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2020年5月24日

麦茶(むぎちゃ)

 子どもが生まれてから、我が家の冷蔵庫にはいつも麦茶がある。子どもたちが学校へ通い始めてからは、学校へ行く日は必ず水筒にお茶を入れて持って行くようになったので、夏は1日に2回、麦茶を作ることもある。銘柄は、コープの「はと麦茶」。もう、10年以上、変わっていない。
 毎日、毎日、2リットルの薬缶に水を入れて、湯を沸かし、はと麦茶のパックを入れて麦茶を作る。この、いつの間にか続いている日常は、私の歴史。続けることで紡がれる歴史があり、区切りをつけることで始まる歴史があり……人生にいくつの歴史を内包できるだろう。そんなことを考えていると、なんとなく過ごしている日常が、少しだけキラキラと光り出すから不思議だ。
 さて、今日も麦茶を作ろう。

(工藤 惠、「船団の会」会務補助、e船団担当)


2020年5月17日

蒜(にんにく)

 蒜を晩春の季語としている歳時記が多い。耕しの時期、田の畦などに自生する野蒜を見る影響が強いからだろうか。僕の見る限り『平凡社歳時記』のみ夏としているが、国内生産量bPの青森県、収穫期は6月に最盛期を迎える。蒜の季を花の最盛期に置くのも不思議で、夏で良い気がする。ロンドン留学中の思い出をつづる中谷宇吉郎のエッセイ「サラダの謎」では、「レタスを木鉢に一杯入れたあと、何か石鹸のかけらみたようなものを、パンの切れはしにこすりつけて、それをサラダの中に入れ」る当地の「料理を美味しくするコツ」に感心するが後にその「石鹸の欠片」は蒜だと娘に教えられる。執筆当時昭和35年というこのエッセイを見ても、蒜は日本に馴染みが新しく季の再考もいいかもしない。そんなことを考えながら、今日も夕餉の鰹のたたきに刻み蒜をぶっかけている。自粛続きで翌日の会合予定など気にならぬなか、連日気兼ねなく食べられる蒜に少しだけ慰められている。

(塩見恵介、「船団の会」副代表)


2020年5月10日

青嵐(あおあらし)

 世の中に怖いものはたくさんある。そのことをコロッと忘れていた。連れ合いは、一番怖いのは「妻」だと言うに決まっている。私が一番怖いのは「夫」ではない。息子は子どものころ「カーテン」が怖いと言った。勝手に動くから怖いと言った。人間は賢くて、地球の成り立ちや人間のからだのしくみを科学的に解明はしたが、やはり怖いものは怖いのである。目に見えて怖いものと目に見えなくて怖いものがあるとすると、きっと目に見えないほうがより恐怖だ。「妻」や「カーテン」よりもっと怖いはず。少し強い風が青葉をざわざわ揺らすとき、私は頑丈な吊革がほしくなる。

(小西雅子、「船団の会」会務委員)


2020年5月3日

立夏(りっか)

 炎帝、祝融(しゅくゆう)、昊天(こうてん)、赤帝、朱明、蒸炒(じょうそう)、朱夏、炎夏、三夏、九夏、升明(しょうめい)、農節、瓜時(かじ)、炎節、炎陽、朱炎、朱律、夏場。これらは皆夏の呼称である。太陽の輝く明るさと生命の横溢する力が、これらの言葉を彩っている。
 奇妙な感染症が世界を覆っていて、いまだに出口が見えない。しかしわれわれの保持して来たこれらのコトダマの力は、この状況に打ち勝つ力を持つものと信じたい。いよいよ立夏である。たぎるような太陽の生命力にわれわれの希望を託したいと思う。

(木村和也、「船団の会」会務委員)


2020年4月26日

風薫る(かぜかおる)

 ローレンス・ブロック編著の「短編画廊」を読んだ。米画家エドワード・ホッパーの17枚の絵に、17人の作家たちが小説を書く。17編の短編のなかで、「映写技師のヒーロー」が好き。哀愁ある結末だが、映写技師の活躍で映画館や街に日常が戻る。
 今年ほど、日常のありがたさを感じた年はない。コロナウイルスの影響で自宅に籠る日々。ささやかな楽しみは、小さな庭での読書。風薫る季節、今年も桜は花が散り、葉をつけた。柿の木は若葉であふれ、花壇はアネモネで揺れた。いつもと変わらぬ自然の営みが愛しい。そんななか、17枚の絵と短編に魅せられた。読書時の薫風は、見えない敵への疲れをいやしてくれる。

(衛藤夏子、「船団の会」会務委員)


2020年4月19日

蜃気楼(しんきろう)

 ―― 残念ながら、蜃気楼というものをいまだ見たことがない。
 蜃気楼とは、地表近くの気温が場所によって異なるとき、空気の密度の違いによって光線が屈折するため、地上の物体が空中に浮かんで見えたり、遠方の物体が近くに見えたりする現象をいう。春によく見られ、富山湾の魚津や琵琶湖が有名だといわれている。
 俳句では、海市、山市、蜃楼(かいやぐら)とも。「蜃」とは、大蛤のことで、その昔中国では「大蛤が気を吐く現象」と見立てたらしい。海市は海上に市がたつ(街が見える)感じだろう。なお、「蜃楼」は「気」が抜けている(二日目のサイダー?)と最近まで誤解していた。
 唐突ではあるが、いつの日にか、琵琶湖畔から湖上に聳える天空の城・安土城を見たいものだ。

(秋山 泰、「船団の会」会務委員)


2020年4月12日

浅蜊(あさり)

 N局「きょうの料理ビギナーズ」のTVが面白い。イラストの鼻メガネのおばあちゃん、ハツ江さんのほっこりした声とわかりやすい説明でどれも作りたくなる。で、『電子レンジでワザありおかず』(高木ハツ江著)を購入した。たとえば浅蜊とアスパラガスのワイン蒸し。砂抜きをした浅蜊とアスパラガスに塩少々、白ワインとオリーブ油をそれぞれ大さじ1。ふんわりとラップをしてレンジで約5分。チンが鳴るまでの間、朝刊に目を通す。
 「福岡伸一の動的平衡 ウイルスという存在」の見出し。ウイルスは私たち生命の進化に不可避的な一部だということ。根絶したり撲滅したりはできず、ウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない、と生物学者の福岡さんは説く。
 チン! さあ、活きのいい浅蜊が口を開けている。
(村上栄子、「船団の会」会務委員)


2020年4月5日

桜(さくら)

 東京では3月上旬に開花宣言が出され、春分の日は5分咲きといったところだった。しかし、今週は新型コロナの影響で自粛が呼びかけられ、井之頭公園のベンチは座れないようテープが張り巡らされた。桜が咲いたと聞くと、心が浮き立って今年の花を見たくなるのはこの季節が進学、進級、就職と人生の区切りになっているからか。
 「様々なこと思い出す桜かな」芭蕉の句をあげるまでもなく、幼稚園のとき親に抱き上げられて見た桜、入学式のとき正門に咲いていた桜などなど、今までに出会った桜がその年に見る桜と重なって思い出される。「桜は来年も咲きますから」と、どこかの知事が言っていたが、今年は「見られなかった桜」が東京の人の胸に刻み込まれたことだろう。
(三宅やよい、「船団の会」副代表)


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