡萄、茶、茨(いばら)、枳殻(からたち)、菊など。菊の場合は挿し木のほかに根分けをする。新しく出た芽を古い株から分けること。
 ところで、最近は子供俳句がさかんだ。小、中学生を対象にした各種の俳句コンテストもある。575音の表現にはゲームの楽しさがあり、子供たちに受けているらしい。「たんぽぽのたねがとぶとぶガレキ山」(松井翔吾)。「ポケットから手を出しさわる春の風」(相馬真一)。松井君は小学校2年、相馬君は6年。伊丹市の「鬼貫賞俳句作品集」から引いた。
 俳句を「言葉の挿し木」だと呼んだのは評論家の鶴見俊輔。子供の心に挿した575音の短い言葉は、やがて根をおろし、言葉にかわるセンスなどを育てる、というのだ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年3月16日)


2004年3月11日

土竜(もぐら、mogura)

 土竜(もぐら)にあこがれていた。高校生のころ、郷土出身の俳人、富沢赤黄男(かきお)の次の俳句を知ったから。「恋びとは土竜のやうに濡れてゐる」。
 それで、実際に土竜を見たいと思うようになったが、なかなか実物にお目にかかれない。写真などによると、毛がビロードのようで、しかも泥などが付着しないようになっている。水に濡れたというよりも、土の新鮮さに濡れた、という感じなのか、土竜は。
 春はこの土竜がさかんに行動する。ミミズなどの餌を探し、また、雄が結婚相手の雌を探してトンネルを掘り続けるのだ。
 日本の土竜の代表種はコウベとアズマ。この両者、長年にわたって勢力を争っている。静岡、石川県あたりから西がコウベの勢力圏だが、コウベは次第に東進しているらしい。アズマの方がちょっと小型。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年3月8日)


2004年3月7日

揚雲雀(あげひばり、agehibari)

 空にとどまってさえずる雲雀が揚雲雀(あげひばり)。「虚空にて生くる目ひらき揚雲雀」(野沢節子)。空の雲雀はさえずりをやめると一直線に落下するが。それは落(おち)雲雀。「雲雀落ちて天日もとの所にあり」(村上鬼城)。
 今年、初めて雲雀の声を聞いたのは2月19日。それからというもの、私の散歩の空はすっかり雲雀の空になっている。
 ところで、空にとどまるために、雲雀は羽を忙しく動かさなければならない。私たちが全力疾走しているようなものだろう。そんな激しい運動をしながら、あんなにピーチュル、ピーチュルとさえずることができるのはなぜだろうか。
 雲雀や鶯などの小鳥は、吐く息と吸う息の両方で声が出るらしい。そのために空にとどまって鳴くことも可能なのだ。人間の場合、ちゃんとした声は吐く息のときにだけ出る。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年3月9日)


2004年3月4日

春先(はるさき、harusaki)

 「多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口(みぞのくち)という宿場がある。その中ほどに亀屋という旅人宿(はたごや)がある。ちょうど三月の初めのころであった」。こんな書き出しで始まるのは国木田独歩の名作「忘れえぬ人々」。
 「忘れえぬ人々」は、亀屋の客になった無名の文学者の大津が、やはり無名の画家の秋山を相手にして、春先の霙(みぞれ)まじりの夜、今までに出会った忘れえぬ人々について語るというもの。
 その忘れえぬ人々とは、瀬戸内海を行く船から見た島の磯で何かを拾っていた男、阿蘇山麓で出会った馬子の若者など。孤独感に耐え難い夜などにこれらの「悠々たる行路をどり、相携えて無窮の天に帰る者」を思うと、孤独感がひとりでに癒(いや)される、と大津は語る。
 私も春先には人懐かしい気分にしばしばなる。天候が不順なせいだろうか。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年3月2日)


2004年2月29日

梅に鶯(うめにうぐいす、ume_ni_uguisu)

 鶯(うぐいす)の初鳴きの時期だ。もっとも、東北や北海道はまだ1月近く待たねばならないだろう。逆に南九州などではとっくに鳴き出しているか。
 鶯というと梅を連想する。「梅に鶯」は古典和歌や花札などの定番。だが、藪を好む鶯は、開けた土地に植えられた梅にはあまり来ない。梅の花の蜜を吸いによく来るのは実は目白。目白は鶯以上に鶯色をしえいる。
 では、なぜ「梅に鶯」という定番ができたのか。梅の花の時期にちょうど鶯が鳴くのは京都。京都の貴族たちが鶯と梅という春を告げる二つの風物を組み合わせて愛したのだ。京都では鶯を春告鳥、梅を春告草とも呼んだ。
 「うぐひすの枝ふみはづす初音かな」「うぐひすや家内揃ふて飯(めし)時分」は与謝蕪村の句。京都に住んだ蕪村は俳人きっての鶯好きであった。(俳人・坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年3月1日)


2004年2月26日

やぶ椿(やぶつばき、yabutsubaki)

 木偏に春と書く椿(つばき)は、まさに春の木。ことにやぶ椿の真っ赤にして清楚なさまは早春の風情そのもの。
 やぶ椿はやま椿とも言い、本州、四国、九州の主として海岸近くに生える。園芸品種の元になったのがこのやぶ椿であり、実からは椿油をとる。「火の独楽(こま)を回して椿瀬を流れ」(野見山朱鳥)は谷川に落ちたやぶ椿が急流にもまれるようす。
 「やぶ椿の蜜吸ふすべを教へしがかの人もすでに清き子の母」(岡野弘彦)。弘彦はこの短歌を解説して以下のように言う。「花首のところに唇を寄せて吸うと、冷たくて香りの高い蜜がとろりと舌の上に流れてくる感触は、ひそかな罪の意識にも似た甘美さで、今も私の胸に生きている」。
 少年時代、私も岬の椿の蜜をよく吸った。濃緑の葉の向こうで海が光っていた。(俳人・坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年2月22日)


2004年2月22日

春の匂い(はるのにおい、haru_no_nioi)

 昭和15年2月23日、四国の松山は日本晴れだった。前年からこの地に一草庵(いっそうあん)を結んでいた59歳の種田山頭火は、この日の日記を次のように書き起こしている。「天も地も私もうららか、まったく春! 障子をあけはなって春を呼吸する」。
 やがて知人が来たので、連れ立って近くの寺に参詣した。そしてにぎわう露店で桜餅を買った。その桜餅についての山頭火の感想は、「うまかった、春の匂いがする!」というもの。
 一草庵に入った山頭火は、「おちついて死ねそうな草萌ゆる」と詠んだ。ここで死ぬつもりだった。そんな心境になったせいか、松山で作った句は「水もぬるんだようなどんこもおりそうな」「早春のおとなりから芹(せり)のおひたしを一皿」というように落ち着いた心境の句が目立つ。亡くなるのはこの年の秋である。(俳人・坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年2月23日)


2004年2月19日

接ぎ木(つぎき、tsugiki)

 芽のついた枝を切り取り、同類異種の木の幹に接ぐ接ぎ木は、2月から4月にかけて行われる。樹性や結実を良くするための方法だ。幹を砧木(だいぎ)、接ぐ枝を接ぎ穂と言い、接いだ箇所には土をかぶせて藁(わら)などで包む。
 小林一茶に「夜に入れば直したくなる接ぎ穂かな」がある。昼間の接ぎ木が気になって眠れないという俳句。一茶は結局、寒い外に出て藁などの覆いを直したのであろうか。
 接ぎ木は主に果樹に用いられ、たとえば渋柿に甘柿、李に桃、枳殻(からたち)に蜜柑を接ぐ。これは俳句の技法で言えば取り合わせの一種。似たものどうしの取り合わせは、兄弟が力を合わせるようなもの。飯田龍太に「白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり」があるが、この白梅と紅梅が接ぎ木的取り合わせ。白梅と紅梅は互いに映発して美しさを高めている。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年2月16日)


2004年2月15日

寝釈迦(ねしゃか、neshaka)

 「葛城(かつらぎ)の山懐に寝釈迦(ねしゃか)かな」は阿波野青畝の俳句。葛城山のどこかの寺院に涅槃(ねはん)図が掲げられ、涅槃会(え)が営まれている光景だ。
 涅槃会は釈迦入滅の日の法要。その法要、月遅れの3月15日に行うところが多いが、法隆寺や唐招提寺では2月15日。
 釈迦の死のようすを描いた涅槃図では、沙羅双樹の下で釈迦が横臥している。それが寝釈迦。ほんとうは死んでいるのだが、それを寝ていると見なすのはいかにも庶民的な親しみをこめた見方。この見方は俳人に好まれ、寝釈迦の句がたくさんに作られた。「まんなかにごろりとおはす寝釈迦かな」(日野草城)など。
 法隆寺の涅槃会では縦が約6メートル、横10メートルの涅槃図が大講堂に掲げられる。3幅からなる図の中央にとてもふくよかな寝釈迦がおいでになる。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年2月15日)


2004年2月12日

梅が香(うめがか、ume_ga_ka)

 「梅が香やどなたが来ても欠け茶碗」(小林一茶)。欠け茶碗しかない貧しい暮らしだが、庭の梅の香りがあるので、それがこのうえないもてなしになる、という俳句。梅の香りが欠け茶碗を引き立てる。
 異質な2つのものを組み合わせることで、俳句では取り合わせという。取り合わせは、古来、俳句のもっとも有効な技法だった。もっとも、俳句だけでなく、料理、活け花、お茶、絵画などのいろんな分野でこの取り合わせが活用されている。
 「手鼻かむ音さへ梅の盛りかな」は松尾芭蕉の句。手鼻という卑近なものが、盛りの梅と取り合わせられた結果、手鼻までがなんとなく風流に見えるから妙だ。
 人だって、取り合わせによって輝く。魅力的な夫婦、素敵な友人関係などは、取り合わせが例外なくよい。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年2月9日)


2004年2月8日

白梅(しらうめ、shiraume)

 「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」。白梅のあたりから夜が明ける、そんな季節になったことだ、という句。作者は与謝蕪村。
 蕪村は天明3年(1783)の12月25日(陰暦)未明に68歳で死去した。臨終の数時間前に蕪村はさきの句を弟子に書きとめさせ、「初春」という題の句だと話した。それが蕪村の最後の言葉になった。蕪村の忌日を太陽暦に置き換えると、今年は2月11日にあたる。
 それにしても、「しら梅に明くる夜ばかり」とは、なんときれいな夜明けだろう。死後に行く世界の夜明けが、白梅の香る夜明けであることを彼は願ったのか。
 「しら梅や誰(た)がむかしより垣の外」。これも蕪村の句。蕪村の墓は京都市左京区の金福寺(こんぷくじ)にあるが、その周辺の民家にはなぜか梅が多い。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年2月8日)


2004年2月5日

2月(にがつ、nigatsu)

 島崎藤村の詩「小諸なる古城のほとり」は次のように始まる。「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子(ゆうし)悲しむ/緑なす繁縷(はこべ)は萌えず/若草も藉(し)くによしなし・・・・・・」
 「遊子」は旅人。緑にしげる繁縷はまだ芽を出しておらず、旅人は若草の上に腰をおろすことができない。なにしろ、あたりはまだ雪が残っていて、「日に溶けて淡雪流る」という状態だ
 第2連では「あたゝかき光はあれど/野に満つる香りも知らず」と歌われる。空の光は春の明るさだが、地上にはまだ春の香りはない。つまり、この藤村の詩は春を目前にした2月の詩であろう。
 「少年がもたれ2月の桜の木」「肩口に2月のひかり阿修羅像」は私の俳句。冬の寒気が残るが、春がすぐ近くに来ている二月。そんな2月には心がゆっくりと軽くなる感じ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年2月1日)


2004年2月1日

春立つ鬼(はるたつおに、harutatsu_oni)

 3日が節分、そして4日は立春だ。
 節分には全国的に豆まきをする。豆に穢(けが)れを移して捨てる古来の習俗。この豆まきに加えて、近年の大阪地方では、恵方に向かって巻き寿司の丸かじりが行われる。寿司屋の商略に人々が乗せられた節分の新風俗だが、こんな妙なことがはやるのも穢れや厄を捨てて春を迎えようとする人々の願いが強いからだろう。
 穢れや厄を持ち去ってくれるのは節分に登場する鬼だが、折口信夫の論文「春立つ鬼」によると、鬼は元来は家々に幸福をもたらすためにやって来た。家にいる精霊に生活をよくするようにと約束させたのである。鬼の顔は恐ろしいが、それは精霊を威圧するためだった。やがてその鬼は、穢れや厄を持ち去る今日の鬼へと変化した。ともあれ、鬼の訪れによって、春が立った。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年2月2日)


2004年1月29日

水鳥(みずとり、mizutori)

 「水鳥(みずとり)のおもたく見えて浮きにけり」(鬼貫)。「水鳥やむかふの岸へつういつうい」(惟然)。水鳥は水上で暮らす冬の鳥をさす季語。鬼貫の水鳥は白鳥、惟然のそれは鴨か鳰(かいつぶり)だろう。
 先日、伊丹市の昆陽(こや)池へ水鳥を見に行った。飛行機で大阪空港を離陸するとすぐに眼下に見える池だ。昆陽池は鴨などの飛来地として知られている。
 餌場には鴨、白鳥、ユリカモメなどがむらがっていたが、ことにユリカモメは激しく餌を奪い合う。「あいつらは下品だ」とつぶやいたら、案内役の伊丹市昆虫館副館長の板根隆治氏が、「白いカラスですからね」と言った。生態的にカラスに近いのだそうだ。ちなみに、鳥たちは首をかしげてものを見るが、右目と左目では違って見えるため、首をかしげないとよく見えないらしい。これも鳥博士の板根氏の話。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年1月26日)


2004年1月25日

寒月(かんげつ、kangetsu)

 寒中の月はさえてさえて青いばかり。その月が寒月。「寒月や思惟(しい)の仏の指の先」(水上博子)。寒月を見上げていると、その月の位置は仏の指のさきのような気がした、という俳句。寒月の神秘的な気配をよくとらえている。その仏は、たとえば中宮寺の半跏(はんか)思惟像。
 博子の句の寒月もすてきだが、寒月という名前の魅力的な人物がいる。彼は水島寒月。博士論文に取り組んでいる学究で、論文の題目は「蛙の目玉の電動作用に対する紫外光線の影響」。
 完成までに10年以上はかかるらしい。計画は遠大だが、意義はさほどありそうもない。ともあれ、こんな研究に没頭するおおらかさが快い。この寒月は漱石の『吾輩は猫である』の登場人物。
 「寒月やから堀端のうどん売り」は漱石の俳句。屋台の上に寒月のある光景だ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年1月25日)


2004年1月22日

水仙(すいせん、suisen)

  「水仙や古鏡の如く花をかかぐ」(松本たかし)。水仙の花はたしかに青銅の古鏡の風情。凛(りん)として質朴だ。
 先日、その水仙を見て来た。淡路島の南端、南淡町の灘黒岩(なだくろいわ)の水仙。海に面した急斜面に約500万本の水仙が群生している。一重咲きの野水仙が中心で、遊歩道を行くと、あたかも馥郁(ふくいく)たる香りの中を歩く感じ。
 水仙は暖地の海岸に育つ。淡路島のほかに、福井県の越前岬、伊豆の爪木崎(つめきざき)などが自生地として有名だ。私が高校時代を過ごした愛媛県保内町も水仙の町。佐田岬半島のつけ根に近い町だが、瀬戸内海側の斜面に水仙が自生しており、水仙は町の花になっている。
 淡路島ではひと抱えの水仙を買った。帰途、車のドアをあける度に芳香が外へ流れだし、その都度、人々がおやっという表情でこちらを見た。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年1月19日)


2004年1月18日

トチメンボー(とちめんぼー、tochimenbo)

 トチメンボーを注文すると、ボーイが「メンチボーですか」と聞き返す。「いや、トチメンボー2人前」と押し通す。料理人と相談したボーイは、「少々時間がかかります」と言う。「正月で暇だから待つよ」と応じると、ボーイは再び相談し、「材料がないので今日はできない」と断る。客が「材料は何かね」と問うと、ボーイは「へへへッ」と笑うばかり。
 以上は漱石の『吾輩は猫である』の話。正月のごちそうが続いたので、私などもトチメンボーなんどが食べたい気分だ。
 トチメンボーは実は子規門の俳人、安藤橡面坊。明治30年に大阪毎日新聞社(本紙の前身)に入社、大正3年に死去するまでに主に校正係として働き、また俳人としても活躍した。温和な句風で「鴨川は千鳥に交じる落ち葉かな」などがある。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年1月18日)


2004年1月15日

冬のつとめて(ふゆのつとめて、huyu_no_tsutomete)

 清少納言は『枕草子』で、「冬はつとめて」と断言した。つとめて、すなわち、人々の生活が始まる早朝が、冬の季節でいちばん素敵だ、というのである。
 清少納言は続ける。「雪のふりたるはいふべきにあらず。霜のいとしろきも、またさらでも、いと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし」。「つきづきし」は冬の早朝にふさわしいという意味。寒さの中のきびきびした動きを称賛しているが、清少納言は冬でも早起きの平気な朝型だったのだろう。
 私も朝型。まだ暗い窓の外の鳥たちの声で目覚める。犬と歩いているうちに東の空が茜(あかね)色に染まってくる。霜の朝などはことにその茜色があざやか。やがて、車のエンジン音やシャッターを開ける音が各所で響き、「冬のつとめて」となる。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年1月12日)


2004年1月11日

雪嶺(せつれい、setsurei)

 「告げざる愛雪嶺(せつれい)はまた雪かさね」(上田五千石)。青天に雪嶺がきらりと光っている。胸の思いを告げる勇気がなく、数日をぐずぐずしていたら、嶺にはさらに雪が積んだ――こんな意味の俳句。雪嶺はあたかも高嶺の花のような恋そのもの。雪嶺はを仰ぐたびに恋情が募るのだ。
 手元に吉野晴朗の写真集『ふるさとの富士200名山』(東方出版)がある。北は北海道の利尻富士から南は沖縄の本部(もとぶ)富士まで、全国200の地元の富士山を写したもの。各地の富士山を仰いで育った人々は、五千石の俳句と同様の気持ちを一度は抱いたにちがいない。そんな気のする写真集だ。
 「わが死せん美しき日のために/連嶺の夢想よ! 汝(な)が白雪を/消さずあれ」。これは伊東静雄の詩「曠野(こうや)の歌」の冒頭。雪嶺は山の見る夢であり、そして人の夢でもある。(俳人・坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年1月11日)


2004年1月4日

四日(よっか、yokka)

 「餅網(もちあみ)も焦げて四日となりにけり」(石塚友二)。新年もはや四日、餅を焼く網も焦げてきた、という俳句。今は電子レンジでチンと焼く時代だが、正月の餅だけは網で焼きたい。  餅占(もちうら)という占いがある。二つの餅を網に並べ、一つを思いをひそかに寄せている人、もう一つを自分と決める。続けてプーッとふくれ、二つがうまくくっついたら恋がかなう。なかなかくっつかなく、餅をいじりまわしているとすっかり黒こげになる。それが焼き餅。この餅占、かつては娘達の正月の占いだった。
 ところで、新年当初の日々には微妙な違いがあり、それぞれが季語になっている。すなわち、元日、二日、三日、四日、五日、六日、七日。餅占遊びにふさわしいのは四日ごろだろうか。「餅焦がすいはれなくひとなつかしみ」(向田貴子)。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1999年1月4日)


2004年1月1日

松の内(まつのうち、matsunouchi)

 門松を立てている期間が松の内。元日から7日までを松の内とするところが多いが、東京は6日の夕、あるいは4日にはやばやと松を外す。
 門松は正月の神(歳徳神(としとくじん))を家に迎えている目印。松は神の乗り物(依り代(よりしろ))だ。昔はそれぞれの家の人が山や岡に登り、松の枝に乗せて歳徳神を迎えた。
 歳徳神はお年玉、すなわち、1年間の幸せや豊作をもたらす。それで私たちは、ごちそうを作り晴れ着を着て神をもてなす。つまり、歳徳神をもてなしている期間が松の内なのである。
 正月の挨拶(あいさつ)語は「明けましておめでとう」。これは単に新年になったということではなく、歳徳神を迎えてお年玉をもらうことを祝う挨拶だった。とすると、松の内は短縮するのではなく、もっと長くした方が、お年玉がビッグになるかも。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1998年1月5日)


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