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2018年11月4日

冬はじめ(ふゆはじめ)

 始まりというのはどんなものでも、ある種の予感にあふれていていいものだ。季節もそのはじまりには、幸せな予兆と季節のエッセンスが詰まっているように思う。凛として何も纏わずに真っすぐにやってくる冬の潔さも、冬のはじめにこそ感じられるものだ。
 むかし、パンダなんかがまだ日本にいなかった頃、動物園でいちばんの人気ものは象だった。淋しげで小さな眼をもったそんな象が、遠い国から船に積まれてやってきたのは、冬のはじめであったような気がする。
(木村和也、「船団の会」会務委員)


2018年10月28日

行く秋(ゆくあき)

 東山魁夷の絵が好きだ。初めて見たのは、物心ついたころ、祖父の家にあった「道」の複製画だった。日本画の収集が趣味だった祖父は、とりわけ、魁夷、小野竹喬、福田平八郎を愛して複製画や図録を持っており、彼らの絵を自然と私も好んだ。
 先月、京都で開かれた魁夷生誕110年を記念した個展に行った。今回、心動かされたのは、晩年に描かれた「行く秋」だった。“祈り”がテーマのその絵から、「人間が他の動物と違うのは、だれかのために祈ることができることだ」と教えてくれた祖父の言葉を思いだした。今までの“祈り”の思い出が、「行く秋」に描かれた落葉のように積み重なっていくのを感じた。
(衛藤夏子、「船団の会」会務委員)


2018年10月21日

草の花(くさのはな)

 「草の花」という言葉を聴くと、高校1年生の時,担任の国語の先生に勧められて読んだ,福永武彦の小説「草の花」を思い出す。そして、そこに出てくる「結核の青年」「高原のサナトリウム」という設定は,堀辰雄の小説「風立ちぬ」と同じように思えた。以後、わたしは「草の花」という季語を使うとき,小説「草の花」をどうしても意識してしまうのだ。草の花≒⇒風立ちぬ≒⇒ヴァレリー≒⇒海辺の墓地≒⇒地中海≒⇒カミュ≒⇒異邦人≒生の不条理≒⇒死に至る病い≒⇒結核(当時は不治の病い)≒⇒高原のサナトリウム≒⇒草の花、というメビウスのような連想連鎖が浮かんでしまう。連想認知構造が歪んでいるのかもしれないが、こうした連想から取り合わせを考えてみるのも一興かもしれない。
(秋山 泰、「船団の会」会務委員)


2018年10月14日

蓮の実とぶ(はすのみとぶ)

 「138年の歴史に幕」とSO会会報が舞い込んだのは9月吉日のこと。30年余り勤務したS学院の同窓会総会・懇親会のご案内状だった。退職してからのS学院のこの5年間の変貌。懐かしい旧校舎、新校舎、そして自慢の記念館などすべて取り壊された。そして学園でのちょっとしたオアシスになっていたスポット、人面魚と噂された鯉もいた池は埋め立てられた。K先生が毎年胸まで雨靴のような作業着でその池の手入れをされていた様子が、にこやかなお顔ともに思い浮かぶ。あの見事な鯉たちはどこへ行ったのだろう。あの池に息づいていた生きものたちは……。そう、蓮の花も咲いていた。蜂の巣状の種の飛んだ後のその池の蓮の花托が今、家にある。ゆめかうつつか、蓮の実が飛ぶ。そして、音もなく池に沈んでゆく。
 この季語エッセーが掲載される日、私は懇親会会場の神戸Pホテルの29階にいる。
(村上栄子、「船団の会」会務委員)


2018年10月7日

柿の秋(かきのあき)

 今はもうない生家の裏庭には大きな柿の古木があった。ある秋の日、二階から庭を見下ろすと実がたわわになった柿の木の下に見知らぬ人が膝を抱くように座っていた。学生帽をかぶっていたので最初は兄の友達かと思ったけど、どうみても中学生には見えない。洗濯物を取り込みに出た祖母が話しかけていたので下に降りて「あれ誰?」と聞いた。「誰やしらんけどなんか嫌になってあそこにおるんやろ」気にするでもなく祖母は台所へ消えた。しばらくして庭を見ると学生は消えていた。高い塀に囲われている庭への闖入者を放っておくなんて度胸だと思うが、幹にもたれる人を選ばない柿の古木同様、祖母にとっては警戒する相手ではなかったのだろう。
(三宅やよい、「船団の会」副代表)


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