週刊:今週の季語 バックナンバー 2006年10〜12月
2006年12月31日

火の用心

 故郷は兵庫県の北にある40戸ほどの山村。小学生の頃、自動車が通るのは約2Km離れた隣の村。冬は2m近くの雪が積もった。働き手の男は出稼ぎをし、中学生も町の寄宿舎に住んだ。残るのは老人と小学生と婦人。冬になると自衛の消防団は、男たちから婦人たちに引き継がれた。耕運機を扱える婦人は消防ポンプのエンジンを担当し、力強い婦人はホースを引っ張る役を任された。婦人たちは訓練を積み、小学生たちは毎日、拍子木を鳴らし「火の用心!」を叫んで回った。このようにして冬の村は守られ、彼女たちの出番はなかった。
 そういえば、この会の会務委員Oさんも、地域の消防団に所属しているらしい。もっとも、消防の訓練よりは年一回の親睦旅行への参加率のほうが高いとか・・・。何はともあれ火の用心、火の用心。

(岡 清秀 (船団の会 会務委員))


2006年12月24日

年末ジャンボ

 人生どこでどう転ぶかわからない。3億円当たればのハナシだが、みごと当選するには邪気を祓わないといけないらしい。籤の束を神棚や仏壇に供え、恵方に向いて一礼する。このとき、「3億などと欲張りません、せめて前後賞にでも」などという遠慮は無用。邪気を祓うにはより強固な邪気が必要らしい。で、その前後賞だが、この籤は100,000番から199,999番までの10万通を一つの組とし、01組から100組までの1,000万通を1ユニットとして発売され、ユニットごとに当選金を付けている。そこで疑問。仮に1等の2億円が01組の100,000番だったら前後賞の「後賞」の5千万円は同じく01組の100,001番。では、「前賞」は何組の何番なのかなあ〜〜。
 ボクの知り合いのハナシ。夫婦で夢の3億の使い道をとことん語り合い、遂に意見があわず、お互いの心底を見失い、離婚寸前までいったと言う。もし、判をついておれば、それこそ人生どこでどう転ぶかわからない。平穏な年の瀬を願う。

(南村健治(船団の会 会務委員))


2006年12月17日

クリスマス

 赤ん坊が入るくらい大きな靴下を娘が布で作っている。「みんなのプレゼントを入れるつもり?」と聞くと「ウウン、三人それぞれに作るの」との返事。
 かつて信者ではない者にクリスマスの行事などなかったものだが、10歳下の弟の頃になると私は「サンタがプレゼントを持ってくるんだって!」と弟たちに家で一番大きい父親の靴下を枕元に置いてやり、母親が飴やチョコを入れていた。私が子育てをするようになると、靴下抜きで(入らないから)おもちゃや本を枕元に置いた。クリスマスケーキも必ず買った。今、その子供が三児の親になり、せっせと靴下を縫っている。この娘、私の誕生祝だといって、飛び出し絵のケーキを作ってくれる。

(陽山道子(船団の会 会務委員))


2006年12月10日

顔見世(かおみせ)

 京都に住んで三十年、顔見世を観ないと忘れ物をしたようで、年が越せない。  今年は、中村勘三郎丈襲名披露の最後が、京都の顔見世となった。顔見世のための着物など誂えることは出来ないが、幕間のお弁当は奮発する。そのお弁当を食べている時アナウンスがあった。「勘三郎丈は、急な発熱のため、汗でお見苦しいところがあるかもしれませんが、お許しください。」というものだった。
 風邪かしら、疲れかしらと思いつつ、発熱の勘三郎の演技を観た。
 その熱は、憑かれたように踊る勘三郎を美しく凄絶に見せた。艶やかな渾身の『娘道成寺』は、記憶に残る演目となった。
 子供の頃のやんちゃな勘九郎が、立派に歌舞伎の屋台骨を支え、新しい試みに挑戦する、すばらしい役者になって感無量であった。

(火箱游歩(船団の会 会務委員))


2006年12月3日

湯たんぽ

 『佐賀のがばいばあちゃん』(島田洋七)がおもしろい。貧しくとも常に明るく生きる、がばい(すごい)ばあちゃん。遠足の日、水筒がないので、ばあちゃんはかわりに湯たんぽの中にたっぷりのお茶を入れてくれる。湯たんぽを背中にくくりつけた3年生の洋七少年は皆に笑われて恥ずかしい思いをする。でも、帰り道になると、水筒のお茶がなくなって喉がからからになった友人たちの羨望を一身に集め、お茶をあげる替わりにお菓子をたくさんもらって、すごく幸せになった、というお話。
 湯たんぽを見なくなって久しい。昭和40年代はまだあったような気がする。ところが、小学校で習ったのか、友達の間ではやっているのか、うちの子どもが2リットルのペットボトルに水をいっぱいに入れ、それを湯船に沈めて暖まったものを布団に入れて面白がっている。なるほど、厳寒期にはいいかもしれない。

(早瀬淳一(船団の会 会務委員))


2006年11月26日

冬座敷(ふゆざしき)

 先日、大阪俳句史研究会の資料探訪会で神戸大学の山口誓子記念館に行った。美しい数寄屋造り。阪神淡路大震災で倒壊した誓子邸の母屋の面影が、ほぼそのままに復元されているという。お庭の石蕗の花がなんとなく端正に見える。片隅の柘榴の木のてっぺんには実がふたつ、盛大にはぜて皮だけとなり、鮮やかな蘇芳色に染まっている。そこのお座敷で、宇野田尚哉・神戸大学助教授の講演「誓子俳句と海外体験」を聞かせて頂いた。
 旧誓子邸のものだという欄間や床板(とこいた)、赤松の床柱。鶴首の花器に白い山茶花が二輪。そして、「冬座布団」という季語を作りたくなるような見事なお座布団をずらりと並べてくださった。まさに冬座敷。

(中原幸子 (船団の会 会務委員))


2006年11月19日

牡蠣(かき)

 誰にだってひとつぐらい食べられないものがあるはず。私の場合、牡蠣である。嫌いになった理由ははっきり覚えている。小学校時代、給食に牡蠣フライが出ていたのだが、子どもだった私にはどうしてもそれがおいしいと思えなかったのだ。その記憶をずるずると引きずったまま、今に至っている。食事に行ってメニューに牡蠣フライを見つけた時は、ちょっとドキドキしてしまう。鍋パーティーで、食材選びを任された際には全力で牡蠣を阻止する。鍋に入っている場合には、細心の注意を払って具を選ぶ。
 今まで何人の方に「牡蠣はおいしいよ。」と勧めていただいただろう。おいしそうに食べる人を見るとうらやましいし、自分でも損をしていると思うことが多々ある。
 牡蠣、これからが旬だ。せめて俳句の中だけでも克服を目指そうかなと思っている今日この頃だ。

(中谷仁美(船団の会 会務委員))


2006年11月12日

胡桃(くるみ)

 胡桃の木を初めて見たのは、初秋の深山でのキャンプ地でのことです。夜になってテントの中で寝ていると、ボツ、ボツボツ、ボツと何かが振り落ちて、テントの天井を打つ音が、眠りの合間を縫って聞こえてきたのです。
 キャンプ地の管理人さんから昼間に教えてもらっていた、鹿や猿の鳴き声や虫の音、その他にもさまざまな獣たちの鳴き声が、静かすぎる闇の中に時折響いて、森の夜はとても静かで、そしてにぎやかなのです。
 そんな夜が明けるとテントの周りのあちこちにいっぱいの胡桃が散らばっていました。そこは、大きな胡桃の木の下だったのです。それを苦心して、殻を割り、中から白い実の出てきた時のうれしさ、おいしさ・・・。普段、何気なく使っている「実りの秋」という言葉を実感した、忘れられない朝のひとときでした。

(角田悦子(船団の会 会務委員))


2006年11月5日

栗拾い

 丹後のばあさんが栗を拾いに帰れと言う。帰ると早速、ばあさんが小さな頭を連れて行く。目当ての場があるからである。そこには太った栗が、毬から弾け出て拾い頃である。小さな頭はいっせいにしゃがむ。口々に手に持ったそれを見比べあい歓声を上げる。  翌年、また田舎に帰る。早速ばあさんが小さな頭を連れて行く。目当ての場。小さな頭はいっせいにしゃがんだ。が、一つの頭がしゃがまない。そして、ばあさんの隣に行った。「なあ、ばあちゃん。」「なんじゃ」「こんなたくさんの栗、どこから落ちてきたんだろうか?」。二つの頭が上を見る。この上は、どこまでも抜ける晩秋の青空である。ばあさんは、小さな頭の一つが、去年の頭でないことに困っている。

(塩見恵介(船団の会 会務委員))


2006年10月29日

ばった

 家の近くの公園に「バッタの原っぱ」というコーナーが出来たので、早速見学に行った。もともと浜辺なので、後ろ足に「赤、青、黒」のまだら模様のあるマダラバッタ、クルマバッタに似ているが背中にX文字の模様があるクルマバッタモドキ、草のないところにもいるイボバッタが棲息している場所でもあるらしい。バッタの原っぱの主な植物はギョウギシバ、ネズミムギ、チガヤ、ヨモギなど。草をかき分けながら捜していると、イボバッタが飛び出して来た。捕まえようと思ったが、チガヤの中に入ってしまい、草かバッタか見分けがつかなくなって諦めた。そこで、「草かバッタか時折変わる風の色」と一句作って、ぶらぶらと帰って来た。

(小枝恵美子(船団の会 会務委員))


2006年10月22日

すすきの原

 NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」が終わった。
 この手のドラマはハピ−エンドで終わると思っていたら、今回はやがて逝く妻さくらこの残した赤ちゃんをつれ、夫の達彦は子供と共に生きる愛と希望の最終回だった。このドラマを見ていて涙がこぼれたが、それには深いわけがある。
 某病院での出来事だった。20代の美しい奥さんが女の子を出産した。しかし感染症を発病した彼女はそのまま入院を続け、春が過ぎ夏も過ぎた。我が子を抱けない妻の為に夫のSさんは、病室の妻から見える周辺のすすきの原に赤ちゃんをつれて散歩していた光景をよく見かけた。すすきの原は柔らかい風が吹いていて二人を銀色に包んでいた。
 とある日の夕方、ラジオニュ−スでよちよち歩きの幼児が道路に飛び出し自動車事故で即死したと放送した。我が子の死を病室でいち早く知ってしまった彼女は、狼狽え病状は悪化した。妻と子を一度に失ったSさんの悲しみを見た私は看護師であった。

(藏前幸子(船団の会 会務委員))


2006年10月15日

運動会

 走るのが遅かった私は徒競走が大嫌いだった。着順の旗が恨めしかった。リレーでぐんぐん抜いていくヒーローが羨ましかった。でも入場行進とフォークダンスは好きだった。4列で足を揃え、「右、右...」と声を掛け合いながらクラス毎に美しい隊列で進む練習をした。全校フォークダンスの時、あと二人で上級生のお兄さんと手をつなげる!と、どきどきわくわくしていたら反対廻りになり、がっかりしたこともあった。重箱に入ったお弁当や、青くて酸っぱいみかんも楽しみだった。そう言えば一度だけ1位になったことを思い出した。幼稚園時代の障害物競争で最期の網をくぐり抜ける輝かしいスナップがアルバムにある。あの時は子どもながらにとても嬉しかった。

(尾上有紀子(船団の会 会務委員))


2006年10月8日

爽やか(さわやか)

 折り畳み自転車を買った。ワインレッドでタイヤがオフロード風の、ちょっとカッコイイ自転車である。真ん中で折り畳み、ハンドルと前タイヤをつなぐパイプが折れ曲がるようになっていて、けっこうコンパクトになる。
 先日京都の御池通りの駐車場に車を止め、買ったばかりの自転車で寺町通りを北へ上がった。丸太町通りから河原町通りへ出て、更に今出川通りまで自転車を走らせた。途中小さな器屋に入った。客が3人も入ればいっぱいになってしまうほどの小さな店に、私好みのシンプルな器が所狭しと並んでいた。店の人と暫く焼き物の話を楽しんだ後、ちょっと渋めの粉引きの湯飲みと焼き締めのシンプルな湯飲みを買った。今出川通りを西へ、烏丸通りを越えて、室町通りを今度は南へ。爽やかな秋の1日であった。

(小倉 喜郎 (船団の会 会務委員))


2006年10月1日

渋柿(しぶがき)

 渋柿はなぜ渋いのか。
 柿は子孫を増やすために鳥や動物にその実を食べてもらい、種をばら撒いてもらうのだが、実の中の種が成長をしないうちに食べられると困るので、種が成熟するまでは実が渋く、種が成熟するとその種から分泌される成分で実が甘くなるとのこと。
 先日、近所の子供たちとハイキングに行った。途中に渋柿があったので、子供たちにかじらせた。案の定、「不味い!」と吐き出した。「どんな味?」と問うと、「辛いような…」とか「苦いような…」などなど。「渋い!」との答えは無い。確かに最近では「渋い」を経験することが無いかも。そのうちに「渋い」の味覚の表現は忘れ去られるのだろうか。

(岡 清秀 (船団の会 会務委員))