週刊:新季語拾遺バックナンバー 2001年10〜12月
2001年12月30日

藪柑子(やぶこうじ、yabukoji)

 ヤブコウジ。全国の林に育ち、冬に赤い実をつける。丈は20センチくらい。藪柑子は江戸時代から園芸品になったというが、縁起物として愛用され、千両や万両とともに正月に珍重される。洋花、ことに豪華な欄の類が今は人気だが、庭の隅で楚々(そそ)と赤い実をつける藪柑子の風情もよい。簡素な美がある。
 藪柑子を雅号にしたのは寺田寅彦。寅彦は夏目漱石、正岡子規に学び、達意の随筆家として知られた。また「尺八の音響学的研究」で理学博士の学位を得た発想の自在な物理学者だった。
「先生の銭かぞへゐる霜夜かな」。これは寅彦の句。自画像だ。庭の藪柑子にも霜が降りているだろうと思いながら月末の勘定をしているのであろう。自分で家計簿をつけるその様子は、いかにも藪柑子らしくつつましい。大晦日(おおみそか)が寅彦の忌日。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年12月27日)


2001年12月27日

数え日(かぞえび、kazoebi)

 正月まであといく日と数える、そんな年内の残り少ない日が数え日。1年の押し詰まった決算期である。
そんな数え日に届いた今年最大のわが家のニュースは、78歳の父が通信販売でミシンを買ったこと。もともとが器用な人で、婚礼の料理人を頼まれたり、妻の死後も家事一切を自分でしていたのだが、外出がおっくうになったのでこれからはミシンで縫い物を楽しむというのが父の弁。「そのうちにあなたのYシャツが届くわよ」とカミさん。「おじいちゃん、素敵。やわらかに変身できる人なんやなあ」とは長女。なんでもカミさんたちは、父のミシンの腕前を見に近く四国へツアーを組むらしい。
「数え日といへどもムンク壁に佇(た)つ」。今月22日に93歳で他界した阿波野青畝の句。青畝はミシンはともかく、絵の得意な俳人だった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年12月28日)


2001年12月23日

風呂吹き(ふろふき、furofuki)

 「風呂(ふろ)吹きの一きれづつや四十人」「人多く風呂吹きの味噌足らぬかな」。これは明治32年の正岡子規の俳句。子規の家では2年前から12月24日に蕪村忌の集まりが行われていた。その蕪村忌では母と妹の手作りの風呂吹きがふるまわれるのが慣例だった。明治32年には実際は46人が集まり、床の間にまで人が座った。
現代の俳句界では、記念の会をホテルで豪華に行うことが一般化している。だが、子規の家の風呂吹きを楽しむ集まりの方が、集まりとしての質が高いのではないか。たとえ一切れずつだったとしても、真っ白いあつあつの風呂吹き大根は、まさに自然の恵みとして参会者の臓腑(ぞうふ)にしみたと思われるからだ。ちなみに、子規たちのそんな集まりが、それまでは埋もれていた俳人・蕪村を近代に蘇らせたのだった。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年12月20日)


2001年12月20日

一陽来復(いちようらいふく、ichiyoraifuku)

 今日は冬至。太陽がもっとも遠くなるが、今日をさかいにだんだんとまた近づく。それで冬至を一陽来復ともいう。
太陽が弱く見える冬至には、私たちの生命力も極度に減退する。そんなふうに昔の人々は考え、南瓜(なんきん)、こんにゃくなどの生命力の強いものを食べ、みそぎとして柚子風呂(ゆずぶろ)に入った。生命力回復の儀式であった。西欧のクリスマスなども元はそんな儀式だったらしい。
太陽が戻って来るとはいえ、その太陽光が冷えきった地球を暖めるには時間がかかる。立春のころまではいわば地球の解凍期。太陽光と地球の冷えた空気はさまざまに戦い、いろんな気象変化を引き起こす。日本の年末低気圧、ヨーロッパのクリスマス寒波もその1つ。今年の日本は景気も冷えており、一陽来復にことに期待がつのる。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年12月21日)


2001年12月16日

毛糸編む(けいとあむ、keitoamu)

 電車の中などで女性が毛糸を編んでいるのをよく見かける。たいていは誰(だれ)かへの贈り物を編んでいるのだろうが、毛糸を編む風景はほのぼのとして暖かい。「膝の上が女の世界毛糸編む」(伊丹三樹彦)。
 民俗学者の柳田国男は「三(み)すじそ」という昔の女性の習わしを伝えている。糸を紡ぐことが女性の大事な仕事であった時代、女性たちは普通の働きのあとで、3筋だけ余分に糸を紡いで貯えておいた。その毎日の3筋の糸が父母があの世へ着て行く着物になった。親はそれがうれしくて、「ちょうどその一反の織り上がる頃(ころ)には、自然に快く死んでしまう気にもなったろうかと思う」とは柳田の意見(「木綿以前の事」)。
 女性はまた、未来の夫のためにも糸を紡いだり帯を織ったりした。毛糸を編む風景には長い伝統がある。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年12月14日)


2001年12月13日

鼻水(はなみず、hanamizu)

 私などが小学生だった昭和20年代には、冬になると仲間はたいてい鼻水を垂らしていた。2本の青い鼻汁を長く垂らしている子供も多く、服の袖(そで)でそれを拭(ふ)くものだから、ことに男の子は学生服の袖がピカピカしていた。ところが、敗戦後の荒廃から社会が抜け出すとともに、なぜか子供たちの鼻水は急速に減った。
 私は今、軽い風邪を引いている。それで、カミさんに頼んでリンゴジュースを作ってもらった。かつて風邪の時だけに母がそのジュースを作ってくれた。それで今でも、風邪で寝込むとりんごジュースが欲しくなる。それがあると安心するのだ。ついでだが、今しがた、カミさんに「汚いわねえ」と叱られた。鼻水を袖で拭いたからだ。風邪にかかるとついつい子供時代の習性が出る。「水洟(みずばな)や鼻の先だけ暮れ残る」。これは芥川龍之介の俳句。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年12月13日)


2001年12月9日

漱石忌(そうせきき、sosekiki)

 12月9日は夏目漱石の忌日。大正5年に49歳でなくなった。今から見るとずいぶん若くしてなくなっているが、当時の平均寿命は45歳くらい。平均寿命が50歳を越えるのは太平洋戦争後のことである。
 学生時代に正岡子規と親友になった漱石は、松山、熊本での教師時代に俳句に熱中、まずは新派の俳人として世に知られた。「何となく寒いと我は思ふのみ」「安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり」など、奔放でユーモラスな句を得意とした。後句は長女誕生の感懐。
 漱石が生まれたのは60日に1回の庚申(こうしん)の日。この日の生まれは泥棒になるという迷信があり、その難をさけるまじないとして金や金偏の字が名前につけられた。漱石の本名は金之助。まじないは実によく効き、漱石はいまでは千円札の顔にまでなった。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年12月7日)


2001年12月6日

椎の実(しいのみ、shiinomi)

 喫茶店に入ったら「先生、これ」とマスターが椎(しい)の実を小皿に盛って出してくれた。「京都御所で拾ってきました。炒(い)ってませんが、生のままかじる方が味があります」とマスター。このマスター、高校時代から山や森が好きで、ビーバーというあだ名がついていた。そして中年の今はビーバーと名付けた喫茶店を開き、暇をみては山野を歩いている。学生たちといっしょに久しぶりにその椎の実を、リスやビーバーの気分になってかじったが、「私の歯よりもうんと白いわ、椎の実って」と女子学生が感嘆の声をあげた。その声で、かつて「椎の実のまだ青い日の立志伝」という句を作ったことを思い出した。
 少年時代、冬の放課後はもっぱら雑木林で過ごした。かまどの焚き付けにする落ち葉を集めながら、ポケットいっぱいに椎の実を拾ったのだ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年12月6日)


2001年12月2日

夜話(よばなし、yobanashi)

 ヨバナシ。夜咄とも書く。炉辺話、すなわち冬の夜の炉端でくつろいでする話のこと。今は囲炉裏が消えたが、こたつや暖炉を囲む現在の夜話も楽しい。
 話の名人だった徳川夢声は、家族や友人との座談を重んじた。夜をつぶすほどに楽しい座談は、今の世の最大娯楽、最大の健康法だというのが彼の意見(『話術』)。
 そういえば、戦国から江戸時代にかけての大名は、御伽(おとぎ)衆という話し相手を抱えていた。頓(とん)知で知られる曽呂利新左衛門は太閤秀吉の御伽衆。彼らの巧みな話術は主人の頭に新鮮な血のめぐりをもたらし、精神の硬直を防いだ。夜話はたしかに頭の健康法だった。
 夜話を英語では fireside chat と言う。アメリカ第32代の大統領ルーズヴェルトはこの形式で政見を発表、人気を博した。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年11月30日)


2001年11月29日

神無月(かんなづき、kannaduki)

 旧暦では12月12日までは神無月。全国の神々が出雲に集まり、各地で神が不在になるという俗信にもとづく旧暦10月の異称だ。もっとも、逆に出雲は神在月(かみありづき)。
 先日友人たちとその出雲へ旅行をし、「神在月出雲に出雲小学校」という句を作った。実際に出雲小学校という小学校があるかどうかは知らないが、ともあれ、神在月の出雲小学校には神の子のような少年少女がいるにちがいない。そんな気分の句だ。
 かつて「明日香村字大耳(あざおおみみ)の冬の夜」という句も作った。「大耳という字はどこにあるのですか」と聞かれることがあるが、これも私の作った架空の集落。
 明日香村には神の子孫の耳の大きい一族がいるという幻想が私の胸を熱くしてこの句ができた。大耳の神も今は出雲へでかけているだろう。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年11月29日)


2001年11月22日

ほごこかし(ほごこかし、hogokokashi)

 ほごは俵、こかしは倒すという意味。私が育った愛媛県佐田岬半島の方言だが、さつまいも堀りをはじめとする秋の農作業の完了を祝う日がこの<ほごこかし>。現代風に言えば勤労感謝の日だ。
 半島は段々畑。「ほどこかし」という言葉には、人々がその段々畑でいっせいに俵をこかすイメージがある。仕事を終えた人々の愉快で爽快な気分のイメージだ。
 さて、そのほごこかしの日、大人も子供も半島の付け根の町へ遊びにでかけた。子供の楽しみは町で食べるうどんや回転焼き。小学校6年のほごこかしの日、私は町の本屋に入り、うどんを食べた残りの小遣いで文庫本の若山牧水の歌集を買った。自分で本を買った初体験。「摘みては捨て摘みては捨てし野の花のわれらがあとに遠く続きぬ」。こんな歌がその本にはあった。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年11月22日)


2001年11月18日

小春日和(こはるびより、koharubiyori)

 コハルビヨリ。小春は陰暦10月の異称。ちょうど晩秋から初冬にかけての時期だが、そのころの温和で春に似た日和が小春日和。桜、たんぽぽなどが返り咲く。
 かつて小春日和のころは冬支度をする時期であった。薪(まき)を集めたり大根を漬けたり、あるいは冬の衣料の用意などで人々は忙しかった。少年時代の私なども放課後には仲間と山に入って焚(た)き付けにする落ち葉を掻(か)き集めた。この家事手伝いには、ターザンごっこをしたり椎(しい)の実を拾ったりする楽しみが伴った。
 小春日和をアメリカでは「インディアン・サマー」と言う。冬ごもりの準備をするインディアンたちが目についたことにちなむ呼称らしい。ドイツでは「老婦人の夏」、ロシアでは「女の夏」。女性の冬支度に励む顔が目に浮かぶ。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年11月16日)


2001年11月15日

七五三(しちごさん、shichigosan)

 今日は七五三。この行事は江戸時代の半ばに江戸市民の間で起こった。大正9年に明治天皇を祀(まつ)った明治神宮が作られると、地方から東京へ出た人々がこの神社を鎮守の神として参拝、七五三は江戸市民のものから新しい東京市民の行事になった。さらに、都市の消費文化の中心になったデパートがこの行事を営業政策として宣伝、全国に広がって今日の盛況に至ったのである。これは民俗学者の高取正男の説(「女の民俗誌」)だが、要するに七五三は近代に流行した都市の行事。そう言えば、四国の村で育った私などには七五三の記憶はない。
 7歳までの子供は神の子だと言うが、神の子から人間の子への成長の過程には、古くから神置きや帯結びなどの成長に即した行事(通過儀礼)があった。そんな行事を総合したのが今日の七五三だろう。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年11月15日)


2001年11月11日

石蕗の花(つわのはな、tsuwanohana)

 ツワブキまたはツワの花。太平洋岸では福島県、日本海側では佐渡以南の海岸に自生。初冬のころに特に黄色い花が目立つ。真っ青な海とその花の黄色の対照はあざやか。
 四国の佐田岬半島の町、伊方町は、石蕗を町の花に制定している。春に摘み取った若い石蕗の茎の味噌漬は土地の特産物。
 私の母は伊方町の「石蕗合唱団」の一員だった。最高年齢の団員であることを自慢にしていたが、60代の半ばで合唱団の団員のまま亡くなった。その日にも町のあちこちに石蕗の花が咲いていた。「つわぶきは故郷の花母の花」。こんな句を私は作った。
 佐渡では石蕗をコオロシグサと呼んだらしい。昔、茎を堕胎(だたい)に使ったのである。こんこんと咲く素朴な石蕗にも人の生死にかかわる歴史がひめられている。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年11月9日)


2001年11月8日

山茶花梅雨(さざんかつゆ、sazankatsuyu)

 サザンカツユ。昨日が立冬だったが、立冬の後に降る冬を告げる雨。春の菜種梅雨に対する雨で、ちょうど咲きはじめた赤や白の山茶花に降り注ぐ。
 尾崎紅葉の名作「多情多恨」は、明治29年に新聞に連載された。主人公の東京物理学院教授の鷲見柳之助は、ことあるごとに「妻(さい)が」「妻が」と言うのが口癖。それで同僚に「妻が」先生と呼ばれている。そんな最愛の妻に死なれた主人公は、毎日を泣き暮らしており、慰めに来た友人の前で、袂(たもと)から5枚もの涙に濡(ぬ)れたハンカチを取り出す始末。鷲見は、本箱の上の一輪挿しに生けた山茶花を指し、これは妻の魂だと言い、またもむせび泣く。墓地の垣根で雨に濡れていた山茶花がそこに生けてあった。男が泣きに泣く「多情多恨」は、山茶花梅雨という季語にぴったりの小説だ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年11月8日)


2001年11月4日

灯下親しむ(とうかしたしむ、tokashitashimu)

 一般には「灯火親しむ」と書く。先日のこと、ある新聞の原稿に「火」でなく「下」と書いたらワープロの変換ミスではないかと問い合わせがあった。「灯火親しむ」は唐の詩人・韓愈(かんゆ)の詩などを典拠とするが、俳人たちは「灯下親しむ」とも転用したのである。秋の灯そのものにも親しみを感じるが、それ以上に灯の下の人間模様に心を引かれたのであろう。「灯下親し山の庵にひとりをり」(高浜虚子)。
 正岡子規の日記「仰臥漫緑」を開くと、「灯下にゆで栗7、8個食う。母に皮をむいでもらう」「3人集まって菓子食う」などという家族団欒(だんらん)の記事が目につく。当時の子規は身動きもままならない重病人であったが、灯下のささやかな団欒は、彼が単調な日常の中に見いだした至福の時間であった。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年11月2日)


2001年11月1日

ひよどり(ひよどり、hiyodori)

 鵯。秋に山から平地におりて来る鳥で、ナンテンやアオキの実を好み、またサザンカやツバキの花の蜜(みつ)を吸う。北原白秋の童謡に「赤い鳥小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実を食べた」というのがあるが、赤い実を食べる小鳥で私がよく目にするのはこのひよどり。ところが、この鳥の色は淡灰色で地味。だから、子供のころからずっと白秋の童謡の小鳥に疑問を抱いてきた。あれは夢の世界の小鳥なのだろうか。
 梶井基次郎に「のんきな患者」という小説がある。家で肺病の療養をしていた青年に向かって、母親が「あれは一体何やろ」と言う。庭の外のクヌギの木に小鳥が来ていたのだ。それから、母親が「なんやらヒヨヒヨした鳥やわ」と言うと、「そんなら鵯(ひよ)ですやろうかい」と青年は答える。私は「ひよどりのひょっと来ている大阪に」と作った。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年11月1日)


2001年10月28日

いわし雲(いわしぐも、iwashigumo)

 あの白い雲はみんな雪の粉だと三四郎が説明する。すると美禰子は「雲は雲でなくっちゃいけないわ。こうして遠くから眺めている甲斐がないじゃありませんか」と言う。夏目漱石の『三四郎』の一節。
 「丘の上で/としよりと/こどもと/うっとりと雲を/ながめている」。これは山村暮鳥の詩集『雲』にある短詩。
 友人の朝日放送アナウンサー・長沢彰彦は雲舟と名乗る俳人。大の雲好きで、息子を如雲(じょうん)と命名した。悪趣味だと罵倒(ばとう)していたが、考えてみれば近年の私などはほとんど雲を眺めていない。眺める余裕を失っていたのだ。それで長沢を見直し、今では電車に乗っている時や道を歩く時、つとめて雲を眺めるようにしている。「いわし雲阿修羅像まで行くつもり」。こんな俳句もできた。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年10月26日)


2001年10月25日

十三夜(じゅうさんや、jusanya)

 27日は十三夜。前月の十五夜(名月)にたいして後の月とも言う。また十五夜を芋(いも)名月と呼ぶのにたいし、十三夜は豆名月、栗名月とも呼ばれる。豆や栗を供えたからだ。
 名月の月見は中国から伝来したものだが、十三夜の行事は宇多法皇が延喜19年に宮中で始めたものらしい。十五夜だけではもの足らず、もう一度月見をしたいという日本人の月好きが十三夜の行事を育てたのだろうが、秋が深まった十三夜の方が、月光も冴え冴えとして、十五夜以上に風情がある。江戸時代には十五夜と十三夜の両方の月を見ることがはやり、一方だけを見ることを片見月と言っていやがった。
 「後の月という時分が来ると、どうも思わずにはいられない」と始まるのは伊藤左千夫の『野菊の墓』。樋口一葉にも名作『十三夜』がある。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年10月25日)


2001年10月21日

さつまいも(さつまいも、satsumaimo)

 蒸したいもを椀(わん)の中でつぶす。それにあつい牛乳をかけてまぜて食べる。つぶしたりまぜたりする様子にいくらか下品な感じが伴うが、これはさつまいものもっともうまい食べ方。私の秋の夜食である。
 さつまいもが普及するのは江戸時代だが、民俗学者の柳田国男によると、このいもの普及で日本の人口が急にふえたらしい。島や半島という水田のない地域でも、いもさえ作ればなんとか暮らしが立つようになったから。実際、私の育った四国の半島では、いもと麦を段々畑で作り、それらが主食であった。だから、米が日本人の主食だという言い方には少し抵抗がある。私などは米族でなく、あきらかにいも族の末裔(まつえい)なのだ。
 冒頭のいもの食べ方をするとき、学校が農繁休暇になったかつての郷里のいも掘りを思い出す。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年10月19日)


2001年10月18日

水澄む(みずすむ、mizusumu)

 「秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、小石ばかりの、河原があつて、それに陽は、さらさらと、さらさらと射してゐるのでありました。」
 中原中也の詩「一つのメルヘン」の第1連。中也は漆黒の秋の夜の彼方に、妙に明るい河原を幻想し、小石の上にとまっている蝶をみつける。そしてその蝶が消えると、「今迄流れてもゐなかつた川床に、水はさらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました・・・」と秋の水に耳を立てる。この詩は秋の夜、秋の蝶、秋の水という季語を巧みに生かした傑作。
 「分け入れば水音」「こんなにうまい水があふれてゐる」「秋深い水をもらうてもどる」。中也と同郷の俳人・種田山頭火の句。もしかしたら山頭火は、中也が幻想した水を旅の彼方に求めて放浪したのかも知れない。秋は水が澄む。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年10月18日)


2001年10月14日

秋祭り(あきまつり、akimatsuri)

 私の育った四国の半島はリアス式海岸で、どの入り江にも小さな集落があった。秋祭りの日は集落ごとに違っていた。だから、親戚(しんせき)や友だちに呼ばれてよその集落の祭りに行くのが秋の楽しみだった。
 私の集落の祭りのご馳走(ちそう)は鱶(ふか)の湯ざらし。1メートル近い鱶を丸ごと買い、皮をていねいにはいでから湯引きし、からし味噌(みそ)で食べた。鱶は鮫(さめ)の別名だが、今年は人喰い鮫が社会問題になったし、鱶を食べるのは気兼ねかなと思って郷里の父に電話をした。すると、「鮫でなく鱶を食べるのだから平気だよ」とのこと。
 今の時期、私は車であてもなく遠出する。木立の間にのぼりが見え、かすかに太鼓や笛が聞こえて来る。そんな秋祭りの村を見つけると、久しぶりに戻った顔をして村をぶらつくのだ。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年10月12日)


2001年10月7日

秋霖(しゅうりん、syurin)

 やっと秋らしくなって日々がしのぎやすくなったころ、秋雨前線が停滞し、梅雨に似た雨季が訪れる。その秋の長雨が秋霖(しゅうりん)。秋の雨、秋雨などとも言う。
 秋霖の時期はだいたい9月半ばから10月半ばまで。この時期には仲秋の名月や十三夜があり、また体育の日もある。それらの日、晴れるかどうかでひやひやするのは毎年のならいだが、それは秋の雨季のもたらす一種のスリル。この時期には秋台風も襲来する。
 「政夫さん・・・わたし野菊のようだってどうしてですか」。「さアどうしてということはないけど、民(たみ)さんは何がなし野菊のようは風(ふう)だからさ」。これは伊藤左千夫の名作『野菊の墓』のせりふ。2人がこんなやりとりをしたのは、昨日の雨があがり、きらきらとした上天気になった十三夜の朝の野道でのこと。今年は8日が十三夜。(坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1992年10月5日)


2001年10月4日

秋のバラ(あきのばら、akinobara)

 秋薔薇(あきそうび)とも言う。初夏のバラは青春のはなやぎそのものだが、秋10月のバラは中年以降の人の内にひめた気品を連想させる。ことに、ぬけるように高くて広い秋空を背景にしたバラには、端正でつつましい気品さえ感じられる。
 数年前、「ブルームーンというバラへ行く十月は」という俳句を大阪の万博公園で作った。ブルームーンは少し青みを帯びたバラ。以来、なんとなく秋のバラにひかれており、去年は「火の山の麓なるらし秋の薔薇(ばら)」とよんだ。こちらは真紅のバラで、そのバラは火の山のふもとの気配を漂わせているというのだ。私の秋の日の幻想。
 明治43年10月、石川啄木は、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」と歌った。わが愛唱歌だが、私は啄木は秋のバラを買ったと思っている。 (坪内稔典)
(毎日新聞・新季語拾遺/1993年10月4日)


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