週刊:新季語拾遺バックナンバー 2001年7〜9月
2001年9月30日

柿の木問答(かきのきもんどう、kakinokimondo)

 柿(かき)が色づいてきた。「里古(ふ)りて柿の木持たぬ家もなし」は芭蕉の句。
 昔は嫁ぐに当たって柿の苗木を持って行ったらしい。その嫁が一生を終えると、すでに大木になっているその柿の枝が切られ、火葬の薪やお骨を拾う箸(はし)にされた。古い農家などに今も残っている大きな柿の木は、そんなふうにして代々の女たちが残したものだろう。
 昔はまた、新婚初夜にあたって、新郎新婦が次のような問答をしたという。「おまえの家に柿の木があるか」。「あります」。「おれが取ってよいか」。「どうぞ取って下さい」。これを《柿の木問答》と言い、この問答のあとで夫婦ははじめて結ばれた。加賀の千代の作と伝えられている「渋かろか知らねど柿の初ちぎり」は柿の木問答の俳句版。
 かつて柿の木は女のシンボルであった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年9月28日)


2001年9月27日

月光(げっこう、gekko)

 月夜の町をぶらついていたある男が、とある町内にさしかかると、茣蓙(ござ)を敷きごちそうを並べて月見をしている一団があった。みんなが短冊を持って俳句を作っているようす。通りかかった男がニコニコしながら見ていると、「おまえさんも俳句を作ってみるか。もしうまく作ったら、ごちそうするよ」と短冊を渡された。男はすぐに「三日月の」と書いた。一座の人々は、「おいおい、今宵(こよい)は満月だよ。やっぱり素人は駄目だなあ」とあざ笑う。男はニヤリとして、「ころより待ちし今宵かな」と続けた。以上はかつて何かの本で読んだ小林一茶にかかわるエピソード。月光の中を歩くと、月光に全身が濡れる感じがする。ついつい遠回りや道草をしたくなる。一茶も月光の中のそんな散歩の途中でごちそうにめぐりあったのだろう。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年9月27日)


2001年9月23日

庭の千草(にわのちぐさ、niwanochigusa)

 近代以前の庶民は、庭や菜園の隅に仏に供えるだけの花を植えていた。人が観賞用に庭先にいろんな花を植えるようになったのは近代の新しい習慣らしい。
 「花は我が世界にして草花は我が命なり」とは正岡子規の言葉だが、庭の千草を楽しんだ彼などはとびきりのモダンボーイだったと言ってよい。秋の子規の庭には、萩(はぎ)、百日草(ひゃくにちそう)、葉鶏頭(はげいとう)、桔梗(ききょう)、薄(すすき)などが育ち、棚には糸瓜(へちま)が揺れていた。「黙然と糸瓜のさがる庭の秋」(子規)。
 子規は家賃6円50銭の家に住んでいた。収入は1ヶ月50円だったから家賃は収入の13%。そんな安い家賃で約55坪の家に住んだ。寝たきりの病人だった子規は、敷地の半分を越す庭に大好きな草花を植えた。「首あげて折々見るや庭の秋」(子規)。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年9月21日)


2001年9月20日

彼岸の入り(ひがんのいり、higannoiri)

 20日は秋の彼岸の入り。明治34年の正岡子規の日記「仰臥漫緑」を見ると、彼岸の入りの日の朝食は、「ぬく飯3椀、佃煮、梅干し、牛乳一合ココア入り、菓子パン、塩せんべい」。昼飯はまぐろのさしみなど。そして晩飯は、「きすの魚田(ぎょでん)2尾、ふきなます2椀、なら漬け、さしみの残り、粥3椀、梨1つ、葡萄1房」。実によく食べている。だが、病状が悪化して寝たきりの子規は、苦痛のために泣き叫んでいた。食べたものも消化しなかった。それでも、食べることは生きていることの証明だったから、彼は好物を必死で食べた。
 子規の死は1年後の9月19日。つまり、昨日が子規忌だったのだが、私は友人たちと子規のメニューを再現した。子規と同じものを食べて彼をしのぶのは、彼岸の入りのころの私のならわしになっている。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年9月20日)


2001年9月16日

さわやか(さわやか、sawayaka)

 さっぱりとして快いこと。中世の連歌の時代から秋の季語だが、ことにこの季語が頻出するのは近代。子規や漱石はまだ用いておらず、高浜虚子以下の「ホトトギス」の俳人たちがことに愛用した。「響爽(ひびきさわや)かいただきますといふ言葉」(中村草田男)。
 もっとも、この言葉、近年は風薫る初夏の清爽(せいそう)な感じをも指す。アメリカから来た清涼飲料水の宣伝文句「スカッとさわやかコカ・コーラ」が、この言葉に初夏の感じを与えた、というのが私の見解。初夏と秋と、年に二度、さわやかな気分になるのは悪くない。
 「即決す男の一語さわやかに」。これは数年前、大阪の地下鉄で覚えた俳句。葬儀会社の車内広告に、募集した四季の俳句が発表されており、その入選作。満員の不快な車内で、この俳句は実にさわやかだった。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年9月14日)


2001年9月13日

萩の花(はぎのはな、haginohana)

 「萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花(おみなえし)またふじばかま朝顔の花」。これは「万葉集」に出ている山上憶良の歌。秋の七草を詠んだ歌として有名だ。朝顔は桔梗(ききょう)、木槿(むくげ)をさすなどの諸説がある。ちなみに、「万葉集」で人気の花は1位が萩、2位が梅。萩の歌は141首ある。
 私が季節博士と呼んでいる俳句仲間のTさんは80歳に近い。季節の推移にとても敏感なので、何かわからないことがあるとTさんに尋ねる。そのTさんが、「この年齢になると季節に合わせて暮らすのは、実はもうつらいですよ。でも、一度気を抜くとがらがらっと一切がこわれそうですから、自分を励まして季節に合わせるように努めています」と話した。そして、この秋は京都御所のそばの梨木神社へ萩を見に行く、いっしょに行きませんか、と言って笑った。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年9月13日)


2001年9月9日

団子盗み(だんごぬすみ、dangonusumi)

 春の花見のにぎわいにくらべ、近年の月見はもうひとつ盛り上がりを欠くようだ。花と月はともに風雅や美の象徴であったのだが。
 しっとりとした月見の風情は大人の味わい。月見の衰退は近代の大人の文化の衰退かもしれない。
 実は子供の月見も衰退した。かつて月見の子供の行事に団子盗みがあった。竿(さお)の先に釘(くぎ)や針を結び、それで縁側などに供えられている団子をそっと突き刺して盗んだ。盗んだ子は丈夫になり、盗まれた家は縁起がよいとされていた。
 ところが、戦後、各地で悪習として禁止されてしまった。悪習どころか、子供の冒険心を刺激するユーモアに富んだ行事だったと思われるのに。
 今週は11日が中秋の名月。地域をあげて団子盗みを復活させたらどうだろう。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年9月7日)


2001年9月6日

海鳴り(うみなり、uminari)

 室生犀星の詩集『抒情小曲集』に「空は海なりをみなぎらす」という一節がある。曇天に海鳴りが響いているのだ。空が曇っていると、その厚い雲に反響するのだろうか、海鳴りは遠雷のように響く。
 「百日草ごうごう海は鳴るばかり」(三橋鷹女)。こんな句があるが、海鳴りは台風や津波などの前兆として、はるかな沖から鳴り響く。海鳴りが多いのは台風の発生があいつぐ今の時期だ。海鳴りはまだ『歳時記』の類にとりあげられていないが、秋の季語とみなしてもよいだろう。
 少年時代、海鳴りを聞きながら、犬走りを歩くのが好きだった。犬走りは、波打ち際の上方の平らになったところ。魚や漂着物が打ち上げられている。やがて来る台風で犬走りの光景は一変するが、その寸前にはらはらした気分で歩いたのだ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年9月6日)


2001年9月2日

二百十日(にひゃくとおか、nihyakutoka)

 きょうは二百十日。立春から数えて210日目に当たり、古来、風の厄日とされてきた。もっとも、古来とは言っても17世紀半ばからのこと。稲の花盛りのころに襲ってくる大風がおそれられたのだ。
 現在は天気予報の技術が発達し、二百十日の存在意義は希薄になった。だが、台風の進路などが予報どおりにならないことはしばしば。自然には人知の及ばない力がある。とすると、二百十日は、人間の限界を謙虚に知る日としての意義がありそう。
 夏目漱石に『二百十日』という小説がある。2人の青年が阿蘇山に登る話だが、2人は道に迷って散々な目に会う。その日はちょうど二百十日であった。翌日、2人は、再度、「轟々(ごうごう)と百年の不平を」青空に吐き出している阿蘇山に挑む。青年の気概が楽しい会話に弾んでいる。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年8月31日)

ころがしてニ百十日の赤ん坊  坪内稔典

ころがってニ百十日の寅次郎  坪内稔典


2001年8月30日

草の花(くさのはな、kusanohana)

 「草花を画(えが)く日課や秋に入る」は明治35年の正岡子規の句。当時の子規はカリエスが悪化、モルヒネで痛みを抑えて生きていた。モルヒネが効いている間に枕に頭をつけたままで草花の水彩画を描いた。
 子規は病室から見える庭の草花を愛し、「草花は我が命なり」(「吾幼時の美感」)とまで言った。また、草花を写生しながら、「神様が草花を染める時もやはりこんなに工夫して楽しんで居るのであろうか」(「病牀六尺」)とも述べた。子規は草花をもっとも愛した俳人である。
 「がんばるわなんて言うなよ草の花」は、先日、テレビドラマで使われた私の句。人々から「がんばれ、がんばれ」と言われている青年が、不意にグラウンドに飛び出し、グラウンド一面に石灰でこの句を書いた。「草の花」は秋の山野草の花。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年8月30日)


2001年8月26日

相撲(すもう、sumo)

 「小錦のだぶだぶと行く残暑かな」は私の句。だぶだぶと行く小錦関の様子は暑苦しいが、それでも肉のだぶつき具合などを想像するとおかしくなり、つかのま残暑を忘れる。小錦関にはなにかと楽しませてもらっており、梅雨のころには「梅雨続く小錦十人いるような」とも作った。
 相撲は古くは神意を占う力比べの祭事だったが、桓武天皇の時代に秋の行事になった。それで俳句では秋の季語。もっとも、秋に限定するのはかなり無理があり、与謝蕪村は「相撲取り秋季なればぞ裸虫(はだかむし)」と詠んでいる。相撲が秋のものになっているのは、力士がいわば、裸虫だからだろうという句。虫は秋の代表的季語。
 「朝潮がどっと負けます曼珠沙華」。これも私の句。かつて活躍した大関・朝潮の饅頭(まんじゅう)がひしゃげるような負けっぷりも大好きだった。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年8月24日)

ころころとおんな相撲のよく転び 倉本マキ


2001年8月23日

晩夏(ばんか、banka)

 盆休みや甲子園の高校野球が終わると、今年の夏がいよいよ去っていくという感じが強くなる。暦のうえではとっくに秋になっているのだが、8月下旬は初秋というよりも、晩夏と呼ぶ方が気分に合う。夏が去りがたくて、まだぐずぐずしているのだ。
 晩夏には再び海辺へ行きたくなる。はるかな南海に発生している台風のうねりが届く海岸には、もう海水浴の人影は乏しく、そのかわりにいろんな漂着物が晩夏の日ざしに照らされている。
 「名も知らぬ遠き島より流れよる椰子(やし)の実一つ/故郷の岸を離れて汝(なれ)はそも波に幾月」。この島崎藤村の詩「椰子の実」は海岸に漂着した椰子の実に流離する自分の思いを重ねたもの。「実をとりて胸にあつれば新(あらた)なり流離の憂(うれい)」というその詩の1節を、つい先日、私は淡路島の海岸でつぶやいた。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年8月23日)

手袋とぼうしの散歩晩夏なり 倉本マキ


2001年8月19日

ハイクの日(はいくのひ、haikunohi)

 最近はいろんな記念日がある。この8月にも、蜂蜜(はちみつ)の日、はさみの日、箸(はし)の日、鼻の日、健康ハートの日、野菜の日などがあり、いずれも語呂(ごろ)合わせで記念日が出来ている。たとえば8月31日の野菜の日は831=ヤサイという具合。
 としたら、俳句の日があってもよいのではないか。語呂合わせなどのちょっとした言葉の術を得意とするのが俳句なのだから。あの松尾芭蕉だって、「待たぬのに菜売りに来たか時鳥」というような語呂合わせの句をたくさん作っている。菜に名をかけたところが語呂合わせ。
 というわけで、8月19日をハイクの日と決めたい。俳句はもともと言葉遊びを重んじた文芸。言葉遊びによって、私たちの感受性やものの見方のこわばりをほぐしたのである。ハイクの日をおおいに遊ぼう。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年8月17日)


2001年8月16日

送り火(おくりび、okuribi、)

 子供のころ、盆の送り火は、隣近所誘い合わせて辻で焚(た)いた。火のそばに茄子(なす)や胡瓜(きゅうり)の馬を並べたが、それはたいてい子供の作で、大人たちはその出来具合を評した。「そんな曲がった首の馬ではあの世に帰るおばあちゃんが道に迷うよ」などと言われると、曲がった胡瓜しかくれなかった母親がうらめしかった。門口のそんなひとときは、今年の夏のしめくくり。帰省していた人もその夜か翌日には旅立った。
 大阪に出てきて核家族を作った今のわが家では、そんな送り火の習慣は途絶えているし、盆にはこれという行事がない。それで、16日には京都に出かけ大文字などの送り火をあおぐことしている。めん類を食べながら容器に送り火を映すと願い事がかなうというが、残念なことに、そんなことのできる場所がまだみつからない。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年8月16日)


2001年8月12日

榎(えのき、enoki)

 エノキ。土地によってはヨノキとも言う。ニレ科の落葉高木で、江戸時代には街道の一里塚に植えられ、夏の旅人に涼しい木陰をもたらした。今でも古い街道筋などにはこの木の巨木が残っている。榎の梢(こずえ)では国蝶(ちょう)・オオムラサキが育つ。榎の葉がこの美しい蝶の餌(えさ)。少年時代の私などは、まだ青い榎の実をポケットにいっぱいつめていた。竹鉄砲の玉にしたのである。その実は秋になると熟れて橙(だいだい)色になるが、そうなるとこんどは木に登って食べた。
 椿(つばき)、榎、楸(ひさぎ)、柊(ひいらぎ)。以上は木偏に四季の名を組み合わせた字。いずれもその季節を代表する木であった。秋の楸になじみのない人があるかもしれないが、葉や樹皮が薬用になるアカメカシワの古名。ともあれ、榎、欅(けやき)、楠(くすのき)、椎(しい)などの大きな木の下にいるときの安心感が好きだ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年8月10日)


2001年8月9日

帰省(きせい、kisei)

 帰省は帰郷して父母の安否を問うこと。夏休みに帰省することが多いので俳句では夏の季語になっている。大正8年の中田みづほの作、「帰省子(し)に弟妹(きょうだい)来り覗(のぞ)く風呂」が帰省の句のはしり。
 帰省が話題になったのは、宮崎湖処子の『帰省』あたりからであろうか。明治23年に刊行された小説とも随筆ともつかないこの作品は、地方から東京へ出た青年の東京批判であった。都会を批判することで逆に、もはや帰ることの出来ない故郷を美化しているのだが、そんな故郷の賛美が当時の都会に出た青年たちの共感を呼んだ。湖処子の友人の国木田独歩も、自由の里である山林(故郷)を喪失した悲哀を「山林に自由存す」という新体詩で歌った。
 人々が故郷から都会へ出て行ったのが日本の近代。だから、近代は<帰省の時代>でもあった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年8月9日)


2001年8月5日

赤い河馬(あかいかば、akaikaba)

 朝から暑い日。新聞を読んでいたら、娘がダラッとした感じで起きて来た。加山雄三ばりに明るく「おはよう」と声をかけたら、「かばよう」と一言。ステテコ姿で寝そべっていたのがまずかった。
 河馬は極端に短足、しかもウエストは4メートルもある。泥まみれを好み、縄張りを主張するために糞(ふん)をまき散らす。水中でガバッと口を開けた姿はなんともぶかっこう。だが、ものは考えよう。短足は大地にしっかり足がついている証拠だし、寸胴は太っ腹。顔やかっこうを気にせず、いつも悠然としているのだ、河馬は。
 私はそんな河馬が大好きで、日本にいる60数頭のすべてに会うことを夢にしている。この夏は熊本や姫路の河馬を訪ねる。ちなみに、夏の河馬は赤い。暑さから皮膚を守るために赤い体液を分泌するからだ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年8月3日)


2001年8月2日

夏の朝(なつのあさ、nastunoasa)

 夏の暁(あけ)、夏の夜明けとも言う。[夏の暁や牛に寝てゆく秣(まぐさ)刈り]は小林一茶の句だが、牛が朝露の草をかきわけて行く様子が快い。その牛の上で寝ている人の夢の中にも露が光っているだろう。
 数年前に夜型から朝型に切り替えた。それでも冬の間はついつい遅くまで寝ているが、夏は外が白むころに起きる。先日は、仲間と早朝の句会までした。午前6時に公園の蓮を見に行ったのである。去年はやはり夜明けのバラ園へ吟行した。
 朝型に替えて「三文の得」をしたと思う点は、電話や訪問の人に煩わされることなく読書などができること。書き物なども朝のうちにする。だから、夕方は仕事をすっかり終えた気分でビールが飲める。「朝凪(あさなぎ)やポンポンダリア二、三本」。こんな句が夏の朝のわが心境だ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年8月2日)


2001年7月29日

花火(はなび、hanabi)

 「男も女も半裸体のまま紅(あか)い西瓜(すいか)をむさぼり、石炭酸の強い異臭の中に昼は寝(い)ね、夜は病魔退散のまじないとして廃れた街の中、或は堀の柳のかげにBANKO(縁台)を持ち出しては盛んに花火を揚げる」。これは北原白秋の「わが生いたち」の一節。郷里・柳川の夏を回想したものだが、文中の石炭酸は伝染病のコレラを防ぐ消毒薬。白秋はこの文章の後に、花火が揚がると家々のコレラ患者が蒲団(ふとん)をはいだしてみつめると書いている。花火はかつて病魔を払うまじないであった。有名な江戸・両国の川開きの花火も、8代将軍・徳川吉宗がコレラ退散を願って始めたものだという。
 「ねむりても旅の花火の胸にひらく」(大野林火)。花火は今は各地の夏をあやなす風物詩。私の胸でも、四国の港町や九州の別府で見た花火などが、寝苦しい夜にパッと咲く。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年7月28日)


2001年7月26日

蛇(へび、hebi)

 友人と草むらにすわって、「最近はめったに蛇を見ないね」「うん、昔はどこの家にも家の主の青大将がいたな」「そうそう。蚊帳(かや)の上へどさっと落ちてきたりした」などと話していた。その時、近くにいた子供が「おっちゃん、蛇!」と叫んだ。「うわあっ」と立ち上がったら、私たちのすわっていた場所をシマヘビがするすると通り過ぎた。
 蛇は世界に約2700種もいるそうだが、変温性の動物なので熱帯地方に多く、日本にいるのは10種あまり。有毒なのはマムシと奄美大島のハブだけで、青大将やシマヘビなどはネズミの駆除などをしてくれる有益動物。もっとも、時には鳥篭の小鳥を丸呑(の)みにする。
 それでも蛇はたいていの人が嫌う。『博物誌』の著者、ルナールは、「長すぎる」と蛇を簡明に定義した。たしかに蛇は長すぎるのだろう。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年7月26日)


2001年7月22日

河童(かっぱ、kappa)

 カッパ。全国各地の川、池、海などの水界に住む妖怪(ようかい)。スイジン、エンコウ、カワタロウなど各地に特有の呼び名があるが、今では関東地方の方言であったカッパが一般的な呼称になっている。
 私の育った四国の村ではエンコと呼んだ。エンコは人の尻(しり)が好物、人の尻を抜いて食べるという。それで梅雨が明けて海の季節が始まるころ、私たちはまずキュウリの蔕(へた)をいくつも海に投げた。キュウリもまた河童の好物として知られるが、わざわざ蔕を投げたのは、それを人間の尻に見立ててのこと。前もって好物を捧(ささ)げ、夏の水難を防ごうとしたのである。
 頭に皿があり、いわゆるおかっぱの河童は、猿、亀、天狗、水神などの特色を童児の姿としてイメージしたもの。妖怪とはいえ、人間くさいその河童像は江戸時代に作られた。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年7月20日)


2001年7月19日

蛸(たこ、tako)

 タコ。章魚とも書く。「麦藁(むぎわら)蛸に祭鱧(はも)」は味のよいものを指す関西のことわざ。蛸は麦の熟れる麦秋のころからうまくなるという。もう一方の鱧は関西の夏の祭りに欠かせない。
 松尾芭蕉は「蛸壺やはかなき夢を夏の月」とよんだ。蛸の産地の明石での作。季語は「夏の月」だが、今では蛸を夏の季語としてもよいだろう。蛸は夏にうまいし、それに明石や淡路あたりの風に揺れる「干し蛸」の風情もよい。半夏生(はんげしょう、夏至から11日目)に蛸を食べる習慣も関西にはある。
 もっとも、関西の蛸といえば、現代では「たこやき」が有名。その「たこやき」のルーツを通して関西の文化をとらえた本が出た。熊谷真奈の傑作『たこやき』。明治時代に誕生した「たこやき」は、自由気ままを楽しむ関西人の暮らしの所産だという。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年7月19日)


2001年7月15日

朝凪・夕凪(あさなぎ、asanagi、ゆうなぎ、yuunagi)

 あさなぎ・ゆうなぎ。友人の誰かれに「穴子丼(あなごどんぶり)を食べに行こうよ」と声をかけている。「夕凪の蒸し暑い漁港でキューッとビールを飲む。それからふうふう息を吹きながらあつあつの穴子丼を食べるなんて最高だよ」
 実は先年、岡山県の漁港の町・日生(ひなせ)でそんな穴子丼を食べた。旅費が1万円あまり。当の穴子丼は1人前700円。この数字を見るとなんだか馬鹿(ばか)げているが、でも、火傷(やけど)しそうなくらいに熱かった穴子丼は忘れ難い。
 海岸地域では、夜には陸から海へ陸風が吹き、昼間は逆に海から陸へ海風が吹く。朝夕のその両者の交替期には風が絶え、しばらく無風状態になる。それが朝凪と夕凪。ことに夏の瀬戸内海沿岸で顕著。ひどく蒸し暑いので、穴子丼を食べに行くという突飛な事もしたくなる。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年7月13日)


2001年7月12日

トマト(とまと、tomato)

 トマトの原産地は南米のアンデス山脈。明治のはじめに輸入されてしばらくは赤茄子(あかなす)と呼ばれていた。トマトはたしかにナス科だが、赤茄子では食欲がわかない。
 赤茄子からトマトへ。その名前が変わる過程で、次第に品種が改良され、今ではトマトが年中ある日常の野菜になった。だが、畑で育つトマトの旬は夏。少年時代、早朝の畑でかぶりついた、露に冷えたトマトの味はまさに夏の味だった。そんな思い出があるので、私は今でも、トマトを食べるのは夏に限っている。
 季節感が稀薄になった現代の例として、年中あるトマトがよく取りあげられている。だが、季節感は自然界にあるというよりも、私たちの考え方にある。心や文化のかたちが季節感なのだ。トマトを夏のものと断定するとき、季節感が生じる。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年7月12日)


2001年7月8日

(はまなす、hamanasu)

 ハマナス。太平洋側では茨城県から北、日本海側では島根県から北の海岸に自生するバラ科の落葉低木。6〜8月に真紅の五弁花をつける。中央アジアが原産で10世紀頃(ごろ)に日本に渡来したという。
 民俗学者の柳田国男は、東北一帯の海の風景は古代の色のこの花をおいては語れないと述べ、「夏の北海の静かな真昼、白い長い沖の雲をこの木の傍らに休んで見て居るやうな心持ち」を愛惜している(「雪国の春」昭和3年)。
 こんな柳田の文章に魅せられて、数年前、北海道の噴火湾沿いの海岸へその花を見に行った。?瑰のそばにすわって真っ青な海を眺めていると、「?瑰や今も沖には未来あり」という中村草田男の句が思い出された。
 大阪はまだ梅雨の最中だが、今、私の目にはしきりに?瑰がちらついている。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年7月6日)


2001年7月5日

小鯵(こあじ、koaji)

 コアジ。小鯵は夏のまだ小さな鯵。谷崎潤一郎の名作『猫と庄造と二人のをんな』に次のような一節がある。
 <阪神電車の沿線にある町々、西宮、芦屋、魚崎、住吉あたりでは、地元の浜で獲れる鯵や鰯を「鯵の取れ取れ」「鰯の取れ取れ」と呼びながら大概毎日売りに来る>
 小鯵は塩焼きやフライにする。庄造は素焼きにして二杯酢に漬けたものを好んでいる。鯵にしみた酢を吸い、骨をかみ砕き、それをかわいがっている猫のリリーに与える。妻の福子はその様子を見て、猫を前妻に譲るか、自分を離縁するかのどちらかを選べと迫る。スッパスッパと鯵の酢を吸いながら庄造の態度はにえきらない。小鯵や猫というささいなものへのこだわりは、人という存在のせつなさをユーモラスに伝える。
 小鯵は、江戸時代初期からの古い季語。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年7月5日)


2001年7月1日

黒南風、白南風(くろはえ、kurohae、しろはえ、shirohae)

 クロハエ、シロハエ。黒南風は梅雨期の黒く重い雨雲のもとで吹く。白南風は梅雨明けに吹く。この風の名は山陰、西九州、薩南諸島あたりのもの。元来は漁師の言葉だろうが、黒から白へ風の色が変わるという感覚には、生活に根差した季節感が息づいている。
 瀬戸内から伊豆半島にかけての太平洋沿岸では、春から夏にかけての南風をマジとかマゼと言う。桜のころのサクラマジ、盆の精霊送りのあとに吹くオクリマゼなども季節感に富んだ素敵な言葉。
 実は私は子供をアユと名付けた。アユとかアイと呼ぶ夏の日本海側で吹く風は、北寄りの涼しい風だが、思いがけない漂着物などを岸にもたらす幸運の風だった。昔の上りの帆船には順風でもあった。でも、わが家のアユは目下は黒南風に近く、青春を吹き荒れているようだ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年6月29日)

白南風や午前にちょっとキスをして 坪内稔典

白南風や薄雲のごと胸に影 遠藤秀子


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