週刊:新季語拾遺バックナンバー 2001年4〜6月
2001年6月28日

梅雨闇(つゆやみ、tsuyuyami)

 ツユヤミ。五月雨(さみだれ)の降る時期の闇、すなわち五月闇(さつきやみ)のこと。五月雨は梅雨であり、五月雨の晴れ間が五月(さつき)晴れだったが、今では語感が変化し、五月晴れは黄金週間のころの快晴をさすようになっている。五月雨から梅雨を、五月闇から梅雨の闇を思い浮かべる人も次第に少なくなっているようだ。そこで、五月闇に代えて梅雨闇という季語を用いるのがよいかもしれない。五月晴れの場合は、それに代わって梅雨晴れという季語がすでに定着している。
 もっともサツキのサは稲の霊をさすという説があり、サツキは田植えをする稲の月であった。五月闇は稲の育つ深い闇であったのだが、そんな伝統にこだわることももはやないだろう。むしろ、明に対する暗として、梅雨闇を生活空間に取り込んでみたい。暗(闇)が一方にあるとき生活空間は深みを増す。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年6月28日)


2001年6月24日

蟇(ひきがえる、hikigaeru)

 ヒキガエル。ガマ、ヒキ、イボガエルとも言う。
 蟇は体長10センチを超す大きな蛙。背中にたくさんのいぼがあり、のろのろしていてちょっとグロテスク。でも、ヤモリやアマガエルとともに昔から人の家に住みつき、<わが家の蟇>として親しまれてきた。人には何も害を与えず、夕方になると床下や植木のかげから出てきて虫を捕食する。<わが家の蟇>は家の害虫駆除係だ。ちなみに、体長20センチにもなる南アメリカのオオヒキガエルは、耕地の害虫駆除のために世界各地に移入されているという。
 ドイツなどには、死者の魂が蟇になるという民間信仰がある。また、蟇はまだ生まれていない赤ん坊だとも言う。コウノトリはこの蟇を運ぶ使者。古代ギリシャでは蟇は幸運の前兆であった。だから、不幸な人は蟇を探してきて家で大事に飼った。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年6月22日)


2001年6月21日

明易し(あけやすし、akeyasushi)

 今日は夏至。昼がもっとも長い日である。大阪では朝の5時前に日が出て、日の入りは午後の7時を過ぎる。「夏至暮るる三度食事をしたるのみ」(中原幸子)は、そんな長い夏至の昼間を、平々凡々と過ごしてしまった感慨。多くの人にとって夏至はこの俳句のようなものだろう。
 当然のことだが夏至の前後は夜が短い。その短い夏の夜を「短夜(みじかよ)」と言う。また、夜がすぐに明けてしまうので「明易(あけやす)し」とも言う。
 私は夏至が近づくころから早起きになる。5時には起きてごそごそするのだが、家族はまるで本能に従う動物のようだと馬鹿にする。安眠を妨げられるのが不快らしい。そこで、たとえばなかなか起きようとしない妻を眺めて「明易しこれぞ怪物足の裏」(南村健治)などという俳句を唱え、せめてもの腹いせをしている。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年6月21日)


2001年6月17日

蜘蛛合戦(くもがっせん、kumogassen)

 くもがっせん。蜘蛛合わせとも言う。体に金色の筋が光る黄金(こがね)蜘蛛の雌を戦わせる遊び。少年時代の私などは、葉をしごきとった草の茎で2匹の蜘蛛を戦わせた。梅雨の晴れ間には強そうな蜘蛛を仲間と探しまわり、戦いにそなえて庭で飼った。
 斎藤慎一郎の「クモ合戦の文化論」(大日本図書)によると、この遊びは黒潮の沿岸に伝えられており、元来は漁民たちが漁の吉凶を占うためのものだったという。
 蜘蛛合戦を町の名物行事にしているのは鹿児島県の加治木(かじき)町。ここでは6月の第3日曜(今年は6月21日)が蜘蛛合戦保存会の主催する合戦の日。去年は小学生から大人まで約70名が参加、県外からの家族連れの参加者もあった。合戦のほかに蜘蛛のミニコンテストも行われる。もちろん、戦い終えた蜘蛛たちは山へ返される。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年6月15日)


2001年6月14日

青梅(あおうめ、aoume)

 「青梅に眉あつめたる美人かな」は与謝蕪村の句。「ああ、すっぱ!」と言って眉をしかめた美人のしぐさがこのましい。「青梅の尻うつくしくそろひけり」は室生犀星の作。こちらの梅は少女か童女の感じ。蕪村にしても犀星にしても、青梅から清楚なエロティシズムを感じている。葉がくれの青梅は、たしかにその光沢や丸みの具合がほのかなエロティシズムを漂わせている。
 もっとも、少年時代の私などは、青梅を見つけるとすぐにむしりとって齧(かじ)った。母はよく、まだ食べるには早いと注意し、未熟な実を食べると猫の糞(ふん)が食べたくなるんだ、と言った。そして、寝ていると夜中に猫が来ておなかの上で踊るとも。そんな母のおどしにびくびくしながら、それでも素早くむしりとって塩をつけて食べたのだった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年6月14日)

青梅もぐ草ほどゆれる頭かな 遠藤秀子

梅青し子の変声期忽とあり 矢部八重


2001年6月10日

ジューンドロップ(じゅーんどろっぷ、junedrop)

 柿(かき)の木の下に行くと小さな実が無数に落ちている。6月から7月にかけて3回くらいのまとまった落果があり、これがジューンドロップ(6月の落果)。生理落果と言われる現象で、成り過ぎを防ぎ樹勢を保つための柿の木の知恵。柿の木には自己管理能力があるらしい。時には80%から90%の実を落として身を守る。禁煙やダイエットを宣言しながらいっこうに守れない私などとは大違い。だから、柿の木のそばを通るとき、尊敬の眼差しで梢(こずえ)を見上げている。
 最近はジューンブライド人気だが、昔の花嫁は、実家から柿の苗木を持って行き、嫁ぎ先に植えた。その嫁が一生を終えたとき、大きくなっている柿の木の枝が火葬の薪やお骨を拾う箸(はし)になった。かつて柿は女の生涯を象徴する木であった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年6月8日)


2001年6月7日

なめくじ(なめくじ、namekuji)

 なめくじ好きの人はあまりいないだろうが、人が嫌ったり無視したりするものに詩を発見するのが俳句の特色。なめくじは1645年に刊行された『毛吹草(けふきぐさ)』に既に季語として登場している。歴史の古い季語だ。
 なめくじは草花や野菜の葉を食べる害虫だし、きらわれても仕方はない。わが家のカミさんは、懐中電灯と割り箸(ばし)を持ち、つまんではビニール袋に入れる。犬がいるので薬がまけないからよ、と言うが、夜な夜ななめくじを探す格好は少し不気味だ。なめくじに対決する執念を感じるからだろう。
 先日のこと、ある家の前を通りかかったら、懐中電灯を照らして植え込みをのぞいている不審な女性がいた。なんとその人もカミさん同様になめくじを捕らえているのだった。「なめくじの左曲がりと右曲がり」(高野素十) (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年6月7日)


2001年6月3日

黴の家(かびのいえ、kabinoie)

 6月は黴(かび)の月。黴は嫌われがちだが、近代の俳人たちは好んで黴を取りあげた。見かけは詩から遠い黴に積極的に詩を見出し、俳句の世界を広げようとしたのである。「としよりの咀嚼つづくや黴の家」(山口誓子)。
 黴に注目したのは俳人ばかりではない。小説家の徳田秋声は『黴』(明治44年)によって、日本の近代小説の典型である私小説を確立したし、口語自由詩も川路柳虹の「塵溜(はきだめ)」(明治40年)という黴の匂(にお)う詩から始まっている。
 味噌(みそ)、醤油(しょうゆ)、酒などはコウジカビの働きによってできるし、ペニシリン、チーズなども黴から生まれている。黴は今や私たちの暮らしを支えているのだ。
 ところで、さきの誓子の俳句だが、「これ、一字を替えたらあなたのことになるわね」とカミさんが言った。私の名はトシノリ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年6月1日)


2001年5月31日

麦の秋(むぎのあき、muginoaki)

 麦秋とも言う。5月から6月にかけての麦の熟れる時候のこと。この季語、かつては生活の実感があり、俳人たちに愛用された。
 麦の秋はなつかしい。同年代の者と会うと、たとえば農繁休業の話になる。私の育った四国の村では、麦刈りと薩摩いも掘りの時期に1週間くらい学校が休みになり、小・中学生は家の仕事を手伝った。麦を刈っているとどっと汗がふきだしたが、それがなんだかうれしかった。1人前に働く誇りをそんな汗に感じたのだろうか。昼の弁当は、木の枝を切って作った箸(はし)で食べたが、そんな箸で食べると家での食事より数倍もうまかった。麦の時代は遠くに去ったが、なんとわが家には、私とカミさんが麦と呼ぶ犬がいる。雑種だが麦色だ。もっとも、本物の麦になじみのない子供たちはムギとカタカナで呼ぶ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年5月31日)

土曜日は笑むばかりなり麦の秋 時枝武


2001年5月27日

豆ごはん(まめごはん、mamegohan)

 豆飯(まめめし)とも言うが、豆ごはんと呼ぶほうがふっくらとした感じがする。「納得の一人ぐらしの豆御飯」(田畑美穂女)。
 田畑さんは明治42年生まれの今では最古参の俳人。いつかその田畑さんを訪ねた折、帰ろうとすると、お菓子を半紙に包んでもたせて下さった。久しぶりに接したそんなもてなしが妙にうれしかったが、帰途、紙がくしゃくしゃになって困った。のちに夏目漱石の日記を読んでいたら、知人の東本願寺の管長を訪ねた際、やはりカステラを包んで渡され、そのあとで東寺へ行ったが、お菓子を入れるところがないので、五重の塔の下を、「カステラを抱いて徘徊す」と書いてあった。豆ごはんはかつてのこんなもてなしの暖かさに通じていると思われる。
 ともあれ、豆ごはんが大好きだ。「歳月やふっくらとこの豆ごはん」は私の句。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年5月24日)

熱愛をひとまず終えて豆ご飯 時枝武

豆ご飯の豆を摘んで一人の膳 時枝武


2001年5月24日

時鳥(ほととぎす、hototogisu)

 ホトトギス。子規、不如帰、杜鵑とも字を当てる。 「卯の花のにおう垣根に時鳥早もきなきて忍び音もらす夏は来ぬ」。明治の歌、佐佐木信綱のこの「夏は来ぬ」が示しているように、かつては時鳥の声が夏の訪れを告げた。時鳥は、雪月花に匹敵する夏の代表的風物だった。
 時鳥の声は、天辺かけたか、特許許可局などと聞きなされているが、その鳴く様子は、「啼いて血を吐く」と形容され、明治時代には喀血をともなう肺結核の代名詞になった。妻の肺病のために引き裂かれる悲劇を描いた徳富蘆花の『不如帰』はその一例。
 正岡子規は明治22年に喀血、以来、子規と名乗った。そして仲間と雑誌「ホトトギス」を出したが、発行所へ肺病の薬を求めに来た人があった。「ホトトギス」なら肺病の薬だろうと思われたのである。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年5月25日)


2001年5月20日

緑雨(りょくう、ryokuu)

 リョクウ。新緑に降り注ぎ、うすみどりに染まるような気がする初夏の雨。
 今年は5月21日から陰暦の4月になるが、陰暦4月を卯(う)の花月と言い、そのころに降る雨を卯の花腐し(くたし)と呼んだ。初夏の代表的な花である卯の花をまるで腐らせるように降る雨、という意味であり、『万葉集』に出てくる古い言葉。
 卯の花腐しは、今は梅雨のはしり、はしり梅雨などと言われることが多くなったが、むしろ緑雨と呼ぶのがふさわしい。緑雨は『広辞苑』や『大字源』などの辞書には「新緑のころに降る雨」として出ているが、なぜか手軽な歳時記類には見当たらない。
 明治時代の辛口評論家に斎藤緑雨という人がいた。「恋は親切をもって成立す、引力なり。不親切をもって持続す、弾力なり。疑惑は恋の要件なり」とはその緑雨の鋭い洞察。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年5月17日)


2001年5月17日

桐の花(きりのはな、kirinohana)

 五月を「桐の花とカステラの時季」と呼んだのは北原白秋。桐の花の薄紫色とカステラの黄色の調和が、晩春と初夏の交差する気配をしみじみと感じさせるというのだ。「カステラの黄なるやはらみ新らしき味ひもよし春の暮れゆく」(歌集『桐の花』大正2年)。
 私も桐の花が大好きである。ことに家並みのかなたの空で薄紫に霞んでいる桐の花。
 昔は女の子が生まれると桐の木を植える習慣があった。その子が嫁ぐとき、成長の早い桐は嫁入り道具の箪笥(たんす)などになった。桐の箪笥は今では高級家具、私などには高嶺の花だか、そんな箪笥を木を育てて作ったかつての時代の方が、ほんとうの意味で豊かでぜいたくだったのではないか。そんな気がする。「桐の花人の世よりも高く咲き」(河野南畦)。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年5月18日)


2001年5月13日

葵祭(あおいまつり、aoimatsuri)

 アオイマツリ。京都の下鴨、上賀茂神社の祭礼。古くは単に祭といえばこの葵祭をさした。歳時記には賀茂祭として出ていることが多いが、今では葵祭と呼ぶのが一般的。
 葵祭の行列は、平安時代のみやびな宮廷風俗の絵巻。牛車がきしり、舎人の白い衣装が薫風にひるがえる。祭に従う者は誰もが葵を飾りにするが、その葵の緑がすかすがしい。
 学生時代、私はアルバイトでこの祭に出た。行列の途中で煙草を吸ったら、平安時代にも煙草があったのかと見物人がやじったので、不良舎人です、と応じた。
 近年、葵祭が近づくと、講義をさぼって祭へ行くように学生にすすめる。新緑の都大路を進む牛車を見るだけでも、かつての不良舎人の講義に勝ると思われるから。
 葵祭は5月15日である。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年5月11日)


2001年5月6日

青嵐(あおあらし、aoarashi)

 アオアラシ。青葉、若葉を吹く強い風が青嵐。夏嵐とも言い、南風であることが多い。
 青嵐に揺れる葉桜や欅(けやき)の梢(こずえ)を眺めていると、なんだか少し不安になる。嵐とは言っても、たとえば台風のような突然の暴力性がないだけに、それを見ていると自分の心も次第にもまれて不安定に動き出す気がするのだ。その不安定な気分がつのるとやっかいな五月病ということになるのだろうか。
 そう言えば、5月は統計的に自殺がもっとも多い月(有斐閣『健康歳時記』)。自然界に生命力があふれる若々しい5月だが、逆にその生命力が人間の命を圧倒するのである。
 「葉桜は海辺のようにきらめいて未生以前の恋人がいる」「てのひらに火種にぎっているような恋人といてけやきのみどり」。青嵐を眺めながら、こんな歌を私は作った。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年5月11日)


2001年4月29日

森林浴(しんりんよく、shinrinyoku)

 木漏れ日を浴びて木々の間を歩くと、なんだか心身がすがすがしくなる。神山恵三の『森の不思議』(岩波新書)によると、植物の葉が発散しているテルペン類という物質の作用らしい。このテルペン類は波長の短い青い光を反射し、いわゆる<青い山脈>を出現させる。テルペン類は香や線香の成分でもある。
 森のテルペン類を浴び、心身をリフレッシュさせるのが森林浴。日光浴や海水浴から類推して作られたこの言葉は、1982年に当時の林野庁長官が提唱したもの。テルペン類をたっぷりと含んで風薫る初夏は、まさに森林浴の季節であろう。
 もっとも出無精の私は、部屋の窓を覆っている金木犀の新緑をもっぱら浴びている。狭い家のただ一本の木だが、「新緑と薫風は私の生活を貴族にする」(萩原朔太郎)。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年4月27日)

森林浴聖フランチェスコの鳥鳴いて 西田もとつぐ


2001年4月26日

牡丹(ぼたん、botan)

 ボタン。日本語では花と言えば桜をさすが、その桜が散りつくし、葉桜がさざ波のようにそよぐころ、牡丹が咲きはじめる。牡丹は蘇東坡(そとうば)などの中国の詩人がことに愛し、「百花の王」と呼ばれた。また、菊、芍薬(しゃくやく)とともに「三佳品」と称賛された。
 明治時代までは中国が文化の手本であったから、当然ながら日本の詩人や文人たちも牡丹を好んだ。与謝蕪村もその1人で、「牡丹散りて打ちかさなりぬ二三片」「地車(じぐるま)のとどろとひびくぼたんかな」などの名句を残している。地車は重い荷を引く4輪の車。
 去年、京都府のある牡丹園を訪ねた際、まだつぼみの数本の牡丹をもらった。夕日の差しこむ帰りの明るい電車のなかで、新聞紙に包んでいたその牡丹が急にむくむくとふくらみ始め、やがて新聞紙を押しのけて深紅の大輪の牡丹が顔を出した。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年4月26日)


2001年4月22日

魚島時(うおじまどき、uojimadoki)

 ウオジマドキ。葉桜のころ、産卵のためにマダイが瀬戸内海へ入り込む。婚姻色を帯びたこのタイは桜鯛と呼ばれるが、つい先ごろ海へ散った桜の花びらの色だ。その桜鯛が出回る4月半ばから5月にかけてが魚島時。時の字を略して魚島とも言う。「魚島や卍におろす蔵の錠」(竹部葉子)「魚島や一気に上がる番付表」(久保エミ)。
 タイのほかにブリやサワラなども浅海に群れ、魚群のために海面が盛り上がって見える。これが魚島。この春は人食いザメの出現で騒然とした瀬戸内海だが、魚島時を迎えた今、海はことに自然の豊かさを感じさせる。
 かつて大阪では、魚島時に桜鯛を贈答するならわしがあった。江戸時代の俳人、榎本其角は、「津の国の何五両せん桜鯛」とよみ、一食千金の大阪の食い道楽に感嘆した。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年4月20日)


2001年4月19日

菫(すみれ、sumire)

 スミレ。近代の当初、すなわち明治という時代には、菫があこがれや理想のシンボルだった。天上の星、地上の菫を理想とし、<星菫(せいきん)派>と呼ばれたのは浪漫主義だの文学集団だった「明星」派。与謝野鉄幹や晶子が菫に託して理想の恋や夢を歌った。「まことそれすみれは天(あめ)のにほひなり教へて人の髪にのぼさむ」(鉄幹)。地に咲く菫を引き上げて恋人の髪に咲かせようという歌。
 文学史の上では、鉄幹などの浪漫主義に対して、夏目漱石や正岡子規は現実主義の立場をとったとされている。だが、漱石は「菫程(ほど)な小さき人に生まれたし」と自分のひそかな願望を野の菫に託したし、子規もまた「日一日菫の花に遊びけり」「美の神の抱きあふて居る菫かな」と菫に耽溺(たんでき)した。
 明治は菫の時代だった。男たちの心に菫が可憐に咲いていた。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年4月19日)


2001年4月15日

新入社員(しんにゅうしゃいん、shinnyusyain)

 4月の通勤電車は、新入社員の緊張した雰囲気が車内に満ちる。彼らが研修の体験や上司のうわさを話しはじめると、中古社員がいっせいに聞き耳を立てる気配だし、「昨夜は先輩に歓迎会をしてもらったが、家に帰ってからどっと酔いがまわったよ」などという話ではまわりに微笑が広がる。「二日酔いの無念極まるぼくのためもっと電車よまじめに走れ」(福島泰樹)。
 正岡子規は明治25年に日本新聞社に入社した。当時は政論中心の大新聞(おおしんぶん)と市井の出来事や花柳界のうわさなどを載せる小新聞(こしんぶん)とがあり、「日本」は当時の代表的大新聞。当初の子規の仕事は俳句による時事の批評だった。「飯蛸(いいだこ)や見を八つ裂きのなれのはて」は賄賂(わいろ)を集めて破滅した人の批評。ちなみに、毎日は元は大新聞、読売、朝日は小新聞だった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年4月12日)


2001年4月12日

啄木忌(たくぼくき、takubokuki)

 石川啄木の忌日。啄木は明治45(1912)年4月13日、27歳で没した。歌集『一握の砂』に「路傍(みちばた)に犬ながながと欠伸しぬわれも真似しぬうらやましさに」という歌があるが、人の失意や倦怠をユーモアをまじえて率直に歌った。
 明治41年、啄木は小説家になることを目指し、家族を北海道に残して上京した。しかし、思うようには事が運ばず、貧乏と不安で不眠の夜が続いていた。そんな啄木のわずかな楽しみに<すき歩き>があった。
 道を行く美人について歩くのが<すき歩き>。今だと気軽に声をかけるだろうが、ただ並んで歩くだけ。ある日は金田一京助と二度も<すき歩き>に出かけたが、その度に雨が降ってからぶりに終っている。ちなみに、<すき歩き>は源氏物語などにも出ている由緒ある言葉。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年4月13日)


2001年4月8日

風車(かざぐるま、kazaguruma)

 風車(かざぐるま)、風船、シャボン玉、ぶらんこ。こんな子どもの玩具は春の季語。 風車は中世に現れているが、江戸時代の『雍州府志』は、京都の祇園が風車発祥の地と伝え、風車は「自カラ春初発生ノ気アリ」と書いている。たしかに風車は春の風とともにクルクルッと生まれる感じだ。そんな感じで道端で売られている。今の風車はセルロイド製が普通だが、昔は色紙やかんな屑で花型が作られていた。
 風船は明治の中ごろに登場し、シャボン玉はすでに江戸時代に親しまれていた。ぶらんこは中国の楚の時代に春の遊びになっており、唐詩でも春の景物。その伝統が日本にも伝えられた。
 以上の玩具はいずれも風に和し、風に親しむもの。春は風が快い。「春の風ルンルンけんけんあんぽんたん」。これは私の句。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年4月6日)


2001年4月5日

春愁(しゅんしゅう、syunsyu)

 シュンシュウ。春は入学、入社、転勤などで身辺が激しく変化する。気候もまた、うららかな日のあとに花冷えや春の嵐が来たりして激変する。そんな変化に心身がついていけないとき、一種の危険信号のように春愁という気分に落ち込む。なんとなく憂鬱(ゆううつ)でもの悲しい、いわばそこはかとないメランコリー。
 春愁は伝染する。一家の長(夫とか妻)が春愁に陥るといつのまにか春愁家族になる。会社の部署や学校のクラス、サークルなどでも同様だ。私は自分のゼミの学生に春愁を発見すると、シュンタロウとかシュンコと呼ぶことにしている。笑いをとって春愁の伝染を防ごうという作戦。もっとも、シュンタロウやシュンコは、ちらっとうさん臭そうな目を向けるだけ。そんな視線を浴びるとこちらも少しシュンとなる。どうもやっかいだ、春愁は。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年4月5日)


2001年4月1日

引っ越し(ひっこし、hikkoshi)

 3月末は引っ越しシーズン。江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎は、その生涯に93回の引っ越しをしたという。北斎の例は極端としても、たいていの人は引っ越しを重ねながら人生のドラマを織り成していく。
 私の場合、高校時代の下宿、大学時代の学生寮、そして6畳のアパート、2間の文化住宅、マンション、建て売りの小さな家へと移ってきた。進学、就職、結婚、出産などが引っ越しの契機になっており、これは現代の引っ越しのパターンかもしれない。パターンとは言え、6回の引っ越しは6回の忘れ難いドラマだった。
 「ハナニアラシノタトヘモアルゾ。『サヨナラ』ダケガ人生ダ」。これは井伏鱒二による漢詩の訳。この颯爽たる決断は快いが、「永き日や欠伸(あくび)うつして別れ行く」という夏目漱石ののどかな別れも素敵だ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年3月30日)


新季語拾遺へ戻る
新季語拾遺バックナンバーへ戻る